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本稿では、カルセドニー社会主義連邦共和国及びその前身であるカルセドニー連合、カルセドニー島共和国、カルセドニー島入植地の歴史について主に記述する。なお、以下の記事は全てカルセドニーによる歴史記述であり、完全な中立性に基づいて書かれているとは言えない。あくまで、「カルセドニーの視点からの歴史」であることを留意したうえでお読みいただきたい。
歴史
前史
カルセドニー島の人口の大部分を占める“パームグラネット民族”は全て、旧世界の北極海(Arctic Ocean)に存在した柘榴諸島(Pomegranate Islands)からの移住者である。本項では柘榴諸島のパームグラネット民族の歴史について述べる。
旧世界の暦
旧世界では、パームグラネット民族の伝統的な暦であるパームグラネット暦と、近代国家成立以降に周辺諸国との関係により作られた海域暦の2つが併用されていた。旧世界からの移住計画であるカルセドニー計画が行われた時期は海域暦2275年、パームグラネット暦2457年である。
旧連邦の成立まで
柘榴諸島の歴史はパームグラネット暦紀元前800年頃に発生した「始まりの大火災」から始まる。これ以前の歴史はこの「始まりの大火災」によりすべて焼失したため、口承による伝説程度のものしか残っていない。
柘榴諸島ではこれ以降数多くの王朝が興亡したが、最終的にリヨ・ラノ・レハ・ロニの4族が最高位の氏族であるルナ一族を中心に緩やかな連合を行う連合王国体制が成立して安定した。しかし、パームグラネット暦2300年代から次第に連合体制はその実を失っていき、事実上4つの国家が柘榴諸島に分立する情勢となった。
結局、4国は抗争を繰り返した末、4国の1つである“アルフィク”の主導により統一され、近代中央集権国家である“連邦”がパームグラネット暦2367年5月(海域暦2199年3月)に成立した。連邦は旧来からの4国をそのまま構成共和国として引き継ぎ、共和国の首相には各族の当主が、連邦の大統領にはルナ一族の当主(名前は伝わっていない)が就任した。そのため、連邦は共和制と言うよりむしろかつての連合王国体制に近いものであった。
連邦の活動
連邦は成立後、それまでの柘榴諸島の政権で初めて柘榴諸島の外にある諸国との接触を図った。その中でも同じ北極海内の諸島を領域としていたエーリック合衆国などの諸国と連邦は友好関係を築き、緩やかな経済同盟である“アークティック経済同盟”を海域暦2213年(パームグラネット暦2382年)に成立させた。アークティック経済同盟の加盟国の経済基盤は強くはなく、世界全体に与える影響は小さかったが、連邦がある程度地域内で主導的な役割を果たすことになった。
旧世界の衰退
しかし、アークティック経済同盟の成立とほぼ時を同じくして旧世界は急速な衰退を始める。その端緒となったのが世界全体の発展に重要な役割を果たしていたラ・マジョルカ島政府の崩壊で、その後も世界の諸国の政府崩壊が相次いだ。連邦はこの中で政府が崩壊したエーリック合衆国の領域に進駐、同地域の治安維持を行うなどしたものの、世界全体の衰退を食い止めることは叶わなかった。
カルセドニー計画
世界全体の衰退を憂慮した連邦の第2代大統領ルナハは、海域暦2275年(パームグラネット暦2457年)に人口の一部を他惑星に移住させる計画を立てた。それが、カルセドニー計画である。旧連邦は汎用型大気機動宇宙船”イレギュラー”の運用経験がなく、無人の人工衛星の打ち上げ経験のみしかなかったため計画は困難を極めたが、何とか実用に耐える有人宇宙船を作り上げて打ち上げた。しかし、大部分の宇宙船は粗雑な設計から故障を生じ、フリューゲルまでたどり着くことができたのはごく一部でしかなかった。
また、この際に“5大氏族”に属する人々は優先的に計画に参加したが、エーリック島に移住し行方が分からなくなったロニアを当主とするロニ一族が計画に参加せず断絶している。また、ルナ一族の当主であったルナハ自身は計画への参加を拒否したためルナ一族の宗家は旧世界に残り、カルセドニー計画に参加したのは分家のルナリのみとなった。
「裸の王様」事件と旧世界の消滅
旧連邦は「海域」全体の中で強国とは言えない国家だったが、海域のほかの国家がすべて崩壊したために海域歴2276年初頭に「世界最大の経済大国」として表彰された。このことを「裸の王様」事件と言い、旧連邦時代の世界的な衰退を象徴している。カルセドニー計画参加移民船団は宇宙空間で旧連邦から通信を受け取り、この事件の発生を把握した。しかし、これが旧連邦と移民船団の最後の交信となった。
旧世界からの通信はこの事件を最後に途絶えたため、カルセドニー島共和国は現在この「裸の王様事件」を旧世界の消滅として捉えている。しかし、旧世界はまだ滅びておらず、旧連邦の最後の大統領となったルナハや、エーリック島に渡って行方不明になったロニアがまだ生存していると信じている者も多い。これは氏族信仰と結びつき、“旧世界不滅論”として今でも唱えられている。
年表(前史、海域暦)
- 2274年頃:旧世界の衰退により連邦が完全に孤立する
- 2275年頃:カルセドニー計画の実施
- 2276年1月:連邦の孤立を象徴する「裸の王様」事件の発生
- 2276年半ば頃:カルセドニー計画参加船団と連邦の間の更新途絶
入植と混乱の時代(616年~621年)
カルセドニーの入植開始から初めの5年間は極めて困難な時代だった。鉱山開発は進展こそしたものの当時の先進国との外交的衝突を立て続けに引き起こし、国内情勢は不安定で2度に渡る都市化闘争は度重なる政変を呼び、経済成長が軌道に乗るまでのこの期間はカルセドニー国民にとって最も苦しい時代となった。
カルセドニー島への入植の開始
カルセドニー計画に参加した移住者のうち、きわめて幸運な一部のみが生きてフリューゲルに到達した。移住者は居住に適した無人島を発見、これを“カルセドニー島”と命名してフリューゲル暦616年11月初旬に移住を開始した。これが、カルセドニー島入植地の建設であり、現在でも“入植記念日”として祝われている。
当時の記録によれば、カルセドニー島入植地に対して最も早く無償支援を提供したのは旧フランドル共和国領(フランドル統一準備政府)で、石材・建材各1億トン、資金3兆Va、食肉2万5000トンの内訳となっている。他にも、アルドラド帝国が“通信費”として1000億Vaを支援したことが記録されている。
ウラン鉱山開発外資導入
カルセドニー島入植地総督府は建国直後の617年初頭にウラン鉱山開発の外資導入を発表した。外資導入は初めに参加国を募集し、その後入札の形式を発表する流れを取ったが、結果としてそれが後述する成蘭連邦王国との貿易トラブルを引き起こした。
外資導入には順にウェールリズセ共和国、昭栄国、レゴリス帝国、ノホ・ヘレコ連邦、アルドラド帝国、成蘭連邦王国が参加したが、後述する事情により開発支援内容の提案を行ったのはウェールリズセ、昭栄、ノホ・ヘレコ、アルドラドの4ヶ国のみとなった。
カルセドニー島西方沖津波災害
カルセドニー島入植地総督府がウラン鉱山開発について各国と折衝を行っている最中である617年5月下旬、カルセドニー島西方沖で津波災害が発生した。1ヶ所の農村と2ヶ所の村落が壊滅し、死者は20万人に達するカルセドニーで初めての大規模災害となった。被害は甚大かと思われたが、総督府はこれを直ちに国際社会に発表したため、各国から莫大な支援が到着、“津波特需”と呼ばれるまでの経済効果があった。津波災害から50年が経った667年、リヨネ大統領は当時の各国の支援に感謝する旨の演説を行っている。記録に残っている各国からの支援物資は以下のとおりである。
外資導入国の決定におけるトラブル
外資導入の形式を総督府が発表してから22期後の617年7月、総督府は国内の燃料不足(当時の燃料備蓄は1500万ガロンまで落ち込んでいた)による開発停滞を危惧し成蘭連邦王国及びレゴリス帝国代表の開発プラン提示を待たずに外資導入国をそれまでに協定案を提示した中で最も条件の良かったノホ・ヘレコ連邦に決定した。しかし、この突然の入札終了より公募から突然締め出された形になった成蘭連邦王国及びレゴリス帝国は遺憾の意を表明し、特に成蘭連邦王国は「大使館を利益代表部に降格させる」などとかなり強い態度で総督府の対応を批判した(なお、この時点で成蘭連邦王国とカルセドニー島入植地の間に大使級外交関係は存在せず、大使館も設置されていなかった)。
総督府はこの件をあまり重大にとらえておらず、成蘭側との交渉はリヨル・カーネリアン暫定総督兼外務委員長ではなくリヨン・ジャスパー外務副委員長が行った。リヨンは成蘭側の心証を若干改善することには成功したが、結局両国の外交関係は長く利益代表部にとどまることになる。
この件を受け、住民会議ではリヨル暫定総督の問責決議案が審議されたが否決された。リヨルの対外関係より国民の生活維持を優先する判断が評価されたといえる。
ウラン鉱山の開発
成蘭連邦王国からの非難と前後して、外資導入国に決定したノホ・ヘレコ連邦の代表からも懸念が表明されたため、ウラン鉱山開発の対価は当初の予定であった燃料貿易契約ではなく、燃料定期輸出に関する公開入札の形となり、公募に参加できなかった各国に配慮した形となった。
ノホ・ヘレコ連邦からは資金90兆Va及び建材5億トンの莫大な支援を受け取り、これを利用してウラン鉱脈の探査が行われた。ジャスパー山におけるウラン鉱脈の探査は難航し、618年4月になって第19次調査隊がついにウラン鉱脈を発見した。
公開入札に対するENECの干渉
ウラン鉱山の開発終了後、カルセドニー島入植地総督府は燃料取引に関する公開入札を行う旨発表したが、この際の最低入札価格を1億ガロン=2兆Vaとした。これは、もともとノホ・ヘレコ連邦の開発支援案にこのレートでの取引が求められていたため、同国は確実にこのレートで入札すると総督府が予想されていたためであった。
この公開入札に対し、新興諸国経済理事会(ENEC)が入札が開始された618年5月中旬にこの公開入札に対し“世界的な燃料価額上昇を招く”などとして是正を勧告したため、総督府は公開入札を「取引レートを1億ガロン=2兆Vaに固定、複数国が入札した場合はくじ引き(に近い方法)で取引国を決定する」という方針に変更した。しかし、成蘭とのトラブルに続きENECとも問題が生じたことを原因として公開入札は国際的に支持されなくなり、結局公開入札への参加国は現れなかった。
これ以降、カルセドニーの燃料輸出は1億ガロン=1.5兆Vaを基本レートとするようになったため、総督府は燃料を高レートで輸出する機会を逃したといえるが、貿易契約にとらわれない柔軟な燃料輸出を行えるようになったと本件を好意的にとらえる見方も多い。
第1次都市化闘争
移住者によるコロニー群に過ぎなかったカルセドニー島入植地は、619年以降次第に国家機能を整えていった。その過程で、619年3月中旬に議事堂が建設され、3月下旬にはクリソプレーズ入植地に首都機能が整備された(首都建設を619年9月とするのは誤り)。議事堂では住民会議が開設されたが、住民議会には実際的な権限は一切与えられず、総督府の支配体制を強化するためのものに過ぎなかった。
クリソプレーズ入植地の首都化に伴い、同地に人口が集中し、郊外にはスラム地区が乱立することになった。しかし、総督府はクリソプレーズ山の鉄鉱山開発を優先し、これらのスラム地区に対して何らの対応も取らなかった。国内で初めて総督府に対する批判を掲げるデモが発生した619年9月に総督府はようやく事態の重大性に気が付き、社会保障制度の設置など改革方針を示したが、時すでに遅く619年10月下旬に総督府に反発する大規模な暴動が発生した。これを第1次都市化闘争という。
総督府は11月中旬に総督府陸軍を派遣して暴動を催涙弾などで鎮圧するとともに、公共投資や社会保障政策を矢継ぎ早に実施、数ヶ月の間反政府勢力は沈静化した。
第2次都市化闘争
第1次都市化闘争が鎮圧されたのち、およそ8ヶ月の間国内で暴動は発生せず、危うい均衡が維持されていた。しかし、620年7月下旬に再度暴動が発生、総督府陸軍の一部に不服従が発生するなど総督府側の対応が遅れたために620年9月に1度はクリソプレーズ入植地が完全に暴徒に制圧され、政府機能が停止する事態となった。この際、暴徒に沈静化を呼びかけるとして自ら市街地に出たリヨル・カーネリアン暫定総督が暴徒に襲撃され重傷を負い、政務の遂行が不可能となった。
総督府内ではリヨルの負傷を受け総督の任務を代行する者を決めるため会議を開いたが、この際に総督府陸軍の支持を得たハギワ・サードオニクス防衛委員長が総督府内でイニシアチブを握り、委員長間の互選を制して暫定総督代行に就任した。ハギワは就任直後に当時の暫定議会であった住民会議の解散と自身に対する全権委任を要求したが、総督府内で猛反発にあったためこの計画は頓挫した。しかし、ハギワはクリソプレーズ市街の暴徒に対し実弾を用いて鎮圧するように指示し、住民側に100人以上の犠牲者を出しながらも暴動を鎮圧した。
第2次都市化闘争はハギワの総督府陸軍派遣で終了したとされるが、暴動の継続した期間は2ヶ月に及び、経済被害は直接的なものでも60兆Va、施設の再建費用も含めればそれ以上となるカルセドニー島最悪の国内混乱となった。
アゲート反乱
第2次都市化闘争で首都周辺が混乱する一方で、東へ150km離れたアゲート入植地では総督府陸軍1個大隊が駐屯して中央の混乱の波及を防いでいた。しかし、620年9月中旬に発生したハギワの暴徒に対する強硬な軍事介入の報が伝わると、アゲート入植地の反政府勢力がこれに対して蜂起、総督府陸軍の駐屯地を襲撃した。駐屯地内部でも反乱が発生するなど適切な対応が取れなかった陸軍側は装甲車などの装備を放棄して首都方面へ敗走、蜂起勢力は駐屯地を制圧して装備を鹵獲した。
敗走した陸軍部隊から情報を得たハギワ暫定総督代行は617年のウラン鉱山開発支援協定以来関係が深かったノホ・ヘレコ連邦に反乱の鎮圧を依頼、ノホ・ヘレコ連邦空軍の爆撃によって蜂起勢力は駐屯地ごと消し飛んだ。
ノホ・ヘレコ連邦軍の迅速な対応により被害の拡大は防がれたものの、アゲート反乱はカルセドニー島の歴史上唯一の組織だった勢力による反乱であり、これ以降の陸軍の装備体系など非常に大きな影響を与えた。
アゲート反乱の際に反政府勢力に鹵獲された物と同じアルデラミン装甲車
ハギワの失脚と第1回首長選挙
第2次都市化闘争の直前からアルドラド帝国と、その終結後からノホ・ヘレコ連邦と相次いで燃料輸出取引が開始され、共和国は比較的潤沢な資金を獲得することに成功した。その中で、総督府は620年11月から社会保障指数を大幅に引き上げ、国内情勢は総督府に好意的とは言わないまでも敵対的ではなくなった。しかし、ハギワはその強権的な手法を崩さず、ハギワ政権への反感は強まるばかりだった。
その中で、リヨル・カーネリアンに代わって外務委員長に就任していたリヨン・ジャスパーが総督府内の反ハギワ派のリーダーに推され、621年5月にリヨンはハギワ政権に対するクーデターを敢行した。総督府陸軍は静観を決め込んだため、総督府内にハギワの味方をする者はおらず、ハギワは暫定総督代行から失脚した。陸軍の指揮官としては優秀だったハギワは防衛委員長の職には留めおかれたが、総督府内での発言力はほぼ失われた。
