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国名République de Lacustre Lomeray
(英訳)Lakeside Republic of Lomeray
標語Liberté et Patrie(自由と祖国)
国歌Ô monts indépendants(おお自由なる山々よ)
公用語ロムレー・フランス語
宗教カルヴァン派(国教)、キリスト教他教派、無宗教、その他
政体議会主義・代議制共和国
通貨ロムレー・フラン
建国フリューゲル暦 611年 5月 15日

概要 anchor.png

スイス西部、主にヌーシャテル湖畔を出自とする移民団によって、故郷に似たフリューゲルの高地の湖畔に建設された国家。

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地理 anchor.png

本土は台地状の島であり、国土に占める高地の割合が高い。ただし干拓地や離島など、ある程度は低地も存在する。
いずれの地域においても自然環境は厳しい環境基準の下でよく保護されると同時に、自然享受権が法的に広く認められている。

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中央高地 anchor.png

島の大部分を占める高地地域。氷食湖が散在している。気候は総じて冷涼な山岳性。

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三大都市 anchor.png

中央高地に存在する三つの主要な平地に広がる都市。
それぞれが中核となる都市地域を有する。ロムレー市とサン=トゥルミエール市はほとんど連接しているが、行政区画上は別コミューンであり、それぞれが独自のCBDを持っているため、一般的には別の都市として扱われる。
住民意識としてはこれらは三大都市と呼ばれ、湖畔共和国の中核をなしていると考えられている。
実際、観光地として以外の要素で海外に入ってくるロムレーの情報は基本的に三大都市から発信されるものがほとんどである。

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ロムレー Lomeray anchor.png

中心地は(9,11)近郊。共和国最初の都市にして法令上の首都。中央議会とそれに関連する政府機関の施設が存在する。建国の契約が交わされた丘もそのまま記念碑として残っている。
建国最初期のごく数ヶ月間の間、共和国はロムレー・コミューヌと一体の事実上の都市国家であり、その名残で都市名は国名と同じである。外国から見ると紛らわしいことこの上ないが、ロムレー人は自国のことを「(湖畔)共和国République(de Lacustre)」と呼ぶのが普通なので、国民の間ではあまり気にされていない。一応、特に区別が必要な場合にはロムレー市Ville de Lomerayと呼ぶ。
政治的には特定の党派の優位は見られないが、議会主義が非常に尊重される土地柄、ラディカリズムに対しては比較的冷淡とされる。

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サン=トゥルミエール Saint-tourmielle anchor.png

中心地は(9,14)近郊。同名の大聖堂の所在地であり、ロムレーにおける宗教上の中心地。移民船が着陸した地点であり、その船体の一部がそのまま大聖堂の建物に使われている。
観光地・保養地としての発展が共和国内でも最も早かった地域であり、現在でもこの都市の郊外に共和国最大のリゾート地が広がっている。第一回ソサエティはこの都市で開催された。
アンゼロット記念大学とサン=トゥルミエール大聖堂という二つの文化施設ゆえに知識人の町、大学都市として知られる。カルヴァン主義共和派と自由思想派双方の特に穏健派の基盤であり、ロムレー体制イデオロギーの安定をもたらしている。

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ポワンクール Poincourt anchor.png

中心地は(13,9)近郊。共和国の最大都市(ゲーム的には首都)。中央高地の中では最大の盆地に位置し、また建築上の規制が他のコミューヌに比べ緩やかなことから国内では珍しく高層ビルが林立する景観がみられるが、それでも他国の大都市ほどの密度はない。
631年11月に巨大隕石の直撃により壊滅的な被害を受けたが、現在は復興、その後の都市計画の巧みさもあり、インフラのよく整備された都市として商業上・行政上の中心地の地位を守り続けている。郊外には墓地を中心とする巨大隕石災害のメモリアルパークが所在する。
一方で、コーデクス主義とサンディカリスムというロムレーの二大急進主義党派はいずれも中央議会での議席の多くがポワンクール選出議員であり、本部をロムレー市ではなくポワンクールに置くなど、この街に大きく依存している。それゆえ、ロムレー・ラディカリズムの町という別名もある。

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内奥ロムレーロムレー・ハイランド) anchor.png

三大都市以外の中央高地には防災化された集落と森、そして山小屋や高原リゾートが広がる。これらの地域は行政用語では内奥ロムレー、住民の自称ではロムレー・ハイランドと呼ばれている。
ロムレーでも特に保守的な地域であり、自然と調和した牧歌的な牧畜と林業が営まれる山地、というロムレー像はこの地域では現実のものである。政治的には圧倒的多数のカルヴァン主義共和派と若干の重農=環境派の堅固な地盤であるほか、反動的な無政府主義の傾向も見られる。

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周縁低地 anchor.png

島の周辺部は海岸線としてはあまりなだらかではなかったが、近海の地形は特に北西岸と南東岸において遠浅であり、干拓に適していた。このため、建国期後半になると干拓事業が開始され、ロムレー最大の農業地帯へと姿を変えた。
内奥ロムレーの保守的傾向を嫌う農民が中核となって開拓したため、自由主義の傾向が強い。穏健派では自由思想派と社会自由派、急進派では無政府主義者などの地盤。

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北西干拓地 anchor.png

低地ではあるが北方に位置するため冷涼であり、同時に海からの風が卓越し湿潤。主に酪農と混合農業が営まれる。総じて長閑で保守的な農村の様相が強い。

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南東干拓地 anchor.png

中央の高地から吹き降ろす風が卓越し、ロムレー国内では珍しく温暖な地域。主に花卉・野菜などの園芸農業が行われる。内陸部の滝線沿いには水力を動力として稼働する空軍向けの工場が点在している。

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周辺島嶼 anchor.png

周辺に点在する島々。国立公園指定のなされた自然保護地や対着上陸侵攻用の防衛陣地が多くを占めるが、本島と同様に多数の観光地が存在する。観光バブル期には多くの観光開発事業が行われたが、バブルが去った後は多くの地区は元の自然の姿を復元しようという方向へ進んでいる。そもそも平地が少なく住宅地としては不便なうえ、環境規制が本島よりも厳しくして住宅開発を進めない政策がとられており、住民は少ない。
特に北西部に存在する油田の扱いは環境保護の観点から度々政治的争点となってきたが、現在はセビーリャ産石油で事足りるため産油事業を停止している。また、南西部には海軍向けの軍港がいくつか存在する。

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歴史 anchor.png

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610年代 自給的共和国の時代 anchor.png

611年5月、現在のサン=トゥルミエールに降り立ったロムレー移民団は、ロムレーの地にはひとまず牧牛に食ませる草と暖を取るための炭が充分あることを確認し、入植を開始した。一般にロムレーの建国は5月15日14時にロムレーの丘で交わされた建国の誓約によってなされたとされ、この日が建国記念日となっている。そして同時期にフリューゲル国際社会との接触も図られ、また、独自に行われた資源調査でウラン鉱を発見、613年から始められた資源輸出により、国家として安定して経営できる状態を確立した。ウラン鉱の開発において他国の投資を受けずに行われたのには、以後のロムレーにおける他国への経済的依存を回避しようとする傾向の原型を見出すことができる。
この時期においては共和国はカルヴァン主義共和政を理念とし、また政府の機能は抑制され、ある程度各種産物の商業的な輸出をし、形式的にはレンティア国家的でありつつも基本的には独立自営農民を中心とする社会が築かれていたといえる。この時代のロムレーの、当時の表現では「ピューリタン的理想郷」と呼ばれる社会は現在のロムレーでも「古き良き国制」として理想化され根強い支持を集めている。
しかし610年代も後期に差し掛かると国際社会への理解が進展、フリューゲルで広がっていた学問を国内に浸透させるには移民船時代の徒弟制的な技術伝承・教育の形態では不十分との考えが広まって618年ごろから公教育制度の整備や海外への留学生の送り出しが始められるほか、619年ごろから大々的な保養地の整備が行われて長期滞在観光客の呼び込みが始まるなど、610年代末の時点で既に後のロムレー社会の原型は形成されつつあった。
その国際社会への理解の進展をもたらしたものとして最も大きいのは、時期は若干遅いが619年に行われたウィリーツェン会談であろう。この会談でのウェールリズセ代表の弁が国内で伝えられると、共和国民はその内容に大いに興味を持ち、国際政治への関心が高まった。これは公教育制度拡充の直接的原因ではないがそれに拍車をかけたのは間違いない。

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620年代 観光大国化の時代 anchor.png

風光明媚な景観に助けられつつ留学組の持ち帰った技術を用いて振興された観光業は620年代には年率二桁の高成長を続け、628年ごろにロムレーの滞在者数はそれまで滞在者数世界一であったエルツ帝国を抜いて世界一に到達した。基本的にロムレーはこの年代に観光大国の地位を確立したといえる。一方で観光業に土地と労働力を奪われて農業生産については後退し、この時代には食料自給能力が失われることになった。
また、資源輸出と観光業を両輪とする経済が確立されたことで経済的にも好況が訪れ、627年に設置された福祉医療局を中心に留学組のなかでも社会自由主義者を中心とした勢力がヴェールヌイをモデルとした福祉国家化を図る運動を始め、この時代に幸福度も国際指標上で大幅に向上した。
この時代の後半は安全保障・宇宙開発においても進展があった。627年末に気象衛星の打ち上げに成功したほか、629年にレゴリス帝国との相互安保条約を締結している。もっともそれが本格化するのは630年代になってからのことになる。

