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国名 | テークサット連合 |
英名 | Tayksut Union |
略称 | テーク |
首都 | ラーストローヘンヌ |
元首 | スレタンゴール・テンク・アミール・シャー |
政体 | 立憲君主制 |
国歌 | ナーガラク(我が国) |
国花 | ハイビスカス |
標語 | 団結は力なり |
通貨 | ランジット |
概要
10の共和国、3つの伯国、3つの王国、3つの自治領、3つの直轄市と1つの管区、そして1つの連合政府からなる合同立憲国家である。
国民選挙により選出された儀礼的な王が存在し、内閣の補佐を受けて政治を行っている。
西のテークト半島と東のサット島、中央にアード島。それを中心とした無数の島々で構成されている。
名称
テークサットの原義は古テークト語(詳細不明、僅かな古文書が現存)で「テークト人の山」の意。テークトの語源は「海人」「膠商人」など諸説あるが、はっきりしない。
現在ではテークト半島とサット島にそれぞれ当てられ意味が消失しているが、サット島の大部分はスラウェク山脈が占めているため、あながち間違いともいえない。
テークト人(Orang Taykte)と言うと旧世界のマレー人の血を引く純粋なテークト民族をさすが、多民族社会となった今日では民族問わず国民をひっくるめたテーク(Taykt)という呼称が頻繁に用いられる。
対外的な一人称は連合(Union)を用いる。国(negara)は個別に構成国を示すものであり、テークサット"国"という名称は正しくない。
国としての一人称は、通常「我が連合」が用いられる
内閣
※これは最新の内容ではありません!
首相・財務相 ナヴァ・ロザク
副首相・教育相 ムーックディン・ヤルナ
内相 ザード・ハンドラ
外相 アヌルファ・ナンミャ
国防相・運輸相 ヒシャムードット・ホーシェ
スポーツ相 カイラー・ジャンドルディ
衛生保健相 ソエ・ソーマニアム
公共事業相 ファルックセイ・ヨンセニ
通産相 ムスタッパ・モルエンハメード
消費者相 ハリャリ・マグレヴ
逓信相 アッドラ・チーク
地域開発相 シャフィー・アプダル
エネルギー相 ジョニエラティ・オンカロ
農務相 エイルスメィル・イェーコブ
観光文化相 アード・アディーズ
科学技術革新相 エウォン・エルシンピ
資源環境相 ジェグ・パンニベル
直轄市
直轄市を参照。
スレタンゴール(Seltangor)
国王:スード・シャラックディーン・イードヒース
工業の中心地。首都ラースタンティニア市はスレタンゴール王国の内部に位置している。
ベンカナ隕石落下時に東部一帯が消滅したが、政府機関や工業地帯は生き残り旧首都圏の取りまとめにあたった。
ゾハーロー(Zoharrow)
伯:ボンネー・アルマッド・ボチェイロ
テークト半島の最南端に位置する。連合の海運の拠点。半島の末端にプーロジョンが存在し、プーロジョン管理保安関係の全ての機関がゾハーローにおかれている。
ベンカナ隕石落下時に王族が首都にいたため全滅、伯位は連合国王が兼ねることとなった。
現在、首都ゾハーロバルは連合首都となっている。
ヤッガ(Jagga)
伯:アムダーリム・ハッジャム・シャー
有数の穀倉地帯で、北の諸島からの食糧輸入が始まる以前は連合内の食糧需要の大半を支えていた。
現在でも連合で消費する米の量の3割を生産している。
クゼティエン(Kzthen)
クランタン
トローヘンヌ平野北部、コルトヴァール市を要する大都市圏。北部は東ビータン山脈に差し掛かる。
かつてカー人が最初に上陸した地であるが、現在はテークト系住民が多数を占め敬虔なムスリムの多い土地として知られる。
自治領:「北の諸島」(Utara Archipelago)
サット島北方海上に存在する、連合に従属する首長連合が大半を治める内情が謎に包まれた地域。全体を統括する政府はあるが、権力がどれほど及んでいるかは不明。
知られている範囲では、文明的進歩は遅れているものの、幸福度が高く治安は極めて安定しているらしい。
連合は食料品の大半を北の諸島に依存している。また南部の豪族等とは対サルティネット王国対策において連携している。
ザンボァ・ガ市建設から連合民の入植が広がり、タッタ政権時代に連合傘下に入った。
自治領:シャムウ(Siamn)
テークト半島の北西、大陸に繋がる細い陸地。本国とはビータン山脈で隔てられており、荒涼とした台地で原住民は確認されていない。
607年に調査の本格化が決定され、人的な実体は無いものの例外的に属領に編入。ハイジャーイ(1,1)に総督府が設置された。
以降開拓を委託された民間団体による入植が試みられ、638年に自治領に昇格した。
ジャンガ・ポーラー(Junga Pore)管区(旧属領:プーロジョン(Puluochung))
シンガポール
(6,17)
ゾハーローの南東、テーク半島の末端に浮かぶ島。
古くはとある大国の植民都市(の廃墟)。
伝説では世界有数の繁栄を誇り一都市で世界に重きを成した・・・というが、今は住む者のないゴーストシティである。
以下の写真は、これまでの調査で廃墟から発見された往時の植民都市と思われるものである。
現在は不気味な廃墟群が屹立するのみである。
度々崩落事故が起きるため、一般人の立ち入りは原則禁止とされている。
632年のアンニャラーム騒乱でプーロジョン守備隊が活躍し注目を集めたことをきっかけに島の再調査が行われ、人間の居住が可能なまでにガス濃度が低下したことが分かった。
これを受けて、カー人協同協会とマラヤ公教会はそれぞれの拠点設置を目論み、プーロジョンの再興運動を展開。
結果、638年12月にプーロジョン再開発法が制定・施行され、上掲されているような写真などの資料をもとに旧来の姿の再現を軸に開発が始められた。
管区の名称は、島に残されていた史書より見つかった旧植民地のものが使われている。
ラベン(Labuen)(15,7)
サーヴァ共和国沖合いに位置する小島。良港に恵まれ、リゾート地として栄えている。
連合結成後サーヴァ共和国から独立して直轄市となった。
589年からの「国土再開発計画」によりインフラが整備され、海外からの訪問客も増えつつある。
高級ホテルが立ち並び、公的に賓客を招く際に使用されている。
人口15万人(592年)
同 15万人(604年)
[添付]
ベンカナ管理地帯
616年10月31日、首都圏に巨大隕石「ベンカナ」が飛来。当時のラースタンティニアを中心とする首都圏が丸ごと消滅する事態となった。
現在では隕石湾は埋立てられ、中心地には多様な宗教の斎場が集まる国立祭壇墓地が築かれた。
ラースタンティニア(La Esternthenia)(3,10)
古くからテークサット世界の中心として栄えてきた首都。国情を反映した民族のるつぼである。
とある大国が植民地を築いたのを基にして建設されたため、最貧国に似合わない先進的な建築物がちらほらみられる。他とは一風代わった都市名も、その名残。
583年2月の大火で甚大な被害をこうむったが、復興の過程で市域を大幅に広げ、急速に発展を続けた。
首都としての機能は国防省と連合議会を除きプトレンヌへの移行が進んでいるが、首都としての地位は変わらかった。
