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本項では石動地域(石動本州・菜良島・その他周辺諸島)と、その領有を主張する石動民族の出自・年代史について記述する。
建国以前
西暦2051年、日本国に於いて皇室典範改正が行われ、女性宮家の創設が認められた。皇室はこれにより岡山県に内親王を派遣し「高松宮家」を復活させた。その9年後の2060年、深刻な地球の環境悪化を危惧した日本政府は、JAXAに指令を出し、各地から移民ロケットを打ち上げる「カミヨ計画」を発動。各地の名士の協力を求めた。岡山県ではこれに高松宮家と旧武家の池田氏が全面的に協力し、2067年、超大型移民宇宙船「希望号」がおよそ8000名の移民を乗せ、地球を旅立った。しかし同船は冥王星通過後に強力な磁気嵐に巻き込まれ、何百年もの漂流を余儀なくされ、その間数世代にわたり宇宙船内での世代交代が繰り返され、やがて宇宙船は閉じられた空間内でのストレスから諍いや殺し合いが頻発。しかしそれを和を以て収められたのが、希望号における高松宮家の長、駿子様であった。彼女は後に初代皇帝駿河宮陛下として御即位することとなる。
その後、フリューゲル歴380年ごろに希望号は現在の石動本州の児島に不時着。一団は駿河宮陛下を皇帝として戴き、漁労・狩猟・農業で生計を立てつつ、地球史に堪能なものを中心として国家としての枠組みを整備していき、遂に411年5月14日、駿河宮皇帝陛下は明日香宮皇帝陛下へ譲位。明日香宮皇帝陛下は「大石動帝国」の建国を宣言されたのである。これが第一帝政の始まりである。
第一帝政
明日香宮皇帝は、武家の新田智義を初代総統に任じ、新田内閣は成蘭連邦王国のウラン鉱山開発支援を取り付けた。ただ、この時国土開発のために算出資源の中でも特に重要視されていた石材が欠乏。総統に避難が集中したため、新田総統は精神を病みサナトリウムに入院。この間代理を務めた陸軍卿足利孝弘陸軍大将が事実上二代総統となるに至った。この時新田元総統は足利総統の就任を「指導者不在を利用した狡猾なクーデター」などと批判し非常に恨んだと言われており、暗殺騒動までもが巻き起こり、武家内における新田氏と足利氏の深刻な対立を生んだ。
成蘭連邦王国の支援の下、帝国は燃料欠乏問題・自由民権運動・震災や怪獣被害などを経験しつつ、みるみるうちに発展していき、北畠内閣の頃に至っては新興国である瑞陵王国へウラン鉱山開発援助を行い、その対価として不当なレートでのウラン輸出を強要するといった強圧的な行為や、アルカディア経済国家共同体への加盟を行うなど、その内外の発展は目を見張るものがあった。しかし北畠三代総統の辞任に伴い、初の平民出身総統である田中藤次四代総統が就任。この時同盟国である大神連邦や友邦天津飯帝国が崩壊。この当時の帝国の栄華は貿易によるものが大きかった為、取引国の崩壊による経済破綻が起こり、間もなく民心は帝国を離れ、国土は荒廃し、帝国は事実上崩壊した。また、この際の田中総統の無策は、石動人に、政党政治・議会政治に対する大きな失望をもたらした。
天理教国時代
第一帝政瓦解後、石動の大規模な宗教団体である天理教の教主、中山薫子は、自給自足農業で経済破綻の影響を受けなかった石動領菜良島に注目。同島を拠点に宗教国家、「神性天理教国」を建国することに決定。早速同島に上陸し島民に布教を試みたが、土着宗教が深く根付いていた同島での布教は成功しなかったため、失業軍人の信徒らに安価なオストマルク製銃器を配布し「教庁自衛隊」を組織。武力により同島を実効支配し、455年1月15日に神性天理教国の建国を広く世界に宣言した。しかし、この動きを憂慮した極右団体、国家社会主義石動労働者党(以下、国社党)は、少数の近衛残党とともに本州に残っていた明日香宮皇帝の三女、近江宮第三皇女に状況を説明し、菜良島を残存兵力で奪還し帝政石動を再建する事を提案する。近江宮第三皇女はこれに同調し、赤松雅彦陸軍中将を総司令として陸海軍残存兵力を糾合し、国社党臣民突撃隊と共に456年1月13日に菜良島へ上陸。教庁自衛隊の応戦も虚しく、2月2日には皇女軍は天理教本部目前まで迫り、天理教国は降伏した。中山薫子は一度は幹部らとともに逃亡を図り香麗との接触を試みたがこれを拒絶され、457年9月7日、龍鮮王国(現大和寧帝国)領で途方に暮れている所を龍鮮警察に逮捕、強制送還された。彼女は10月14日に臨時裁判において死刑判決が下された。