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630年代 防衛力拡充の時代 anchor.png

この時期にも引き続き観光業は成長を続けているが、ロムレー人にはこの時代はなによりもポワンクールへの巨大隕石落下、そして対レゴリス相互安保を受けての防衛力拡充の時代として記憶されている。
631年11月に起きた最大都市ポワンクールへの巨大隕石の落下はロムレー史上最大の大災害であり、これにより共和国のほとんどの官僚機構が機能停止する危機的状況に陥った。このときに効力を発揮したのが3年前に締結したばかりのレゴリスとの相互安保であり、そこではレゴリスからの救助隊が活躍した。
この巨大隕石の衝撃はロムレーに軍隊の機能を認識させる結果となり、それまで「軍服を着た観光案内所係員」と評される状態だったロムレー軍はレゴリスからの軍事顧問であるルーミヤ・グドリャンの下で改革されて主に山岳戦を中心とした実戦能力を身につけ、また635年10月には安全保障局が迎撃衛星の打ち上げにも成功している。
なお、634年のクイーンズによる対全国家宣戦を受けた際、直接的な影響はなかったものの、これを受けて行われた海防力向上のための調査の結果を活用して、沿岸部の干拓が行われ、干拓地での酪農などによって食料自給能力を回復した。これも中央政府が大きな役割を振るうというこの時代の特徴的な出来事でもあるかもしれない。
この年代の起こった外交上のできごととしては、カルセドニー島共和国が提唱する資源輸出国機構創設を目指す9ヶ国会議への出席もあったが、この交渉参加にあたっては議会を始めとする諸勢力の激しい抵抗にあって代表団派遣が遅れるなど、当時のロムレー人の経済的な国際機構への抵抗感があらわになった。なお資源輸出国機構構想自体は会議中断後音沙汰はなく、事実上頓挫している。尤も、仮にこれが成立していた場合、中央議会での批准に失敗するか、あるいは政変に至っていた可能性が高い状況であり、共和国にとってはこの構想の挫折は好ましかったと語られることがほとんどである。

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640年代 相対的安定期 anchor.png

この時期にはもはや観光業の成長はひと段落し、滞在者は2000万人弱、観光収入は200兆Va/年強でその成長は極めて緩やかであった。
641年に創設されたソサエティには共和国は原参加国として参加し、645年にサン=トゥルミエールで行われた第一回ソサエティにおいて議長国の役目を果たしたほか、ソサエティによるトロピコ査察団に人員を送り出した。
この年代のロムレーはあらゆる意味で安定し、繁栄を享受した。第一回ソサエティの成功はその結実であった。
しかし、この時期にトロピコ問題やヴァノミス問題は水面下で進行しつつあった。第一回ソサエティの共同声明の第一項がトロピコ問題を扱うものであったことは示唆的である。

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650年代 戦争と共和国の変質の時代 anchor.png

650年に入り、トロピコやヴァノミスを巡って国際関係は急速に緊迫したが、共和国はこれまでの外交姿勢を継続し、同盟国のレゴリス帝国を支持してENEC諸国と協調する立場をとり、結果としてヴァノミス危機とトロピコ戦役に身を投じることとなった。
ヴァノミス危機は大戦の危惧を抱かせたものの、ぎりぎりで回避された。しかし、これによって建国以来最大の資源輸出先であったアルドラド帝国との関係は断絶され、トロピコ戦役直前にアルドラドによって行われたトロピコへの砲弾納入のためにそれはもはや修復不能なものとなった。
トロピコ戦役はその有志連合の軍事力に反して3年以上にも及ぶ長い戦いとなった。その中でロムレーの民間人や観光客が被害を受けることはなかったものの、トロピコ軍によってロムレー軍は大きな損害を被ったし、戦費や経済的な負担も膨大なものとなった。典型的なピュロスの勝利といえる。
多くの戦争に言えることだが、例に漏れずこの戦争を通じてロムレーは変質を被ることとなった。それは建国以来の共和政のシステムも議会主義の理念にも手をつけず、変質したのは政府と軍のみであったが、ともあれここにおいて共和国は620年前後に匹敵する変質を遂げた。
ロムレー軍は大規模に動員され、建国以来主要産業として大きな影響力を持った鉱業は、いまや戦時体制の下で動かされる存在となった。
なお、この戦争の戦訓は多く、それを活用して654年3月には防衛衛星の打ち上げに成功している。また、656年からレゴリス資本の兵器整備拠点がロムレー軍基地周辺に建設され、軍備の国内完結性が高められることになる。
戦後の一時期には政府や軍の無策な戦争遂行への非難が盛り上がり、激しい議論が交わされたこともあったが、最終的にはうやむやのうちに終わり、650年代の後半はロムレーは再び平穏な日々を過ごすこととなった。
657年にはENECにオブザーバー加盟し、トロピコ戦役以来の国際的立ち位置はここで完全に確定されたといえる。

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660年代 再結晶化の時代 anchor.png

661年に共和国は建国50周年を迎え、各地で式典が開催された。戦後の内向き意識の中で積極的な外国代表の招待は行わなかったものの、中央議会の記念式典ではレゴリス帝国総統が演説を行っており、レゴリスとの同盟関係が再確認された。この年代にはレゴリスの国際的地位は低下傾向にあったが、ロムレーは良好な対レゴリス感情からあくまでレゴリスを支援しつづけている。
なお、666年の連合国によるセビーリャ作戦において共和国軍はウェールリズセ側に立ち支援兵力を派遣しているが、この作戦の間、本土は一貫して平時体制を維持したままであった。平時体制の状態で派兵ができるようになったことは、650年代の共和国の変質の結果であり、セビーリャ派兵を通じてそれが新しい共和国の体制として定着した。セビーリャ作戦完了後は占領委員会の一員として占領政策にも一定程度関与しているが、共和国はセビーリャに対しなんらの利害関係もなく、またセビーリャになんらの利益も期待しなかったため、共和国はそこでは専らセビーリャの安定化だけを追求する姿勢にある。

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670年代 沈潜の時代 anchor.png

673年の石動・アルビオンによるサン・ピエルへの九ヶ条要求に端を発する一連の外交問題において、ソサエティはこれに反対する姿勢を見せた。ここでは共和国はソサエティ諸国との協調を優先したが、国民的にはそれほど大きな関心を集めず、むしろロムレー史における「古き良き国制」の再検討のような国内的で学術的な議論に終始した傾向がある。
一方で軍事的なENEC諸国との連携は引き続き深化させられ、678年にPDECに加盟した。

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680-710年代 休眠期 anchor.png

この時期には国際社会も比較的平静であったが、国内はそれに輪をかけて静かであった。なお、この時期は国際社会が安定していた時期ではあるが、ヴァノミスにおいては一時内戦状態に突入している。しかし、これについては前述の通り当時の共和国では不干渉主義が強まっており、ロムレー軍はこれに出兵はせず、内戦終了後に復興支援を行うに留まった。一方で、この時期のコーデクスの統治機構改革の試みは合理的紀律を重視する勢力を中心に大きな影響を与えていた。しかし、実際の導入は末端における小規模で持続的な改良にとどまり、ロムレーの国制を刷新するに至らないまま、コーデクス解散の時を迎えることとなった。

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720年代 二重の衝撃 anchor.png

720年代の前半、ほぼ平行して起こった二つの事件がロムレーの政治情勢を大きく変動させた。一つはコーデクス共和国の解散であり、もう一つはヴォルネスク戦争である。
コーデクス共和国の解散は膨大な研究資料の提供によりロムレーの学界のあらゆる学問領域に革新をもたらした。一方でコーデクスという一つの理想を失った合理的規律派、とりわけコーデクス主義者はその研究資料の分析に注力するようになって非政治化した。
ヴォルネスク戦争はロムレー国民にとっては不正義で不人気な戦争であった。スラヴ主義はロムレー国内において公然たる軽侮の対象となり、カトリックを中心とした一部勢力はノイエクルスに物資支援すらした。また、別府がもはや理想郷と思えなくなったことで社会自由派は何を理想とするかで分裂、その一部は急進化してサンディカリストや評議会制共産主義者になるか、社会主義自体を放棄して自由思想派に移るかし、もともと脆弱であったロムレーの社会主義は大きく退潮した。
この二つの事件を通じてこれまでの共和国の政治風土の後景であったENECへの期待感というものは瞬く間に霧消した。レゴリスのPDEC脱退の黙認、ENECの機能不全への不関与はこの帰結である。
この時期に起こった変動はある意味ではカルヴァン主義共和派と自由思想派による二大政党制化ととれなくもないが、当時の議長のトリベール=スィズィニョレの下では両派は大きな対立をなさなかったため、マジック・フォーミュラー的な体制自体の抜本的な変更はなされなかった。

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730年代 事後処理の時代 anchor.png

既に事実上政府が機能していなかったテークサットが国際法上も主権国家としての地位を失ったことにより、ENEC・PDECともに存在感をほぼ完全に消失した。既に二重の衝撃の中でそれを受け入れる方向に向かっていたロムレーはそのままPDECの清算を確認した。