リヨンは総督府の委員長間の互選で暫定総督代行あるいは第2代暫定総督に就任すると見られていたが、静養中だったリヨル暫定総督の意見で国家指導者を決める国民投票が行われることとなった。しかし、当時リヨン以上に知名度のある政治家はおらず、リヨンは圧倒的な得票を集めて国家指導者に選出された。
国家指導者の名称は暫定総督代行が予定されていたが、リヨンの希望で「大統領」に変更され、国名もこれに合わせて「カルセドニー島共和国」に変更された。現在ではこの国民投票(第1回首長選挙)が行われた621年5月19日を共和国の建国記念日としている。
年表(616年~621年)
- 616年11月:船団がフリューゲル世界に到着、入植が開始される。
- 同年11月:入植地として選ばれた無人島に、移民計画の名から「カルセドニー島」の名が冠せられる。
- 617年5月:カルセドニー島西方沖で津波が発生、20万人が犠牲となる。国内初の大規模災害。
- 同年7月:ノホ・ヘレコ連邦との間でウラン鉱山開発支援協定に調印。この際に成蘭連邦王国との間で貿易トラブルが発生した。
- 619年3月:議事堂が建設され、議会制民主主義が確立する。
- 同年9月:クリソプレーズ入植地に首都設備が建設される。
- 同年10月:初めて大規模な暴動が発生、災難賞を受賞する。
- 同年11月:総督府陸軍が暴動を鎮圧、政府の支持率が一時的に回復する。
- 620年7月:再び首都近郊で暴動が発生する。
- 同年9月:暴動の被害を恐れた住民が首都から逃亡し、首都機能が停止する。このとき、リヨル・カーネリアン暫定総督が暴徒に襲撃され重傷を負う。
- 同年9月:総督府は再び陸軍を派遣して暴動を鎮圧するも、反乱軍が出現して内戦に発展する(アゲート反乱)。
- 同年9月:ノホ・ヘレコ連邦軍の攻撃で反乱軍は鎮圧される。
- 621年5月:第1回首長選挙が行われ、リヨン・ジャスパー外務委員長が当選する。首長名が大統領、国名が「カルセドニー島共和国」に変更される。
内政と成長の時代(621年~630年)
カルセドニー島共和国が建国されてからの初めの10年は見るべき対外政策はなく、共和国のエネルギーはもっぱら国内の経済成長と貿易による物資の獲得に注がれていた。都市化闘争が終わり軌道に乗ったカルセドニーの経済成長はすさまじく、商業売上高は632年まで624年の例外を除いて2桁成長を成し遂げ、共和国は一介の最貧国から経済成長を続ける新興国へと発展した。
巨大隕石の落下
共和国の建国から間もない621年9月8日、カルセドニー島を史上最大の災厄が襲った。首都クリソプレーズ市(共和国の成立に伴い入植地から市へと名称が変更された)の南西60kmの地点に直径2kmの巨大隕石が落下、直径90kmの巨大なクレーターが生じクリソプレーズ市は爆風で壊滅的な被害を受けた。大統領府(入植地時代の総督府と実質的に同じ)のメンバーは大統領府地下のシェルターに非難して難を逃れたものの、200万人を超える死者が発生する未曽有の大災害となった。
この後再建された首都がすぐに火災で壊滅するなど、この巨大隕石で共和国の中枢の受けた打撃は大きく、現在に至るまで最悪の災害となっている。
クリストバライト市の建設
622年3月、共和国南部のクリストバライト市に現代都市が建設された。これは国内初の現代都市であり、630年までにさらに3ヶ所の現代都市が建設され共和国はこれ以降商業をその経済の柱とすることになる。
現代都市建設に伴い建設されたクリストバライト市庁舎は湾曲した建物のデザインが特徴的で、ひときわ目を引く建物である。正面の広場にはブロンズ像が立ち、夜は建物全体がライトアップされて幻想的なムードが漂う。クリストバライト市庁舎はカルセドニーを代表する建築物で、632年のクリストバライト9ヶ国会議、686年の国際交易協力機構条約(クリストバライト条約)の調印式はこの建物で行われた。
共和国のシンボル、クリストバライト市庁舎ビル
憲法制定
621年の第1回首長選挙と同時に第1回共和国議会選挙が行われ、住民会議は共和国議会に発展した。しかし、基本的に政治権力は入植地時代の総督府と同様に大統領府に集中していた。そのため、議会側では三権分立の確立と憲法の制定を求める声が強くなっていった。625年には憲法制定に向けた有識者会議が設置され、627年9月30日に大統領府が提出した憲法草案を共和国議会(当時の報道に“国民議会”との表記が見られるが、これは誤りである)が可決、成立させた。
憲法では行政権は国民の選挙で選出された大統領が行使すること、立法権は共和国議会がこれを行使するが大統領は法案の拒否権を有することなどが定められた。憲法制定にはリヨン大統領の意思が大きくかかわったため、大統領の任期は20年と極めて長く、3選までできることと合わせると最大60年間同一人物が大統領を務めることができる制度となり、反リヨン派からは「終身大統領制」と揶揄されるなど問題点もある内容だった。
重工業政策の実施
共和国は商業化を志向していたが、その一方で農業生産高を比較的高い規模に保とうとしていた。その副産物として現代都市に付属する工業が完全に稼働していたため、大統領府はこれを有効活用するため工業政策を重工業に変更し、国内の商品需要の一部を賄おうと考えた。重工業は630年代の共和国の一大産業となり、工業生産は最も多い時で8800億Va/期にまで成長した。しかし、重工業の原料である鋼鉄の消費が想像以上に多く(工業人口200万人で5000万トンの鋼鉄を毎ターン消費するが、これは鉄鉱山1基の生産量とほぼ同じである)、工業規模の拡大に伴って鋼鉄の莫大な消費が逆に共和国経済を圧迫し始めるに及んで642年に重工業政策は終了した。
結果的に重工業化による鋼鉄供給の減少はこの後の共和国の外交政策に大きく影響することになった。
第1回大統領選挙
630年12月7日、627年に成立した憲法に基づく初めての“憲政下の”大統領選挙・共和国議会選挙が行われた。当時の議会は右派の国民党と左派の民政党の二大政党制に近い情勢で、事実上両党の一騎打ちとなったが、リヨン・ジャスパーの人気は圧倒的で、65%の高い得票を得てリヨンが初代大統領に当選した。同時に行われた共和国議会選挙でもリヨンの支持基盤である国民党は100議席中69議席を獲得する圧勝で、リヨン政権はその地盤を固めた。
年表(621年~630年)
- 621年9月:クリソプレーズ市南西に巨大隕石が落下、200万人超の死者・行方不明者が発生する。現在に至るまで国内最大の災害死者数を記録している。
- 622年3月:クリストバライト市に現代都市が建設される。国内初の現代都市。
- 624年9月:カーネリアン市に現代都市が建設される。
- 625年2月:サードオニクス市に現代都市が建設される。
- 627年9月:共和国憲法が正式に発布される。
- 630年7月:コーサイト市に現代都市が建設される。
- 同年12月:第1回大統領選挙が行われ、リヨン・ジャスパー大統領が65%の支持を集め正式に大統領に就任する。
外憂と危機の時代(630年~636年)
「入植と混乱の時代」がカルセドニー国民にとって最も苦しい時代であったならば、この時代はカルセドニー国家にとって最も苦しい時代であった。共和国の経済発展のために大統領府が行った外交政策はことごとく諸外国との軋轢を生み、セビーリャ動乱では共和国は破滅の一歩手前まで追い詰められた。その一方で、この時代はこれ以降の共和国の外交方針を固め、その進む方向を決定づけた重要な時期であるともいえる。
セビーリャへの軍事・経済支援
626年に建国されたセビーリャ共和国はサルバドール・プラダ・ルシエンテス大元帥の統治のもと、建国直後に鉱山開発支援国の公募を行っていた。この中でセビーリャ共和国は工業化する方針が明示されたため、商業化に伴い安定的な商品供給源を欲していた共和国は外資導入への参加を表明した。共和国はセビーリャ共和国のウラン・銀鉱山の開発のため資金60兆Va、建材10億トンの支援物資を投入したが、これは当時の共和国の経済規模を考えると相当な負担であった。
しかし、ファシスト党独裁のセビーリャ共和国は国内情勢が極めて不安定であり、セビーリャ政府の言う「共産主義者」「劣等人種」がたびたび反乱を起こしていた。共和国はハギワ防衛委員長の主導でセビーリャ情勢の安定化のため631年7月下旬から635年6月下旬までの4年間に8次にわたる反乱鎮圧作戦を実施したが、セビーリャ情勢は安定化の兆しを見せなかった。国内でもRB通信が「リヨン政権はセビーリャ共和国に対する関わり方を再考するべきであろう」と社説で主張するなど批判が相次いだが、共和国は多額の投資を回収することにこだわったため撤退を決断できず、状況は悪化するばかりだった。
フリューゲル同時社会不安
632年1月中旬に国際的な社会福祉に対する不安感(管理サイドの仕様変更で社会保障指数1当たりの幸福度向上効果が0.35から0.2に引き下げられたことによる)からフリューゲル同時社会不安が発生した。社会不安が発生した直後には5ヶ国で同時に暴動が発生するなど、国際的に大きな影響が発生し、特に国内で反乱が頻発したテークサット連合、一時的な警察国家への移行を余儀なくされた昭栄国の両国が最も大きな被害を被った。
共和国内でも社会不安の影響は大きく、政権支持率は一時19%まで低下、連日各地で大統領退陣を求めるデモが行われた。共和国議会では野党民政党が大統領辞任を要求する決議案を提出、与党国民党内部からも造反者が賛成票を投じたが、国民党の主流派はリヨン支持を崩さなかったため決議案は否決され、政府のさらなる混乱は避けられた。大統領府は社会保障の拡充やアゲート市の現代都市建設などの施策を立て続けに実施、およそ3ヶ月が経過した4月に国内状況は社会不安以前の水準を回復した。
鋼鉄生産国による外交協議
カルセドニー島入植地総督府は都市化闘争の時期に暴動鎮圧のため鋼鉄を生産する必要があると判断し、鉄鉱山を開発した。共和国の情勢が安定して以降も国内の防災化のため鋼鉄の生産は続けられたが、余剰の鋼鉄は対外輸出に回されていた。しかし、627年3月に共和国が制定した公定レートでは鋼鉄1億トン=2兆Vaとなっており、このレートでは十分な資金が獲得できるとは到底言えなかった。そのため、共和国は631年に鋼鉄の単価を1億トン=3兆Vaへ引き上げたものの、“鉱山1期あたりの資源生産額”はそれでもウラン鉱山の3分の1程度しかなく、共和国財政に鉄鉱山の維持は非常に負担をかけていた。
大統領府は鋼鉄価格が“国際常識”によって低価格に抑えられていると考え、この状況を打破するために当時国交を有していた鋼鉄生産国であるフリスラーン帝国、クイーンズ連邦、スコッチランド共産主義同盟(他にノイエクルス自由国及びタヂカラオ国が鋼鉄を生産していたが、この時点で両国とは国交がなかった)に対し鋼鉄価格に関する協議を申し入れた。共和国はこの時点で鋼鉄生産国による国際機構の設置を構想していたが、共和国が協議を行っていた3国の中の1国から「国際機構を資源輸出国全体に広げ、フリューゲル資源輸出国機構(OFREC:Organization of Fluegel Resource Exporting Countries)として諸国に呼びかけるべき」という意見を示した。共和国はこの構想に賛同し、当時“資源輸出国”(資源輸出がその主要な資金獲得手段となっている国家)であると共和国が判断していた9ヶ国に呼びかけることとなった。
【資料】鉱山1基あたりの資源生産額
共和国は634年7月~635年9月にかけて国内の鉱産資源生産量の調査を行った。調査の結果、1年間で鋼鉄は18億1590万トン、燃料は104億6320万ガロンがそれぞれ1基の鉄鉱山・ウラン鉱山から得られていた(ともに、毎ターン資源採掘を行っている)。これを、当時のレートである鋼鉄1億トン=3兆Va、燃料1億ガロン=1.5兆Vaに換算すると、鉄鉱山からは54兆4770億Va、ウラン鉱山からは156兆9480億Vaの収益が上がったことになる。両者の比はおよそ1:3となる。
クリストバライト9ヶ国会議
共和国は先に鋼鉄の価格について協議を行っていた3ヶ国に加え、ヘルトジブリール社会主義共和国、ロムレー湖畔共和国、ゴルカ連邦共和国、エウシウワンジャ共和国、トロピコ共和国、セビーリャ共和国の6ヶ国に資源輸出国機構に関する国際会議への参加を呼びかけ、セビーリャ共和国以外の8ヶ国から参加の連絡を受けた(セビーリャ共和国については、「我が国は資源輸出国を目指しているわけではないので参加を見送る」と断りを受けている)。
国際会議は632年10月10日からクリストバライト市庁舎において行われた。初めに共和国は資源輸出国機構の理念として「加盟各国の平和友好関係」「加盟各国の経済協力・最恵国待遇」「加盟各国の資源の国際取引に関する共同歩調」を提示した。この理念についてはヘルトジブリール・フリスラーン・スコッチランド・クイーンズの各国代表から好意的な意見を得た。
ここで、この会議と同時期に発生したベルサリエーレ王国軍による同国民大量虐殺疑惑について、スコッチランド代表が「軍事大国への軍需物資輸出を抑制し、特に軍事目的の鋼鉄・石油輸出を停止すべき」などとする意見を述べた。これについてクイーンズ代表が異論を唱え、トロピコ共和国代表が「議論が錯綜しており、発言することが困難である」と述べるなど議場は一時的に混乱した。これに対し、共和国は「軍需物資の輸出規制については機構設立前に論じることは相応しくない」と述べ、この件についての議論を中断して理念についての協議を優先させる形をとった。
しかし、この直後にクイーンズ連邦が突然大フリューゲル帝国への改称及び全世界への宣戦布告という暴挙を行い、これに伴いクイーンズ連邦を参加国としていた9ヶ国会議は大きく動揺した。クイーンズの暴走は結果的にすぐに停止したものの、クイーンズのほかにも参加の意思を表明していたゴルカ連邦共和国・エウシウワンジャ共和国が会議に代表を派遣せずに政府機能停止・滅亡するなど会議の混乱は重大なものとなり、共和国は会議の仕切り直しが必要であると判断し各国の同意を得てクリストバライト会議を終了した。
会議の終了の時点で参加していた6ヶ国については、改めて国際会議を開きその際に参加を要請するとされていたが、この直後に発生した鋼鉄レートに関する先進各国との衝突やセビーリャ動乱などの影響で、結局第2回の資源輸出国機構設立会議は開かれることはなかった。
このクリストバライト会議は結果的に何らの具体的な成果もを見出さなかったが、構想の主導国と見なされた共和国が国際社会において良くも悪くも注目されることとなった。共和国の対外政策の開始点となったという意味ではこの会議は共和国に多大な影響を与えている。
旧ク連からの宣戦布告
628年に建国されたクイーンズ連邦は建国直後から積極的な外交を展開し、クリストバライト9ヶ国会議に代表を派遣する一方で民主化移行を進めており、共和国はストリーダ王国と共同で総督代表選挙の監査人を派遣していた。しかし、634年5月にウェールリズセ連邦共和国が突如としてクイーンズ連邦に対し外交関係格下げを通告し(この理由については「外交姿勢に幾何の危惧を有するに至った」としか発表されておらず、詳細な原因は今もって不明である)、48時間以内に大使館要因を相互撤収するようクイーンズ側に通知していたが、これに対しクイーンズ連邦の大スラブ主義者がウェールリズセ大使館を襲撃、駐在大使及び大使館員が殺害される事件が発生した。