第二帝政
456年2月2日に菜良島を奪還した近江宮第三皇女は、菜良市で石動三代皇帝に即位。石動第二帝国の建国を宣言した。第一帝政瓦解の失敗を重く見た近江宮皇帝は、国社党に立法や行政権力を移譲することを決断、これにより2月4日、第二帝国暫定統治政府第一回最高為政会議は、「内閣委任統治法」を発布し大石動帝国憲法を事実上停止。ここに「国家社会主義君主制国家」という奇妙な国家が形成された。暫定政府臨時総統には菜良島奪還作戦の総司令であった赤松雅彦中将が推挙された。その後震災を経験したり、強力な電波障害による鎖国を余儀なくされつつも、第二帝政は順調に発展し、467年5月22日には首都圏治安警察機構法が制定され、警察国家的な国家社会主義国としての法整備も順調に勧めていった。
471年7月17日に赤松総統が高齢により辞意表明を行うと、国社党が制度化した全国民投票による総統選挙が行われた(皮肉なことにこの選挙こそが石動で唯一行われた民選による政治指導者選挙であった)。宮内省は候補者として楠木雅之陸軍中将、千早敬三副総統、高野直内閣総統府書記官長を指名した。楠木中将には総統就任の意欲はなかったため、選挙は実質千早副総統と高野書記官長の一騎打ちとなった。千早副総統は第一帝政期の平民院議員であり、「立憲君主制への回帰」「社会保障・教育・インフラ整備並行進行」を標榜する国社党内の元平民院議員らによる「議会派」の中心人物であった。対して高野書記官長は「インフラ整備・教育・社会保障」の順に整備を行っていくべきという国社党内の急進派「発展派」の急先鋒と言える人物であった。選挙は99.8%という異常な投票率を記録し、8935票の僅差で高野直書記官長が当選。第六代総統に就任した。ここから議会派は党内から一掃され、石動は国家社会主義君主国家としての道を突き進むこととなった。
その後475年2月8日、当時中夏民国の軍政下から独立した秋津皇国からの要請を受け、同国を併合し、秋津皇王領秋津州とした。国号も秋津側の提案により大石動帝国とされた。この際中夏領と秋津領の島名重複による魚釣島騒動が発生した。
その二年後の477年12月、友好国龍鮮王国にて共産主義者が蜂起、龍鮮戦争が勃発した。高野直総統は龍鮮王国の要請を受けすぐさま龍鮮政府の援助を決定。2月10日には近衛第一師団、第六・第七師団、武装親衛隊第二親衛機甲師団を派遣。27日には東海に戦艦アマテラスほか重巡2隻、軽巡6隻を派遣。中夏人民共和国義勇軍(自称)の介入に悩まされながらも、3月には陸軍約5万、秋津州軍約4万の増派も行われ、12月に龍鮮・石動・ノイエクルス・エルジアによる連合軍により赤軍は撃退され、龍鮮戦争が集結。この戦争により石動軍は弱兵ぶりを晒しつつも、のちに大幹帝国となる龍鮮王国とより深い信頼関係を築くこととなる。
しかし一方で秋津州との関係は微妙なものになっていた。石動政府は秋津州に対しインフラ整備と国内産業の商業特化を指示していたが、秋津州は一向にこれを実行せず、保有を認められていた州軍の徒な増強を繰り返し、遂には突如として国内の商業都市を全て工業都市に作り変えるに至った。秋津州の態度に絶望し、もはや秋津州の領有は不可能と見た政府は480年4月3日には秋津総督柏宮親王を帰国させ、10日には全在留邦人が撤退。6月12日に主権を放棄した。石動政府の主権放棄を受けて秋津は大秋津帝国を名乗り独立を宣言したが(この際声明において「やられたらやり返す、倍返しだ」などと意味不明なことを言っていたという)、結局なんの前触れもなく滅亡してしまった。極端な軍拡と劣悪なインフラ環境で国内の不満が爆発し、政権が打倒され再び群雄割拠の時代に逆戻りしたものとされている。
