util
パスワード紛失新規登録
関連リンク
メインメニュー
ホーム 旧貿箱掲示板 貿箱ヘッドライン XOOPS検索 貿箱Wiki 最新ページ一覧 全ページ一覧 ヘルプ » 関連ページ » Wikiソース » 編集履歴 » バックアップ一覧 » 添付ファイル一覧 貿箱フォーラム 各国報道機関 Links |
オンライン状況
31 人のユーザが現在オンラインです。 (3 人のユーザが 貿箱Wiki を参照しています。)登録ユーザ: 0
ゲスト: 31
もっと...
カルセドニー革命あるいはカルセドニー内戦とは、700年代初頭のリヨネ大統領の老衰死隠蔽事件を発端に発生したカルセドニー国内の内戦である。結果、621年以降カルセドニーを統治したルセドニー島共和国政府は崩壊、新たにカルセドニー連合がカルセドニー地域を掌握することになった。
カルセドニー革命 | |
---|---|
年月日:702年9月4日から703年7月1日まで | |
結果:カルセドニー連合の勝利 | |
交戦勢力 | |
カルセドニー島共和国 | カルセドニー連合 |
指導者・指揮官 | |
キウィン・ウェストカーネリアン ルナテ・パームグラネット | レンデ・アゲート ラリネ・ブラッドストーン |
陸軍戦力 | |
5個機甲師団 10個歩兵師団 3個砲兵師団 | 3個機甲師団 17個歩兵師団 6個砲兵師団 |
海軍戦力 | |
フリゲート4隻、コルベット76隻など | ほぼ皆無 |
損害 | |
約8万人 | 約13万人 |
背景
630年代に外務委員長として名が知られるようになったリヨネ・アメシストは650年の第3回大統領選で共和国大統領に就任し、その後幾度となく危機に見舞われながらもその地位を守り続け、700年11月の第9回大統領選挙で五選を果たした。しかし、701年1月、議会におけるリヨネの就任演説でリヨネが本人ではなくホログラム映像を用いて演説を行っていたことが発覚、この後RB通信の調査によってリヨネは十数年前にすでに老衰で死去しており、大統領府がこれを長期にわたり隠蔽していたことが明らかになった。大統領選挙で僅差で敗れていた労働党・社会民主党はこれに反発し、直ちに臨時大統領選挙を実施するよう求めたものの、大統領府はこれに対し裁判所や議会に手を回し大統領選を拒否、国内で大統領府に対する批判が強まっていた。
南部諸市のストライキ
国内で大統領府に対する批判が強まる中、特に労働党の支持基盤である南部諸市はデモやストライキという形で政権に対抗していた。地方政府は中央の意向を受けてデモやストの取り締まりを図ったが、市民の大多数が参加していたブラッドストーン市ではストライキを取り締まるどころか警察隊が叩き返され、デモ隊が市街地を制圧する事態に陥った。大統領府はこれを受けて、デモやストライキを「反乱」と認定、南方方面軍にデモの鎮圧を指示した。しかし、南部出身者が多かった南方方面軍はこの命令を受けて不服従が頻発、命令系統が崩壊し事実上行動不能に陥った。
クリソプレーズ港の戦い
南方方面軍が動けないことから、大統領府は西北部の住民(この地域はリヨネの支持者が多かった)中心で編成された西方方面軍を派遣、デモの鎮圧を図った。これに対し南方方面軍に所属していた軍の一部が離反、デモ隊に合流したため両軍は702年9月4日にクリストバライト市西方のクリソプレーズ港周辺で衝突した。戦闘は迎え撃つ立場となった南方方面軍(の離反兵)側に有利に進み、西方方面軍は大きな被害を出して撤退した。
カルセドニー連合の結成
市民側と軍の間に大規模な武力衝突が発生したため、市民側はもはや交渉による解決は不可能であると判断、702年9月8日にカルセドニー連合の結成がブラッドストーン市庁舎において宣言され、臨時大統領に労働党書記長レンデ・アゲートが選出された。
連合結成の報は南部全体に広がり、その後大統領府側が体勢を立て直すまでの間にヘリオトロープ・モスアゲート・ユーファストーン・モリオン・デマントイド・ツァボライトの6市がカルセドニー連合に合流、南方方面軍及び諸島方面軍もほとんどの部隊が連合側を支持すると表明した。
ジャスパー河畔の戦い
連合はカルセドニー南部の支配権を完全に掌握したものの、カルセドニーの食料供給はほとんどが北部にあったため、もし共和国側が食料供給を停止すれば飢餓が蔓延することは予想されていた。そのため、連合は食料生産拠点であるカルセドニー島東部のジャスパー宗教地区の制圧を計画した。共和国側もこの地域の重要性を認識していたため、この時点で共和国の指揮下にあった3個軍のうち最大戦力であった東方方面軍を同地に派遣、防衛にあたった。両軍は702年10月12日にジャスパー川をはさんで衝突し、4日間の戦闘は双方ともに大規模な損害を出した末に連合側の勝利に終わった。また、この際に連合は海上封鎖の隙をついて諸島方面軍の一部をクリソプレーズ港周辺に上陸させることに成功、ここからクリストバライト市を制圧した。
この後、持久体制を確立した連合と、中北部に強力な防衛線(カルセドニー中部のクリソプレーズ首都特別区からアゲート市にかけては多数の防災都市で重防御されている)を有する共和国側の戦闘は膠着し、しばらくの間戦闘は小康状態に入ることになる。
ローレル・蒼鋼駐屯部隊の撤収
立て続けの戦闘で大きな損害を出した共和国側は戦力の補充のため、治安維持協定に基づいて駐屯していた在ローレル駐屯部隊及び、相互防衛条約である暁城条約に基づいて駐屯していた蒼鋼駐屯部隊の撤収と本土防衛への合流を行った。西方方面軍の指揮下にあった蒼鋼駐屯部隊は特に問題なく撤収して共和国軍に合流したが、南方方面軍の指揮下にあったローレル駐屯部隊は隊員の大多数が南部諸市の出身であったこともあり、本土への帰還と共和国軍への合流を拒否した。
ローレル共和国政府は駐屯部隊員の亡命希望を拒否し、部隊員の早急な出国を要求した。共和国は海軍部隊をローレル共和国まで派遣、半ば強制的に部隊員を本国へ移送した。この部隊は帰国直後に司令部要員を総入れ替えし、西方方面軍の指揮下に編入されてアゲート要塞正面の戦闘に参加した。この部隊は常に最前線での戦いを余儀なくされたため甚大な被害が生じ、703年1月末までに戦力の40%を失って解体され、残存兵力はアゲート市内防衛に回された。
アゲート蜂起
市民の大多数が連合政府を支持した南部地域と異なり、北部の共和国側は民衆を抑えることにかなり苦労していた。その中で、特に共和国に対する反感が強まっていたのがアゲート市である。しかし、重要な防衛線としてアゲート市を手放せない共和国は大軍を駐屯させて民衆の支配を図っていた。その中で、703年6月18日に抑圧に耐えかねたアゲート民衆(旧ローレル駐屯部隊の構成員が主導したとされる)が蜂起、これに呼応した連合軍が東方から大挙して侵攻したため共和国側の防衛は大きく乱れた。共和国は非常手段として温存していた中央方面軍を投入したが、これが共和国の命取りとなる。