ウェールリズセ連邦共和国はこれに対し最上級の非難声明を発表、クイーンズ連邦に対して宣戦布告を行った。この宣戦布告と前後して行われた総督代行選挙において、民族進歩党員プリヘーリヤ・マトヴェーエヴナ・アヴェルチェヴァ(ガトーヴィチ系移民)が総督代行に当選、自らを皇帝と称し国名を大フリューゲル帝国に変更、全世界への宣戦布告を行った。このとき、共和国の派遣していた選挙監査人は行方不明になり、後に死亡したものと認定されている。
共和国はこれに対し戦時体制への移行を開始したが、1週間のうちに大フリューゲル帝国は滅亡、共和国が戦火にまみれることは結局なかった。その後、大フリューゲル帝国は共同管理区域クイーンズとして戦勝国のウェールリズセ連邦共和国・エーラーン教皇国によって占領下におかれたが、最終的に国際法の処断により消滅した。
この事件について、共和国ではウェールリズセ連邦共和国の突然・原因不明の外交関係引き下げがそのきっかけになったと判断しており、クイーンズ連邦について「ウェールリズセ帝国主義の被害者」とする意見も少なくない。
セビーリャ経済の悪化
セビーリャ共和国は共和国の軍事・経済面での支援を受けながら工業化を進める一方で、資金獲得のためエルツ帝国及び石動第三帝国に燃料輸出を行っていた。しかし、同国の燃料輸出は燃料余剰量を大幅に上回り(輸出量は6期あたり14億ガロンに達していた)、結果として634年5月下旬に備蓄燃料の枯渇を引き起こした。共和国はセビーリャ共和国に対し燃料支援を行い、当座の問題を解消したが、セビーリャ政府は燃料問題に対する必要な対応を行わなかった。その一方でセビーリャ共和国では燃料危機の原因と見られたサンティアゴ・セスコ・メンデス産業通商大臣が“行方不明”になり(後に外務大臣のバルドメロ・エンシーナ・レイバが同氏を殺害したとセビーリャ民主共和国政府が発表したが、共和国はセビーリャ民主共和国政府の発表を一切信用していない)、また、旧ク連の全世界同時宣戦の際にはクイーンズ連邦の大使が“公開処刑”(これについてものちにバルドメロ外務大臣の個人的策動によるとセビーリャ民主共和国政府が発表している)されるなど理解に苦しむ事件が多発し、セビーリャに対する国際的な批判は強まっていった。
鋼鉄の公定レート引き上げ
クリストバライト会議の終了直後である635年7月下旬、大統領府は「637年より施行」として物資輸出レートの改定を行った。改定内容のうち、食料の輸出レートの1億トン=1200億Vaへの引き上げは特に問題なく貿易国に受け入れられたものの、鋼鉄の公定レートを1億トン=5兆Vaへ引き上げたことは国際社会に簡単には認められなかった。国際社会では長く鋼鉄1億トン=2~3兆Vaが標準的な価格として使用されており、共和国の発表したレートはこれを大きく上回っていたために特に軍備に大量の鋼鉄を消費する先進諸国には受け入れられなかった。「災害から人々を守る鉄鋼の力は平時の市場価値により定められるものでない」と事実上鋼鉄の買い叩きを正当化する発言を公共事業相が行った国もあり、先進諸国の鋼鉄レート引き上げへの嫌悪感は並々ならないものがあった。
サンジュブレ外相会談
セビーリャ問題、鋼鉄レートの引き上げなど共和国が国際社会、特に先進諸国との外交軋轢が強まっていることは大統領府内でも問題視された。大統領府はこの問題を解消、ないし緩和するために当時から国際情勢に対し最も大きな影響力を持っていたウェールリズセ連邦共和国に対し外相級会談を提案した。外相会談は635年9月16日にウェールリズセ連邦共和国のサンジュブレで行われたが、ウェールリズセ連邦共和国の外務参事アルフレード・ヴァンタドゥールは会談内で徹底的に冷淡な態度をとり、結局セビーリャ問題・鋼鉄レートのどちらの件についても建設的な対話はできずに終わった。
サンジュブレ会談は現在では共和国とウェールリズセの関係を改善する最後のチャンスであったと考えられているが、これが失敗に終わったのはリヨネ・アメシスト外務委員長(事務協議の際のミスでウェールリズセ側には肩書が外相として伝わっていたが)の外交手腕が不足していたこと、ファシスト政権のウェールリズセ連邦共和国と共和国は決定的に価値観が対立していたこと、などがあげられる。どちらにせよ、共和国はこれ以降ウェールリズセ連邦共和国と同国の滅亡まで対立的な関係を続けることになる。
ティルブルフにおける会談
サンジュブレ外相会談と同時期に、共和国はエルツ帝国より鋼鉄を議題とした外相会談を行いたいと連絡を受けた。リヨネ外務委員長はサンジュブレから直接エルツ帝国に渡り、635年12月にエルツ帝国ティルブルフにおいて同国外相セリーナ・ワイラーと会談が行われた。
会談の冒頭は議論が平行線をたどり、サンジュブレ会談と同様の結果になるのではないかと危惧されたが、両国間の意見の齟齬は次第に修正されていき、最終的には「両国の友好関係を前進させることができ」た。共和国の主張が完全に受け入れられることはなく、結局この後共和国は鋼鉄レートの引き上げを断念せざるを得なかったが、それでも共和国の内部ではエルツ帝国に対する好意的な見方が広まり、サンジュブレ会談で大きく失点したリヨネ自身も“エルツ帝国との建設的な協議を行った名外交官”との評価を獲得、リヨネの大統領府内での地位向上につながった。
セビーリャ動乱
国際事件としてのセビーリャ戦争は当該記事を参照のこと
636年3月に発生したセビーリャ共和国政府のウェールリズセ連邦共和国に対する通信をきっかけとしてウェールリズセ連邦共和国はセビーリャ共和国(ウェールリズセの通告直後にセビーリャ民主共和国へ体制変更)に対し最後通牒を発した。この一方で、セビーリャ情勢の混乱を以前から懸念していた共和国はセビーリャと貿易関係にあったエルツ帝国、成蘭連邦王国、石動第三帝国と状況改善のための会議を計画しており、ウェールリズセのセビーリャに対する通告の直前に会議を開始していた。しかし、ウェールリズセ連邦共和国は諸外国の活動を無視しセビーリャに対し軍事的圧力をもって内政顧問団の派遣を認めさせ、さらにセビーリャの貿易関係を変更するように強要するなどの活動を行った。
共和国は4ヶ国協議を継続することででセビーリャ情勢の安定化を図ろうとしたが、ウェールリズセはこの行為に対し「外交上の攻撃策動」とのレッテルを張り、共和国に対し最後通牒を発した。ウェールリズセはさらに4ヶ国協議を支持するといえる発言(「我が国の問題は貿易関係にあったすべての国で話し合うべきであると考えている。」)を行ったセビーリャ民主共和国に対し宣戦布告を行い、もはやこの問題について諸外国と協調して解決する意思がないことを示した。
これに対し共和国は、共和国及びセビーリャに対し好意的な意見を持っていたアルドラド帝国と同盟の締結を含めた外交協議を行ったが、結局同国との同盟は成立しなかったためウェールリズセの恫喝外交に屈して最後通牒を受諾、セビーリャ情勢から完全に手を引いた。結果、4ヶ国協議は瓦解しセビーリャはウェールリズセの攻撃により荒廃することになった。
リヨン・ジャスパーはのちに「軍事力の不十分だった当時の我が国がファシストに支配された国家を外交交渉でどうにかできると考えたことが誤りだったのだろう」と述懐しており、国家ファシスト連合が政権を握るウェールリズセ連邦共和国との関係を交渉によって改善しようとしたこと自体が外交方針の失敗であったと述べている。
アルドラドとの同盟が成立しなかったのは、セビーリャ先生が当時雑談掲示板で暴言を吐いていたことでアルドラドが犠牲を払ってまでセビーリャを救出する価値を見失ったためである。もし当時アルドラドとの同盟が成立して、ウェールリズセとアルドラド(場合によってはエルツ・エーラーンも)が交戦状態になっていれば、これ以降に起こった様々な悲劇は起こらなかった可能性が高い。そうならなかったのは共和国にとって残念なことである。
年表(630年~636年)
- 631年9月:セビーリャ共和国で発生した反乱を空軍が鎮圧、海賊船を除いて初めて国防軍が戦果を挙げる。
- 632年1月:世界同時社会不安が発生、政権支持率が一時19%まで低下する。
- 632年4月:アゲート市に現代都市が建設される。
- 同年10月:クリストバライト市で資源輸出国9か国による国際会議が開催される。
- 633年11月:気象衛星「アルデバラン1」の打ち上げが行われるが、大気圏内で制御不能となり自爆、打ち上げは失敗する。
- 634年6月:旧クイーンズ連邦(当時大フリューゲル帝国を名乗っていたが、共和国はこの名称を認めず、公式の外交文書以外では旧ク連と呼称している)から宣戦される。
- 同年7月:旧ク連の敗戦を受け、政府は戦時体制を解除。
- 635年10月:国際指標上の先進国入りを建国から19年で達成。
- 636年5月:気象衛星「アルデバラン2」の打ち上げに成功。
- 同年7月:セビーリャ民主共和国への対応をめぐりウェールリズセ連邦共和国との関係悪化。
雌伏と準備の時代(636年~655年)
セビーリャ戦争で世界の主導権を握るウェールリズセ連邦共和国との関係を決定的に損ねた共和国は、長期間にわたり積極的な外交活動を行わず、表面的な休眠期に入る。しかし、この時期は共和国最高の友好国となるヨリクシ共和国や、軍事的な後ろ盾となるアルドラド帝国との関係が進展していった時期とも重なり、将来への下準備を進めていった時期とも言える。
636年までの20年間の不安定なカルセドニーに比べ、この20年間は共和国にとって非常に安定した時期となった。
クリソプレーズにおける会談
636年11月20日、クリソプレーズ首都特別区において、ヴェールヌイ社会主義共和国側からの提案によりリヨン・ジャスパー大統領とフェリックス・ティシチェンコ閣僚評議会議長との間で首脳会談が行われた。ヴェールヌイ側は国際的に好意的には見られていなかった9ヶ国会議やセビーリャ情勢についての各国協議について“精力的外交活動”として比較的好意的な見解を示し、その上で共和国とヴェールヌイ社会主義共和国それぞれの元首の“望ましいと考える国際の在り方”について意見交換が行われた。両国の会談は具体的な協定や共同宣言に結びつくことはなかったが、ヴェールヌイ社会主義共和国との相互理解の強化や、共和国の外交理念を伝えることにつながった。
また、リヨン大統領はこの中で「望ましい国際社会の在り方とは、新興国が十分な発言力を確保できる国際社会である」と述べ、共和国の行ってきた新興国支援や資源輸出国会議などについて統一した目的を初めて明確に示した。これ以降、共和国はこのリヨンの思想を対外活動の主軸に据えることになり、諸外国からもそのような国家として認知されるようになる。
会談の際に用いられた両国の国旗。作っていただいたヴェールヌイ先生に感謝!
ヨリクシへの工業化支援協定締結
セビーリャ戦争が未だ継続する637年11月16日、共和国はヨリクシ共和国との間で工業化支援協定を締結した。ヨリクシ共和国は634年3月21日に建国された国家で、ウラン鉱山開発を先進国の支援協定なしで自力で成功させた。635年10月には海賊船の撃沈のための砲弾を提供するなど、建国直後から友好関係を深めていたが、この工業化支援協定で共和国との経済関係が強化されることになった。共和国はヨリクシへの支援にセビーリャを上回る資金60兆Va及び建材20億トンを投入(セビーリャへの支援が鉱山開発込みであったことを考慮すれば実質的な量は額面よりさらに多い)、セビーリャとの経済関係消滅により混乱した共和国経済を回復させる起死回生の一手とした。
ヨリクシ共和国は工業化に成功し、700年現在では年間470兆Va相当のヨリクシ製商品が共和国で取引されている。
憲法改正
639年に共和国議会は憲法改正の発議を行い、国民投票の結果改憲案が可決された。改憲の主な内容は大統領任期を20年から10年に短縮するもので、現職大統領のリヨンの任期も650年までから640年までに短縮された。この憲法改正はリヨン自身の推進によるもので、結果として先のセビーリャ動乱などで低下していたリヨンの支持率は持ち直すことになった。
ジャスパー山のウラン鉱山壊滅事故
640年1月16日、ジャスパー山のウラン鉱山で大規模な爆発事故があり、山体が丸ごと消し飛ぶという甚大な被害が発生した(実際は、枯渇した油田を処分する際にコマンド入力を誤り鉱山に対して連続掘削を行ったことが原因である)。大統領府は、クリソプレーズ山の鉄鉱山を急遽閉鎖、採掘物資をウランに切り替えることで事態の解決を図った。早くも2月下旬にはエライ海で噴火が発生、鉱山の再建もかなり迅速に行われたため、共和国の経済に致命的な打撃が起こることはなかった。
ヴェールヌイ社会主義共和国との首脳会談でもこの件について触れられ、同国から最大50億ガロンの燃料提供の申し出があったが、共和国の燃料が不足する事態には陥らなかったため支援は行われなかった。この提案も含めて、ヴェールヌイ社会主義共和国に対する印象は国内では高い。
第2回大統領選挙
640年11月27日に行われた第2回大統領選挙では、リヨン・ジャスパーが僅差での再選を果たした。630年代の外交政策の失敗は国内で大きな批判を浴びており、一時は支持率が対立候補とほぼ横並びになるほどであったが、民政党の立てた候補のトコシ・クリストバライトが知名度でリヨンに圧倒的に劣っていたため、結局政権交代とはいかなかった。
一方で、共和国議会選挙では与党国民党はもとより、最大野党の民政党も630年代の危機に対し適切な対応を取れなかったとの非難を浴び、新たに国会に保守党・民主連合・社会民主党の3党が議席を獲得した。社会民主党はこの時点では100議席中の10議席を有する第4党に過ぎなかったが、この後次第に勢力を伸ばし、30年後には代表を大統領の座に送り込むことになる。
ヨリクシ治安維持協定
643年11月1日、ヨリクシ共和国との間に治安維持協定が締結された。640年3月、ヨリクシ共和国クラ州に「蜂起軍」を名乗る武装集団が出現し、共和国とヨリクシ軍の共同作戦により鎮圧される事件が起こっており、同国との軍事的関係の向上が急がれていた。治安維持協定はヨリクシ共和国内に怪獣や反乱軍が出現した場合共和国が事前承認なしでこれの鎮圧を行える内容で、ヨリクシ国内が不安定な状況になった場合に力を発揮するものと見込まれていた。しかし、ヨリクシ共和国内の情勢はこれ以降同国の軍備が整えられるまでの間常に安定しており、結局655年にナウラ条約の締結に合わせて治安維持協定が解消されるまでの間、この協定に基づいた作戦が行われることはなかった。
成蘭との関係正常化
643年、成蘭連邦王国政府から大使級外交関係開設についての打診があり、事務レベル協議の末643年11月17日付で正式に大使級外交関係が開設された。この際に、島尾充郎・成蘭連邦王国外政長官がカルセドニーを初めて公式訪問、新大使館開設式典に成蘭政府代表として出席した。共和国からはリヨン大統領及びリヨネ外務委員長が出席、両国間の友好関係を深めることとなった。
成蘭連邦王国との外交関係は建国直後の入植地総督府の実施したウラン鉱山開発外資導入に伴うトラブル以降悪化しており、利益代表部にとどまっていたが、四半世紀を経てようやく関係が改善されることとなった。