616年「ベンカナ」により跡形もなく消滅。現在、同地には国立祭壇墓地周辺の農村が広がっている。当時の面影は全く残っていない。
人口83万人(行政特別市、592年) 519万人(首都圏、592年)
同 337万人(行政特別市、604年) 597万人(首都圏、604年)
同 0人( 海沈 616年)
同 19万人(旧市街範囲、623年)
郊外に連合国王の宮殿(2,11)も存在し、選挙で選ばれた国王は本来の領地から転居してくる。
ベンカナ大災厄時にボンネー・ワッダッラー国王が滞在しており、当時の国内の主要人物として唯一奇跡的に生き残った。
現在は国王はもっぱら総裁府におり、宮殿は一部が博物館として公開されている。
農村として復興が進む旧ラースタンティニア(619年)。土地の再造成や小規模な植林が進んでいる。
右側に見えるのは旧隕石湾(埋め立てられ現存せず)。
[添付]
プトレンヌ(Putrennu)(4,12)
ラースタンティニアの過密状態を緩和するために構想された新首都。プトレンヌ開発公社のもとで開発・首都機能移転が進められている。
もとはスレタンゴール王国南部の避暑地で、ラースタンティニアとラースタンティニア空港の間に位置する好立地として連合政府が土地をスレタンゴール王国より購入した。
次第にラースタンティニア郊外住宅地に取り込まれ、首都圏と融合した。
616年「ベンカナ」により跡形もなく消滅。現在、同地には国立祭壇墓地周辺のゾロアスター神殿が建てられている。当時の面影は全く残っていない。
人口54万人(592年)
同 89万人(604年)
同 0人(海沈、616年)
ゾハーロバル(Zoharrow Bahru)(6,15)
テークト半島南端の都市で現首都。南にプーロジョン島がある。
旧来プーロジョン付の観光都市であったが、ラースタンティニアの消滅とラーストローヘンヌの崩壊を経て、ボンネー・ワッダッラーにより3代目の首都となった。
その成り立ちのため、旧首都と比べ規模がはるかに小さく、ワッダッラーの政策により議会も遠方に置かれた。
アンニャラーム騒乱で全市が焼失し、再建のめどはたっていない。
人口50万人(行政特別市、625年)253万人(首都圏、625年)
同 0人(行政特別市、632年)178万人(首都圏、636年)
アードバンデル(10,11)
アード王国首都。
ページョン鉱山の拠点都市として富を集め、アード鉱山の発見によって大発展を遂げた。
しかしアード鉱山消滅事件により住民が一部避難し、現在は回復したものの発展の速度は鈍っている。
人口270万人(592年)
同 312万人(604年)
同 300万人(636年)
ザンボァ・ガ(10,5)
「北の諸島」の南西の商業都市。北の諸島併合後はその行政中心地となったが、反政府ゲリラによる襲撃が相次ぎ町は閑散としている。
人口183万人(625年)
同 240万人(636年)
[添付]
国家元首
国王 | |
在位 | 名前 |
578年8月23日~611年5月16日 | アード・ハル・ムール・シャー |
611年9月12日~623年1月7日 | ボンネー・ワッダッラー |
623年1月14日~632年2月26日 | ボンネー・アルマッド・ボチェイロ |
634年1月5日~ | スレタンゴール・テンク・アミール・シャー |
首席大臣 | |||
在任期間 | 名前 | 政党 | 退陣 |
579年4月~584年6月 | ナヴァ・ロザク | 統一テークト共和党 | 支持率の低迷と暴動・反乱により辞職 |
584年6月~587年11月 | ムーックディン・ヤルナ | 統一テークト共和党 | 総選挙で敗れ、総辞職 |
587年11月~602年8月 | リン・グーアン | 民主行動党 | クーデターで退陣 |
602年8月~605年10月 | エーグナ・タッタ(主席執政) | 冷却政権(共和党系) | 総選挙で大勝、正式に共和党政権へ移行 |
605年10月~611年3月 | エーグナ・タッタ | 統一テークト共和党 | シェロジア奇襲事件で総辞職 |
611年3月~611年9月 | チーミト・ミカラム(臨時委員会首班) | 人民公正党 | 平和法案問題で内閣不信任案が電撃的に可決、総辞職 |
611年9月~616年10月 | サーマ・トーサ | 統一テークト共和党 | ベンカナ隕石で政府消滅 |
616年11月~623年1月 | ボンネー・ワッダッラー(国王兼任) | 挙国王統派 | 首相の死により総辞職 |
623年1月~632年2月 | ボンネー・アルマッド・ボチェイロ(国王兼任) | 挙国王統派 | 騒乱により国王ら亡命、そのまま総辞職 |
634年2月~635年1月 | アンヴァード・イズレン ガーニャ・イェログ(共に執政官) | 冷却政権 | 総選挙で勝利した自由民主連合政権に引き継ぐ |
635年1月~662年2月 | アンヴァード・イズレン | 自由民主連合 | イズレン死去により総辞職、国葬服喪期間に移行 |
元老院
任期3年、解散なし。
定数は81名で、そのうち44名が勅撰議員で、37名が国内19地区の議員から2人ずつ(ただしペルソン共和国は1人)選出される公議員である。
上院にあたる機関で、権力はあまり強くない。
政党の枠を無視するという建前の元、議席は地区・政党を考慮せずバラバラに配置されている。
統一テークト共和党
連合結成以来、代議院第一党を占める大政党。
民人政権時代に事実上の解体に追い込まれたが、ハイビスカス革命を成功させ政権を奪回した。
ペンヴァタック騒乱で一時下野するが時を置かずに返り咲きに成功。
ベンカナ隕石飛来で主要人物が全滅し、事実上消滅した。
全テークサット・イスラム党
厳格なイスラム法の適用を主張する宗教政党。建国以来存在するが、与党となったことは無い。
原理主義の強い地域で一定の支持を集めているが、石打ち刑の導入や斬首刑の復活などの過激な主張から、次第に支持を失っていった。
現在では代議員が数人程度しかいない弱小政党となっている。
人民公正党
都市民から圧倒的な支持を集めたリベラル政党。
民主行動党と共闘しリン・グーアン政権で与党となるも程なく排除され、共和党同様に事実上解体。
ハイビスカス革命後は共和党と対をなす最大野党となりペンヴァタック騒乱でのタッタ政権崩壊後にチーミト政権の樹立に成功するが、首相自身の専行により党は崩壊。ベンカナ隕石飛来による消滅まで党勢を回復できなかった。
挙国王党派
ベンカナ隕石飛来後に政局を牛耳ったボンネー・ワッダッラーの翼賛組織。正式名称は愛国同盟。
16年の統治の間、政界ではボンネー人が優遇され議会の権限は縮小された。
アンニャラーム騒乱とボンネー朝時代の終焉と共に消滅。
アード・アルム・タージム・ヴィッラーヒー・ムヒブディーン・ツァンク・アーハル・ハル・ムール・シャー・イブニ・アッカロム・スード・ボンレシェン
アード王国第14代。温厚な人柄だが、それ以外に可も不可も無い人物。
連合結成に当たり、調整能力の高さが評価され初代連合国王に選出される。
611年5月16日、反乱勢力によって拉致され行方不明となる(ペンヴァタック騒乱)。しばらく後に反乱勢力側から殺害をほのめかす声明が出されたが、鎮圧後の首謀者らへの尋問では有用な情報が得られなかった。