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740-750年代 無風時代 anchor.png

この時代もロムレーが平静であった時代ではあるが、国際環境も極めて静穏だった時代である。この二十数年間、国際紛争が発生することはなく、共和国も平穏を享受した。

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760-780年代 セビーリャ自治実験の時代 anchor.png

CDXによる計画通り、764年に共同管理区域セビーリャは長期凍結期間を終了した。凍結期間の間からセビーリャ政策を主導していたコーデクス主義系のテクノクラートたちは、それまでのコーデクス的教育の成果を引き継いでそのままセビーリャをコーデクス主義のユートピアにしようと目論み、セビーリャ人の中からコーデクス共和国公務員試験の問題を通じて優秀者を選抜し、彼らを官僚としてセビーリャ自治政府を発足させた。自治政府の統治は予想以上に安定し、1年後には一時的にではあるがセビーリャの幸福度は世界一に達するに至った。768年に起こったユリウス事変ではセビーリャ防衛のためロムレーはレゴリスと共にセビーリャ防衛のためユリウスに宣戦し、セビーリャ近海でのユリウス上陸部隊の撃破や連合軍によるユリウス本土での殲滅戦などでロムレー空軍が作戦行動に当たった。この際の警察予備隊増員の許可を皮切りに、その後もセビーリャ地域の自治は段階的に拡大が続き、784年の自治20周年では司法府の独立や出入域管理の緩和により相当程度の自治権を与えるに至った。

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790-800年代 観光バブルの時代 anchor.png

ヴェニス島が急速に観光開発を進める中で、628年以来世界最大の観光大国の地位を維持しつつも長らくその規模は横ばいにあったロムレーでもこの観光需要の拡大に乗らない手はないという考えが一部の観光業者の中で広まっていた。観光局はこれに対して消極的ではあったが、ヴェニス社への投資を通じていち早くこの動向をつかんでいたクレディ・ロムレー社がロムレー国内の観光開発への投資を進めたことで、この年代には一世紀半ぶりのロムレー国内での観光業拡大が進んだ。しかし、この観光業の拡大は過当競争を招き、ロムレーにおいてもヴェニス島においても観光業の利益率を大幅に低下させた。そのため、800年代後半には監査委員会のイジドール・コルネイユを中心に経営の整理が進められ、809年までにロムレーの観光業規模は780年代前半の水準に戻った。

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810年代 短い大戦の時代 anchor.png

伝統的に民族主義を理解しないロムレー人はこの時期にはガトーヴィチ帝国のスラヴ主義などを白眼視していたが、809年に設立されたエルドラード条約機構ロムレーでは通例ETOと略する)は、保護主義を掲げるセニオリス共和国とスラヴ主義を掲げるガトーヴィチ・ヴォルネスクによる勢力であり、当然のことながら路烈同盟にとっては協調の余地がない存在であった。セニオリス共和国が812年にヴェニス島に侵攻すると、同地に滞在するレゴリス市民にも犠牲が出ることになったが、これに対してセニオリス共和国レゴリス帝国への謝罪を拒否、レゴリス帝国とその友好国はセニオリス共和国に宣戦し、ETOもセニオリス防衛のため参戦したため数百年ぶりのフリューゲルにおける大規模戦争である813年戦争が開戦した。この戦争ではカルセドニー(反社会主義を掲げるセニオリスに敵視されていた)の支援などもありこの規模の大戦としては珍しく半年ほどで停戦、ETOの解散とETO諸国の軍備制限を約したディースブルク講和条約が結ばれた。

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820年代 戦間期 anchor.png

813年戦争に勝利した後、共和国はこれまでもそうだったように平穏を享受し、旧ETO諸国もガトーヴィチはWTCOに、セニオリスはFENAに加盟し国際社会に復帰した。しかし、この時期に起こった普蘭・中夏によるセニオリス領海での衛星レーザー試射実験、セビーリャにおける評議会派主導の内政の停滞は、後の三重苦の遠因となっていくことになる。

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830年代 三重苦の時代 anchor.png

829年5月に開会されたFENA総会において、レゴリス帝国セニオリス共和国の正規加盟国昇格に待ったをかけた。そして信じがたいことに、かつてセニオリス領海にレーザーを試射した普蘭がセニオリスを擁護しレゴリスに反論したことにより繰り広げられた論戦、セニオリスの外交的失策などから、レゴリスとセニオリスは831年9月28日に何の予告もなく(なお、共和国外交局は820年代にレゴリス側から対セニオリス政策について意見を求められたことがあるが、その際には慎重を期すよう返答していた)突如レゴリスがセニオリスを併合する条約に調印した。これにより突如として外交的に信頼のおけない地域に対して路烈安保の条文上防衛義務を負う(セビーリャではリアライン条約に基づけば防衛は努力義務に過ぎない)ことにより、議会は恐慌状態となった(併合危機)。さらに833年ごろにはセビーリャ地域の情勢が一時悪化(セビーリャインフラ危機)、統治委員会が非常事態宣言を発する事態となった。この事件により、レゴリスと密接に連携して安全を確保し、同時にセビーリャ地域の安定化を進めるというロムレーの長らくの外交政策は大きく動揺した。この時期の混乱をよく示しているのが併合条約に関してレゴリスに対して加普と共同で送った質問状であり、これは「それが安全保障上受忍しがたいリスクを含む場合、共和国はレゴリスの意志に忠実であるとは限らず、むしろレゴリスの意志を変更させようと試みることがありうる」ことを示し、さらにはサンディカリストやアナーキストが勢力を拡大するなど政変の兆しを見せた。結局、レゴリス帝国が併合を撤回したことにより危機は回避され、セニオリスの政変に対し共同で介入する部隊を派遣する展開となったが、ここではロムレー軍は「自国や同盟国の人命がかかっていない初の戦争」であることと併合危機以降の政治的混乱により大いに士気が乱れ、これまでの戦争と比しても挙げられた戦果は限定的なものであった。併合危機・セビーリャインフラ危機で混乱していた共和国はこの失態によりさらに動揺したが、結局責任追及はサンディカリストとアナーキストをさらに台頭させる結果につながることが恐れられ、諸々が不徹底なまま830年代後半には元の平穏な情勢に戻ったとされる。

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政治 anchor.png

中央議会に政府機関としては最も大きく権限が与えられている議会主義体制国家。他のフリューゲル諸国(主にレゴリス帝国)への留学者が学んできた各国の国制からも一定の影響を受け、民主主義の体裁を保っている。
建国以来政変や暴動の経験はなく、632年初頭の世界同時社会不安や650年代前半のトロピコ戦役出兵の最中においても安定を保った。ここ百数十年はフリューゲル最高水準の支持率と満足度を維持しており、治安・支持率・財政などの指標も建国以来恒常的に健全な状況を保ち続けている。

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内政 anchor.png

実務においては各コミューヌへの権限委譲の程度など、かなり分権的な体制であり、また、医療制度や社会保障制度が非常に充実させられた現在でも未だに夜警国家的な理念を持っているところがある。

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中央議会 Conseil central anchor.png

共和国中央政府の議会。移民船内で地球出発直後から行われてきた船全体の方針決定会議を継承するとされる。
共和国は議会主義を掲げているが、その議会主義はロムレー人に伝わるところのスイスの議会制度を基にした特殊なもので、移民船時代から建国期にかけての党派対立の存在しなかった時期の無政党政治が建前の上では維持されていることになっている。
とはいえ事実上はカルヴァン主義共和派、合理的規律派、重農=環境派、自由思想派、社会自由派という五つの主要な党派が存在しており、歴史資料から再建されたマジック・フォーミュラー的な方法で閣僚が選出される。閣外の党派として復古的無政府主義者や評議会共産主義者などが存在するが、これらの議席はごく少数である。
なお中央議会議員選挙においては各コミューヌによる州主権的な理論が採用されており、各コミューヌごとに議席の定数が割り当てられ、コミューヌ毎にそれぞれの定めた選出方式により議員を選出し中央議会に送る形式をとっている。そのため選挙方式は一様ではないが、ほとんどのコミューヌでは単記移譲式を初めとして何らかの選好投票が用いられている。

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行政局 anchor.png

共和国には中央政府の行政組織としては外交局・通商局・安全保障局・大気海洋局・教育局・観光局・社会基盤局・福祉医療局・公安局・監査委員会の9局と1委員会が存在する。
共和国の官僚組織は形式としては中央議会の各部会ごとに付属する事務局に過ぎず、そのために最上位の官庁が省ではなく局を名乗っている。
なお、共和国の雇用における公的セクターの比率はかなり高いが、ほとんどは各コミューヌに属する公務員であり、中央政府の官吏はごく少数にすぎない。

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政策スライダー anchor.png

地方分権-◆-----中央集権結局のところ、コミューヌごとに任せるのが一番効率が良い
貴族中心----◆--富豪中心私利に拘泥せずにすむだけの資産と論説を際立たせる広く深い教養、議員には両方が必要なのだ
農奴制------◆自由農民スイス農民の子らよ、我らの自由と権利と独立を永遠に守り通そうではないか
保守主義--◆----革新主義『伝統』には観光客を楽しませる力がある
重商主義------◆自由貿易知識、あるいは資産。その果実を我らに与えてくれる者が通るのを妨げる理由などあるまい
攻撃主義-----◆-防御主義共和国と盟邦を守る。それだけでよいのではないか?
陸軍重視---◆---海軍重視本分を果たしているのは海空軍ばかりではないか。陸軍はただの観光資源なのか?
精鋭---◆---大軍国家規模からすると軍事力は量的にはこれが限界だろう
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その他 anchor.png