なお、成蘭大使に着任することになったキウィン・ウェストカーネリアンはその後両国関係を成蘭連邦王国の滅亡まで友好的に保つことに成功し、その手腕が認められて大統領府内で異例の抜擢を受けた。スポーツ委員長、文部科学委員長を歴任したあと外務委員長となったキウィンは、700年代のカルセドニー革命の際には大統領府の事実上のトップとなり、連合が国内全土を掌握してからは国内で指名手配されている。
萬州・和寧への支援
638年、かつて大幹帝国や大和寧帝国が存在した幹半島、その周辺地域である中夏大陸にに萬州・和寧民主共和国が建国された。萬和国は共和国に対しウラン鉱山の開発費や議事堂の建設費用の提供を求め、共和国はこれに応じて(完全な無償で)支援を行っていた。しかし、情勢が不安定なまま民主化を行った萬和国は情勢が不安定で、たびたび反乱(後に地方軍閥の蜂起と判明)が発生していた。共和国はこれに対し萬和国の依頼に応じて軍事支援を行い、645年から646年にかけて3次にわたる空爆作戦を行った。
しかし、在石動和寧人向け新聞である石動和寧日報が「萬和国の首脳は旧中夏人民共和国や香麗民主連邦の政府・軍関係者、マフィア、匪賊、海賊であり、政府首脳の朱義清や全三成は中夏軍人・暴力団統領であると報じた。これを受けて石動第三帝国及びスコッチランド共産主義同盟は「和寧地域開放」「萬和政府解体と民族別の自治区制定」「自治区の軍政指導」の3ヶ条の要求を萬和国政府に対し行った。これに対し萬和国政府が拒否したため、648年初頭に石蘇両国は萬州・和寧民主共和国に対し宣戦布告した。戦争は8ヶ月の短期間で終了し、軍事力をあらかた失った萬和軍は逃亡を図った萬和国首脳を捕縛したうえで石蘇同盟に対する降伏を申し入れた。
この戦争の結果、幹半島には和寧第二帝国が建国され、中夏地域及び萬州地域には石蘇同盟による軍政が敷かれることになった。萬州・和寧民主共和国の消滅により同地域との関係を失った共和国はその関係改善までおよそ40年を必要とし、石動第三帝国との貿易関係(同国へは萬和戦争までの間食料を定期輸出していたが、戦争の影響で取引は終了した)も損ねたため大きな損失を被ることとなった。
萬和国への支援はこの時期の共和国の外交における最大の失敗とされるが、630年代の危機的な情勢に比べ“この程度の出来事が最大の失敗に過ぎない”ことはむしろこの時代の共和国の安定さを示しているとされることもある。
リヨネ大統領の就任
リヨン・ジャスパー大統領は健康状態の悪化を理由に3選を目指す出馬をしないことを表明、650年末をもって大統領職を退いた。650年11月20日に行われた第3回大統領選挙では、民政党・社会民主党の推薦を受けたリヨネ・アメシスト外務委員長が国民党候補のレルヒ・コーサイトを破って初当選を果たした。同時に行われた共和国議会選挙においても民政党・社会民主党が合計54議席を獲得し過半数となり、建国以来初めて左派が政権を握ることになった。一方で、下野することになったものの第1党を辛うじて守った国民党に対し、保守党は2議席しか獲得できず、「党の存続が危ぶまれるほどの大敗北」を喫した。この後660年の選挙の前に保守党は国民党に合流、解散することとなる。
ヴァノミス・トロピコ危機
- トロピコ戦争
641年3月中旬にトロピコ共和国の同国内の偽装ミサイル基地に対してミサイルを誤射した事故(ミサイルは基地周辺の観光都市にも着弾している)が発生した。これに対しソサエティ諸国は非難声明を発表、特にウェールリズセ連邦共和国を中心とする“有志連合”はトロピコ共和国が権威主義政体であることを根拠にこの事故が意図的な攻撃であると一方的に決めつける内容の報告書を発表(外国人観光客の証言や撮影した映像が根拠とされているが、外国人観光客の国籍などは公開されていないため、共和国はこれらは全て有志連合の捏造であると判断している)、トロピコ共和国に対し政府の解体などを含む苛烈な内容の要求を行った。
トロピコ共和国はこの一方的な要求を拒否したため、650年10月中旬に“有志連合”はトロピコ共和国に対し宣戦布告を行った。“有志連合”はトロピコ共和国全域に対し“非人道兵器”とされている陸地破壊弾を含む莫大な量のミサイル(ある推計によると、“有志連合”がトロピコに打ち込んだ砲弾の量は100万メガトンを超えるとされている)を打ち込み、外国人観光客を含むトロピコに居住していた民間人を大量に虐殺した挙句トロピコ共和国を滅ぼした。
アルドラドからカルセドニーが得た情報によると、トロピコで発生したミサイル発射は「ミサイル発射」と「軍事訓練」(両者は同じ「攻撃」タブに含まれているため間違えることは十分考えられる)の入力を間違えた完全なトロピコのプレイヤーのコマンドミスである(アルドラドはトロピコのプレイヤーから直接この事情を聞いていたという)。これはミサイル発射の目標となった中心HEX(15,2)が偽装ミサイル基地であることからも確認できる(意図的な攻撃をプレイヤーが意図していたのであれば、“破壊されても構わない”地形のみを攻撃範囲に含めるはずであり、重要な軍事施設であるミサイル基地を攻撃の中心とするはずがない)。これらの事情があったにも関わらず意図的な攻撃と一方的に決めつけて1国を滅ぼした自称“有志連合”の行動に対する国内の評価は最悪である。
642年5月初旬、ヴァノミス連邦はベルサリエーレ第一共和政(ベルサリエーレ共和国)から燃料を対価として砲弾を輸入した。これに対し「ヴォルデリア条約第八条(ヴァノミス連邦の安全保障に関する活動について、連邦最高評議会顧問委員会の許可を必要とすることを定めた条文)違反」との指摘があり、数年経過したのちにヴァノミス連邦政府は砲弾を連邦最高評議会顧問委員会構成国に引き渡したうえで謝罪声明を発表した。
しかし、ヴァノミス連邦がヴォルデリア条約の締結以前から保有していた砲弾の保有についてウェールリズセ連邦共和国はヴァノミスを非難し、ヴァノミスの釈明に対しても批判した上で事実上の最後通牒を発した。ヴォルデリア条約に基づいた手続きを踏まずにヴァノミスへの攻撃を示唆する発言を繰り返すウェールリズセの行動を憂慮したエルツ帝国が顧問委員会を招集したが、ウェールリズセは事実上これを無視したうえで同盟国と共に650年10月中旬(トロピコ戦争と同期)にヴァノミスに対する宣戦布告を行った。この結果、ヴァノミスの防衛義務を負っていたヴォルデリア条約の構成国であるアルドラド=エルツ帝国、及びエルツ帝国と相互防衛条約を結んでいたエーラーン・石動の両国がウェールリズセなどの攻撃側諸国に対し宣戦布告を行った。
強力な軍事力を持つ諸国が一斉に宣戦布告したことで、ウェールリズセ側の陣営は形勢不利と悟りヴァノミスに対する宣戦布告を取り下げたため、防衛側も宣戦を取り下げ世界大戦は回避された。しかし、この結果見捨てられる形となったトロピコ共和国は先述の通り“有志連合”に滅ぼされている。
- 共和国の対応
共和国はこれらの“7世紀最大”とも言える重大事件に対して基本的に中立を保ったが、国内ではウェールリズセなどの諸国に対する反感が一気に強まり(この時点まではセビーリャ動乱を「共和国の外交の失敗であり、ウェールリズセ側との関係改善を図るべき」との意見も一定数存在していた)、結果的に5年後のナウラ条約締結以降共和国は反ウェールリズセ的な陣営への傾斜を強めていく。
農業政策に関する十河会議
共和国は商業を主産業とする一方で、食料自給率の維持を国策に掲げ、国土最南西部にスペサルタイト島行政区(世界で唯一の農業改良センターの周囲2HEXを完全に農業化した施設)を建設、大量の近郊住宅地による農業労働力の確保を行っていた。その中で、世界最大の食糧輸出国として知られる昭栄国から農業政策に関する会議の申し入れがあった。リヨネ大統領は就任後初の、外務委員長時代を含めてもティルブルフ会談以来の会談に参加、同国と農業政策、特に食料価格についての協議を行った。会議は最終的に「農業政策への緊密な協力」「食料レートに関する協力」「世界的な食糧需給の改善への協力」などを示した「十河会議共同声明」として結実した。
十河会議共同声明は共和国の農業国としての立場を示したものだったが、この後発生する世界的な商業国の減少を背景として共和国は商業力を大幅に強化し、結果として農業規模は縮小、スペサルタイト島行政区も690年代に解体されたためこの声明の実行力は失われつつある、というのが現在の状況である。
年表(636年~655年)
- 638年4月:観測衛星「ベテルギウス1」の打ち上げに成功。
- 638年12月:ジャスパー市にサンジラが出現。空軍が即時撃退に成功する。
- 639年1月:アメシスト市に現代都市が建設される。
- 640年11月:第2回大統領選挙でリヨン・ジャスパー大統領が再選。
- 643年2月:ムトロライト市に現代都市が建設される。
- 643年6月:ノースジャスパー市に現代都市が建設される。
- 同年11月:成蘭連邦王国との外交関係が正常化する。
- 646年12月:ブラッドストーン市に現代都市が建設される。
- 649年8月:迎撃衛星「アークトゥールス1」の打ち上げに成功。
- 650年11月:第3回大統領選挙でリヨネ・アメシスト外務委員長が当選する。
- 652年10月:ヘリオトロープ市に現代都市が建設される。
友好と停滞の時代(655年~670年)
ナウラ条約の締結に始まるこの時代では、共和国は実質的にアルドラド=エルツ帝国の率いる勢力の一員として動くことになった。共和国はこれまでとは比べ物にならない軍事面での後ろ盾を得て、「ある日突然ウェールリズセに宣戦布告される」という恐怖から解放された。しかし、共和国はこの時期同盟国との水面下での協議をするばかりで、第2次セビーリャ戦争という非常事態に際しても表面上は特に何もすることはなかった。この時期を安穏と過ごすばかりであったことが670年代以降の外交面での苦慮につながっているとも言える。
ヨリクシ・アルドラド両国との相互防衛条約締結
655年4月1日、共和国はヨリクシ共和国及びアルドラド帝国との相互防衛条約であるナウラ条約に調印した。ヨリクシ共和国とは同国の建国以来の深い友好関係があり、アルドラド帝国とはセビーリャ動乱以来同盟に向けた協議を続けてきていたが、これがおよそ四半世紀の協議を経てついに結実した形となった。
ナウラ条約はヴァノミス危機直前に締結され、同事件において世界大戦を回避するための切り札となったエルツ帝国と石動第三帝国間における相互安全保障条約を参考にアルドラド帝国が起草したもので、各国が紛争に巻き込まれた際の相互参戦を規定する一方、これに「締約国の意思と希望に反する」という条件を加えることで制限を加えている。この規定は加盟国に参戦に関する柔軟な対応を可能にするものであるといえるが、一方で同盟関係を強固にすることへの妨げとなっているという意見も存在する。
この条約の文面は共和国政府によって手直しされたうえで後に締結されたエンディバラ条約・暁城条約・アウクシリア条約にも使用されており、共和国の安保条約のベースとなっている。
セビーリャの破滅
詳しくは当該記事を参照のこと
638年2月14日に終結した第1次セビーリャ戦争後、セビーリャはセビーリャ自由共和国として信じられないレベルの発展(最盛期には人口は8000万人を超えていた)を遂げたが、そのあまりに急激な膨張に資源供給がついてこず、しばしば燃料危機やそれに伴う取引国への商品の未配を起こしていた。これに対しいくつかの国は同国に対し借款や無償支援を行ったが、セビーリャ政府は適切な対応を取らなかったため経済状況は悪化する一方だった。
その中で、665年10月中旬にウェールリズセ連邦共和国以下セビーリャ統治委員会構成国はセビーリャ自由共和国に突如宣戦布告を行った。その理由について「セビーリャ人民の信託や我々の信頼を裏切った」などとされたが、ここに至る外交交渉は共和国が察知している限り何一つ存在せず、各国の報道も「セビーリャ自由共和国の放漫財政を契機とした社会不安について、同国政府が統治委員会に責任を競うとしたことに端を発する」(「Tribune de Lomeray」紙、ロムレー湖畔共和国)、「セビーリャ政府は)反乱の発生に対してその統治委員会諸国に対して鉄面皮にも鎮圧を要請した(ことが宣戦の直接の原因)。」(「アルビオンタイムズ」紙、アルビオン連盟王国)などと混乱しており、今回の戦役の背景状況の不透明さを示している。
セビーリャ自由共和国はデルタ・ベルン講和条約によって一切の軍備保有を禁じられており、統治委員会構成諸国の攻撃に対し一切反撃することはできなかった。8000万人の人口を有したセビーリャ地域は焦土と化し、住民のほとんど(軍備を有さないため、当然すべて民間人である)は無差別殺戮の憂き目にあうことになった。667年2月初旬、中央政府の崩壊により組織されたセビージャ北部臨時政府が無条件降伏を宣言、同国はあらゆる統治権を失い旧統治委員会諸国の完全な植民地とされた。その後、セビーリャ地域は諸国の統治に対し反乱が頻発する無法地帯となったまま連合国占領委員会(旧統治委員会)により超長期閉鎖とされた。
共和国はこれらの事態について引き続き静観を保ち、セビーリャ地域からの資本引き上げも問題なく終わったが、国内ではセビーリャ系移民を中心にセビーリャ解放運動がおこり、セビーリャ民族同盟(後に民主連合へ合流)などの極右系の組織が多数形成された。
667年度連続地震災害
638年に観測衛星「ベテルギウス1」が打ち上げられて以来、共和国における大規模な地震災害は絶えて久しかったが、667年4月から668年1月にかけて立て続けに4回の地震が発生、被災者は合計で300万人に上った。この災害は近年最悪のものであったため、大統領府は非常事態宣言を発表し、当時国際社会で活躍していたヨリクシ国際緊急援助隊の派遣を要請し両国で共同して事態の収拾にあたった。この地震災害は共和国の情勢を一時的に不安定にし、これが670年の政変の原因の1つになったとも指摘されている。
アルビオンとの平和友好条約
669年頃、アルビオン連盟王国との間で平和友好条約が締結された。条約は両締約国の武力行使を禁じ、外交問題に対する平和裏の解決を図る内容となっている。スコッチランド共産主義同盟時代に9ヶ国会議に参加して以来、同国とは比較的有効な関係が続いていたが、この条約の締結で互いの同盟国に次ぐ強い関係が築かれることになった。この後、アルドラド=エルツ帝国が滅亡した後、共和国はこの条約に端を発するアルビオン連盟王国、及びその同盟国である石動第三帝国を(同盟国を除いた中での)最友好国として外交を展開していくこととなる。
蒼鋼への経済支援
蒼鋼国は669年に建国された新興国で、共和国は建国された直後の669年6月中旬に諸外国に先駆けてウラン鉱山の開発支援を行い、さらにノホ・ヘレコ連邦と共同で工業化支援協定を締結した。工業化支援協定に基づいて工業化顧問団が派遣され、工業化のための助言を文書で行ったが、この文書は共和国のこれまでのヨリクシ共和国に対する工業化支援や、各種の新興国支援から得られた工業化のノウハウが詰まっており、共和国の新興国支援体制の成熟を示す資料となっている。この文書は「工業国になるには」の形で公開され、現在はだれでも閲覧することができる。
新興国の皆さん、これを読んで工業化してください!オナシャス!