同年9月12日、左派中心の臨時委員会は国王を行方不明のまま「死亡」認定した。
ボンネー・ハジャ・ハッサン・ボチェイロ・ムジャッディー・ワッダッラー
530年~623年(ボンネー王国国王:551年~623年 第二代連合国王:(代行611年~)612年~623年 第六代首席大臣:616年~623年)
ボンネー王国第29代。国内で絶対的な権力を保持し、莫大な富と豪遊を誇る。
著名なアーティストのコンサートを無料開催する、自費で遊園地を建設し公開する、振り込め詐欺に遭うなど話題に事欠かない。
連合内での優待を獲得するなど政治力も優れ、民主制を実質無視しているにも拘らず国民からの信頼が厚い。
611年のペンヴァタック騒乱でアード・ハル・ムール・シャー連合国王が拉致されると、同年末から連合国王代行として公務を執行、翌年正式に即位した。
616年のベンカナ隕石落下時にはラースタンティニア郊外の宮殿で奇跡的に難を逃れ、政府関係者の全滅に伴い首席大臣を兼任した。
623年に死去(本人の意向で連合国王でなく首席大臣として葬儀が行われた)。享年93。
ボンネー・アルマッド・ヴェイル・ボチェイロ
558年~(第三代連合国王:623年~632年 第七代首席大臣:623年~632年 第三代ボンネー王国国王:634年~)
ボンネー・ワッダッラーの長男。父と同様専制的な面がないわけではないが、どちらかといえば穏やかで協調的な人物である。
もともとはボンネー王国の王位を継ぐ予定だったが、ワッダッラーが連合国王に即位してからは、連合国王のボンネー家世襲体制を固めるべく連合国王王太子とされた。ワッダッラーの死去により連合国王・首席大臣を共に襲位した。
632年1月に発生したアンニャラーム騒乱を抑えきれず、同年2月に王族を引き連れガトーヴィチ帝国へ亡命。同国から自らの退位声明を発した。
633年9月に帰国、翌年の冷却政権下で叔父モルエンハメードと入れ替わる形で本国ボンネーに帰り、一国王として余生を暮した。
ボンネー・ペグラ・マド・モルエンハメード・ボチェイロ
モハメッド・ボルキア
532年~635年(第二代ボンネー王国国王:623年~634年 連合国王摂政:634年~635年)
ボチェイロ・ワッダッラーの次弟で、そのボンネー国王時代には宰相として兄を支えた。
ワッダッラーの連合国王即位後はボンネー国王となり、連合全体の政治には直接関与することは無かった。
アンニャラーム騒乱以後には求心力を失ったボンネー党に担がれるものの、モルエンハメード自身は以前からのイズレン、イェログら新政府の中心人物との交友関係を利用して国内対立の解消に貢献、実権のない「摂政」の地位についてボンネー党の顔を立てた。その翌年に老衰で死去、享年103歳。
スレタンゴール・パドゥカ・バギンダ・テンク・アミール・シャー・イードヒース
[添付]
サラーフッディーン・イドリース
575年~(第四代連合国王:634年~)
初代連合国王アード・ハル・ムール・シャー同様、政治的野心を一切持たない温和な人物。
アンニャラーム騒乱後の「象徴としての連合国王」の立場を受け入れ、議会政治の復活を後押しした。
モヘル・ナヴァ・ヴェントージ・アード・ロザク
523年~601年(初代首席大臣:579年~584年)
テークサット連合初代首席大臣、統一テークト共和党総裁。父は元ベイホーン共和国首相で、自らの前職も同国首相。
堅実な志向で着実に昇進、579年の総選挙では大規模な多数派工作を行い、与党連合国民戦線を結成し、連合初代首相となる。
しかし議会での勢力は確実なものではなく、厳しい舵取りを担った。
支持率低下とデモの活発化により退陣、政界を引退した。しかし依然として共和党内で一定の影響力を有していたと見られている。グーアン政権時代には共和党幹部の監視リストに入り、軟禁下で601年肺ガンにより没した。享年78。
ムーックディン・ヤルナ
516年~616年(初代副首相:579年~583年 第二代首席大臣:584年~587年 初代/第5代教育大臣:579年~583年/605年~611年)
ゾハーロー出身。連合結成時には首席大臣の最有力候補と目されたが、共和党総裁選でロザクに敗れ、連合初代副首相に就任する。
ロザク政権末期に首相の汚職疑惑を追及したことで更迭されるが、直後にロザク首相が退陣したため第2代首席大臣に就任した。しかし有効な策を打てぬまま総選挙で大敗、わずか3年で退陣した。その後は与党共和党の重鎮として存在感を維持し、ハイビスカス革命後は専門の教育改革に取り組み成功した。
611年、シェロジア空爆事件の責を取り内閣総辞職、政界引退。616年10月15日、ラースタンティニア市内の病院で老衰により死去。享年99歳。奇しくもその命日は100歳の誕生日の前日であり、「大災厄」により首都が消滅する前日であった。
リン・グーアン
542年~616年(第三代首席大臣:587年~602年)
民主行動党書記長。ペナ共和国首相として共和党政権攻撃の急先鋒に立ち、政権交代を実現させる。
就任当初はバカ丁寧と評判で共和党政権時代に崩壊しかけた経済を立て直す手腕を見せる。しかし次第に独裁者としての片鱗を見せ始め、590年代に人民公正党を事実上排除し密室政治による独裁時代を築いた。
ハイビスカス革命で失脚、逮捕され長い裁判にかけられたが、616年10月16日にプトレンヌ最高裁判所での公判中、巨大隕石衝突による「大災厄」に巻き込まれ死去。享年74。
エーグナ・タッタ
[添付]
568年~611年(冷却政権主席執政:602年~605年 第四代首席大臣:605年~611年)
テークト共和党総裁。民主行動党独裁政権成立後、崩壊しかけた共和党をまとめハイビスカス革命を成功させた。
冷却政権では主席執政に就任。ENEC設立に尽力するなどさまざまな功績を残すが、611年シェロジア共和国空爆事件により総辞職、政界を引退した。その後のペンヴァタック騒乱の中で、同年5月28日、ゾハーローの別荘で左翼過激派グループに襲撃され死去。享年43。
チーミト・ミカラム
[添付]
525年~616年(臨時委員会首班:611年)
人民公正党党首。シェロジア奇襲事件直後に臨時委員会を組織し政権を掌握。事態の収拾にあたった。
完全な破局こそ免れたものの、反乱鎮圧中に軍の解体を公言する、独断で軍備の完全放棄を提唱するなどの行動で与野党問わず不満が集まり、最後は国会前で開かれた自身の「平和法案」賛成デモに参加中、国会内で不信任案が可決され退陣に追い込まれた。
その後も反政権デモを率い精力的な活動を続けたが、616年10月16日に国会前で演説中、巨大隕石衝突による「大災厄」に巻き込まれ死去。享年91。
サーマ・トーサ
555年~616年(第五代首席大臣:611年~616年)
テークト共和党党首。共和党内でも極右的の類として知られ、ミカラム首班の「平和法案」に強硬に反発、ミカラムがデモ参加中に代議員議長席を乗っ取り不信任案を可決させ、退陣に追い込んだ。
左派勢力を弾圧しつつENEC諸国からの要請にこたえて軍備の立て直しを進め、先進大国としての軍事力の充実を目指したが、616年ベンガナ隕石により首都圏と運命を共にした。