  • 国旗
    ロムレーの故郷、スイス国旗の元になったとされるシュヴィーツ州旗をもとに作られた旗。シュヴィーツ州旗にない白地の領域は自由・新天地・万年雪の意味を表しているとされる。
    なお、縦に掲揚する場合でもロムレー国旗では十字が左上に来るのが正式である。そのため垂直掲揚の場合は90度回転させた後に裏返して掲げる。
  • 国歌“Ô monts indépendants”
    本来は19世紀後半から20世紀中葉まで使われていたかつてのスイス国歌。
    共和主義の精神が感じられるために建国期の中央議会の議員に好まれ、湖畔共和国の国歌として採用された。
    1番2番3番4番
    Ô monts indépendants,
    Répétez nos accents,
    Nos libres chants.
    A toi patrie,
    Suisse chérie,
    A toi la vie le sang
    De tes enfants.
    Nous voulons nous unir,
    Nous voulons tous mourir
    Pour te servir.
    Ô notre mère!
    De nous sois fière,
    Sous ta bannière
    Tous vont partir.
    Gardons avec fierté
    L’arbre au Grütli planté
    La liberté!
    Que d’âge en âge,
    Malgré l’orage,
    Cet héritage
    Soit toujours respecté.
    Dieu soutins nos aïeux,
    Il nous rendra comme eux,
    Victorieux!
    Vers lui s'élance
    Notre espérance,
    La délivrance
    Viendra des cieux.
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党派 anchor.png

共和国の中央議会では理念としては討議による一致が理想とされており、政党政治は好まれず、制度的に政党に特殊な地位を規定してはいない。
とはいえ国の理想像を巡っておおまかな傾向が存在し、とりあえずそれを派閥や党派として扱うことはできる。概ね以下の様相である。
歴史的には、移民船時代の士官にルーツを持ちロムレー人の伝統的な国民性を重んじる建国期の議員層を中心とした系譜(ジャンベール党)と、620年前後から出現した海外の思想を受け入れ官僚組織を発展させていこうとする主に留学帰り組からなる系譜(ポワンクール党)という二大思想潮流が存在していたとされ、後者の出現によって620年代に前者から支流である合理的紀律派と重農=環境派が現れ、本流としてのカルヴィニスト共和派も確立、7世紀前半のうちに後者も自由思想派と社会自由派の差が明瞭化していった結果現在の5派閥が成立したとされる。
内閣における閣僚のポストは630年代以来長らくカルヴァン主義共和派3・自由思想派2・合理的規律派1・重農=環境派1・社会自由派1というように割り当てられており、おおむね政治的な影響力もこの通りであったが、770年代後半からはカルヴァン主義共和派2・自由思想派2・合理的規律派2・重農=環境派1・社会自由派1となっている。

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ジャンベール系(旧来の議員層) anchor.png

「ピューリタン的理想郷」時代の中央議会議員層の流れを汲む党派、あるいは系統。その名の通り初代中央議会議長ジャンベールの理念を支持する。
ポワンクール系が次第に拡大する中で対抗して政治哲学的な議論が深まるなかで、ジャンベールの理想は何であったかで意見が一致しなくなり、合理的紀律派と重農=環境派が成立した。もはや三派の中で現実の政策における調和などみられないが、いずれもジャンベール以来の系譜を主張し、また他国とは異なったロムレーを希求するという点では一致している。

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カルヴィニスト共和派 anchor.png

「古き良き国制―神の下に自由な国民による自由な共和国」
共和国において存在する党派としては最も古い派閥であり、830年代に至るまでの間はほぼ恒常的な最大派閥(ただし建国期を除いて単独過半数の規模であったことは一度もない)で、現在は第二派閥。個々人によってカルヴァン主義と共和主義のどちらに重きを置くかは差があり、人によってはこの二つを分けるが、分けようとすると曖昧さを残す結果になるので大体の場合仕方なく一緒くたに扱われる。実際、中央議会において最も極端な共和主義者でもカルヴァン主義の精神を賞賛するし、最も極端なカルヴィニストでも共和主義を支持している。
「古き良き国制」の支持者であり、要するにロムレーにおける保守主義である。都市商人層から農民、軍人から公務員まで、支持層は幅広い。外国観としてはイデオロギー的な相対主義者で、他国にはその国の事情に合わせた国制があると考えており、社会主義国家も保守主義国家も彼らの目からすると主権国家という国際社会における対等なアクターである。実際の外交においては全くのオフェンシブ・リアリストで、伝統的な親レゴリス政策の担い手。

経済平等---◆---市場
外交国家--◆----世界
市民自由--◆----権威
社会伝統--◆----進歩
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合理的紀律派 anchor.png

「理性の共和国―理性的な国民、効率的な制度、合理的な国家」
強力な中央議会による議会絶対主義の下での極度に紀律づけられた合理的な軍制と効率的な経済、そしてそれらに対応した社会基盤を求める。外交的には崇拝に近いほど親コーデクス(彼らによると合理的紀律の極北らしい)で、また親レゴリス(こちらは常識的な範囲である)、というよりコーデクスとレゴリス以外の外国は彼らの眼中にない。コーデクス共和国解散後は、コーデクス主義者のセビーリャ自治政策の成功を下支えするのが彼らの基本路線であるとされる。
いわゆる軍国主義的な要素もあるが、精神論よりただ合理主義を重んじ、軍人には極端な合理主義を求める。なお合理主義も宗教の方面では徹底されてはおらず、宗教的な態度は完全には世俗化されていない理神論的なありようが主流。
若干権威主義的だが平等主義的な教育制度と整ったインフラ、紀律づけられた国民に報いるための福祉を求め、ロムレー流の近代国家を形成しようとした(できたとは言ってない)。
右派的だが高水準の福祉を求める点で社会自由派と一致し、下手をするとカルヴィニスト共和派相手の共闘すらありうる。逆に環境保護を求めて合理化を阻害する重農=環境派とは水と油で、自由思想派とも相性はあまりよくない。
支持層は主に軍人と軍需産業の工場労働者であるのだが、「軍服を着た観光案内人」の伝統から観光業系の開発者や経営者が支持していたりするのがロムレーの独特な政治風土を物語っている。
コーデクス解散後は他派と比べかなり勢力を失っていたが、セビーリャ自治の進展に伴うコーデクス主義の再評価により勢力を幾分回復した。

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重農=環境派 anchor.png

「麗しき国土―造化の妙の驚異は観光客を楽しませ、国民に尽きることのない果実を与える」
重農主義的文脈で理解された環境保護主義。支持層は主に農民、それと留学帰りの環境保護思想に被れた知識層。農民の間ではむしろカルヴィニスト共和派のほうが広く支持されているのだが、ロムレーは農民が多いのでそれでも一つの派閥をなす規模がある。
この派の環境保護政策のためにロムレーにおいて近代的な重工業は出現を阻まれ、製造業は専ら職人的な方法で営まれるものになった。合理的紀律派とは激しく対立する(これはロムレー政界唯一の明確な党派対立である)が、他の派とはイシューによって態度が変わる。しかし観光業の繁栄が環境保護の成果によることは明らかなので、環境保護政策については他派からも一定の理解はされている。

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ポワンクール系(留学組) anchor.png

ポワンクール市創設の頃から現れてくる党派。レゴリスなど海外への留学組が中心となっており、海外からの思想的影響を強く受けている。
彼らはいずれもジャンベール系議員が好むところの「ピューリタン的理想郷」をむしろ停滞状態とみなし、共和国を普通の近代的自由主義国家にすることを目指した。
自由思想派と社会自由派は当初は旧来の議員層から一緒くたにされてポワンクール系としてまとめて扱われていたが、ジャンベール系の分化と福祉国家の進展の中で異なる理想像を描いていることが広く理解されるようになった。

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自由思想派 anchor.png

「自由の避難所―いかなる考えにも寛容であれ」
830年代まではカルヴァン主義共和派と双璧を成し、それにほぼ拮抗する勢力を持ってきたが、三重苦の危機以降はロムレーの最大党派。力点をどこに置くかは人によって異なるものの、政治的には表現・信仰・精神の自由の擁護、経済的には穏健主義の範囲内での自由放任と自由貿易を掲げる、一般的な古典的自由主義者。特に宗教的寛容・信仰の自由の精神を背景としていることが多いため、単に自由主義者というよりもリベルタンと表現され、ロムレー人のカトリックや非カルヴァン派プロテスタントは概ねここに位置する。支持層は都市商人、学生、知識人、公務員(特に中央政府)、宗教的少数派。支持層が都市の知識層中心のため、教育を重視する傾向があり、とりわけ高等教育を(社会自由派以上に)かなり重視する。
移民も政治的な参画を行おうとした場合には大抵ここにくるのだが、彼らに関してはロムレーの政治風土に面食らったあと、仕方なく移民にも比較的寛容なこの派閥の下に入るという流れが多い。ロムレー社会は総じて移民にあまり優しくなく、移民受け入れ人数も少ないので、移民による党派の結成という手はとれず、ここに来るしかないのである。
主要党派のなかでは比較的外交にイデオロギー的な視点を持ち込むことに肯定的な党派である。といっても、議会制民主主義が肯定され、実際に複数政党制が運用されていれば、彼らはそれ以上は求めてはこない。基本的にはディフェンシブ・リアリストで、他国に対する積極的介入を好まない傾向にある。