改革と拡張の時代(670年~675年)
Twitterによる投票の結果、共和国はその支持基盤が中途半端な状態のままでレハシ・ウェストカーネリアンという革新的に過ぎる人物をその元首の座に迎えることになった。レハシの大統領当選からその退場までの期間は4年強に過ぎず、カルセドニーの歴史からすれば極めて短い期間であった。しかし、彼の時代は共和国の国際社会での地位を著しく高め、その分大きな責任を背負い込むことになった。血みどろのテロリズムによって終わりを告げた彼の時代の残照は7世紀の終わりまでカルセドニーを支配し、結局その終わりは再び血みどろの革命を必要とすることになる。
レハシ大統領の就任
レハシ・ウェストカーネリアンは旧世界のアルデラミン共和国の首相、また中央政府では工業資源大臣や商業大臣を務めたことで知られるレハルの直系の玄孫であり、その革新的な政策とは対照的に名族の出である。しかし、彼は若いころにその一族を捨て、弱体な勢力しか有していなかった社会民主党に入党した。社会民主党の中でたちまち頭角を現したレハシは、共和国の本格的な社会主義化など不可能だと考えていた当時の頭の主流派を抑え、668年1月18日に社会民主党の代表選挙で代表に就任した。
大統領候補となったレハシは、対内的には「労働者評議会の設置」や「大統領権の縮小」などを公約とし、対外的には「共和国の国際社会での地位向上」(いわゆるレハシ外交)を主張した。リヨネ大統領はレハシが共和国を赤化しようとしていると訴えたが、労働組合などの反発を買ったため苦戦を強いられ、670年11月18日に行われた結果としてわずかな差でレハシが勝利を収めた。しかし、同時に行われた議会選では左右に分裂していた民政党のうち、左派が社会民主党に合流して消滅、結果として左右両陣営も議会の過半数を握れない状況になった。無所属議員は右派についたため、レハシ政権は発足当時から議会の支持を得られない状況となった。
レハシは大統領府委員会委員長評議会の設置を行い、さらに慣例に反して大統領府のメンバーを大幅に入れ替えるなどの改革を行ったが、これは国内で称賛される一方で敵対的な勢力を生むことになった。
アルドラドの政府機能停止
レハシの大統領就任の同年である671年、共和国の最大の軍事的後ろ盾であったアルドラド帝国の政府機能が停止した。すでにエーラーン教皇国・エルツ帝国の政府も停止しており、共和国が頼みとしていたエルツ帝国を中心とした陣営は事実上崩壊することとなった。
共和国はアルドラド帝国の政府機能回復を期待し、同国が大規模に行っていた中継貿易の維持のために100億ガロンを超える燃料をアルドラド帝国と貿易関係にあった石動第三帝国・ストリーダ王国などに流したが、結局アルドラド帝国の状況は回復しなかったため、政府機能停止が72期に達した時点で支援と貿易を打ち切り、アルドラド帝国の滅亡に備えた外交姿勢へ転じることとなった。
サン・ピエル危機
673年、石動第三帝国及びアルビオン連盟王国は「サン・ピエル共和国に対する共同要求」を発表、サン・ピエル共和国の「無礼な外交」に対する非難を述べたうえで同国の事実上の属国化を要求した。サン・ピエル共和国はこれを事実上拒否し、石亜両国の対サン・ピエル宣戦は時間の問題であるかに思われた。
共和国は軍備を有さないサン・ピエル共和国が石亜両国の攻撃で破滅すること、石亜両国が本件で国際社会から非難を浴びることを予測、これを回避し、本件を穏便に収めるため仲介を提案、両陣営がこれを受け入れたため協議が行われ、石亜両国の要求を事実上呑む形の条約の締結が最終的に行われた。しかし、ソサエティが石亜両国を非難、結局石亜両国はソサエティとの関係を決定的に損ねたあげくサン・ピエル共和国の権益を手放すことになった。
共和国がこの問題に第三国でありながら介入したのは、アルドラド帝国の政府機能停止によってイデオロギーの近い(反ウェールリズセ的な)国家群がもはや石動第三帝国の率いるFuCoSTOしか存在しなくなっていたためである。サン・ピエル危機が世界大戦に発展し、石亜両国が滅亡してしまえば共和国はウェールリズセ主義の大海の中で完全に孤立してしまうことが警戒されていた。また、レハシ大統領の個人的な思惑としては外務委員会の強い主張によって前政権から引き継がなければならなかったリヨナ・クリソプレーズ外務委員長をすり潰し、政界から叩き出すことがあったとされる。実際、リヨナはこの直後に「体調不良」を理由に外務委員長を辞し、その後レハシ政権が終わるより早く病死している。リヨナはリヨネの息子で、後継者と目されていたためそれが若死にすることはのちの大統領府の暴走につながることとなる。
御岳山・蒼鋼との安全保障条約締結
サン・ピエル危機が世界大戦寸前まで悪化するに至り、共和国は御岳山諸島自治巫女共和国及び蒼鋼国との間で相互安全保障条約をそれぞれ締結した。御岳山諸島自治巫女共和国との外交関係は旧辺境日ノ本人皇国が政府機能停止に陥って以来不透明になっており、両国の駐在大使もいなかったため、協議は両国がともに国交を持つアルビオン連盟王国の仲介で、それぞれの在亜大使を介して行われた。そのため、674年2月15日に調印された条約の調印式は条約と直接関係ないアルビオン連盟王国内の都市エンディバラ(旧スコッチランド共産主義同盟首都)で行われた。
レハシ大統領はエンディバラから直接蒼鋼国首都暁城府に飛び、3月30日に暁城府において暁城条約が調印された。両国は工業化支援協定以降経済関係を深めていたが、これ以降軍事面での関係も強化されることになる。治安維持協定などの段階を飛ばした直接の安全保障条約は国際的にもかなり異例のものであったが、サン・ピエル危機により両国が緊迫する国際情勢に警戒感を持っていたためか交渉は四半世紀を要したナウラ条約に比してかなりの短期間でまとまった。
結果的にこの2つの条約の締結がレハシの最大かつ最後の業績となる。
レハシ大統領暗殺
(事件直後のRB通信の記事を引用)
レハシ・ウェストカーネリアン大統領は(675年)2月10日、遊説先のノースジャスパー市庁舎ビルで武装勢力の襲撃を受けた。護衛のSPが応戦したが、小銃のみならずロケットランチャーまで装備した武装勢力は極めて強力であり、最終的に武装勢力はレハシ大統領を人質に取って市庁舎ビルに立てこもった。
武装勢力のリーダーは「無政府共産主義者連盟代表ハギネ・サードオニクス」を名乗り、「真の社会主義を発展させられない現在の政策の中止と真の社会主義実現のための各種政策の実施」を大統領解放の条件として要求した。これに対し、政府軍は迅速な対応を行い、市庁舎を包囲したが、レハシ大統領の身柄を確保している武装勢力に対し攻撃をかけられないでいた。その中で、武装勢力はレハシ大統領自身に武装勢力の意思を市庁舎からの放送によって表明させようとした。しかし、レハシ大統領は中継がつながるやいなや、「もはや市庁舎ビルには私と犯罪者しか残っていない。私の身を顧みず犯罪集団を殲滅させよ」と叫んだ。
政府軍はこの放送を受けて緊急に「大統領の身の安全よりも武装勢力の壊滅を優先させる」との決定を下し、南方のアゲート空軍駐屯地から対艦攻撃機「アントリア1」の出撃を行った。2機のアントリア1から発射された10発の空対地ミサイルは狙い過たずノースジャスパー市庁舎ビルに命中、ビルは倒壊した。陸軍も同時に攻撃を行い、ビルから脱出を図った武装勢力は全員射殺され、倒壊したビルの残骸の中で大統領の死亡も確認された。
(引用終わり)
レハシはこの事件によって突然の死を遂げることになった。武装勢力は「無政府共産主義者連盟」と名乗ったが、この組織はこれまで特に活動の実態がなく、ハギネ自身も「極左」と言えるような人間ではなかったとされる(ハギネの息子であるハギト・カーネリアンによれば「父ハギワの性格を受け継ぎ、軍による政府の統制が必要と考えるようなむしろ右寄りの人物」である。)ため、この暗殺事件自体が全てリヨネ派の陰謀であると現在は(連合政府によって)考えられている。右派優勢の共和国議会は、この事件に関与したとして共産党の国政選挙への候補者擁立を禁止、これ以降共産党は20年間の地下活動期に入ることになる。
空軍の攻撃で倒壊したノースジャスパー市庁舎ビルの残骸。がれきの撤去にあたる車両が見られる。
リヨネ挙国一致政権の成立
レハシの暗殺を受けた共和国政府の対応は迅速で、暗殺から1ヶ月後の675年3月11日には臨時選挙である第6回大統領選が行われた。選挙はリヨネ前大統領が国民党・民政党及びレハシの死によって動揺していた社会民主党の協力を取り付け、議会の93%の支持を受け圧倒的な得票で大統領に選出された。
リヨネは後継者と目されていたリヨナ・クリソプレーズを失っており、この時点ですでにリヨネが死んだ際の隠蔽工作に向けた協議が大統領府や議会の中で始まっていたとみられる。
軍備と再開発の時代(675年~700年)
共和国は640年代以降長い時間をかけて軍備を拡大してきたが、この時期に軍事・防衛衛星、イレギュラーの打ち上げに成功して軍事大国の一員となった。また、アルドラド=エルツ帝国の滅亡による世界的な商品需要の減少に対応するために大幅な商業力強化を行い、商農業国だった共和国は9000万人を超える人口を抱える商業大国へと膨張した。686年には国際交易協力機構を立ち上げ、共和国はその絶頂期を迎えた。しかし、急速な膨張に伴う国内の歪みはその限度を超え、7世紀と共に終末を迎えることになる。
軍事・防衛衛星の打ち上げ
共和国は678年1月に防衛衛星「ラス・アルゲティ」を打ち上げ、その軍事力が十分なものに成長したことを国際社会に示した。これまでの共和国はアルドラド=エルツ帝国の防衛能力に依存しており、両国の政府機能停止によってレハシ期の共和国は非常に脆弱な状態だった。しかし、防衛衛星とこれに続く681年6月の軍事衛星「アンタレス」の打ち上げによって共和国の防衛は一応の安定を見た。
サン・ピエルとの安全保障条約締結
共和国は678年6月5日にサン・ピエル共和国との相互安全保障条約である「アウクシリア条約」の締結を行った。サン・ピエル共和国は先のサン・ピエル危機以降先進国間の非難合戦の口実として用いられてきたが、共和国がその後ろ盾となることで一応の安定を見る形となった。サン・ピエル共和国はこの後結成された国際交易協力機構に加盟したが、690年頃に政府機能停止に陥り700年に滅亡した。
アルドラドの滅亡
680年11月、長期にわたり政府機能が停止していたアルドラド帝国が滅亡した。アルドラド帝国は630年代以降共和国と友好関係にあり、655年にナウラ条約が締結されて以降は同盟国として軍事的な協力も強めていた。しかし、670年代以降政府機能停止に陥り、この時ついに滅亡した。共和国は貿易関係をすでに解消していたが、同国内に備蓄されていた砲弾約80万メガトンが消失するなど共和国は主に安全保障面で大きな打撃を被ることになった。
国土再開発計画
アルドラド=エルツ帝国の滅亡は共和国に防衛面の打撃をもたらしたが、国際社会には経済面で大きな打撃を与えた。もともと、世界最大の工業国だったミッドガルド帝国が630年代に滅亡して以来、国際社会はその穴を埋めるために工業国の数を増やす方向に進んでいた。しかし、両国の滅亡によって世界全体の商品需要は著しく落ち込み、工業国では財政危機が叫ばれるようになった。共和国はこの状況に対応するため国土再開発計画を行い、685年に4ヶ所の現代都市を新たに建設した。これは共和国を商業大国として大幅に膨張させ、690年代に行われた更なる再開発(現代都市3ヶ所の増設)により7000万人台だった共和国の人口は9000万人を超えるまでに増加した。このことは共和国の経済力を強化したが、その一方で経済を不安定にし、700年代の革命の一端となった。
WTCOの設立
686年9月24日、クリストバライト市庁舎において国際交易協力機構条約(通称:クリストバライト条約)が締結され、WTCOが発足した。国際交易協力機構の原加盟国は全て共和国の軍事同盟国で、後に加盟した御岳山諸島自治巫女共和国もそうであるなど共和国の軍事同盟国による共同体という色が強い組織であったが、その中身は完全な経済協力組織であり、戦時の協力は「中立国に求められるもの」を限度とすると定められた。条約の内容を作成したのは共和国外務委員会であるが、その意図としては「共和国が何かの事情でその外交を停止させた際に、加盟国が軍事協力について柔軟に対応しうること」、「軍事同盟としての役割を一切排除することで第三国や、他の同盟に所属する国家の加盟を可能にすること」などが挙げられる。
一部の国家からは「陣営としての性格が強く、戦争抑止効果を期待したもの」との反応が見られたが、共和国としてはWTCOが戦争抑止を企図するものであることは確かだが、「陣営」としての役割を無理に求めるものではないと判断している。
第1回WTCO加盟国会議
詳しくは当該記事を参照のこと
692年6月に第1回WTCO加盟国会議が開催された。WTCOはこの時点で加盟国を2ヶ国増やして6ヶ国となり、世界最多(タイ)の加盟国を持つ組織となったが、700年にサン・ピエル共和国が滅亡したため加盟国数は5ヶ国となった。会議では機構公定レートとサン・ピエル共和国への支援が決議された。
石動第三帝国の滅亡
680年頃、国内の混乱を理由に石動第三帝国及びアルビオン連盟王国は一時的な鎖国を発表していたが、690年代の終わりに両国とも外交を再開していた。しかし、鎖国期間中に貿易関係が完全に途絶え、特に石動第三帝国の主要な燃料供給源だった大明帝國及びサン・ピエル共和国の両国が政府機能停止に陥っていたため同国は経済が完全に崩壊、国内情勢も一気に不安定化した。
共和国はアルビオン連盟王国との平和友好条約を根拠として両国の、特に石動の経済を維持するために食料・商品などの大量の支援物資を投入したが、情勢は安定化の兆しを見せなかった。そんな中、赤松満介陸軍卿が足利教子将軍を暗殺する事件が発生、これをきっかけに石動第三帝国内では一気に騒乱が発生、まるで戦国時代のような様相を呈する。
その中で、700年10月に石動第三帝国第九代皇帝直衣宮から共和国への亡命の申し出が内密にあり、共和国はこれに応え700年11月1日に石動近海に艦隊を派遣して直衣宮皇帝以下の救出にあたった。この作戦は成功したが、石動第三帝国はこの時点で消滅することになった。
石動第三帝国の滅亡と前後して、アルビオン連盟王国の情勢も不安定になり、両国を中心としていたFuCoSTOは事実上崩壊した。共和国は「反ウェールリズセ的な」イデオロギーを持った両国を友好国と見なし、関係の向上に努めていたがそれは完全に無に帰すこととなった。この石動第三帝国の滅亡はカルセドニー島共和国の外交方針の完全な破綻を意味し、それが700年代の共和国政府の崩壊と鎖国政策を掲げる労働党の政権奪取につながっている。
すでに述べられた通り、共和国はウェールリズセを最大の仮想敵とみなし、常にその正反対側の陣営に属していた。しかし、アルドラド=エルツの滅亡によって国際社会は大部分ウェールリズセ側の陣営(彼らの言う“主流派”)に属する国家によって埋められるようになった。共和国はその生き残りを図るために石動やアルビオンと友好関係を築こうとしたが、結局石動の滅亡によってウェールリズセ派から“国際社会の主導権を奪う”計画は画餅に帰した。この出来事は、すでに受験を控えていたカルセドニーのプレイヤーからモチベーションを失わせ、受験凍結に踏み切る大きなきっかけとなった。
年表(675年~700年)
- 678年1月:防衛衛星「ラス・アルゲティ」の打ち上げに成功。
- 同年6月:サン・ピエル共和国との相互安全保障条約「アウクシリア条約」を締結。
- 680年11月:第7回大統領選挙で、リヨネ・アメシスト大統領が三選を果たす。
- 681年6月:軍事衛星「アンタレス」の打ち上げに成功。
- 684年3月:ヨリクシ共和国建国50周年記念式典にリヨネ大統領が出席。
- 685年5月:国土再開発計画が実施され、第1弾としてユーファストーン市が建設される。
- 同年6月:国土再開発計画の一環としてシトリン市が建設される。また、この際にノースジャスパー市がアメトリン市に改名する。
- 同年8月:国土再開発計画の一環としてクリソプレーズ首都特別区南西に現代都市が建設される。
- 同年10月:国土再開発計画の一環としてスティショバイト市が建設される。
- 686年9月:国際交易協力機構条約が締結される。
- 687年9月:人口が8000万人に到達する。当時経済指標上で世界5位。
- 690年5月:汎用型大気軌道宇宙船(イレギュラー)「ガーネット・スター」の打ち上げに成功。
- 同年11月:第8回大統領選挙で、リヨネ・アメシスト大統領が史上初の四選。
- 692年10月:モリオン市が建設される。
- 693年5月:ラシニア社会共和国に出現した怪獣の討伐において、共和国で初めて衛星レーザーが実戦投入される。
- 同年11月:モリオン市が隕石の直撃で破壊される。
- 694年5月:モリオン市が再建される。
- 同年6月:デマントイド市が建設される。
- 同年9月:ツァボライト市が建設される。
革命と鎖国の時代(700年~763年)
石動第三帝国の滅亡によって、共和国の外交政策は完全に破綻した。それにより、押さえつけられていた国内のひずみが一気に膨らみ、革命と鎖国へと結びついていくことになる。