デト・アンヴァード・イズレン・ビン・イードヒース
564年~659年(第二代駐ウェールリズセ大使:605年~632年 第二代新興諸国経済理事会担当全権:608年~649年 第五代外務大臣:616年~649年 冷却政権執政官:634年~635年 第八代首席大臣:635年~659年)
自由民主連合総裁。ボンネー王国の上流市民の一族(かつての貴族階級)に生まれ、外交官としてエリートコースで出世を重ね、ハイビスカス革命を機に41歳にして外務の最重要ポストのひとつだった駐ウェールリズセ共和国大使に任じられる。時を置かずして新興諸国経済理事会が発足すると、外相マージ・ソファートから権限を受け継ぎ全権を兼ねる。ベンガナ隕石災害時には、ウェールリズセにいたため有力な政治家として唯一難を逃れたことから、任地に留まりながら外相に任じられ、挙国王党派政権(ボンネー派)下では幼少期からのボンネー王家とのつてもあって大きな権力を握った。
アンニャラーム騒乱では巧みにボンネー派との縁を切り保身に成功、一度も選挙を経ずして最高権力者にのぼりつめた。
騒乱後にテークト共和党の組織の残骸を再編成し自由民主連合を結成、総選挙で勝利して首席大臣に就任した。
アード・アッジ・ゼイール(ガーニャ・イェログ)
575年~(テークサット連合防衛軍司令官 大将 冷却政権執政官:634年~635年)
スタビラン保守党総裁。ネガリィ共和国出身。ベンガラ隕石騒乱での豪腕ぶりから「ガーニャ・イェログ(赤鬼)」という綽名がつけられ、今では報道機関でさえ本名を流さなくなってきている。アンヴァード・イズレンとは対照的に名家の出ではなかったが、ペンヴァタック騒乱やベンガラ隕石騒乱で大功を挙げ、アンニャラーム騒乱では防衛軍(TADF)総司令官として国内に残り、指揮分散作戦と防衛軍再統合を成し遂げ騒乱の鎮圧に成功した根っからの現場主義者。ただ実際の司令官としての実力には疑問符が付くが、弱体なTADFには代わりの人材がいない。
どちらかといえば軍政志向の政治家としての手腕が良いのであり、騒乱鎮静後の対応に能力を発揮していたのだが何分影が薄い。
アンニャラーム騒乱以後、その経過と後処理が評価されアンヴァード・イズレンとともに冷却政権の最高権力者である執政官に就任、軍事方面の裁量権を握った。
冷却政権解体後はスタビラン保守党を結党、二大政党の片割れとしてイズレンと対抗した。
昔からイズレンとは仲が悪いほうだが、総選挙で敗れたのちはTADF司令官としてイズレン政権を支えている。
国交関係
※接触順
国名 | 関係 | 印象 | 備考 |
アルドラド帝国 | 国交 | 滅亡 | トップレベルの大国だが民主化は最近 建国当初は国防協定を結んだ大恩 |
レゴリス帝国 | 国交 | 良好 | 紛うことなき世界最高の超大国 しかし先進国認定しない国があるとかないとか |
エーラーン教皇国 | 国交 | 滅亡 | 現代では数少ない宗教国家 |
エルツ共和国→エルツ帝国 | 国交 | 滅亡 | 銀取引で関係が深い 連合の政党は対エルツ政策で対立することが多い |
トリヴェント連邦 | 国交 | 良好 | 莫大な木材・石材を産するフリューゲルの屋台骨 |
成蘭連邦王国 | 国交 | 滅亡 | |
ヴェールヌイ社会主義共和国 | 国交 | 良好 | 新興の先進国として尊敬すべき大国 軍事面での繋がりも深い |
長州国 | 国交 | 滅亡 | 長州の肉は旨い、それだけは保証する |
フランドル共和国 | / | 滅亡 | 燃料危機を救ってはもらったが、最早凋落甚だしい |
ポーレタリア首長連合 | 国交 | 滅亡 | |
ラングラード=カルス帝国 | 国交 | 滅亡 | 石動第三帝国の実質的な属国 長期内乱や他国を寄せ付けない態度など謎が多い |
フリュー帝国 | 国交 | 普通 | 初期の鋼鉄輸入先 |
ウェールリズセ連邦共和国 | 国交 | 滅亡 | ENEC議長国 先進国相手でも華麗な外交を見せる大国の卵 ENEC間での協力は欠かせない |
タヂカラオ国 | 国交 | 普通 | 世界的な鋼鉄の生産国 |
ノホ・ヘレコ連邦 | 国交 | 普通 | 新興ながら植民地を獲得し波に乗る良きライバル(一方的認識)国土再開発計画にあたり多大な支援を頂いた |
クシミニャール侯国 | 国交 | 滅亡 | 世界最高の経済システムを有していたが災害の復興に苦心している模様 |
アリア連邦 | 国交 | 普通 | 連合の商品危機では窮地を救って頂いた |
カプツモーゼ共和連邦帝国 | 国交 | 滅亡 | 民人政権新国扶助政策第一弾 しかしその支援は闇へ消えた |
コーデクス共和国 | 国交 | 良好 | ENEC主任理事国 同第二弾 コンピューターが国政に関与する科学の国 ENEC間での協力は欠かせない |
シェロジア共和国 | 国交 | 滅亡 | 同第三弾 独特の史観を有する国家 というより体制も運営も外交モラルにおいても"独特"味に満ちている |
ベルサリエーレ第一共和政 | 国交 | 滅亡 | 今に残る数少ない警察国家 その体制と口調、態度からは溢れんばかりの自信が感じられる |
ヴァノミス連邦 | 国交 | 普通 | 一時期大乱に陥ったが、復興はそれなりに進んでいるようである |
石動第三帝国 | 国交 | 滅亡 | 独自の外交で存在感を示す大国。主に宇宙開発において技術支援を受ける。 |
カルセドニー島共和国 | 国交 | 普通 | |
エウシウワンジャ共和国 | 国交 | 滅亡 | |
ロムレー湖畔共和国 | 国交 | 普通 | |
ゴルカ連邦共和国 | 国交 | 滅亡 | 燃料過需期に入って最初の燃料定期輸入国 |
フリスラーン帝国 | 国交 | 滅亡 | |
ヨリクシ共和国 | 国交 | 普通 | |
ボアーズィチィ帝国 | 国交 | 滅亡 | |
辺境日ノ本人皇国 | 国交 | 普通 | |
西岸州独立自治区 | 国交 | 普通 | |
ストリーダ共和国 | 国交 | 普通 | |
西岸州独立自治区 | 国交 | 普通 | |
北海社会主義共和国 | 国交 | 普通 | |
サバルタン国 | 国交 | 普通 |
国歌
ナーガラク(我が国)
Negaraku Tanah tumpahnya darahku
Rakyat hidup bersatu dan maju
Rahmat Bahagia Tuhan kurniakan
Raja kita selamat bertakhta
Rahmat Bahagia Tuhan kurniakan
Raja kita selamat bertakhta
我が祖国 我が血が注がれた土地よ
民が暮らす 団結と繁栄のもとに
祝福された幸福は 神より賜われし
我らが王のもと 平和な治世を
祝福された幸福は 神より賜われし
我らが王のもと 平和な治世を
旧世界よりの脱出
旧世界の環境汚染の進行により先進国が次々と移民船を打ち上げていく中、政府要人に見捨てられたマレー地域の人々は遅くまで旧世界に取り残されていた。
かつての環境を取り戻すことも逃げることもできない人々は次々に斃れ、この地域の残存人類は奥地の山岳に逃げ込むしかなかった。