しかしそれから三年後の483年12月27日、政府は玉島原子力発電所がメルトダウンしていたことを発表。小さな菜良島はたちまち全域が放射能影響下に入る事が発覚し、政府は同島を放棄し皇族・武家・公家を中心に友邦龍鮮王国へ亡命し、翌484年1月18日に在幹石動臣民臨時亡命政府を発足した。しかし行き場をなくした多くの石動人は世界中へ散り散りに逃れてしまった。この際、無政府状態となっていた旧本州(現在の石動本州)へ逃れた者たちも少なくなかったという。
その後、皇帝のもとに集った在幹石動人達は大幹帝国と共に、オセアニカ・アースガルド戦争の敗北という艱難辛苦を味わうこととなる。
北条政権時代
在幹石動人たちが幹国で敗戦の苦渋と復興を味わっていた頃、本州は依然として無政府状態の無主地と化しており、テロリスト・マフィア・海賊・敗残兵軍閥が各々勢力を築き群雄割拠する無法地帯と化していた。そんな中、一人の秋津系石動マフィアの北条司は、麻薬売買や人身売買の仲介を行って得た金で香麗から武器を仕入れ、各地の勢力に対し懐柔と侵略を繰り返し、遂には本州を統一するに至った。本州統一を成した北条司は各地の有力者を藩主に封じ、522年12月4日に「北条合藩連合」の建国を宣言。大幹帝国政府に対し、自国との国交と「石動の象徴としての」時の石動皇帝後明日香宮の「保護のための」引渡しを求めた。これに対し大幹帝国は「大幹帝国政府が石動において認める唯一の正統政府は在幹石動臨時亡命政府のみ」「後明日香宮皇帝は引渡しに応じない」という理由で北条側の申し出を拒否。遂には足利尊子臨時総統を中心とする石動亡命政府により「在幹石動臣民突撃義勇軍」が組織され、大幹帝国軍の援護を受けて翌523年6月13日に本州へ上陸した(石動動乱)。北条は香麗の支援を受け頑強に抵抗したが、北条に与していた新田藩の離反やレゴリス・フリューなど列国の参戦により、わずか4ヶ月後の10月13日、山岡市の陥落に伴い北条合藩連合は降伏した。
南北朝時代(南北動乱の発生と終焉)
北条の陥落に伴い後明日香宮皇帝は室満京において「石動第三帝国」としての石動帝国の復活を宣言。足利尊子臨時総統は六代総統に就任した。第三帝政の始まりである。第三帝国は再び成蘭連邦王国の支援やレゴリス帝国の融資を受けつつ、528年にはCAMEに、530年にはOTOに加盟し、晴れて友邦大幹帝国(現大和寧帝国)の盟邦に返り咲いた。
しかし国社党や、党を事実上牛耳る足利尊子総統を中心とした武家勢力に政権が欲しいままにされている状況に、後明日香宮皇帝を中心とする公家勢力は大いに不満を抱いていた。彼らは第一帝政期の立憲君主体制下では公家院議員や閣僚としてある程度の政治参画が認められていたため、第二帝政下での国社党専制、第三帝政下での武家専制に大いに不満を募らせていたのである。時の宮内卿兼内大臣北畠千恵は、後明日香宮皇帝に「軍事クーデターで武家勢力を排除し、皇帝が君臨し統治するあるべき帝政国家を建国すべき」と進言し、後明日香宮を中心とした公家勢力は陸軍近衛や新田沙代副総統・楠木雅茂陸軍大佐などの協力を取り付け、532年2月9日に帝都において蜂起。第三帝国政府を撃退し正統吉備皇国の建国を宣言した(石動南北動乱)。第三帝国政府はやむなく傍系皇族である柏宮流の真備宮親王を皇帝に奉じ帝都北方の津山市に大本営を設置。さらに真備宮皇帝が足利尊子総統を陸海軍・武装親衛隊(当時。後の直参親衛軍)の最高指揮官たる征夷大将軍に任命し、自身の正当性を主張。ここに石動国内に於いて二つの皇統・二つの政府がお互いの正当性を主張しあう南北朝状態が醸成された。その後大幹帝国の北朝支援もあって北朝は南朝を本州南方の浄土島、並びに秋津地域南部の丘州へ追いやったが、依然として南北の拮抗は続き、その間南朝による本土浸透作戦・商船拿捕事件や、それを受けての大幹帝国による丘州討伐などが行われた。