リヨネの老衰死の発覚
700年11月8日に行われた第9回大統領選挙はこれまででまれに見る大混戦であった。左派政党が擁立候補の統一に失敗し、過半数を獲得する候補がいない中、辛うじて中北部を抑えたリヨネ・アメシストが3回連続5回目の当選を果たした。しかし、701年1月8日に行われた議会における就任演説で労働党議員が突然リヨネに石を投げつけ、その石はリヨネにあたらずすり抜けて後ろの壁にあたった。この事件をきっかけにリヨネが十数年前にすでに亡くなっており、大統領府の工作によって長い間ホログラム映像などでごまかされていたことが明らかにされた。労働党を始めとする野党(議会の過半数を有しているのはこちらだったが)は大統領府を強く批判し、大統領選の実施を要求したが、大統領府は裁判所(共和国の裁判所は大統領府法務委員会の部局として設置されていた。)や議会に手を回して大統領選を拒否、710年の“ホログラム大統領”の任期満了までその地位を維持しようと図った。
大統領府委員会委員長評議会が臨時大統領選挙法に対し拒否権を発動したことに抗議するクリストバライト市庁舎前のデモ。
カルセドニー革命
詳しくは当該記事を参照のこと
国内では権力にしがみつく大統領府への怒りが爆発、国内各所でストライキが頻発した。その中でも労働党の支持基盤であった南部ブラッドストーン市では大規模なストライキが行政機能を麻痺に追い込み、大統領府はこれを「反乱」と断定し軍による鎮圧を命じた。しかし、南方方面軍の内部でも不服従が発生、大統領府は政権支持率が高い中北部の軍部隊をブラッドストーン市に派遣した。
これに対し、南方方面軍の部隊が一部離反、ストを行う市民に合流した。これとストの鎮圧を目標とする西方方面軍との間にクリソプレーズ港の戦いが発生した。市民軍はこれに勝利をおさめ、南部全体に拡大したストライキを労働党主導で糾合、南方方面軍の支持を得て「カルセドニー連合」の設立を宣言した。この後内戦がしばらく続いたが、最終的に連合側が勝利をおさめ、大統領府のメンバーらは逮捕・処刑されるか国外逃亡・行方不明になり、連合がカルセドニー全域の統一を達成した。
鎖国政策の発表
国内を統一したカルセドニー連合政府は主導した労働党の主張通りこれまでの外交方針の全面的な破棄と鎖国政策への移行を宣言、しばらく国際社会と調整を行った後暫定外交部を閉鎖、鎖国へと移行した。
レンデの統治
鎖国後に正式に採択されたカルセドニー連合憲法に基づいて705年末にレンデ・アゲートが初代カルセドニー連合大統領に選出された。レンデは民衆の強い支持を背景に強力な社会主義政策を続けたが、消費財の供給をほとんど海外に頼っていたカルセドニー内の物資供給は一瞬のうちに危機に陥り、唯一貿易関係を継続したヨリクシ共和国との貿易や都市部の手工業者の努力をもってしても慢性的なモノ不足は解消されなかった。レンデは政権の維持のために軍部との協力を推し進め、結果的に労働党内の組合派(地方の労働組合を母体とする勢力)とレンデを中心とする共産派(旧共産党の党員及び軍人を母体とする勢力)の関係は次第に悪化することになった。
レンデは3期15年にわたり連合大統領を務め、720年の選挙に立候補せず、後継者に同じく共産派のレペイ・ヘリオトロープを指名して政界を引退した。
レペイのもたらした混乱
レンデのあとを受けて721年から連合大統領に就任したレペイ・ヘリオトロープはレンデ以上に軍部との癒着を深め、共産派と組合派の関係はいよいよ悪化した。軍部と協力に結び付いたレペイは組合派の弾圧を図り、いくつかの労働組合系組織が解体を命じられるなどカルセドニー革命の理念はほとんど消滅するに至った。しかし、組合派の方が民衆から人気があったために国内の反発は著しく、レペイ政権の末期には国内の治安は極めて深刻な状態になった。
レペイは自らの地位を守るためにレンデが固辞した連合大統領4期目を目指すと表明、これが引き金となり734年に暗殺された。暗殺者は内務公安委員会に拘束される前に自殺したため暗殺の動機は不明のままだが、レペイはあらゆる方面に敵を作っていたためこの結末は想像に難くない。レペイの死後、およそ3年にわたって共産派と組合派の抗争が続き、当初は軍部の支持があった共産派が優勢であったが、軍内部にも分裂が生じ結果的に組合派が政界を掌握する形となった。
開国への道
738年に3代目の連合大統領に就任したテシク・スティショバイトは軍部と組合派の融和を図り、軍部のクーデターを防ぐためだけにその任期を費やすことになった。751年に後を継いだトリク・ユーファストーンも個人的な国民からの人気こそあったもののさほど立場は変わらず、軍と党の不安定な関係は国内情勢の安定化を妨げた。当初は組合派にあった民衆の支持も次第に失われ、752年に行われた革命50周年記念式典における“共和派”への特別恩赦も国民感情にに対した変化をもたらさなかった。また、国際的に「豊作危機」と呼ばれる聖樹生産の著しい減少は国内の食料供給を崩壊させ、トリク政権は革命後最悪の情勢に直面することとなった。
旧世界からの移民船漂着
このころ、旧世界からの移民船が漂着するという事件があった。この移民船は旧世界でもフリューゲルでもない第三の惑星を経由してフリューゲルにたどり着いたという異色の経歴があり、さらに代表は「ロニア」と名乗り、断絶したと考えられていた「5大氏族」の生き残りであると主張したため話題を呼んだ。氏族信仰を否定する立場の労働党は情報の抑え込みを図ったが、噂は一瞬にして広まり、結局労働党も「赤光」で事実関係について報道を行った。トリクが恩赦した“共和派”はロニアを祭り上げて「旧世界不滅論」と「氏族信仰」が結びついて成立したルナ教と結びついたため一気に勢力を拡大、一介の非合法組織から有力な政党として頭角を現した。
憲法制定議会選挙
トリクの3期目の終わりが近づき、有力な後継者のいなかった労働党組合派は共産派から次第に突き上げを受け始めた。トリクの個人的な人気でもっていた組合派政権はその退任と同時に崩壊しかねなかったため、トリクは起死回生の策として共和党(“共和派”が形成した右派政党)が主張し、進歩党(労働党の衛星政党となっていた社会民主党の後身)が同調していた普通選挙の実施に同意した。共産派は当初「真の社会主義を破壊しようとする右派反動勢力の試みは受け入れられない」などとして普通選挙を拒否しようとしたが、連合議会は過半数の議員(進歩党・労働党組合派)が参加を拒否したため麻痺状態になり結局は共産派も憲法制定議会選挙に参加せざるを得なかった。
年表(700年~)
- 700年11月:第9回大統領選挙でリヨネ・アメシストが3回連続5回目の当選。
- 701年1月:リヨネが議会でホログラムを用いた演説を行ったことが発覚。
- 同年11月:共和国裁判所がリヨネの失職と大統領選の実施を求める訴えを退ける。
- 702年2月:大統領府委員会委員長評議会が大統領選の実施を定めた特別立法を拒否。
- 同年3月:労働党など、特別立法の再可決を図るも必要数(4分の3)を確保できず否決。
- 702年9月:カルセドニー革命の開始。
- 703年7月:カルセドニー革命の終了、カルセドニー連合政府が鎖国を発表。
- 705年12月:レンデ・アゲートが正式にカルセドニー連合初代大統領に当選。
- 720年12月:レンデ・アゲートの退任に伴いレペイ・ヘリオトロープが連合2代大統領に当選。
- 734年8月:レペイ・ヘリオトロープが暗殺される。
- 738年3月:テシク・スティショバイトが連合第3代大統領に就任。
- 750年12月:トリク・ユーファストーンが連合第4代大統領に当選。
- 752年9月:革命50周年記念式典が行われ、“共和派”が特別恩赦される。
カルセドニー社会主義連邦共和国の成立
憲法制定議会選挙は、それを求めていた右派諸党の想定した結果にはならなかった。全600議席のうち、第1党の地位を占めたのは225議席を獲得した労働党であり、右派の期待を背負って立つことになった共和党は善戦したものの150議席にとどまることになった。この後、各党派の間では激しい連立交渉が展開されたが、連合党・進歩党のいずれかを引き込めば議会の過半数を確保できる労働党と、連進両党の支持を必要とした共和党ではすでにパワーバランスが傾いていた。共和党の提示した連立政権案は、進歩党への配慮の結果連合党に対して極めて厳しいものであり、それを察知した労働党は連合党の切り崩しに方針を定め、結果として労連両党の連立政権が成立することになった。
労連両党の主導で成立した新憲法は、カルセドニー連合の行政制度の大部分を維持しつつ、大統領の権限強大化及び議会と自主管理組織の直結をより明確化し、「カルセドニー社会主義連邦共和国」としてのスタートを踏み出すものとなった。
なお、ヨリクシ共和国はこの時点で開国を選ばず、鎖国を永続することを選択したため、両国間の交流はカルセドニー開国をもってほぼ完全に途切れた。カルセドニーは有力な同盟国を有さないまま、60年の鎖国の間に激変したフリューゲルに乗り出すことになった。
WTCOの再始動
カルセドニー(及びヨリクシ共和国)の鎖国期間中に、御岳山諸島自治巫女共和国及び蒼鋼国は滅亡し、国際交易協力機構(WTCO)はほぼその機能を失っていた。765年にカルセドニーは最後のWTCO加盟国であるローレル共和国に対して機構加盟国としての地位確認を求め、ローレル側の同意を受けておよそ70年ぶりの加盟国会議が開催された。これ以降、WTCOはカルセドニー外交の主軸として再設定され、加盟国数を増やしながら国際社会における活動を続けている。
レクハ談話
766年5月18日、レクハ・アメトリン大統領は談話を発表し、「分離を目指す民族主義」と「団結を目指す民族主義」の差異についての意見を表明した。その中で、レクハは「社会主義と民族主義は共存が可能であり、両者は絶対的な矛盾関係ではない」と言明、連合時代から継続してきた民族主義に対する警戒的な方針を転換した。労働党は鎖国政策の継続を掲げて第1党となったものの、連合党との連立交渉の過程で鎖国を放棄せざるを得なかったことから、不明瞭なままになっていた外交政策について、「社会主義世界に限らない国際協調」という以降の方針の第一歩となったものであると現在では評価されている。
このような談話の背景としては、外交委員会がイデオロギー的に対立するガトーヴィチ帝国との関係悪化を避けたかったことが第一であることは明らかとなっている。ガトーヴィチ帝国は当時「770年までのイレギュラー打ち上げ」を掲げ軍備強化に邁進していたことから、この当時レゴリス帝国を中心とした最大勢力に次ぐ第二極としての地位を形成しつつあり、外交委員会が友好関係の構築に力を入れていたヴォルネスク・スラヴ共和国(実際、この談話の5ヶ月後に農業振興協定を同国との間で締結している)の最大の友好国でもあることから、「同国との関係改善のために忖度した」というのがこの談話の実態に近い。
しかしながら、外交委員会がガトーヴィチ帝国との関係を具体的に強化しようとした形跡はこの時期には見られず、後にガトーヴィチ帝国内で「五月革命」が起こり左派政権が成立した際にも国内世論は冷ややかであったことから、「ガトーヴィチに対する忖度」はむしろヴォルネスク側に対するポーズであり、同国をガトーヴィチから引きはがして自陣営に取り込むことが最終目的であった、とみることもできる。
ユリウス戦争
ユリウス王国は760年代に出現した国家であり、ラルティスタ社会主義共和国が主導する「新興諸国開発共同体」の原加盟国となるなどの活動をしていたが、その外交姿勢は極めて不可解なものであり、最終的に我が国やセビーリャ地域に対して「宣戦布告」を宣言、慣習国際法を無視した攻撃を実施するに至り、カルセドニー及びロムレーを中心とする諸国により焼き払われた。ユリウス王国の詳細やユリウス戦争をめぐる外交交渉などは正直どうでもいいが、カルセドニー軍は史上初めて大規模な海外での作戦行動を実施することになり、のべ1600機を超える数の爆撃機がユリウスに対する反復攻撃を行ったことにより、その軍練度は大幅に向上したとされる。
一方で、ユリウス戦争以前にユリウス地域と比較的かかわりが深かったカルセドニーの外交委員会はその「世界の癌」を早期に取り除けなかったことの責任を国内で問われることになり、トリク・ユーファストーン外交委員長(カルセドニー連合最後の大統領で、連合党の外交委員長として入閣していた)の辞任を結果としてもたらし、この戦争はカルセドニー外交委員会における労働党優位の一端ともなった。
工業国に関する加烈声明
775年3月27日、トリクの後任であるケレシ・ブラッドストーン外交委員長はヘリオトロープ市内でレゴリス帝国通商産業大臣ゼプテ・ナインティアモーナントと会談、「工業国に関する共同声明」を発表した。両国の共同声明はこれが史上初であり、互いに友好国とは言えない関係であったがためにその内外への反響は大きかった。声明の内容は「低特価工業による資源の浪費に対する懸念」といったところであり、陣営こそ異なれどともに商品などの必須物資を海外に依存する大商業国である立場の同一性から、この声明に関する合意に至ったと言える。
国内が後述するガーネット州建材工場ストで揺れていたことから、国内的にはさほど注目を集めなかった加烈声明であるが、レゴリス帝国を中心とする陣営を常に最大の仮想敵として見なしてきた旧来のカルセドニー外交の大前提を揺るがすものであることから、本声明の歴史的な重要性は極めて大きい。ケレシはもともと生産搬送配給委員であった人物であり、外交に関しては専門家とは言えない。このような人物がユリウス戦争をきっかけとした政局混乱を経て外交委員長になったことが、この声明をきっかけとしたカルセドニー外交の大転換を生んでいくことになったとも言えるだろう。
「南の風」とガーネット州
カルセドニー国内において、商業生産に次ぐ主要産業である建材製造であるが、その拠点である建材工場は大部分がガーネット州内に立地していた。連合期にセビーリャ系・ヴァノミス系住民が大量流入したガーネット州は本土とは風土が異なり、社会主義的な風潮に対して警戒感が強く、憲法制定議会選挙以降の諸選挙では共和党の支持基盤となっていた。この共和党の最大の後援組織が、ロニア共和党代表自身がトップを務めるガーネット州自主管理連合組織同盟「南の風」である。「南の風」はヴェニス社株式の購入など国際金融業界で存在感を発揮する一方で774年にガーネット州内の建材工場職員を主導して大規模なストライキを実施した。このストライキは1年半余り継続した後776年1月4日に中央政府と「南の風」が建材工場職員の待遇改善に関する合意を結び終息したが、中央政府はガーネット州からの建材買い上げ価格の高騰を受けてこの年の9月に建材輸出レートを引き上げている。
これ以降、「南の風」はカルセドニー国内で存在感を増し、たびたび中央政府の政策に影響を与えるようになっている。ただ、中央政府も「右翼的主体(絶対君主制国家や巨大無国籍企業など)との取引」に対して反発が根強い本土の世論に配慮しながらも経済的な利益をそれらの取引によって得るため、「南の風」を緩衝材として利用しているというところがあり、「南の風」は単なる中央政府の目の上のこぶというわけではない。
ペレネ大統領登場
「南の風」への対応については与党内でも意見が大きく割れており、労働党が中央集権体制の堅持のために「南の風」の抑え込みを訴える一方、連合党は「南の風」とのパイプを作り、その利用に熱心である。このような対立姿勢は中央政界にも波風を立てることになった。775年、785年の2度の共和国議会選挙で立て続けに連合党は大幅な議席増を成し遂げ、一方で労働党はやや勢力を減じたため、785年には連合党が議会の第1党の座を奪取した。このとき、連合党は労働党を排除しての連立の組み換えをちらつかせたとされ、結果としてペレネ・モスアゲート連合党副代表が憲法の規定(3選禁止)で退任するレクハ・アメトリン大統領に代わってカルセドニー社会主義連邦共和国第2代大統領に就任することになった。憲法制定議会選挙では第4党に甘んじた連合党から、20年を経てついに大統領が輩出されたということである。
この2回の選挙で最も割を食ったのは右派の得票を共和党に、左派の得票を与党2党に奪われた中道政党の進歩党で、785年選挙では改選200議席のうちわずか8議席の獲得にとどまるなど壊滅的な敗北を喫した。
左派のさらなる興隆
795年の第25回共和国議会選挙においても時代の趨勢に変わりはなかった。連合党はますますその議席を伸ばし、改選議席の過半数を獲得する圧勝となった。労働党はややその勢力を減じたものの、両党は議会の3分の2を超える437議席を獲得し、両党は「5年以内の改憲発議」を選挙の直後に発表している。
年表(763年~803年)
- 763年11月:憲法制定議会選挙が行われる。
- 764年6月:カルセドニー社会主義連邦共和国憲法制定。
- 765年7月:第2回国際交易協力機構加盟国会議が開催される。
- 766年5月:「レクハ談話」を発表。
- 768年10月:ユリウス王国に対して宣戦布告。
- 774年7月:「南の風」主導でガーネット州建材工場においてストライキが発生。
- 775年3月:レゴリス帝国と共同で「工業国に関する共同声明」を発表。
- 同年12月:第23回共和国議会選挙実施。