その一方で、高等教育を受けて生き残った数少ないエンジニア―――マッドサイエンティストに近い者たちであったが―――は、残された僅かな資源や落下した移民船の残骸から自力で移民船を建造しようと画策した。
移住を焦る人々を次々と乗せて発射された「実験機体」のうち、無事に宇宙にたどり着けたものさえ僅かだった(むしろこれは奇跡である)。生き残り宇宙に漂い始めたマレー人らは、科学者たちが自らを乗せて最後に打ち上げた頑丈な宇宙船を旗艦とし、集団でフリューゲルへの進路を取った。
しかしその道中では反乱、暴動が頻発し、船団は次々とクルーを失っていった。これに嫌気がさした移民らが不戦協調憲章を書き上げた頃には、彼らの数は出発時の13分の1、船団維持に最低限な人員ギリギリにまで減少していた。
この経験は、現在のテークト人への、身内で血を流さぬための重い教訓となっている。
フリューゲル到着と離散
ハリボテ同然の移民船団の旅路は、他の旧世界民族の移民より遥かに長い時間を要した。
「考古」学者によれば、旧世界マレー人がフリューゲルに到着したのは240年代であるという。着陸地点はテークト半島西部、現在のパナーン伯国付近らしい。
当時、誰が移民を統率していたのか、それはかつて移民を企画した知識人の類の人間だったのか・・・それは今日に全く伝わっていない。ただ分かっているのは、古を物語る伝説の中で、この時期のみが後にゴッソリと消え去っている、ということのみである。
その後、マレー人は先住民との和合衝突を繰り返しながら、テークト半島およびサット島、テークサット世界のいたるところへと離散した。そして、微妙な山脈や川によって区切られた地域ごとに人々は集結し、外との交流を持ちながら「国」として独自の歩みを進めていくことになる。
伝説:ジャンガ・ポーラーの隆盛と衰退
400年代、テークサット世界を超えて繁栄を極める都市国家があった。テークト半島南端部、ジャンガ・ポーラーである。実際には1本の砂洲と1本の大橋で大陸と結ばれた島だ。ここにはヤッガの米、サムトラの石油、ページョンの銀が集積し、地理的にも複雑な海峡を制する重要な拠点であった。
今は亡き、とある大国が早くからこの地域に目をつけ、植民都市としたことから急激な発展が進んだのである。
ジャンガ・ポーラーは繁栄に繁栄を重ね、世界中から来航する船が往来し、いつしか一都市で世界に重きを成す存在となっていった。
その衰亡は突然だった。
450年8月のある日、前日に侮辱的な発言をした市長に、土地神がジャンガ・ポーラーの民に祟ったのだ。島の全域の地盤から、超高圧の毒ガスが噴出した。人々はガスに吹き飛ばされ、毒に斃れ、破壊を受けて崩壊した建物の下敷きとなった。最期に、どこからともなく、街の火葬の火が点火された。炎と爆風は地を嘗め尽くし、一瞬にしてジャンガ・ポーラーから生物が消滅した、のである・・・
※この章はテークサット世界内のみに存在する伝説神話であり、他国の文献には「ジャンガ・ポーラー」についての記述は一切発見されていない。
ちなみに、現連合首都のラースタンティニアも、ジャンガ・ポーラーの宗主国によって建設されたもの、だという。
カー人、イーダー人の流入
ジャンガ・ポーラーなど沿岸部の一部の植民都市を除けば、300年代から400年代にかけてのテークサット世界では、移民船団内で生まれた派閥ごとに縄張りが引かれ数国が分立することになる。それらの多くは共和国であり、君主制をとったものは5王家を除き早い段階で途絶えるなどして滅亡した。
これらのテークト国家群は互いに矛を交えることは稀で、もっぱら系統不明の先住民族たちを奥地へとおいやり開拓地を広げることに終始した。
このテークト系民族一強の情勢が変化し始めるのが400年代後半である。
テークサット世界の北方にある(とされる)大陸に多数の中国人を載せた移民船が着陸し、その一部が海を渡ってテークト半島北部に流れ着いたのである。
旧世界の好もあり、新たにカー人と名乗った彼らとテークト人の間に意思疎通が成立するのに時間はかからなかったが、次第に両者は互いを遠ざけ軋轢を生じるようになる。
文明度で一歩先んずるカー人と地の利のあるテークト人。クゼティエン共和国などで繰り返された衝突は、しかし、勝敗のつかぬまま痛み分けに終わる。
501年に、クゼティエン共和国政府とカー人移民団の間で和平が結ばれ、民族政党カー人協同協会の設立が認められた。
500年代前半には、同様に西方から旧世界での南インド系移民が流入。イーダー人と名乗る彼らの数は少なかったが、クゼティエン共和国は先の教訓から早い段階で国民としての権利を与え、イーダー人会議が成立した。
この後、カー人協同協会やイーダー人会議はテークト半島の諸国に支部を置き、勢力を広げていくことになる。
「北星宰相」と「南星盟主」
テークト半島の開拓が終結に近づき、周辺地域との交流が深まる中で、半島の統一を求める声が高まりだしたのは530年代後半からであった。背景にはイーダー人流入によるテークト系民族間の緊張がある。
北部における統一運動の指導者はヤッガ伯国宰相のマッタール・モルエンハメードであった。国内外からの支持を集めたマッタエールは、556年までにクゼティエン共和国、ペナ共和国の大統領とスレントン共和国の首相を兼任、テークト半島北部を手中に収め「北星宰相」を名乗った。
南部ではスレタンゴール王国の共王とメラカ共和国、ネガリィ共和国の首相位を兼ね、外戚としてアード王国をも牛耳っていたゾハーロー王トゥク・アード・ラースェマンが「南星盟主」を名乗って対抗した。
自らの手によるテークト半島の統一が両者の夢であったが、その手の下に描く統一国家像は大きく異なっていた。
「北星宰相」マッタールの掲げる政策の主目は「テークト至上主義」であった。当時彼の支持基盤の一つクゼティエン共和国ではカー人の社会進出が進んでいた。政界への進出は大統領であるマッタール自身の手で押しとどめられていたが、その間に主要企業の首脳部がほとんどカー人にとってかわられていた。
これに危機感を覚えたマッタールはテークト系右翼を扇動し、カー人排斥の過激化に踏み切った。この結果、彼はクゼティエン共和国の大統領の座を追われたが、カー人浸透の始まったばかりの周辺国ではマッタール派が急伸、トローヘンヌ共和国がマッタールに首相位を渡したことでクゼティエン共和国は孤立、マッタールは北部における覇権を揺ぎ無いものにしていった。
一方、「南星盟主」ラースェマンは徹底的な民族融和主義者だった。ゾハーロ―王である彼にテークト半島の先住民族の血が濃く混じっていることは公然の秘密であった。肉体的精神的迫害を恐れた北部からの非テークト系難民を受け入れつつ、先住民族の割合の多いサット島諸国と連携をとった。ただ、例外的に民族構成が逆転しているボンネー王国はマッタール派に加わった。
ラースェマンは北部に対してもクゼティエンを介して工作を行い、562年にマッタールを一旦失脚させることに成功した。(これについて後に彼は「攻撃してよいのは集団でなく個人のみ」と語っている)しかしマッタールは忠実な支持者の起こしたクーデターで三国の元首に返り咲き、瞬く間に勢力を回復した。
ラースロッフェンの戦いと膠着
半島に初めて大規模な戦火が上がったのは、564年10月2日であった。