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社会自由派 anchor.png

「穏やかな社会―誰も苦痛に苛まれることなかれ」
フリューゲル諸国から社会的なものに影響を受けての派閥、つまりはロムレーにおける社会主義であり、実際にふつうロムレー人の言う「社会主義」とはこれを指すが、社会観は相当に自由主義的である。社会改良主義という理解がおそらくは最も近いであろう。
政策としては福祉政策の拡充と労働者保護、就学前教育と初等教育の水準向上を主眼におく。外交政策にあまり関心を持たないことからそれが実際の外交に反映されることはほとんどないが、一応外国観としては親別府であった。ヴォルネスク戦争以後は国民の親別府感情がかなり薄らいだため、ヘルトジブリールを模範にする傾向にある。近年ではカルセドニーの社会主義もそれなりに関心を集めている。
支持層は工場労働者(ただしロムレーには軍需以外の近代工業がないことに注意)、学生、公務員(特に各コミューヌ)。
なお、福祉政策に強く関心を寄せるだけあって、福祉医療局の局長のポストは長らく社会自由派が独占している。
特に鋭く対立する他派というものはなく、どの派とも是々非々の関係を持っている。というより他の派閥との関係で検討していくと社会自由派という枠組みが意味をなすかは怪しく、他の四派の中の社会主義分派の寄せ集めに過ぎないと皮肉られることもある。

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急進主義者 anchor.png

ロムレーにおけるラディカリスト。議会にもこれに属する議員は存在するが、極めて少数派で、いずれも議席数はあっても数議席に過ぎず、そのため現在の体制下では政権には入っていない。ただし、ラディカリストとはいえ議会主義の伝統を逸脱するほどの急進派はほとんど存在しない。

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復古的無政府主義者 anchor.png

「純粋無政府主義―政府は何もしなくてよい。全てのことは我々がする」
古き良き国制を純粋無政府主義と解釈する急進的な一派。要するにリバタリアン。外交的にも孤立主義。
社会保障をほとんどゼロにし、官僚組織と軍も大幅に縮小する。議会政治についても民主主義の体裁を廃し、寡頭制的な議会に復古しようとする。
実は古き良き国制は実態としてはこれに近い。というより、実態がそうであるからこそ復古的であると名乗れている。
議会における議席は、主にロムレーやサン=トゥルミエール近郊の保守的な農村コミューヌと周辺離島の人工的に作られた計画的コミューヌからのもの。明らかに前者は反動主義、後者は無政府主義であって思想的風土が異なっており水と油にしか見えないが、彼ら自身に少数派である自覚が強いので共闘関係にある。特に前者の影響で市民権については割と排他的で、リバタリアンの割に非ロムレー人の権利に制限的な態度が特徴。
三重苦の危機の際にサンディカリストと並んで一時的に存在感を示したが、その後は沈静化した。しかしその際に当選した何人かの議員はそれ以降も議席を守っている。

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コーデクス主義anchor.png

「第二のコーデクス―電子頭脳が国家理性を体現する」
合理的規律派のなかでも合理化の方向性としてコーデクスモデルをロムレーにおいても実現しようとする急進的な一派。ロムレーにおいても行政の担い手として第二のCDXを作り出し、議会はそれに諮問するだけの機関にしようとする。合理的規律派の主流派と異なり、外交的には自らの理念を他国にも広げようとする意味で広くフリューゲル全体に目を向けることが多く、宗教的には明確に理性の名によって宗教を否定する態度をとる。
コーデクス共和国が実際に存在していた時期には支持基盤はほぼテクノクラートと軍人に限られ広がりを欠いていたが、技術士官の半分がコーデクス主義かぶれであるともされるようにその主唱者たちの形成は進んでいた。コーデクス共和国解散後はコーデクス計画の成果を発展させる研究に注力しようという運動に変化し非政治化していたが、凍結期からテクノクラートとしてセビーリャ統治に関してはむしろ最も主要な政治的アクターとして活動、セビーリャ統治が実際に成功すると政治的な勢力として復活し、既に単なる合理的規律派のなかでの急進派とは言えなくなっている。

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サンディカリスト anchor.png

「組合による再分配―自由を損なわない平等」
自営業中心のロムレーではあるが、労働組合や職能組合、協同組合のようなものは比較的多くの産業に存在する。そのため、再分配に関心を寄せると、その手段としては国有化よりも各種組合中心の経済が構想されやすい。なお、マルクス主義はロムレーではほとんど忘れられており、急進社会主義としては彼らが中心である。外交政策における影響力は皆無に等しいが、カルセドニー開国後はその社会主義からの影響をかなり受けている。
組合の類の本部(あるいは事務的な中心地)が置かれることの多いポワンクールに支持者は集中していたが、三重苦の危機の際に躍進し、現在ではサンディカリスト議員は各地に存在する。

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評議会制共産主義者 anchor.png

「議会の下の平等―対等者による合議が平等を保障する」
議会主義的な伝統を維持したまま共産主義を実現しようとする一派。ロムレーにおける共産主義者とは彼らのことである。

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外交 anchor.png

経済面では特定の国に偏ることなく観光客を誘致する観光立国を振興しており、国際貿易体制からは自由であり、自国が経済共同体や資源産出国機構に加盟し拘束されることを避ける一方で、国際分業体制については擁護する立場で、保護主義を警戒する。 

イデオロギー的な拘束に関しても比較的弱く、民主社会主義から伝統保守主義までどのようなイデオロギーも問題としないが、民族主義に関しては理解不可能なものとされ、明確に敵対的態度をとる。
伝統的にレゴリス帝国との安保体制による安全保障を主軸とした外交を展開しており、現在までそれは維持されている。しかしながら、これは「レゴリス自身がリスク要因とはならない、少なくともレゴリスがリスクをとるのは別のリスクに対処するため」という理解に基づくものであり、セニオリス併合危機以来それが疑問視されるようになってしまった現在、共和国の外交政策に関するコンセンサスは失われつつある。

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国交のある国家(樹立順) anchor.png

※各国への論評は中央議会における評価意見の大勢であり、公的な効果を持つものではない。
国名に打ち消し線のある場合はかつて国交があったが現在はないことを意味している。