そうした中で足利尊子将軍は543年10月1日、建国以来の歴史を持つ内閣制度を廃止し、征夷大将軍が兵権・行政の全権限を司る公方府制を確立させた。これにより北朝における足利尊子将軍の権力は磐石になるかと思われたが、政権内部では高野翼統合参謀総長を中心とする武断派と、足利直管領(尊子将軍の妹)を中心とする文治派の対立が表面化。直管領は高野参謀総長とその一派の乱脈ぶりを尊子将軍へ直訴し、高野参謀総長を罷免させるに至ったが、これに反発した高野翼参謀総長は配下の直参親衛軍を動かしクーデターを敢行。公方府を包囲し尊子将軍に自身の罷免取り消しと直管領の永久公職追放及び出家を求め、尊子将軍がこれに応じるに至った。しかしその後直管領が皇国義勇軍を名乗り敷倉市で挙兵するや否や、尊子将軍は高野翼参謀総長の公職永久追放・出家を条件に直管領と和睦。さらに高野翼参謀総長は更迭中に自身が暗殺した政敵上杉重義管領の長男、上杉義典陸軍中佐に殺害されてしまった。しかしこれで尊子・直姉妹の友情が復活したかと言われればそんなことは無かったようで、その後も直管領に近しい公方府高級職員・軍人などが左遷・免職・暗殺などを被るという不穏な状態が続いた。
ただ、この様な悲惨な政争が繰り返される中でも帝国経済は確実に成長しており、明日香宮皇帝紀元150年にあたる561年5月14日の紀元節には13ヵ国の来賓を迎えた盛大な祝典が催され、世界にその復興ぶりを示した。
しかし566年4月22日、小康状態に落ち着いたと思われていた動乱は大きな転換期を迎えた。南朝が占拠する浄土島に巨大隕石が落下し、熱病で崩御した後明日香宮の娘、後駿河宮皇帝を中心とする南朝重心が全員死亡してしまったのだ。これにより南北朝状態は終結したかに見えたが、丘州の吉備秋津義勇軍が後駿河宮の妹の長押宮を奉じ、浄土島のさらに南方の嘉川島に上陸、同島を占拠したのである。彼らは長押宮を吉備六代皇帝に戴き正統吉備皇国を再建(後南朝)、南北朝状態は依然として継続された。さらに翌567年1月21日には北朝の帝都室満京市に巨大隕石が落下。皇帝・将軍ほか主要閣僚は室満京脱出に成功したものの、少なくとも600万人の国民が犠牲になり、北朝の政府機能は完全に麻痺。国内は恐慌状態に陥り、国外へ逃亡する者が続出した。さらに本土に潜伏していた南朝軍が国民の不安を煽り各地で挙兵。足利直管領も敷倉市で南朝を名乗り挙兵し、国内は荒廃した。事態を憂慮した北朝武家勢力は独断で大幹帝国の仲介を取り付け南朝との停戦協議に臨み、南朝皇帝を正統皇帝に戴くなど南朝に大幅に譲歩した条件で合併を申し入れた。南朝はすぐに条件を受け入れ、572年6月9日、石動第三帝国・正統吉備皇国両国の国交・条約を継承した大吉備帝国が成立した。この時北朝皇帝真備宮はもはや事後承諾と言える和睦に半ば恫喝にも近い形で承認を迫られたという。またこの和睦が成されるやいなや尊子将軍は自ら敷倉市の直元管領を討伐した。
こうして名実共に南北統一がなされたかに見えたが、573年2月3日、南朝強硬派の新田秋穂陸軍卿は長押宮皇帝の承諾を取り付け「足利尊子征夷大将軍の将軍宣下取り下げ」「公方府解体」を布告した。動揺した尊子将軍と北朝武家勢力は陸軍・親衛軍主力を糾合し敷倉・津山両都市で蜂起。復興された室満京市を包囲し、布告の撤回を条件に南朝側に和睦を迫った。結果は新田陸軍卿による受諾拒否であり、尊子将軍勢力は帝都を総攻撃。大幅な経済損失を出しつつ、573年6月20日に帝都の奪還に成功。しかし南朝は北朝真備宮皇帝・孝寧院太上皇婿・後真備宮皇女ら三皇族を拉致。北朝はやむなく成蘭王太子妃となっていた衵宮皇女を太上皇帝に奉じ、彼女の叔母にあたる真備宮の妹、旭宮を北朝皇帝に戴くこととなったが、程なく南朝側和睦派の情報提供により三皇族が無事救出され、救出された後真備宮皇女が七代皇帝に即位した。こうして南北両朝は再び本州と嘉川島に対峙する構図となった。しかし578年4月14日、阿蘇直子太政大臣を中心とする南朝和睦派が嘉川島を掌握。新田秋穂を中心とする強硬派は秋津南方の埜久島へ逃れた。これを受けて遂に南北両朝は6月16日に停戦に合意し、587年1月20日に正式に停戦条約に調印。法的にも南北朝動乱は完全に収束した。南北動乱の実質交戦期間は46年、法的な交戦期間は56年にも渡った。