南北の緩衝地帯として中立派政権が続いていた中部ベイホーン共和国首相がついにラースェマン支持を表明、これを不服としたマッタールは5000人の武装私兵と共にベイホーンの首都プラッカーンを急襲、占領したのである。
この時、ベイホーンの首相で南部に亡命したのがモヘル・ナヴァ・ヴェントージ・アード・ロザク。後のテークサット連合初代首席大臣である。ゾハーロバルに逃げ込んだロザクの要請で、ラースェマンは急遽支配地域から軍や警察を抽出し北上した。
5万人に膨れ上がった南軍はスレントン共和国を降伏させ、北軍の先遣部隊をベイホーン南部ラースロッフェンで数に物を言わせて撃退した(ラースロッフェンの戦い)が、数があっても練度や速度で北軍に劣ると判断したラースェマンは南に退却、スレタンゴールとネガリィの北国境を固める消極策に出た。
南北の双立と瓦解
父の代から根を張ったベイホーンの奪回に先が見えなくなり焦ったロザクは、568年に入って突然マッタールの元へ走った。
マッタールはロザクに将来の返り咲きを約束しながら彼を戦線から遠ざけた。さらに数年の睨み合いと数度の戦闘の後、南軍の防衛線の突破が難しいと判断したマティエールは573年統一作戦を放棄、南軍と和睦しベイホーン共和国の支配権をラースェマンに譲ってしまった。結局この内戦は不完全燃焼に終わった。
しかし、翌574年、ラースェマンが78歳にして急死する。
情熱を取り戻したマッタールは浮足立った南部連合に圧力をかけ、ついにテークト半島全国の宰相位もしくは大統領、首相の座を手にした(この時点で、民主主義の象徴であるはずの「大統領」「首相」は名ばかりとなり、その地位は国が取引する王位と何ら変わらぬものだった。マッタールは各国で形だけの制限選挙を行い、それぞれに翼賛政体を敷いた。)
ゾハーロー王国はアード王家をアード王国に追いやって伯国に格下げした。この措置の後、サーヴァ共和国はマッタールの元に参じ、スラウェク共和国は社会革命党政権による抵抗の末に併合された。これにより、テークサット世界は初めて一人の指導者の下にまとまったが、これはあくまでもマッタールという一個人が各国の元首を兼ねているだけであり、連合政府のようなものは無かった。
民族問題に関しては北部で行ってきたテークト至上主義政策を全土に適用した。フミブッタ政策と呼ばれるこの政策は、しかし、当然のごとく旧南部諸国で激烈な抵抗を受けた。
576年12月8日、ゾハーロー伯国の長老ムーックディン・ヤルナを担いだ民衆がゾハーロバルから北へ向けての大行進を開始。その主体は、かつてマッタール自身が北部から追いやった非テークト系民族と融和主義者たちだった。次第に独裁的なマッタール政権に反発する一般民衆を巻き込んだこの「自由の行進」として知られる運動の規模は150万人に膨れ上がり、翌577年2月8日にヤッガ王国首都アレスターを包囲。同日、マッタールは引退を宣言し、体制は崩壊した。
連合の成立と開国
577年5月、ヤルナが全テークサット諸国の大統領もしくは首相に就任する。彼は578年までに新たな連合政府の設立、579年までに総選挙による連合総選挙と諸国の政治体制回復を宣言した。
578年8月23日、連合国王に選出されたアード国王ハル・ムール・シャーを頂く新国家テークサット連合が発足。ヤルナは臨時連合政府の執政委員として統一テークト共和党を結党、翌年の総選挙に向け大きなアドバンテージをとったかに見えた。
579年3月5日、第一回連合総選挙が行われた。穏健派のヤルナの意向で共和党がカー人協同協会やイーダー人会議などを取り込み結成された「国民戦線」が過半数を占める勝利をおさめた。が、議員が招集された代議院で初代首席大臣に選出されたのはヤルナではなかった。
共和党が結党される際、一部の強硬な主張により「最初は正式な総裁を定めず、首席大臣指名投票で最多票を獲得した者が改めて総裁(実質上首席大臣にも内定)となる」とする不可解なシステムが執行部の過半数によって採用されていた。これについてヤルナは後に「これが多数決を旨とする民主主義の最初の一歩だと思っていた。私はあまりにも純粋過ぎ、物を知らな過ぎた」と語っている。
首席大臣の座に座ったのは、ロザクだった。
南北内戦後、彼は自分を見捨てたマッタールに復讐せんと裏社会を通して金をばらまき、「自由の行進」参加者の少なくない部分を組織しつつこれを支持層として獲得していた。そして総選挙では長老ヤルナの陰に隠れながら買収の手を広げ、指名選挙で逆転してしまったのである。
このすべての真相が明らかになったのはロザク失脚後であるが、それまでさほど長い時間はかからなかった。
組閣にあたってロザクはヤルナに副首相・教育省の地位を与え、またマッタールのフミブッタ政策を継承するなどと言って国務大臣16人中14人をテークト系で埋めるという暴挙に出た。外交ではアルドラド帝国、エルツ帝国と友好関係を結ぶことに成功、ぺージョン銀山産の銀の輸出によって早期の経済安定を目指したが、民族融和を唱えて政権をとった共和党の背信への不満、次第に明らかになってきた買収工作への攻撃、さらに国土計画の失策による失業率悪化と発展停滞が重なり支持率は11%まで下落し、各地でデモや暴動が頻発、スラウェク独立党の蜂起も発生した。ロザク攻撃を繰り返すヤルナに対しロザクは大臣位の更迭という強硬手段をとったが逆に火に油を注ぐ結果となり、首席大臣就任後わずか5年後の584年に退陣に追い込まれた。
スラウェク人民軍の跳梁
連合結成後の情勢は比較的不安定であった。特に反動勢力が力を伸ばした例が、スラウェク人民軍(Srawek People's Army)である。
旧スラウェク独立党(SIP)。スラウェク共和国の連合離脱と過激な共産化を唱え、連合内の反政府組織で突出した勢力を持った組織であった。
前身の組織は旧スラウェク共和国の社会革命党で、当時から過激な活動により非合法化されていた。
第一次スラウェク戦争
連合結成後、反連合派を吸収してSIPとなり武装勢力化。これを感知していなかった連合政府が国土発展のために軍備を解体すると、すぐさま578年12月に挙兵。スラウェク東部を瞬く間に席巻し、慌てた連合政府はヴェールヌイ社会主義共和国に鎮圧を要請するに至った。
その後もSIPは東スラウェクの地方都市ベランガを拠点として盛んに周辺へ軍を繰り出していたが、582年になって連合政府がTADFの結成を宣言、ベランガを急襲した。
組織的な反抗のための時間を与えず、TADFは7月21にベランガ市を奪回。SIPは一旦瓦解した。
第二次スラウェク戦争
585年1月、各地で反政府デモが繰り広げられていたのに乗じて、旧SIPの一組織が政府要人を乗せたヘリを撃墜するという事件を起こす(セイパン空港テロ事件)。それを合図に、鳴りを潜めていたゲリラが再蜂起。SPAへの発展を掲げて結集を試みた。
しかし連合政府の要請を受けたアルドラド帝国軍により、早期に鎮圧された。
第三次スラウェク戦争
貿易の失敗や内政の無策によって連合政府の支持率は急落し、各地で暴動が日常化していた。
さらに連合と国防協定を結んでいたアルドラドが、587年の4月と6月に相次いで巨大隕石と大地震に襲われ、連合への対応の鈍化が懸念されていた。