  • エーラーン教皇国
    火を拝するものが、灰のなかからよみがえった。さて、この不死鳥はかつての繁栄の高みに飛び立てるだろうか?
  • フランドル共和国(滅亡)
    どうも政治経済共に混迷している地域であったらしく、最終的には崩壊してしまったが、建国期の共和国に援助物資を提供してくれた国でもある。…厳しい情勢な中で援助をしてくれたことに、なおのこと感謝するのが筋であろう。
  • ベルサリエーレ共和国(滅亡)
    かくて柱を失った国が一つ崩れ落ちた。瓦辺戦争の戦後処理は、彼の国に我々が思っていた以上に壊滅的な衝撃を与えていたのだ、ということか。
  • 石動第三帝国(滅亡)
    FuCoSTOを主導していた国であったが、共和国を含めたソサエティ諸国とのサン・ピエル問題以後の敵対関係の正常化は果たされないままに開国後の経済体制の再構築に失敗して崩壊した。
  • ウェールリズセ連邦共和国(滅亡)
    ENEC、ソサエティなどの国際組織の創設を主導するなど常に国際外交の場の中心にあった国家。その滅亡は残念でならない。
  • シェロジア共和国(滅亡)
    アクロバティックな外交をしていた謎の国。あの放送は最初はチューナーの故障かと思ったほどだ。
  • ヴァノミス連邦(滅亡)
    これまでの争乱が排外主義によるものなればこそ、それは国家の団結を強める求心力たりえた。しかしひとたび民族主義が現れれば、この国はどうやっても維持することはできなくなるのだ。
  • レゴリス帝国
    世界第三位になってしまった大国。早い段階から留学が可能になったこともあってロムレー人の最も主要な留学先であり、政治的・軍事的に大きな影響を受けてきたが、近年ではむしろレゴリス人のロムレー留学者も相当数存在する。
    相互安全保障条約を締結し、現在まで軍事同盟関係を維持している。併合危機は同盟関係を大きく動揺させたが、現在でも対レゴリス協調は安定をもたらすと考えられている。
  • 成蘭連邦王国(滅亡)
    安定していたはずの国での、震災を契機に発生した恐るべき混乱は、我々にとっても驚きであった。
  • アルドラド帝国(滅亡)
    かの国がトロピコ戦争直前にトロピコに持ち込んだ砲弾のために我らの部隊はどれほどの損耗を被ることになったのであろうか。
  • エルツ帝国(滅亡)
    長い歴史を持つ貴族的な古い大国。しかしそれらは今や全て過去の話だ。
  • テークサット連合(滅亡)
    ENEC加盟国で、トロピコ戦役における戦友でもあった。かの国の滅亡を以てENECとPDECの時代は完全に終わりを迎えた。
  • ヴェールヌイ社会主義共和国
    共和国の福祉政策はこの国の純粋社会主義の影響を受けて発展してきたものだが、ヴォルネスク戦争への参戦によりロムレーの社会自由派からの好感は霧散してしまっている。
  • コーデクス共和国(滅亡)
    科学主義を掲げていた国家。CDXによる統治や統御民主主義の試みは常にロムレー人の関心を惹き続け、共和国国内には「コーデクス主義者」を自称する狂信的な支持層も存在した。
    国家解散時に膨大な研究資料の提供を受けており、ロムレー国内においては幅広い学問領域でその後を継ぐ研究が今なお続けられている。
  • カルセドニー社会主義連邦共和国
    社会主義諸国の中でも最も外交的に重要な地位にある大国。外交政策としては労働党の指揮下でレゴリス帝国との協調姿勢をとっており、共和国においても外交的アクターとして相当に評価されている。なお、カルセドニー社会主義はロムレー人社会主義者の注目の的である。
  • アリア連邦(滅亡)
    先進国と新興国の境界線あたりにいたが、あまり積極的な外交をしているのは見かけなかった。
  • フリスラーン帝国(滅亡)
    強大な皇帝権に先進的な兵器、それらは決して国家の永遠の安定を保障してくれるものではないのだ。
  • ヘルトジブリール社会主義共和国
    膨大な商品を世界中に輸出している世界第二の工業大国。社会主義を掲げるものの比較的イデオロギーに拘泥しない。長らく共和国とはあまり交流がなかったが、813年戦争でともに同じ陣営に立ったことからこの状況に変化も生まれている。
  • ノホ・ヘレコ連邦(滅亡)
    ENEC加盟国の中ではあまり共和国との交流の多くない国ではあったものの、セビーリャ作戦での協同など、実績がないわけではなかった。
  • ガトーヴィチ帝国
    スラヴ主義に中てられていた頃の面影はどこへやら、中道右派からさらに左へ傾斜を深めている。まあ民族主義者にならないなら好きにしておれば結構とは思うが。
  • ヨリクシ共和国
    各地で積極的な災害救援活動や交流活動を行っている国であり、国際的に一定の存在感を持っている。カルセドニー革命と同時期に鎖国体制に移行した。
  • コムニタス・マリアナ(滅亡)
    同じフランコフォニーの入植者の国…だったのだが、気付けば崩壊していた。言語が同じというだからといってそれが特に何か保障してくれるわけではないのだ。
  • 西岸州独立連合共和国
    平和的な分離独立を果たした新興国。特に社会主義国というわけではないようだが、なぜかSSPactに加盟している。
  • ストリーダ王国
    膨大な人口を抱えつつも世界最高水準の幸福度を誇る世界最大の大国であり世界最大の工業国で、ロムレー市場ではストリーダ製品が主流。一時は政治的に不安定だったが最近は落ち着きを取り戻した。
  • タヂカラオ国
    アリア連邦と同じくあまり活発な外交はしていない国ではあるが、長く安定した歴史を経てきた国。
  • トルキー社会主義共和国
    四番手の大国であり、SSPact加盟国。明確に社会主義を掲げているが、議会政治は確立されている様子。
  • バルバロッサ王国(滅亡)
    自立した国家を目指していたが、何事か解らぬ事情のうちに消えていった。
  • ラルティスタ社会主義共和国(滅亡)
    サイバネとコンピュータによる社会主義という試みは興味深くはあったが、最終的にはうまくいかなかったようだ。
  • アオリィカ王国(滅亡)
    ロムレー議会主義を他国に広げるという試みは、果たして実現不可能なものだったのだろうか。ただ、いずれにしてもこの国においてのその夢の結果は明らかだ。
  • 普蘭合衆国
    古き大国の遺産の上に築かれた新興国。温故知新の上に、フリューゲル有数の大国として発展を遂げた。 盟邦ではあるが、国際的には介入主義という評判が時折聞かれる。
  • ギルガルド社会主義共和国
    ヘルトジブリールとカルセドニーの下で順調な発展を続ける新興国で、特に軍人数は驚くほどの数値に達している。彼らは新時代の社会主義の旗手となれるだろうか。
  • 冰州連合
    新興の小国。学術・文化的交流に対する積極的姿勢はロムレー国内でも評価されているが、一方でその積極性は外交面では先進諸国との摩擦を生んでおり、懸念すべきところでもある。
  • エルトアニア帝国(滅亡)
    この国もまた、ひっそりと消えていった新星の一つ。
  • セニオリス共和国
    災いなるかな、いともたやすくレゴリス帝国の威信を霧散させた者よ。庶幾わくは、かの災いが国際秩序を揺るがすことのなからんことを。
  • セビーリャ自治政府
    コーデクス主義者の手による、壮大な社会実験場。どうだろう、そろそろ実験を次の段階へ…そう、「独立国」をつくるという試みを始めてみてもよいのではないかね?
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条約・国際機関等(締結順) anchor.png

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経済 anchor.png

極端に観光業に指向した産業構造を持ち、その観光客滞在数は世界一で他国と比べても突出して多い。
建国後十年程度は資源輸出によるところも大きかったが、それ以降は恒常的に突出して巨大な観光業が主導する経済であり続けている。
いずれにせよ、外貨獲得能力は高く、国民所得水準は極めて高いといえる。
なお、製造業はほとんど行われておらず、ロムレー軍に兵器を供給するレゴリス系の軍需工場を除けば職人的な工場における木製品や乳製品の一部がコミューヌの枠を超えて国内市場で出回る程度に留まる。

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産業 anchor.png

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農業 anchor.png

干拓地で酪農・園芸農業などの高付加価値農業が行われているほか、高地では畜産業が営まれている。主に観光客向けではあるが、その生産力は輸出するだけの余力がある。

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鉱業 anchor.png

ウラン鉱が存在し、その輸出による収入は建国期の共和国を支えた。現在ではもはや収入源としての存在感は皆無に等しいものの、燃料自給により経済を安定させることには貢献している。
鉄鉱も存在するが、トロピコ戦役直前に急遽整備されたことから分かるように専ら軍需向けである。

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林業 anchor.png

広大な森林が広がり、その環境を維持する範囲内で林業が行われている。

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工業 anchor.png

木製品や乳製品が主に伝統的・職人的な製法で生産され、日用や土産物として流通している。
産業的な大工場というものは著しく厳格な環境基準のために軍需を除いてほぼ存在しない。

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商業 anchor.png

観光業が高度に発展しており、観光客向けに様々なサービスが提供されている。
本来の観光業のターゲットが長期滞在の富裕層であったことから、充分な所持金さえあればサービス業関連で困ることはないといえる。

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企業 anchor.png

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ロムレー・ユニオン銀行 anchor.png

ロムレーで最大かつ最も歴史ある銀行で投資銀行やアセットマネジメント、パーソナルバンキングなどの業態を営んでいる。本社はサン・トゥルミエールにある。投資傾向はクレディ・ロムレーに比べると若干保守的。

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クレディ・ロムレーanchor.png

投資銀行などを営むロムレー第二の銀行。本社はポワンクールにあり、セビーリャでも事業を展開している。コーデクス主義的潮流が多分に流れ込んでいる。

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トリビューン・ド・ロムレー anchor.png

ロムレー最大の新聞社で、国内ではLe Tribuneとして知られる大手紙。本社はロムレー市にある。論調は自由思想派寄り。ロムレーのマスメディアとしては最も国際展開に積極的。

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ロムレー農業協同組合 anchor.png

ロムレー最大の経済団体であり、およそ150万人の組合員を抱える。本部はポワンクールにある。

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レゴリス・ミリタリー・インダストリーズ・ロムレー anchor.png

レゴリス帝国の軍需企業レゴリス・ミリタリー・インダストリーズのロムレー法人。レゴリス本国からのライセンスを受けてロムレー軍の装備の製造と維持をロムレー国内で完結される体制を構築しており、ロムレー最大の重工業メーカーである。

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ヴェニス・ロムレーanchor.png

ヴェニス・グループのロムレー法人。ロムレー企業はセビーリャでも活動できるため、セビーリャにも展開している。主に研究開発事業を中心に手掛けている。

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通貨 anchor.png

通貨は独自の法貨として移民船時代以前から続くロムレー・フラン(Fr.,LRF)が使われているが、観光業の発展に伴い、他国の通貨の流通も一般化している。
国際通貨であるVaはロムレー・フランと並んで価格表記にも使われ、また主要な通貨は概ね通用する。

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交通 anchor.png

鉄道が比較的発達しており、山がちな地形ながら登山鉄道などによって国中が結ばれている。また湖上や運河を行き来するフェリーや客船も多く運航されている。

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国民 anchor.png

主流文化はスイスフランス語かつカルヴァン派のものであり、民族的・宗教的な類縁の民族がフリューゲルには存在しない。

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言語 anchor.png

公用語とされている言語はフランス語であるが、このフランス語はいわゆるフランシアン語ではなく、ヌーシャテル近郊のスイス・フランス語であり、近年はこの言語をロムレー・フランス語と呼ぶことも多い。なお、一応フランシアン語でも通用はする。
英独伊語あたりもそれぞれの母語話者が一定数いるほか、レゴリス語やコーデクス語を初めとした友好国の言語も広く学ばれており、これらの一つだけでも話せれば何の支障もなく観光できる。