- 776年1月:ガーネット州建材工場スト終息。
- 779年3月:東ジャスパー準州においてCDX像が建立、ロムレー人技術者が建立式に招かれる。
- 785年10月:ユリウス地域が国際社会に一時復活するも再び消滅。
- 同年12月:第24回共和国議会選挙実施。
- 795年10月:第25回共和国議会選挙実施。
改憲と右派の追放
「5年以内の改憲」を訴えた労連両党であったが、この後両党は改憲案をめぐって熾烈な綱引きを繰り広げることになった。両党の改憲案の隔たりはざっと下の表の通りである。
制度 | 労働党 | 連合党 |
---|---|---|
大統領制 | 強化 | 廃止 |
政党 | 一党制 | 二大政党制 |
議員任期 | 20年 | 30年 |
改選議席数 | 300 | 200 |
連邦制 | 廃止 | 維持 |
生産手段の公有化 | 国家管理 | 労働者管理 |
これらの対立点について調整が繰り返され、結局改憲が実施されたのは803年にずれこむことになった。両党は次回選挙である805年の前に改憲を実行するためにぎりぎりになって議論を急ぎ、両党の「折衷案」じみた改憲案が作成された。すなわち、大統領制は廃止され、議会は二大政党制を取ることになるが、議員任期は20年、一度の改選議席は300議席となった。連邦制については名目上維持されるが、州の自治権はほぼ失われ単なる行政区画であることが明確になった。
もっとも重大な決定として、「生産手段を保有する主体は労働者である」ということが明確化され、これまで事実上の「経営者」として君臨することがあった自主管理連合組織の「マネージャー(自主管理組織運営のためのプロ経営者)」は自主管理組織の組織系統に加わることができなくなったことが挙げられる。議会制度にも大きくメスが入れられ、自主管理組織がその構成員から共和国議会議員を選出することが明確化された。すなわち、プロ経営者は自主管理組織の構成員ではないことから共和国議会への被選挙権を事実上失い、議会を「労働者」で埋めることが可能になった。結果、進歩党・共和党の議員の大多数が直ちに実施された第26回共和国議会選挙の時点で議員資格を失い、その残余は連合党に合流するか無所属での立候補を選んだため両党は議会から消滅することになった。
普中ト事変と「交戦各国に対する要請」
811年3月下旬、普蘭合衆国はトラハト=ラシュハ連合王国との間の貿易を同国が一方的に打ち切り、それに関する交渉を拒否したとして同国に対して最大級の抗議を表明、「制裁の一環」として宣戦布告を行った。この直前の810年末に行われた第27回共和国議会選挙の際に外交委員長に選出されていた労働党のペレト・サードオニクスはこの時点では業務の引継ぎが完了していなかったこともあり静観の構えであったが、同年5月初旬に中夏人民共和国がトラハト=ラシュハ連合王国に宣戦布告を行うと、事態は急変した。客観的に見て正当性があるとは言えない中夏による対トラハト宣戦が国際社会からの強い非難を受けることは簡単に予測がつき、場合によっては一部国家(レゴリス帝国を想定していた)が中夏に対する宣戦に打って出る可能性があると外交委員会は判断した。カルセドニーは中夏人民共和国を同盟国である御岳山大社共和国を除けば最友好国と位置付けていたため、同国の国際的地位を揺るがしかねないこの事態に対する対応を余儀なくされた。
カルセドニー外交委員会は直ちにギルガルド社会主義共和国・トルキー社会主義共和国(トルキーはこの時点ではまだ鎖国化にあった)と共同で「交戦各国に対する要請」を発表、戦争を対話により解決するための第三者委員会を設置することを提案した。この要請の中で「交戦各国」とは「現時点で普蘭合衆国、中夏人民共和国、トラハト=ラシュハ連合王国を指すが、もしこのような戦争状態に加わろうとする国が存在するならそれらの国々も」含むとされているが、これは中夏に対して宣戦を布告しかねないとにらんでいた一部国家に対する牽制であり、結果として、これ以上この紛争に介入しようとする国家は現れなかった。また、「第三者委員会に委員を派遣する国」の条件として「交戦各国の軍事同盟国ではない」ことを求めており、中夏・トラハトには軍事同盟国が存在しなかったことから、普蘭の同盟国であるレゴリス・ロムレー両国を事実上名指しで排除している。当時のカルセドニー外交委員会が本件に対する烈路両国の介入を「中夏の安全保障を損ねる」として非常に強く警戒していたことがここから明らかである。
普中ト事変第三者委員会
第三者委員会はカルセドニー、ヘルトジブリール、ギルガルド、トルキー、セニオリスの5ヶ国が参加する形で開始された。ヘルトジブリール代表からは「制裁」に言及するなど非常に中夏に対して厳しい主張が行われ、停戦を拒否した場合には中夏に対する開戦やむなしなどの意見も見られたが、カルセドニーは「中夏にとって壊滅的な結果を回避する」という目標のもとこれに対して不同意を示し、その根拠として「外交協議による解決が本委員会の目的である」などと述べている。一方で、議場が中夏に対して極めて批判的であったことから、「遺憾の意」を中夏の行為に対して表明することは余儀なくされた。以降の第三者委員会においては中夏政府によるトラハトへの謝罪、トラハトにおける社会主義政党の扱いについてが主に議論されたが、最終的には「トラハトの対中賠償請求権の放棄」「トラハトの選挙制度に関する国際社会への公開」「トラハトの次回選挙に関して第三国からの選挙監視団を受け入れること」「選挙終了後、両国は友好平和条約を締結し、中夏政府はトラハトにその場において謝罪すること」が定められた。「中夏政府によるトラハト側への謝罪」はトラハト側の強い要求であり、第三者委員会でもその必要性が認められたことからやむを得ないが、それ以外の点に関してはほぼ中夏側にとり不都合な内容とは言えず、中夏への国際社会からの批判も事実上立ち消えしたためカルセドニー外交委員会としてはおおむねその目標を達成したと言える。
その後、トラハトでは第三者監視のもと選挙が実施されたが、中夏が後援する「トラハト=ラシュハ人民共和国臨時政府」は1議席も獲得できない壊滅的敗北を喫し、そのまま国際社会から姿を消した。トラハト国内で中夏の行為が社会主義世界に対する懸念を生んだことは間違いなく、「中夏の行為は社会主義世界そのものの株を下げた」と批判する声は根強い。これ以降常に外交委員長が労働党から排出されていることからも、「国際社会主義勢力の連帯」を訴える連合党の外交方針が「夢物語」であるとの世論が醸成されていることは疑いなく、その一端はこの際の中夏の暴走であるともいえるだろう。
813年戦争におけるレゴリス陣営支持
813年戦争に関する詳細は当該記事を参照のこと
774年に左派による「五月革命」を成し遂げていたもののその後ぱっとせず、799年にスラヴ主義勢力が復活を遂げていたガトーヴィチ帝国であるが、同国は809年9月20日に資本主義市場経済相互援助条約機構(エルドラード条約機構:EDTO)を発足させ、ヴォルネスク・スラヴ共和国及びフェネグリーク帝国、さらに以前の加烈声明後「自給自足体制」を批判されレゴリス帝国との対立を深めていたセニオリス共和国と同盟関係に入った。この「資本主義」を掲げる、明瞭にカルセドニーをはじめとする社会主義諸国に対して敵意を向ける軍事同盟の発足は国内に衝撃を与え、ペレネ・モスアゲート前大統領は「EDTOに攻撃され、カルセドニー国土が焦土になる夢を見た」と側近に語るほどであった(カルセドニーPLがマジでそんな夢を見た)。
812年6月、EDTOの一角であるセニオリス共和国はヴェニス社に対してなんだかんだと言いがかりをつけて宣戦布告(ここの詳しい経緯はカルセドニー外交委員会は問題視していない)、9月初旬にはヴェニス株式会社統治領に対してミサイル攻撃を実施した。これに対してヴェニス社統治領内に民間人多数が居住するレゴリス帝国が猛反発、セニオリス共和国に対して即時停戦と講和条約締結交渉の開始を要求した。セニオリス共和国がエルドラード条約機構を頼みとしてこれを拒否すると、レゴリス帝国及びその同盟国3ヶ国にヘルトジブリール社会主義共和国を含めた5ヶ国による有志連合はセニオリス共和国に対して宣戦を布告した(この際の普蘭合衆国臨時首相レラ・サンドロットの発言、「ジャッジメントですの!」は迷言として歴史に刻まれている)。
エルドラード条約機構はこれに対して集団的自衛権の行使を表明、セニオリス・ヴェニス紛争は2つの巨大勢力を巻き込む「813年戦争」として知られる大戦争へと発展した。カルセドニー外交委員会は当初中立を表明したものの、813年3月27日にレゴリス帝国との間で「カルセドニー社会主義連邦共和国と有志連合間における軍需物資支援協定」を締結し、物資供給の面で有志連合を支持することを明確にした。外交委員会はEDTOとガトーヴィチの過激な民族主義、セニオリスの社会主義に対する敵視を脅威とみなしており、この協定はそれを片付けつつレゴリス帝国との関係を一気に改善するための共和国の秘策であった。この時点まで共和国はレゴリス帝国を最大の仮想敵国と見なし、同国と対抗可能な国際体制の構築を目指してきたが、この時点でその方針を大幅に転換したことになる。なお、この協定に基づく軍需物資支援はエルドラード条約機構が早々に降伏したため実際に行われることはなく、816年10月下旬にカルセドニー政府より有志連合側に終了を通告、翌年4月下旬をもって失効している。
貿易レート問題の発生
813年戦争の終結からしばらく経ったころ、敗戦で損なわれた国威の回復を目指すガトーヴィチ帝国より「貿易レートに関する声明」を実施することが我が国を含む複数の先進国に対し提案された。これは、近年建国された冰州連合がヴェニス社に対して鋼鉄を極めて高額なレートで売却したことをきっかけとしており、820年5月に一連の問題の初出となる「国際交易における配慮の枠組みに関する共同声明」がカルセドニー外交委員会の起草により発表された。この声明の中では、「貿易による国際社会の利益を守るための配慮の枠組み」の重要性を訴え、その例としてWTCOレートなどを挙げている。カルセドニー外交委員会は冰州の鋼鉄輸出レートをさほど重要視しておらず、813年戦争以来の「親烈外交」の一環として同国を含んだ複数の主要国により共同声明を発表すること、また、その中でWTCOレートを「適正な配慮」の随一として関係各国に認めさせることをむしろ重要視していた。
しかし、国際社会の大勢は当然ながらこの声明をガトーヴィチ政府の企図したような冰州の鋼鉄レートへの懸念付けとして評価し、冰州政府は特にこれに対して明確な反応を見せた。同国のヴィリ・エルステッド評議会議長は直ちにその鋼鉄レート(鋼鉄1億トン=50兆Vaという国際社会の標準から見ればかなり異様なレートであったことは間違いない)を擁護する声明を発表、しばらく経過した後に「冰州鉄鋼取引所」を設置し「部分的鋼鉄1億トン=50兆Vaレート」を採用する旨国際社会に公表した。これを受け、821年7月にガトーヴィチ政府が起草し、部分的にカルセドニーより修正がなされた「国際交易におけるレート設定に関する共同声明」が国際社会に公表されたが、こちらは明確に「異常なレート」に対して批判をなすものであったため、冰州政府は非常に強い反応を示した。カルセドニー政府は冰州との関係を重視していたため、このような形で同国と外交的対立が激化することは想定外であったものの、レゴリス・ヘルトジブリールといった国際社会における重要なアクターと、WTCOの盟友であるローレル、ガトーヴィチ(同国は813年戦争終了後の816年にWTCO加盟国となった)両国との関係を重視する立場から本件に対する深いコミットを余儀なくされていった。
労働党の与党奪還
改憲後のカルセドニー議会は事実上労連両党の二大政党制となったものの、その勢力は改憲直前の30年の動向を反映し連合党が優勢であった。810年の選挙では労働党が改選過半数を獲得したものの、非改選議席の大半を連合党が有していたために議会は連合党が優勢なままであった。しかし、9世紀に入ってから次第に労働党が「国際協調外交」を外交方針として確立し、普中ト事変の仲裁などの形で実績を上げたことからその勢力を次第に拡大し、820年9月に行われた第28回共和国議会選挙においてついに労働党が第1党の地位を奪還した。労働党はこれ以降国内外での影響力をさらに増大させ、830年代に至る「国際協調」と「世界の安定のための介入主義」路線を一層明確にしていくことになる。
カルセドニー島共和国建国200周年記念式典
カルセドニーは当初、816年11月の「カルセドニー入植200周年記念式典」の開催を予定していたが、813年戦争のため国際社会があわただしくなり、他国首脳の出席がほぼ見込めないとしてこれを中止していた。しかし、813年戦争が終結したことを受け、818年に政府は821年5月19日に「カルセドニー島共和国建国200周年記念式典」を開催することを決定した。カルセドニー島共和国時代をどのように評価するかは国内でも意見が分かれており、これを記念することは望ましくないとする声も(特に連合党を中心に)大きかったが、労働党は「200年の発展を経てフリューゲルの大国の一角となった我が国の現在を他国に伝えることは国際協調路線の一つの手段となる(赤光紙より)」として開催を決定した。
813年戦争後一時の安寧を得ていた国際社会はこの慶事を歓迎し、記念式典には実に22ヶ国から来賓の参加を得た。労働党を代表してペレト・サードオニクス外交委員長が、連合党を代表してペレネ・モスアゲート大統領が演説を行い、続いて中夏人民共和国馬来道国家主席が演説を行った。中夏国家主席よりあらかじめ送付された演説の原稿には初めから末尾に「万雷の拍手」が書き込まれていたことは特筆に値する。
貿易レート問題の国際アジェンダ化
821年の声明以降動きのなかった貿易レート問題だが、823年9月になって「今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明」がストリーダ、ノイエクルス連邦、普蘭、中夏、トラハト、タヂカラオ、カタルシア、カドレン9ヶ国(ノイエクルス連邦構成国を2ヶ国としてカウントしている)から発表された。この声明は冰州側の働きかけによるものであると一般に考えられており、冰州との関係良好であり「冰州鉄鋼取引所」の設立に際して助言を行っているストリーダ王国を主導国として2度にわたる「貿易レート」声明を行っている5ヶ国に対して冰州との協議による解決を求めているものであった(と国際社会一般は解釈した)。
これを受けて、5ヶ国側は「『今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明』を受けた共同声明」を発表、「和解のための対話」を期待するとともにそれに向けた条件(「対話は公開の議場で行われること」「成果文書はコンセンサスによること」「第三国1ヶ国が議長国を務めること」)を提示した。しかし、冰州政府はこれに対して「仲裁に当たる諸国が最終決定権を有すること」「議論に参加する第三国は複数国であること」などを求めて反発、和解協議が開始されるまでにはもうしばらくの外交交渉が必要となったが、最終的にはストリーダ・中夏・普蘭・トラハト4ヶ国による「仲裁委員会」が設置されることで合意が見られた。
ローレル共和国との片務防衛条約調印
ローレル共和国はカルセドニー島共和国時代からWTCOに加盟しており、同盟国である御岳山大社共和国を除いては最も関係の深い国家であると言っても過言ではないが、両国間の安全保障関係を明確化したメトリーナ条約が825年11月に調印された。この条約は基本的にカルセドニーがローレルの防衛義務を負うものだが、カルセドニーが所有権を有する軍需物資をローレルに移転することが可能となる旨定めており、有事にはローレルをカルセドニーの弾薬庫として利用する、という狙いもある条約となった。
クリソプレーズ市への隕石落下
(当時の中央通信の記事を引用)
829年7月16日、フリューゲルに落下した小惑星は上空で複数の破片に分裂、そのうち少なくとも7つの大規模な破片が共和国に落下した。その1つがクリソプレーズ市中心部に落下、中心市街全域が破壊された。死傷者数は集計が進んでいないが、現時点で20万人を超える死者とそれに匹敵する数の行方不明者が報告されている。落下した隕石の破片は直径が2km程度と見られ、621年9月にクリソプレーズ市南西60kmに落下、200万人を超える死者を発生させたものと同程度の規模であると軍部委員会が発表した。
幹部会を構成する9名の委員長は隕石落下時に全員がクリソプレーズ市内におり、その中で、落下地点から最も近傍にいたペレト・サードオニクス外交委員長の安否が不明になっている。ペレト外交委員長が落下時点で遊説を行っていた地区は隕石落下時の衝撃波で灰燼に帰しており、生存は絶望視されている。幹部会の事実上の筆頭であったペレト外交委員長が不在になったことで中央政府の初動が遅れる一方で、ペレネ・モスアゲート前大統領がジャスパー市の共和国議会議事堂で緊急事態宣言を提案するなど、議会が中心となって被災者の救出・支援活動が行われている。
(引用終わり)
ユハル外交委員長の登場