案の定、同年7月2日に連合史上最大の反乱が勃発した。SPAはスラウェクで蜂起するのみならず、連合首都であるラースタンティニアに程近いスレタンゴール王国の海岸に遠征軍を上陸させ、首都圏を恐怖のどん底に叩き落した。
彼らの予想に反して、アルドラドは迅速に部隊を派遣、鎮圧に乗り出した。しかし悪天候により上陸を阻まれ、その間にSPA別働隊が首都圏に侵入。7月15日、ラースタンティニアの西南の近郊都市プザッラが陥落。国家中枢まで僅か数十キロに迫った。
同月23日、作戦を再開したアルドラド軍によってSPA別働隊は全滅。翌月にはスラウェクの反乱軍も鎮圧され、戦争は終結した。
アンニャラーム騒乱と民政復活
578年08月23日(2015年3月2日) | テークサット連合成立 |
579年04月02日 | ロザク政権成立 |
587年11月24日 | 政権交代、民人政権成立 |
593年07月25日 | アード鉱山消滅事件、燃料危機の端緒に |
597年 | 民主行動党独裁政権成立 |
602年08月05日 | ハイビスカス革命 |
606年01月01日 | 伝統的な経済指標による評価で、先進国入りを果たす |
テークト系
連合全体の65%を占める中心的な民族。
テークト地域の原住民で、古くからサット地域も含めた広範囲で、海洋民族として栄えた。
近年カー人やイーダー人の流入により圧迫を受けたが、テークト系住民を優遇するフミプッタ政策により優位を挽回。現在もテークサットの中枢の地位を保っている。
カー人
400年代に北の大陸に降り立ち、断続的にテークサットに渡ってきた旧世界の中国系民族。カー人協同協会の支持母体で、国民の24%を占める。
政治難民もしくは労務者が多く、渡来当時はテークト系住民より高い文明レベルを有していたが、派内の抗争が絶えず統一が図られないうちにフミプッタ政策の施行を迎え、テークサットにおける主導権奪取の機会を逸した。
知識人に多く、テークサットの文化に大きな影響を与えた。
イーダー人
500年代に西の大陸に降り立ちテークサット渡ってきた民族。イーダー人会議の支持母体で国民の8%。
民族難民が多く、元の地で他民族の搾取を受け逃れてきた者の子孫が多いが、テークサットでも貧困層にとどまるものが多い。
一般に頭脳明晰なものが多いとされ、一部は弁護士や会計士として成功を収めている。
ロンヘーグ人
500年代後半から600年代初頭にかけて北西の海から漂流してきた移民。詳しいことは分かっていないがムスリムが多く、故地で頻発する宗教紛争を逃れ亡命してきているらしい。
最近になって連合領域に漂着するロンヘーグ人が急増しており、メラカやヤッガでは社会問題となりつつある。
宗教
人口の70%近くをスンニ派系イスラム教徒が占める。
イスラム
信仰形態は旧世界マレー時代に土着したものを引き継いでいるため、教義自体は正統主義から逸脱した寛容な部分が多い。
その大半はテークト系住民である。フミプッタ政策の影響で、サット島、「北の諸島」、マヌ・イーラ島に多い少数民族はすべてムスリムと扱われているが、実際にはイスラム色のない土着宗教がほとんどである。
また婚姻に限っての規定は民間に厳格な考えが残っており、伝統的にムスリムと結婚する際は改宗を強要されるため、テークト系と他民族の混血はほとんど進んでいない。
政府内では連合結成以来、全テークサット・イスラム党が原理主義を強く主張してきたが、アンニャラーム騒乱でイスラム党の組織の一部が独立し反乱軍に加わったことから、乱の鎮圧後に影響力が減退。
現在、信教の自由と政府の原則不介入の実現のため、宗教問題を専門に扱う政府機関は、他国との折衝に当たる外務省内の宗教担当局のみである。現在の局長はイスラム法学者のアジド・ファークザーイー師。
旧世界のスンニ派を根幹とした教義を持つが、五行のうち巡礼(ハッジ)は全国民が「肉体的に不可能」であるとして免除されるというのが一般認識となっている。
なお、テークサットにおけるムスリムは聖地は旧世界のメッカを置いて他にないとし、フリューゲルに代替の聖地を設営しようとする試みには強い嫌悪感を示す。
また、断食はその原義(これについては様々な解釈がなされている)に従い、富裕層の者が自発的に行うものとされている。
国際的に議論の多い礼拝については、旧世界のマレーシアで宇宙飛行士に対し出された「個々人の意思に従い可能な方法で行ってよい」とするファトワーが継承されている。
詳しくはスード・サディアディーン・アード・アッズ・イードヒース国立天文台・天文学会を参照。
大乗仏教
俗世で利他行を積むことで解脱を目指す宗派である。テークサット世界では出家するものは非常に少なくなっており、この系統の寺院は全国でも十に満たない。
最大の寺院はメラカ市内のタイフーテン寺(馬六甲太雲亭)で、テークサットの仏教徒はここを拠点としフリューゲル仏教徒連盟に加盟している。現住職はチー・ガンチャン(テークサット仏教協会会長)。
上座部仏教
出家と修行を旨とする特徴は変わらないが、ビータン山脈の尾根で隔てられた集落ごとに微妙に異なった習慣が見られる。
集落全体を寺院として生身即出家を唱える村や、すべての男性が成人儀礼として頭を丸めたまま一生を暮らす村(いずれも出家者の婚姻が認められているようである)など、信仰形態は多種多様である。
マラヤ公教会
移民団中の指導者の一部に存在あったイギリス国教会系と、建国以前に某大国から植民地経由で沿岸部に染みついたカトリック系、さらにはイーダー人が旧世界から持ち込んだトマス派正教会が融合した独特の宗派である。某大国の撤退後は他のキリスト教徒とのかかわりがなかったため、クイリナーレ市国など海外のキリスト教の権威とは全く無縁。
メラカ共和国のセポワール教会を総本山とし、各地教会の司教に当たる祭爵の互選により選ばれる、大司教格のマラヤ公爵が全教会を統括する。
セポワール教会 同名だから流用したわけではない。多分。
非王貴族の上層階級に広まっているため、全人口に占める信者数のわりに扱いが重い。また、ジャンガ・ポーラー管区の設置以来、同地に祭爵区を置いて勢力浸透を進めている。
また、宗教の差異にかかわらず、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教の各指導層は「テークサット世界における俗世間の宗教最高指導者」という形でマラヤ公の優越を認めている。
現在のマラヤ公はアスマニア・ライオール1世。
教育
早い時期から高度教育が行われている。教育言語はテークト語、カー語、イーダー語それぞれが使われているが、すべての小中学校で公用語テークト語の習得が義務付けられている。
学制は小学校6年、中等学校3年、高等学校2年、大学進学課程2年、大学3年~6年。
小学校以上はすべて私立学校だが、義務教育は中等学校まで(中等学校の学費は国から支払われる)。義務教育課程の就学率はほぼ100%を記録している。
アード鉱山(11,12)
アード島東部に存在したウラン鉱山。
連合草創期のウラン政策で大いに栄えたが、593年7月末に謎の大崩落事故により消滅。直後の調査で、怪獣の卵が大量に発見された。
これを記念して、現在は怪獣記念碑が建っている。
カルメーテン新山(15,13)