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宗教 anchor.png

宗教の構成比率はカルヴァン派66%、カトリック10%、その他プロテスタント4%、CDX信仰3%、その他のキリスト教諸宗派2%、その他の宗教1%、無宗教14%。
信教の自由は完全に認められているが、カルヴァン派は事実上の国教の地位にあり、自らの所属する宗派への献金に対する税制上の優遇措置である什一献金特例が公的に定められているなど、政教分離は徹底されていない。
ゾロアスター教などを始めとする国際的な宗教勢力は国内にほとんど地歩を持っていないとされ、ロムレー教会評議会に参加しているキリスト教の宗派と無宗教だけで国民の95%以上に達する。

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ロムレー教会評議会 anchor.png

移民船時代に行われたロムレー内部でのキリスト教のエキュメニズム運動に端を発する組織。
ロムレー国内のほぼ全てのキリスト教組織から構成され、国内の宗教間平和と協調を目的としている。会報として『キリスト者の一致』がある。
教義上の統一は特に図らず、キリスト者アイデンティティの統合を図ろうとしており、このためにロムレーキリスト教コミュニティは独自性を維持している部分がある。

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ロムレー改革派教会 anchor.png

ロムレーにおいて最も多数派を占め、事実上の国教の地位を持つカルヴァン派の宗派。

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ロムレー・カトリック anchor.png

ロムレーのカトリック教会は地球上のバチカン以外の教皇座を認めておらず、その長はあくまで大司教位である。カルヴァン派との差別化の都合上、ラテン語による典礼を重視する傾向がある。

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ロムレーCDX教会 anchor.png

無宗教者には什一献金特例が適用されないことから、これに対抗してコーデクス主義者によって設立された宗教法人。献金された資金はそのまま計算機科学を中心とした科学研究につぎ込んでいる。会報の内容も実質的には論集である。
キリスト教的風土の強いロムレーにおいて公然とキリスト教のドグマを批判するため、ロムレーのキリスト者、特にカルヴァン主義者からは煙たがられている。

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教育・学術 anchor.png

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学術文化 anchor.png

ロムレーは国家規模が小さい割には学術文化は比較的発達している。特に言語学に関する成果が知られているが、広く人文・社会・自然問わず基礎科学分野一般に豊富な蓄積があり、コーデクス共和国解散後の資料流入でさらに発展を遂げた。学問の世界での「コーデクス主義」は、この研究をさらに進展させようという一大潮流である。
このような学術文化発達の背景には中央議会の弁論の場において教養主義が重んじられていることや、観光客とのやり取りの中で幅広い知識が必要とされたこと、極めて高い所得水準ゆえの充分な余暇の存在などが考えられているが、はっきりとした理由は明らかではない。

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大学 anchor.png

  • アンゼロット記念大学
    移民船時代に余暇を用いて行われていた学術サークルに由来し、612年に法人格を取得、619年に法令上も大学となった共和国最古の大学。サン=トゥルミエール校とポワンクール校の二校が存在し、サン=トゥルミエールは学術サークル時代からの「紙と筆、黒板と白墨、そして学生と教授」さえあればできるような哲学的・数理的な形式科学のほうが、一方ポワンクールは「実際に試してみればわかる」というような経験的な実験哲学のほうが盛んであるといわれる。ただし、学術サークル時代の下部組織を継承した多数の学寮が存在するカレッジ制をとり、それぞれのカレッジで様々な学問が研究・教授されているため、キャンパス間よりもカレッジ間のほうが学風の差は大きい。
  • ロムレー大学
    618年に設立された共和国唯一の国立大学。ロムレー市内に位置し、主に官僚養成を旨とする。アンゼロット記念大学よりも実学と総合科学を重視する。
    学部組織としては理学部・工学部・法学部・医学部・社会経済学部・外国語学部が存在する。
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学術出版 anchor.png

発達した学術文化の成果として、多くの学術誌が発行されている。その中でもいくつかの誌は新聞広告に掲載され一般家庭にも購読されるほど有名である。

  • 『Linguistic Research』
    言語学を扱う雑誌。フリューゲルにも印欧語系の言語が多いため、特に比較言語学方面の研究が盛ん。ここから派生して翻訳が行われたコーデクス語公式教科書の仏語版である『わかる!話せる!コーデクス語』は毎年重刷されるロムレー屈指のロングセラー。
  • 『Papier d'Histoire』
    歴史学を扱っている。フリューゲル全体の歴史学を指向する。フリューゲルにおけるグローバリズムを肯定する傾向から急進左派には微妙な扱いをされている。
  • 『国際経済旬報』
    文字通り国際経済の季刊誌と思いきや経済と文化を両方扱う傾向が強い。
  • 『Politique numérique』
    コーデクス主義的政治学の追究を目的に始まった雑誌。かつては異端児たちが書く色物誌だったが近年はコーデクス主義の伸張からロムレー政治学者の必読とされることが多い。
  • 『叢書コーデクス諸学』
    コーデクス共和国解散直後に流入した資料について解説をつけて公開すべきという意見から創刊された叢書。現在はコーデクス主義の影響を受けた研究を何でも扱うようになっており、今や扱う領域も何でもござれである。
  • 『Epidémiologie et hygiène』
    疫学と公衆衛生を扱っている。医療系専門誌だが、なぜかロムレーのどこの本屋にでも売っている。
  • 『Le progressisme』
    典型的な左派知識人向けの月刊誌。これを通読することでロムレー左派論壇の勢力図が分かるらしい。
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軍事 anchor.png

ロムレー軍はその国家規模の小ささに反してイレギュラーを保有し、また海外への航空戦力投射能力も備えている。これは実戦経験としてはトロピコ戦役とセビーリャ作戦という二つの派兵経験を通じて形成されたものである。そのように航空・海上部隊は豊富な実戦経験を有する一方、地上部隊は大規模な派兵を経験しておらず、むしろ国土防衛を主眼とする編制のままであり、多数の民兵といくらかの山岳戦特化の部隊を主体とする。これらは「ロムレー軍はスイス軍の制度を引き継いでいる」という軍を観光資源に使うための建前(移民船期に実質が失われているということは国民の間では公然の秘密である)がそのまま引き継がれたものである。そのために民兵はトロピコ派兵以前のロムレー軍の評価としてよく用いられたフレーズである「軍服を着た観光案内人」的な軍のあり方を今でも保っている。ただし常設の在外部隊などは基本的に持たず、セビーリャ地域にも統治委員会の最低限の警備部隊を置くのみである。そのほか、陸海空軍のほかに大気海洋局と福祉医療局も士官部隊を有している。
なお、兵器に関しては基本的にレゴリス・ミリタリー・インダストリーズ社をはじめとするレゴリスの軍需産業の在ロムレー工場で生産されるものが使われており、基本的にロムレー国内で生産・整備ラインが完結しているものの、レゴリス帝国軍の装備体系とほぼ完全な互換性を持つ。

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人物 anchor.png

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中央議会歴代議長 anchor.png

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プロスペール・アルベリク・ジャンベール anchor.png

中央議会初代議長。
移民船の船内環境を専門とする優れた工学者であり、船内において発生した重大な機械故障に際しての復旧を強い指導力によって指揮し、移民船のフリューゲル到達をどうにか実現した。
その際の手腕から入植直後の共和国においても一定の人気と権威があったが、本人は重力下での環境は専門外であるとして直接手腕を振るうことなく、一貫して中央議会の決定を支持した。
彼の時代のロムレーでは土地との共生が重視され、アーミッシュ的な古き良き理想郷と評される社会を築いたが、その後期にはレゴリス留学組を始めとするフリューゲル諸外国からの影響で公教育制度の整備が進んだ。
移民船時代の活躍についてはいまや歴史上のこととして再評価が進んでいる人物ではあるが、最初期の共和国において議会主義体制を確立した立役者であることは確かである。

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アンドレ・フィールズ anchor.png

中央議会第二代議長。
レゴリス留学組を中心に教育分野などの必要性から官僚組織が拡充されていく中で、ジャンベール引退後の共和国の主導権をレゴリス留学組が握ることを危惧した中央議会の議員たちによって選出された。
本人はこれといった強い主義主張は持っていないが、調整能力に優れ、レゴリス留学組と旧来の議員層を巧妙に調停して教育政策とインフラ整備を推進し、共和国は彼の在任中に世界最大の観光国となった。生まれ育った時期が移民船時代のため高等教育にあたる学歴は持っていないが、学術サークル時代のアンゼロット記念大学に属しており、その学識はフリューゲルの学問の取り入れに貢献したといわれる。
なお、独自に打ち出した政策はあまりないが、唯一例外的に鉄道振興にはこだわりがあるらしく、道路網よりも鉄道網を中心とした交通インフラ整備を強力に推し進めた。この政策は観光業の発展には貢献したようである。
彼の在任期間の終わりごろにはヴァノミス危機やトロピコ戦役が発生、その中で中央議会の権限は一時低下したが、それもあって戦後の平時体制復帰後は議会の権威の再確立に奔走した。ENECオブザーバー加盟の際の演説を行い、それが承認されるのを見届けて中央議会の職を引退。