隕石の落下で行方不明になったペレト外交委員長はその後ほどなくして死亡が認定され(遺体は今なお発見されていない)、後任を選出する臨時の投票が実施された。連合党は隕石落下直後の初動をリードしたペレネ・モスアゲート前大統領が自ら外交委員長候補として登場し、これを機会に労働党から外交の主導権を奪還しようと試みたが、労働党の「国際協調外交」に対して広く信頼が寄せられていたこと、連合党の動きが火事場泥棒的にみられたことから、労働党候補のユハル・ツァボライトに大敗を喫した。ユハル・ツァボライト新外交委員長は代々検事を務める家系であり、外交委員長としては「国際社会の正義」をモットーにすることを就任早々に明らかにした。労働党が進めてきた「陣営」より「国際社会全体」という外交スタンスをさらに過激にしたと言えるユハル外交はこれ以降のカルセドニー外交に大きな影響を及ぼすことになる。
貿易レート問題の急転直下解決
激化の様相を見せていた一連の貿易レート問題であったが、冰州国内情勢の変化を背景として同国が鎖国を決定したことにより急転直下解決に向かうことになった。予定されていた議論をほぼ完全に飛ばし、カルセドニー政府が起草した「貿易レート問題に関する共同声明」が当事国6ヶ国の間で合意され、832年5月にこれが国際社会に公表された。その内容は、「資源レートを高額に設定することはほかの種類の物資の価値を過剰に低減させることになりかねない」ことは同意されるが、「個別的な貿易の可否は国家が自由に決定でき、公定レートに拘束される必要性は必ずしもない」ということとなり、両陣営が懸念を有していた事柄についてはおおむね解消されたものと思われる(とカルセドニー政府はとらえている)。
セニオリス戦争
813年戦争の「原因」として最大の軍縮義務が課されていたセニオリス共和国であるが、戦後、818年にFENAの準加盟資格を得、その国際的地位の回復に努めていた。しかし、826年には普蘭・中夏両国による領海による衛星レーザー照射事件、828年には建国されたばかりのミルズ皇国における首都火災の犯人がセニオリス人であったとされる疑惑(普蘭合衆国ベルクマリ・タイムズ紙が報じたものだが、結局カルセドニー・普蘭両国による火災原因調査ではセニオリス人の関与に関する何らの証拠も発見されなかった)などに巻き込まれ、同国は政治的な安定性を見出していなかった。このような状況を受け、829年にレゴリス帝国はセニオリスのFENA正式加盟が認められた直後に同国の「主権意識が欠如している」としてその正規加盟資格を取り消して準加盟に格下げする動議を行った。これに対して、大方の予想に反して普蘭合衆国が反発、セニオリス側を擁護する発言を行った。しかし、セニオリスは両事件に普蘭合衆国及び同国の国内紙が関わっていたことからレゴリス帝国の格下げ動議は「普蘭合衆国の陰謀」であると主張、同国に対する激しい批判をFENA上で行った。そして、この直後に「セニオリス併合条約」がレゴリス・セニオリス両国間で締結されたが、一連の外交的経過を無視して突然出現したこの条約に国際社会からは強い批判が降り注ぎ、特に普蘭合衆国は両国に強い非難を浴びせた。
我が国においては〈赤光〉紙がレゴリスを批判する社説を掲載し、外交委員会は「セニオリス併合条約」の解釈についてロムレー・普蘭と共同で質問状をレゴリス帝国政府に送付するなどの対応を本件に対して行っていたが、この時点では特に対応を行う予定はなかった。しかしながら、FENA議場でのセニオリス代表カール・マルクバーグ氏の発言を理由に同国政府がマルクバーグ氏を「内乱罪で逮捕した」と発表、それに付随する説明から、外交委員会はセニオリス国内で社会主義者に対する弾圧が行われている可能性を認識、社会主義4ヶ国(ヘルトジブリール、カルセドニー、トルキー、ギルガルド)で共同質問状をセニオリスに対して送付した。この直後、セニオリス国内でクーデターが発生、「ラングラード臨時政府」なる政府が登場した。我が国はこれを武力による国家転覆で、許容されるべきではないとの声明をレゴリス帝国との間で発表したうえで、「セニオリス地域平和維持活動実施」を声明、6ヶ国連合軍をもって「ラングラード臨時政府」に対する攻撃を行った。連合軍ともともと軍縮を強いられていたセニオリス側との実力差は圧倒的で、戦闘は短期間で終了し、事実上降伏したセニオリス地域(現在は「クラリス共和国」と名乗っている)は6ヶ国及び便乗参戦した中夏を含めた有志連合軍の保障占領下におかれている。
年表(803年~833年)
- 803年9月:労連両党の提出した改憲案が国民投票で78%の支持を得て承認される。あわせて第26回共和国議会選挙実施。
- 810年12月:第27回共和国議会選挙実施。
- 811年3月:普蘭合衆国がトラハト=ラシュハ連合王国に宣戦布告。
- 同年5月:中夏人民共和国がトラハト=ラシュハ連合王国に宣戦布告。カルセドニー、トルキー、ギルガルド3ヶ国が「交戦各国に対する要請」を声明。
- 812年6月:セニオリス共和国がヴェニス社に対して宣戦布告。
- 同年9月:セニオリス共和国がヴェニス株式会社統治領に対してミサイル攻撃。
- 同年12月:有志連合5ヶ国がセニオリス共和国に対して宣戦布告。
- 813年1月:「第三者委員会停戦決議」が公表され、普中ト事変が終結。
- 同年3月:有志連合との間に軍需物資支援協定を締結。
- 814年7月:セニオリス共和国・ヴェニス社間の交戦状態が終結。
- 815年4月:ディースブルク講和条約発効、813年戦争終結。
- 816年10月:有志連合に対し軍需物資支援協定の終了を通告。
- 817年4月:軍需物資支援協定が失効。
- 818年5月:政府が821年にカルセドニー島共和国建国200周年記念式典を実施すると発表。
- 820年5月:「国際交易における配慮の枠組みに関する共同声明」発表。
- 同年9月:第28回共和国議会選挙実施。
- 821年5月:カルセドニー島共和国建国200周年記念式典実施。
- 同年7月:「国際交易におけるレート設定に関する共同声明」発表。
- 823年9月:9ヶ国、「今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明」を発表。
- 同年10月:「『今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明』を受けた共同声明」を発表。
- 825年11月:メトリーナ条約成立。
- 828年1月:ミルズ皇国において首都火災発生。カルセドニー政府より調査団を派遣する。
同年11月:「国家の軍事行動に関する共同声明」をレゴリス帝国と発表。 - 829年7月:クリソプレーズ市に隕石落下。ペレト・サードオニクス外交委員長が行方不明になり、のちに死亡が認定される。
- 同年11月:ユハル・ツァボライト氏後任外交委員長に選出される。
- 832年5月:「貿易レート問題に関する共同声明」、当事国6ヶ国で合意。貿易レート問題終結。
- 同年7月:ロムレー、普蘭両国と「レゴリス帝国によるセニオリス共和国併合条約に関する公開質問状」を発表。
- 833年2月:ヘルトジブリール、トルキー、ギルガルド各国と「セニオリス共和国に対する共同質問状」を発表。
- 同年5月:「カルセドニー社会主義連邦共和国とレゴリス帝国におけるセニオリス地域に関する声明」を発表、続いて「セニオリス地域平和維持活動実施生命」を発表。ラングラード臨時政府に対し宣戦布告。
- 同年11月:「セニオリス地域における治安維持活動の実施に関する協定」締結され、ラングラード臨時政府を引き継ぐクラリス共和国と停戦。
ルナハ
海域暦2175年頃~没年不詳
旧世界の「連邦」の第2代大統領。旧連邦が海域歴2199年に成立した直後に若くして閣僚に抜擢され、初代大統領(名前は伝わっていない)が2255年に引退を表明したのち、5年半の暗黒期間の後第2代大統領に就任した。その後15年間大統領を務めたが、世界全体が各国政府の崩壊で衰退に向かう困難な状況は覆せなかった。
最終的に海域歴2276年に旧連邦は滅亡したと見られるが、その前年に「カルセドニー計画」を実施、一部の国民の旧世界脱出とフリューゲルへの移住を成し遂げた。本人はカルセドニー計画に参加せず、旧世界で死去したとみられている。
現在、カルセドニー島共和国における歴史上の人物の中で最も高い尊敬を集める人物であり、現在も国会議事堂には肖像画が飾られている。
リヨル・カーネリアン
海域歴2175年頃~635年
旧世界の「連邦」の結成に参画した人物の中の一人であり、旧世界での業績はルナハに並ぶ。初めは連邦の構成共和国の1つであったアルフィク共和国の首相を務めていたが、その後中央政界に抜擢され初代大統領政権下で要職を歴任、ルナハが大統領に就任したのちもそれを支援した。
カルセドニー計画に参加、フリューゲルへの移住を行った。彼がカルセドニー島の指導者であった期間は4年に満たないが、国の基礎を固めた人物として高く評価されている。
なお、リヨルは極めて長生きした人物であり、旧世界で100年、フリューゲルで29年の人生を送った。
ハギワ・サードオニクス
海域歴2220年頃~652年
旧世界で陸軍軍人でありながら海軍大臣を務めるなど異色の経歴を持つ軍人。フリューゲル移住後は総督府陸軍の指揮を行っていたが、第2次都市化闘争の際に総督府内で軍事力を背景にイニシアチブを握り、暫定総督代行として8ヶ月間カルセドニー島の指導者の地位に就いた。性格は強硬なタカ派で、国内の安定のためなら国民の権利を一部制限してもかまわないと主張するような全体主義論者であった。それが災いしたのか総督府内での支持を集めることはかなわず、結局リヨンら共和派のクーデターで失脚した。
その後は防衛委員長としてセビーリャ共和国への軍事介入を主導していたが、635年のセビーリャ動乱の際に責任を問われ政界を引退した。
晩年の活動はあまり知られていないが、息子であるハギネ・サードオニクスが無政府主義思想に傾いていくことはよく思っていなかったようである。
ハギワは「独裁主義者」と呼ばれ、国内での評判はもともと低かったが、息子ハギネがレハシ大統領暗殺事件を起こしたことで近年さらにこき下ろされている。
リヨン・ジャスパー
海域歴2240年頃~669年
「共和国発展の父」と呼ばれ、フリューゲル以後の政治家では最も高い評価を得ている人物である。旧世界の生まれで、30代のころにフリューゲルへ移住してきた。入植地時代は外務副委員長としてリヨル暫定総督の直属の部下であり、成蘭連邦王国との貿易トラブル発生時に同国との交渉にあたった。その後、ハギワ政権下でクーデターを敢行、カルセドニー島共和国の大統領に就任した。その後、リヨンは650年まで大統領を務め、引退後も660年代の成蘭連邦王国崩壊に際しRB通信社に寄稿するなど活動を続けていた。
ルナリ・パームグラネット
海域歴2215年頃~672年
旧世界の海軍軍人で、ルナハ連邦大統領のいとこ。いわゆる「ルナ一族」の分家の当主で、本家が旧世界で断絶したため事実上ルナ一族全体の長であった。ハギワ辞任後に防衛委員長に就任したが、この時点で80歳を超えている。しかし、「ルナ一族の秘術」(詳細は伝わっていない)のためか若さを保っており、その後660年代まで防衛委員長を務めた。
旧世界で軍事作戦を行った経験もある非常に経験豊富な軍人だが、本人は死ぬまで政治的な野心を全く見せなかった。
リヨネ・アメシスト
610年頃~684年頃?
旧世界からフリューゲルへと向かう移民船の船内で生まれたというかなり異色の出自を持つ。リヨン・ジャスパーが第1回大統領選挙に勝利して正式に大統領に就任した630年頃から外務委員長を務めた。この時点で20代の若者であり、その経験不足はセビーリャ動乱などの危機に対しては不利に働いたが、結果的にそのことが彼自身の責任となることはなく、むしろ評価を高めることにつながり650年にリヨンの退任に合わせて大統領に就任した。その後、一時的にレハシに政権を奪われるも最終的には700年まで大統領を務めることとなった。
しかし、その高い国民からの任期とカリスマは大統領府内に「リヨネ後」への不安を生じさせるに至り、最終的にその老衰死を国民に対し隠蔽した大統領府に対して反乱が発生、カルセドニー島共和国が倒れるに至る最大の原因を作った人物ともいえる。
リヨナ・クリソプレーズ
635年~675年
リヨネの唯一の子であり、その後継者と目されていた人物。リヨネの大統領就任直後に外務委員長に就任、その後もヴァノミス危機に際する非参戦国国際会議に参加するなど精力的な外交活動を展開した。その評価は極めて高く、レハシが大統領就任の際に大統領府のメンバーを総入れ替えしようとしたが、外務委員会はこれに抵抗しリヨナを外務委員長の椅子にとどめた。しかし、リヨナを嫌ったレハシはサン・ピエル危機に際する石亜との交渉など、非常に多くの作業をリヨナに押しつけ、彼を外務委員長からの辞任と静養に追い込んだ。
リヨナはこの後すぐに病を得て死去したため、リヨネはその後継者を失い大統領の地位を譲るべき対象がなくなってしまった。このことがのちの大統領府の暴走の最大の要因であるともされる。
レハシ・ウェストカーネリアン
628年~675年
レハシは5大氏族の1つであるレハ一族の出身で、彼の高祖父であるレハルは旧世界のアルデラミン共和国の首相、また中央政府では工業資源大臣や商業大臣を務めたことで知られる。しかし、彼は若いころにその一族を捨てて社会主義活動に身を投じ、668年に社会民主党の代表となった。大統領候補としてレハシは、対内的には「労働者評議会の設置」や「大統領権の縮小」などを公約とし、対外的には「共和国の国際社会での地位向上」(いわゆるレハシ外交)を主張した。長期にわたるリヨ政権に対する不満がたまっていたことなどからレハシは僅差で現職のリヨネを破って大統領となったが、その独自手法はリヨネの率いていた大統領府と強く結びついた各委員会の官僚たちとの間に軋轢を生じさせた。結果、レハシは大統領府やその下の委員会に疎まれるようになり、結果として675年に暗殺されることになる。
ハギネ・サードオニクス
622年~675年
レハシ暗殺の実行犯とされる人物だが、その経歴には謎が多い。彼はカルセドニー島入植地の軍事政権の指導者として知られるハギワ・サードオニクスの息子だが、父とは違い無政府主義思想に傾倒した。その結果、穏健な社会民主派に過ぎないと思われたレハシに失望し暗殺を実行したとされる。しかし、彼が真の無政府共産主義者であったかについては疑問が持たれており、ハギネが大統領府によってレハシ暗殺の実行犯に仕立て上げられた可能性も十分に考えられる。
キウィン・ウェストカーネリアン
625年~存命?
リヨ一族と無関係な初めての外務委員長。父はカルセドニー島入植地総督府のキウィア・コーサイト元法務委員長で、643年の成蘭連邦王国との外交関係開設にあたり大使に就任した。その後同国の滅亡まで駐在し、両国の友好関係発展に貢献した。その経験を買われ675年にリヨネが大統領に復帰した際に外務委員長に抜擢され、その後リヨネの、さらにはリヨネ老衰死隠蔽の最大の支持者となった。
カルセドニー革命の混乱の中、大統領府のメンバーがことごとく戦死、ないし処刑された中で1人だけ脱出に成功し、現在は国内のどこかに潜伏しているとされる。労働党によって革命の最大の敵とされ、連合市民の激しい憎悪が向けられている。
レンデ・アゲート
645年~存命
カルセドニー革命を主導し、現在は労働党書記長・連合大統領として国家元首の地位にある。アゲート市の中産階級の生まれで、675年から695年にかけての共産党の地下活動期にその手腕を発揮、700年の第9回大統領選挙において共産党から発展した労働党の候補となった。選挙そのものには僅差で敗れたものの、リヨネ・アメシストの老衰死隠蔽事件から始まる情勢混乱の中でも指導力を発揮、大統領の座を獲得した。
黒髪に黒い口髭を蓄え、がっしりした体格を持ち、そのカリスマ性から市民からは「ビッグ・ブラザー」と敬意を込めて呼ばれている。
レンク・モスアゲート
643年~存命
モスアゲート市の生まれだが、685年の国土再開発計画に参加しユーファストーン市に移住、そこで市知事となった。687年に行われた大統領選挙法改正の積極的な推進者として一躍有名になり、所属していた社会民主党内で頭角を現した。その後、第8回・第9回の大統領選挙でリヨネの有力な対抗馬となったが、カルセドニー革命においてはレンデ率いる労働党に後れを取り、社会民主党は労働党の衛星政党化を余儀なくされた。
ラリネ・ブラッドストーン
656年~存命
カルセドニー革命の際の連合軍の総司令官。長く南方方面軍第3軍団(ヨリクシ共和国駐屯部隊)の軍団長を務め、駐屯7周年記念映像の際にもヨリクシ共和国と協力して撮影を行っている。本国に帰任してからは南方方面軍の副司令官を務めていたが、革命の勃発の際に「ブラッドストーン市出身である」ことを理由に軍司令官に解任されそうになったため、逆に司令部の要員(ほとんどが南部諸市の出身)を味方につけ、軍司令官を射殺して南方方面軍の統帥権を握った。その翌日にはブラッドストーン市内でレンデと会見し、連合側の最大戦力として革命の成就に貢献した。その後連合のComaforceの最高責任者に任じられている。
駐屯地のPVを作ってくれたヨリクシ先生ありがとうございました!
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