アード鉱山消滅後、スラウェク・サーヴァ両共和国の国境付近にあるスラウェク山脈に突如として出現したウラン鉱山。
この大噴火によって、スラウェク山中でゲリラ活動を続けていたSPAは壊滅状態に陥った。
現在では周囲に鉱山都市が立ち並び、アード鉱山を彷彿とさせる繁栄を見せている。
テークサット国立宇宙局(Agensi Angkasa Negara, ANGKASA)
科学技術革新省に属し、テークサットの宇宙開発すべてを管轄する。チェゼリン環礁のほか、ゾハーローに管制局を置いている。
形式上の局長はテークサット科技革相。石動より派遣される相当官が理事長代理として実質のトップである。
607年、テークサット科学技術革新省は、宇宙開発先進国石動第三帝国に技術提供を依頼。翌年石動技術団の派遣が決定し、国立宇宙局が開設された。
611年のシェロジア奇襲事件で石動技術団が撤収し新事業計画は凍結、630年のTiungSAT-1運用停止以降は宇宙局自体が実質上の閉鎖に追い込まれていた。
644年、科技革省は再び石動第三帝国に宇宙開発支援を仰ぎ、第二次石動技術団が派遣されるに至った。
石動第三帝国航空宇宙軍宇宙開発研究部門遣テークサット技術者団
石動第三帝国にて宇宙開発を担う部門より派遣された技術者および技術将校。
後進的なテークサットの技術を後援して技術者を育成し、またプロジェクトの指揮も行っている。
代表・構成
任期 | 名前 | 肩書 | 人員 |
608年~611年 | 南部綾 | 航空宇宙軍宇宙開発研究部門技術部副主任・大佐相当官 | 技術者および技術将校40名 |
644年~ | 木山春海 | 技術部飛翔体統括研究ユニットリーダー・中佐相当官 | 技術者15名、技術士官20名 |
木山春海氏(石動第三帝国公方府公報より)
TiungSAT-1
610年3月26日打ち上げ
テークサット宇宙史に名を刻んだ人工衛星第一号。多目的気象衛星。宇宙線測定等の学術研究やフリューゲル全景の撮影にも利用される。
また、公募により集められた約20万人分の氏名が記録された記録媒体も同時に搭載されている。
630年3月30日に予定されていた通り20年の運用期間を終え、同年11月5日に大洋上で大気圏に突入、消滅した。
TEFSAT (Tayksut East Flugel Satellite)
645年3月18日打ち上げ
35年ぶりにテークサットから打ち上げられた人工衛星。気象衛星の扱いを受けているが実際は試験を兼ねた通信衛星で、連合各地の気象台のデータを中継することで気象観測のタイムラグを軽減している。
オトマン宇宙望遠鏡(Othman Space Telescope)
649年8月25日打ち上げ
宇宙観測を専門に行う宇宙望遠鏡。名前はテークサットで初めて旧世界・地球の観測に成功した国立天文台のマズラ・オトマン博士に由来する。
本来テークサットに飛来する隕石群の早期発見と排除のための迎撃衛星として始まったプロジェクトだが、国立天文台などの学者の強い要望や国民の署名運動により学術的な観測機能を拡張、結果として一大計画となり他の2衛星より打ち上げが4年遅延した。
隕石迎撃能力はロケット花火サイズの超小型ミサイルしか搭載していないが、望遠鏡による早期発見、早期の軌道修正でカバーすることになっている。
地上のプレイアデイス望遠鏡との連携で、地球時代以来の宇宙観測の進展が期待されている。
スード・サディアディーン・アード・アッズ・イードヒース国立天文台・天文学会
スレタンゴール王国首都クラーンの北100kmの農村地帯に陸の孤島のように存在する研究施設群バツァン・カーリーと、その西方150kmガンタン高地に設置されている望遠鏡群などの総称。かつてスレタンゴール国王により建設され、後に連合政府科学技術革新省所管となった大天文台(「国立」とは移管以前のなごりである)。テークサットでは後述する事情により天文学が突出して発達しているが、その中心地として周辺が学術都市の様相を呈している。
バツァン・カーリーの中心テークサット国立天文台
[添付]
近影
古来、テークサットではイスラム教徒として礼拝を行う方角の確定が課題とされてきた。
そこで500年代にスレタンゴールで「メッカの存在する旧世界・地球を直接観測し、礼拝の都度礼拝の方向を設定する」とする案が誕生。これを実現すべく建設されたのが国立天文台である。
望遠鏡群のうちのキブラ望遠鏡は、4.4光年離れた地球を常時観測。観測できない時間や時期にはバツァン・カーリーで地球軌道の計算が行われる。
礼拝の時刻にはバツァン・カーリーから全国のモスクに向けて緯度を除いた観測データが送信され、各モスクは礼拝室中を回転できるように設計されたミフラーブを地球の方向に合わせて礼拝を行っている。
ガンタン高地最大の望遠鏡はプレイアデイス望遠鏡。口径8.2m、開口面積53㎡を誇る世界最大級の光学赤外線反射望遠鏡である。当初はキブラ観測のためのより小規模な施設を建てる計画だったが、スレタンゴール内外から莫大な額の寄付が集まったために現キブラ望遠鏡を含む望遠鏡増設が決定。プレイアデイス望遠鏡は純粋な研究用望遠鏡として最高級の設備が整えられるに至った。
軍事組織
徴兵制を採用している。
20歳以上の男女は、軍に3年間入隊し訓練を受ける(義務兵役)。
除隊後は「国家勤仕制度」と呼ばれる制度により、無作為に選ばれた49歳以下の国民が6ヶ月間復隊する。また、49歳以下の男子は全民が予備役として体力などによりランク付けされ、有事には召集される。
士官学校に当たる防衛舎は義務兵役の終了後に受験ができる。
陸軍-テークサット連合防衛軍(Tayksut Allied Defence Force)
構成国各国に支部を置き、国内の有事にはまず各地の支部が任に当たり、ついで全国の支部全軍が召集される。この全連合が集結し総司令部の元で緊急に編成されるのがTADFである。
航空・海上戦力は輸送船程度のものであるため実質上は「連合陸軍」。
当初は国土発展に見合わない極度の軍備不足に悩まされ続けた。
611年、精鋭部隊の第2北丹空旅団が離反、シェロジア共和国を奇襲した後国内でゲリラ化する事件が発生し、チーミト委員会によってTADF全体が一時解散に追い込まれる。改革ののちトーサ政権で復活し、現在では他国と同等の水準に近づきつつある。
海軍-王立テークサット海軍(Royal Taykt Navy)
防衛軍と同じく国防省の管轄だが、海軍国としての体裁を整えるため王立の名が与えられている。
艦船は駆逐艦など小型艦を主としており、国産の研究も進められているが、現状ではほとんどヴェールヌイ社会主義共和国から輸入した艦船が任務についている。
「北の諸島」(13,3)
サット島北方海上に存在し、連合と交流があるものの内情が謎に包まれた地域。全体を統括する政府はあるが、権力がどれほど及んでいるかは不明。
知られている範囲では、文明的進歩は遅れているものの、幸福度が高く治安は極めて安定しているらしい。
連合は食料品の大半を北の諸島に依存している。また南部の豪族等とは対サルティネット王国対策において連携している。
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