CAME圏・幹半島をめぐる外交史
一方で外交においては、CAME/OTOの実質盟主国たるノイエクルス連邦との関係が急激に悪化していた。これは我国が申請した鋼鉄購入申請をノイエクルス自由国が二年間に渡り放置した上で、鋼鉄を潤沢に有していた上で「資源節約」を理由に取引を拒否した事件(メタルショック)に端を発し、公方府・皇室内に於いてノ連への不信感が急速に高まった事件であった。特に事件を問題視した後真備宮帝は尊子将軍に在石ノ連大使のペルソナノングラータを強く命じ、576年6月9日、これが実行に移されるに至った。さらに大幹帝国による石動・ノ連間の調停が試みられたが、ノ連側から対応が不適切であった事を認める謝意を引き出すことが絶対条件であると厳命されていた佐々木外務卿は、ノ連側の対応を見て謝意を引き出すことは不可能と見て、交渉失敗時の計画に則りCAME/OTO条約の一方的破棄を通達して足早に退出した。
この際調停を行った大幹帝国の尹阜善首相は引責により内閣総辞職を行い、大幹帝国において初の反石動政権である盧文鉉政権が成立。以後盧文鉉政権下の大幹帝国と石動との関係は急速に悪化することとなる。盧文鉉政権は大幹帝国軍石動守護帥に帰国命令を発するが、石動守護帥はこれを拒絶。これに怒った盧文鉉政権は581年7月9日、「守護帥の拘束・送還とCAME/OTO両条約破棄の撤回」を要求した最後通牒を突きつける。到底受け入れがたいとしてこれを黙殺した石動であったが、同年12月7日、幹国海上防衛隊の防衛艦「対馬」が何者かによって撃沈されると、盧文鉉政権は遂にこれを石動軍と石動守護帥によるものと断じ対石宣戦布告を行った。しかし好機と見た香麗民主連邦が大幹帝国に南進し京城が奪われたため、鄭俊雄航空幕僚長ら親石動派によるクーデターが決行され、反石的な盧文鉉政権が打倒された。石動は大幹帝国の維新政権から出兵依頼を受けたが、国際与論も考慮し、また内戦により再び幹半島が疲弊することを善としなかった公方府は、かつて香麗と通じていた旧大吉備帝国のパイプを活かし、香麗における和睦派と結託、香麗における指導部強硬派の排除を結構した。陸軍中央即応部隊群特殊作戦大隊による「夜鷹作戦」と呼ばれる特殊作戦がそれであった。果たして584年3月21日に決行された夜鷹作戦は成功、香麗強硬派首脳陣の殺害とこれによる香麗和睦派の台頭が成功、4月1日には龍鮮統一準備政府が発足されるに至った。しかし国際社会では「国際法を無視したテロ行為」などの非難の声が上がり、同年2月に香麗へ宣戦布告していたノイエクルス連邦も「龍鮮統一準備政府は停戦条件を満たしていない」として旧香麗支配地域へ空爆を開始。龍鮮統一準備政府・ノ連間が戦争状態となったが、程なく停戦し、幹半島には統一政府にして石動友邦たる大和寧帝国が成立するに至った。
足利尊子初代征夷大将軍の薨去と、晶子二代将軍による内政改革。
この頃足利尊子初代征夷大将軍はすでに将軍位を返上し、長女の晶子が征夷大将軍の座にあったが、585年8月にはとうとう尊子初代将軍が薨去した。以後晶子将軍は大胆な内政改革に踏み切った。590年4月21日、第二帝政以降石動の治安を護ってきた首都圏治安警察機構を廃止し、商業に対する厳しい監察を撤廃。以後石動の商業売上高は急成長した。さらに同年5月11日には制限的とは言え、第二帝政以降完全に政治から切り離されていた平民の政治への参画を可能とする「立法会議」を成立させた。これによって国民の幸福度と商業売上高は大きく跳ね上がり、石動社会は大きな変革を迎えるに至った。
建国以前
西暦2051年 | 4月 | 19日 | 日本政府、皇室典範を改正。女系宮家承認。 |