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オロール・オーブ・トリベール anchor.png

中央議会第三代議長。
第一期のレゴリス留学組の中でも最年少(初等教育段階)であった女性。最終学歴はレゴリス帝国大学法学部(首席)。レゴリスからの軍事顧問としてロムレーにいたことのあるルーミヤ・グドリャンとは友人。
キャリア官僚であるが、その出自もあいまって同期の中でも一番の出世頭であり、官僚としては監査委員会でキャリアを積む。
トロピコ戦役中の戦時体制では形式上は通商局の役割である鉄鋼資源の管理について、その実務を集約させられた鉄鋼資源管理セクションのリーダーを担当。ロムレーの行政機関としては動員体制を完璧にこなせたのは彼女のセクションぐらいである。戦後はその成果を認められ、監査委員会委員長(行政官としては最高位)に出世した後、二年ほどで慣例に従い退職。中央議会議員に転身、そしてフィールズ議長の退任後の中央議会議長に就任した。
レゴリス留学組の中でも最も有能な人物であることは間違いなく、官僚の影響が大きくなりすぎると渋る議員もいないではなかったが、その能吏ぶりが広く認められていたことは確かである。
680年代を前にして引退、その後はレゴリスとロムレーを行き来しつつ悠々自適の老後生活を送り、時折レゴリス語やレゴリスのエリア・スタディーズ研究の学会誌に論文を寄稿していた。

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ノエル・ヴァロン anchor.png

中央議会第四代議長。
ロムレー大学で工学を修めた後、サン=トゥルミエールのリゾート地でエンジニアとして活躍、後に経営者にもなり周辺島嶼での観光地開発に参入し成功、その後中央議会議員になった。
経歴から観光業への造詣が深く、治安と社会インフラの維持を重視しているとされる。
また、海空軍に対し否定的な見解を抱いている(一説には周辺島嶼の土地収用で海空軍と一悶着あったとも、海外にリゾートを広告する際にトロピコ戦役の悪評に直面したともいわれる)とされ、海外派兵にも消極的な態度をとり、国防予算も抑制された。
690年代末の北東島嶼部の油田開発を巡る論争を抑えきれずに議長職を辞職、現在は一議員に戻り観光政策を中心課題として活動している。

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クレマン・フィリップ・アベラール anchor.png

中央議会第五代議長。
安全保障局のキャリア官僚。合理的規律派に属する議員で、コーデクス主義者。ただ不遇にも彼の時期にはコーデクスが外交的に不活発な時期で、コーデクス外交から得られる成果は少なかった。
軍に抑制的な政策に対する不満の中から中央議会議長に選出された。ノエルとは一転して軍事力の強化を主張し、軍事訓練に努めた。
彼の目指す軍事力増強政策が一応達成され、軍を重視する声が収まったため705年に退職、その次の選挙に出馬することもなく、その後は軍事コンサルタントとして在野で活動している。

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クレピュスキューレ・トリベール=スィジィニョレ anchor.png

中央議会第六代議長。
オロール・オーブ・トリベールの孫娘。その容姿も才能も祖母の鏡写しで、物理学と言語学(趣味らしい)で博士号を持っている才媛。アルヴィドソン大学(レゴリス)、アンゼロット記念大学などで研究員・教授職を歴任してきた。中央議会議員になったのは祖母を超えるためらしいが、実務能力を認められ結局祖母と同じ中央議会議長になってしまった。たまにオロール本人なのではないかと疑われるが、彼女はナイスジョーク的に流す。
祖母譲りの調停能力でノエルやクレマン時期の議会内の方針対立を抑え、国制に関する議論を一段落させた。彼女の下で久方ぶりにロムレー政治は理念的な無政党政治に近づき、党派対立の少ない時代を迎えた。
720年代前半のコーデクス共和国解体というロムレー国民にとっての政治的大変動を平穏のうちに乗り越えられたのも彼女の下でカルヴァン主義共和派と自由思想派がうまく調停されていたためである。
730年に入り二重の衝撃後の政治秩序が落ち着きカルヴァン主義共和派と自由思想派の折り合いもつくようになったことで、彼女の在職期間が祖母の在職期間を上回ったことを口実に引退。その後は祖母同様再び学究の生活を過ごしている。

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ローラン・フィリベール・トワゾン=ダンジュー anchor.png

中央議会第七代議長。
カルヴァン主義共和派のなかでも長老格の穏健派。特筆すべき業績も問題もないまま、もともと高齢だったこともあって748年に健康問題のため退任。

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クロティルド・レイモンド・レーヌ・ビドー anchor.png

中央議会第八代議長。
農林業の保護を主眼とする重農主義者。主だった業績としてはセビーリャ自治政府における聖樹保護推進やユリウス戦役の指揮があげられる。769年に引退した後は自らの農場経営に専念、農協直営店でその名前をよく見かけるという。

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ポール・ラモワン anchor.png

中央議会第九代議長。
教育局出身の文教族議員。新興国における学術振興を図り、サン=トゥルミエール協定とポワンクール協定を締結した。外交予算から学術的コーデクス主義を支えることになったが、政治的コーデクス主義に関しては本人は微温的だったとされる。782年に引退、その後は母校であるアンゼロット記念大学に再入学して生涯学習に励みながら余生を過ごしている。

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レナエル・エミリー・パンルヴェ anchor.png

中央議会第十代議長。
自由思想派の主流派に属する。コーデクス主義に対して懐疑的な態度から、セビーリャの自治を拡大してコーデクス主義者の影響力を削ぐ方針をとった。794年の自由輸出裁量枠制度導入で統治委員会通商部の力を決定的に削げたと判断し795年に退任。

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グラシアン・グウェナエル・シャノワーヌ anchor.png

中央議会第十一代議長。
左派共和主義・社会主義的傾向の強いカルヴァン主義共和派。自由思想派からの反発は強いが、合理的規律派と重農=環境派の対立を仲裁できる数少ない人物であり、北西島嶼の開発計画で盛り上がった両者の対立を融和するために選出された。807年のレゴリス帝国500周年記念式典を最後に引退。

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イジドール・コルネイユ anchor.png

中央議会第十二代議長。
ロムレー大学を卒業後ロムレー・ユニオン銀行に勤務していたが、第二の観光開発の時代にそれを後追いして行われたインフラ整備が財政を圧迫していることにある時気付き、状況を改善すべく監査委員会に職を得て観光業とそのインフラへの整理を断行、財政的に苦しい状況にあった周辺島嶼部コミューヌの立て直しに成功した人物。その業績からコンパクトで効率的な政府を望む民衆の支持を背景に、自らの行った効率化へのバックラッシュを阻止すべく中央議会議長に就いた。
凡百の政治評論家の評価では、過度な観光開発が経済にも環境にも負荷を与えているという立場から重農=環境派に配慮した政策をとる自由思想派。
しかしその実態は、資本家と近しいはずの自由思想派でありながらロムレーの最も主要な資本家である観光資本から徹底的な嫌悪を受け、ポワンクール派である自由思想派に属しながら最も支持層になりにくいはずの地方の保守的なコミューヌの農民から支持を集め、それでいて自らの大衆的な支持に反してポピュリズムをエリート主義的立場から警戒し、コーデクス主義の発展に対する楽天主義を乱開発の元凶として倦厭する一方で学術的コーデクス主義の凡そあらゆる研究領域に通暁し、しかも政治的コーデクス主義者と敵対しながら合理的規律派の主流派には一定の評価を受けており、さらにはセニオリス的ないわゆる「ダイエット主義」に近い経済観を持ちながら813年戦争ではセニオリスを初めとするETO諸国との戦争を指導するという矛盾の人。
そんなこんなでとにかく毀誉褒貶の激しい人物であり、就任直後から「観光立国ロムレーの奇妙な死」「手の込んだ自殺」とも「ジャンベールの再来」「古き良き国制の再建者」とも評される。
三重苦の危機後、議論をひとまず落ち着かせた後、もはや自らの目標とする「効率的な経済」ではなく別の問題が争点になったことを見て834年に引退。

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リカルダ・ロブレド・サンドバル anchor.png

中央議会第十三代議長。
セビーリャ系一世で熱烈なコーデクス主義者である論理学者とロムレー人で計算機工学者を両親に持つセビーリャ系二世。三重苦の危機で主要党派が混乱する中、独自の主張で注目を集め議長に就いた。
生まれ育った環境からコーデクス主義に慣れ親しんでおり、そのままロムレー大学で経済物理学を学び修士号を取得。これを通じてレッセ・フェール的な思想傾向も持つようになり、その後クレディ・ロムレー社投資銀行部門に勤務し普藍やヴェニス島といった新興資本主義経済の急成長を間近で捉えたことによりその傾向を強める。
本人は自由思想派であると自認しているが、同じ自由思想派でありながらもコルネイユ前議長とは犬猿の仲である。文化的自由主義である自由思想派のメインストリームと異なり、自由放任経済を主唱するという点で異端児であり、一方でコーデクス主義者としても中央コンピューターへの集約化より分散的なネットワークを重視する変わり者でもある。


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最終更新: 2019-06-13 (木) 21:37:42 (JST) (1740d) by sellafie