10月 | 20日 | 日本皇室、岡山県に紘子内親王を派遣。「高松宮家」再興。 | |
西暦2060年 | 6月 | 13日 | 日本政府、JAXAに「カミヨ計画」発動を指示。 |
西暦2067年 | 8月 | 14日 | 超大型移民宇宙船「希望号」小豆島航空宇宙センターより打ち上げ。8000名が外宇宙へ。 |
380年頃? | - | - | 希望号、石動本州児島に不時着。駿河宮皇帝、初代皇帝に即位。 |
第一帝政
411年 | 5月 | 14日 | 駿河宮皇帝、明日香宮第一皇女に譲位。明日香宮皇帝、二代皇帝に即位。 |
明日香宮皇帝、大石動帝国建国を宣言。 | |||
6月 | 8日 | 成蘭連邦王国と鉱山開発援助条約締結。国債発行。 | |
412年 | 10月 | 9日 | 対成蘭国債完済。 |
413年 | 1月 | 4日 | 備蓄石材欠乏。新田智義初代総統に非難集中。 |
6月 | 13日 | 新田総統、精神を病み公務休暇。サナトリウムへ入院。 | |
8月 | 17日 | 新田総統に代わり足利孝弘陸軍卿が二代総統就任。新田元総統は非難。 | |
12月 | 26日 | 新田元総統がサナトリウムより退院するも復帰には参議が反対。 | |
414年 | 1月 | 23日 | 帝都龍城京造営。宮城・諸官庁及び公家・武家邸宅が同地に移転。 |
10月 | 28日 | 帝国議会議事堂落成。政府、憲法制定準備を開始。 | |
11月 | 15日 | 帝国憲法発布。 | |
21日 | 帝国憲法施行。 | ||
415年 | 1月 | 3日 | 九龍半島磯江岬(現在の埴輪県付近か)に初代皇太神宮を造営。 |
416年 | 10月 | 16日 | 足利総統暗殺事件発生。新田氏家人を犯人として逮捕。新田元総統は関与否定。 |
418年 | 9月 | 21日 | 我が国初のデモが発生。 |
419年 | 3月 | 3日 | 山岡県山岡市、帝国初の現代都市化。 |
420年 | 10月 | 16日 | 八十島県に怪獣クジラ出現。 |
12月 | 18日 | 4匹まで増殖したクジラ、マハエール帝国により無事退治される。 | |
424年 | 4月 | 6日 | 燃料欠乏の引責により足利総統辞任。後任に北畠智佳公家院議員が三代総統就任。 |
425年 | 12月 | 14日 | 第一次石動大震災発生。 |
429年 | 8月 | 12日 | 食糧不足が深刻化。一部の臣民が暴徒化。 |
431年 | 2月 | 13日 | 帝国陸軍憲兵隊、治安出動により食料不足利用し扇動を行った反乱分子を一斉検挙。 |
432年 | 5月 | 16日 | 海軍第一海防艦隊結成。 |
434年 | 12月 | 27日 | ミナカヌシ級戦艦ミナカヌシ建造。 |
435年 | 2月 | 28日 | 海軍が議会に戦艦一隻、海防艦隊一艦隊分の追加予算を要求。陸軍が反発。 |
436年 | 2月 | 23日 | 海賊襲来を受け、議会が海軍の無能を指摘。海軍は軍費不足理由に反発。 |
6月 | 5日 | 第二次石動大震災。 | |
437年 | 12月 | 7日 | 山岡県東部に巨大隕石落下。 |
439年 | 9月 | 8日 | 槙島市(現在の埴輪市)、現代都市化。 |
440年 | 11月 | 27日 | 第三次石動大震災発生。 |
443年 | 8月 | 13日 | 駿河宮一代皇帝御崩御。 |
9月 | 30日 | 駿河宮帝の国葬挙行。 | |
445年 | 1月 | 3日 | アルカディア経済国家共同体加盟。 |
448年 | 7月 | 8日 | 北畠総統、高齢により辞任表明。 |
8月 | 14日 | 田中籐次総統、四代総統就任。初の平民院出身総統。 | |
450年 | 4月 | 中旬 | 崩壊した大神連邦王国の難民が大量流入。 |
451年 | 6月 | - | 燃料危機。政府機能低下開始。 |
452年 | - | - | 第一帝政瓦解。国民は国外へ逃亡、国内で暴徒化などする。 |
第二帝政
456年 | 2月 | 2日 | 近江宮第三皇女、三代皇帝に御即位。石動第二帝国の建国を宣言。赤松雅彦陸軍大将が臨時総統就任(五代総統)。 |
4日 | 暫定統治政府第一回最高為政会議、「内閣委任統治法」を発布し帝国憲法を停止。 | ||
10日 | 拘束中の中山薫子、団体幹部23名と共に菜良島を脱走。 | ||
457年 | 9月 | 7日 | 中山薫子ら、龍鮮王国で密入国、銃器不法所持の容疑で逮捕さる。 |
15日 | 中山薫子、内乱罪・大逆罪の容疑で我が国に送還さる。 | ||
458年 | 4月 | 23日 | 菜良島大震災。 |
10月 | 14日 | 臨時裁判により中山薫子他46名に死刑判決。 | |
459年 | 8月 | 24日 | 帝都・兵城京造営。 |
460年 | 3月 | 3日 | 強力な磁気嵐「宿酔電波」により渡航・通信が困難となり、臨時鎖国処置を発表。 |
466年 | 4月 | 7日 | 「宿酔電波」消失。臨時鎖国処置を解除。 |
8日 | 秋津君主国崩壊により秋津難民流入。 | ||
467年 | 5月 | 22日 | 暫定統治政府第六回最高為政会議、首都圏治安警察機構法を制定。首都圏治安警察機構創設。 |
471年 | 7月 | 17日 | 赤松総統が高齢により辞任。全臣民による総統選挙行が決定。 |
8月 | 6日 | 宮内省が総統候補者として高野直内閣総統府書記官長、千早敬三副総統、楠木雅之陸軍中将を発表。 | |
9月 | 10日 | 総統選開票。高野直内閣総統府書記官長が当選。 | |
30日 | 高野直六代総統任命式、宮城紫宸殿にて挙行。 | ||
12月 | 12日 | 橿原北自動車道開通。国土流通強靭化計画完遂。 | |
475年 | 2月 | 8日 | 「石動第二帝国による秋津皇国併合に関する条約」締結。秋津皇国を併合、秋津皇王領秋津州とし、国号を「大石動帝国に変更。 |
- | 中夏民国が釣魚島に駐屯地を建設。宣閣諸島釣魚島との島名重複により領土侵犯騒動が発生。混同回避の為宣閣諸島釣魚島を魚獲島に改名。 | ||
11月 | 21日 | 秋津州にて震災。 | |
478年 | 1月 | 5日 | 新山岡市にてキングいのら出現。市内東部に深刻な被害。 |
2月 | 10日 | 龍鮮王国政府の要請を受け、龍鮮戦争参戦。近衛第一師団、第六・第七師団、武装親衛隊第二親衛機甲師団を派遣。 | |
27日 | 東海に戦艦アマテラスほか重巡2隻、軽巡6隻を派遣。 | ||
3月 | 15日 | 陸軍約五万・秋津州軍約4万を増派。 | |
6月 | 21日 | 龍鮮・石動・エルジア連合軍、京城大攻勢敢行。京城をほぼ制圧。 | |
12月 | 4日 | 龍鮮連合軍、緑鴨江に到達。龍鮮戦争終結。 | |
480年 | 4月 | 1日 | 秋津総督府全職員及びに在秋全邦人に帰国命令。 |
3日 | 秋津総督柏宮親王帰国。 | ||
10日 | 秋津総督府全職員及びに在秋全邦人、完全撤退。 | ||
6月 | 12日 | 「石動第二帝国による秋津皇国併合に関する条約」の失効を宣言。 | |
483年 | 1月 | 4日 | 石龍連合軍による18日間に渡る石動本州海賊掃討作戦が終了。 |
12月 | 27日 | 玉島原発のメルトダウンが発覚。政府は菜良島放棄を発表。 | |
484年 | 1月 | 16日 | 皇帝家・公家・武家及び高野総統以下国家社会主義石動労働者党員が大幹帝国へ亡命。 |
18日 | 在幹石動臨時亡命政府発足。 | ||
491年 | 1月 | 29日 | 在幹石動亡命政府、「石動義勇隊」発足。オセアニカ・アースガルド戦争に参加 |
3月 | 5日 | 近江宮皇帝、風土病で崩御。 | |
7日 | 神凪宮第一皇女、四代皇帝に即位。 | ||
522年 | 11月 | 16日 | 神凪宮皇帝、食道ガンで御崩御。 |
17日 | 高野直六代総統、自宅にて拳銃自殺。 | ||
23日 | 後明日香宮第一皇女、五代皇帝に即位。 |
初期(南北朝時代)
527年 | 1月 | 28日 | 北条司の長男、北条時宏が津山県で謀反(半先代の乱)。 |
528年 | 4月 | 31日 | CAME加盟。 |
530年 | 10月 | 13日 | OTO加盟。 |
12月 | 17日 | 海軍第一艦隊編成。 | |
531年 | 8月 | 10日 | アマテラス級戦艦アマテラス、幹国海上防衛隊より帝国海軍に返還さる。 |
532年 | 2月 | 9日 | 後明日香宮帝、帝都にて挙兵。正統吉備皇国建国(石動南北動乱)。 |
孝寧君太上皇婿、後明日香宮帝を廃帝とし、真備宮帝を新皇帝に。 | |||
11日 | 南朝新田紗代、埴輪県占領。 | ||
5月 | 15日 | 真備宮帝、足利尊子総統を征夷大将軍に任命。 | |
6月 | 18日 | 南朝楠木雅茂、北朝津山大本営を爆撃。 | |
11月 | 3日 | 大幹帝国防衛隊援石征賊帥、北朝軍と合流。 | |
21日 | 北朝・幹国連合軍、美作市奪還(美作会戦・美作決戦)。南朝の楠木雅茂大佐戦死。 | ||
533年 | 3月 | 25日 | 帝都及び埴輪県奪還。南朝の新田紗代左大臣兼鎮守府将軍、北畠顕近衛大将戦死。後明日香宮帝は浄土島へ。新田秋穂は旧秋津領丘州へ。 |
10月 | 21日 | 大幹帝国、資金50兆Vaを無利子無期限で借款。 | |
534年 | 3月 | 28日 | 南朝後明日香帝崩御。後駿河宮帝践祚。 |
536年 | 3月 | 5日 | 南朝脇屋義介大佐が津山市で挙兵。 |
15日 | 脇屋義介大佐、現代都市津山市へ侵入し、同市市街地をわずか10日で焼き払う。 | ||
21日 | 陸軍航空隊、脇屋軍を空爆し鎮圧。脇屋大佐の死亡は確認できず。 | ||
540年 | 3月 | 2日 | 脇屋義助・北条時宏ら南朝軍、室満京市北区法戒院付近で挙兵。周辺地域を焼き討ち。 |
8日 | 南朝軍、三軒屋駐屯地を攻撃。大幹帝国防衛隊石動守護師がこれに応戦。 | ||
14日 | 三軒屋駐屯地壊滅。石動守護師全滅。 | ||
4月 | 11日 | 北朝空軍の空爆により南朝軍殲滅。脇屋義介・北条時宏の死亡を確認。 | |
545年 | 10月 | 6日 | 泥酔した土岐頼亨親衛少将が孝寧君太上皇婿の御用車圧砕。 |
548年 | 10月 | 16日 | 足利直管領の讒言による参謀総長職罷免に反発した高野翼参謀総長がカウンタークーデター。足利直を公職追放。 |
543年 | 9月 | 31日 | 真備宮皇帝陛下、「征夷大将軍永代足利氏の勅」を発布。 |
10月 | 1日 | 内閣制度廃止。公方府体制へ移行。 | |
549年 | 4月 | 23日 | 二代管領上杉重義暗殺。後任に今川範邦。 |
549年 | 10月 | 18日 | 高野翼参謀総長暗殺未遂事件。 |
11月 | 17日 | 首都系治安警察機構、高野翼暗殺未遂事件の首謀者として畠山一泰陸軍中将を逮捕。 | |
551年 | 8月 | 16日 | 吉備秋津義勇軍、「海上有得銭徴収令」宣言。幹国船籍のタンカー、シベリア船籍のコンテナ船を拿捕。 |
553年 | 4月 | 3日 | 空母いざなみ竣工。 |
556年 | 1月 | 23日 | 足利直、陸軍将兵・真言宗門徒・一般市民を糾合し敷倉市で挙兵。皇国義勇軍名乗る。 |
2月 | 16日 | 皇国義勇軍、中庄で北朝軍撃退。帝都へ侵攻。 | |
20日 | 皇国義勇軍、帝都攻略。北朝は津山市へ転身。 | ||
6月 | 17日 | 足利直元管領、尊子将軍と和睦。還俗し管領職に復帰。高野翼参謀総長、出家の上免職。 | |
8月 | 14日 | 上杉重義管領の長男の上杉義典陸軍中佐、更迭中の高野翼殺害。 | |
559年 | 1月 | 18日 | 足利直管領の秘書官長、斎藤利継氏暗殺。 |
4月 | 8日 | 航空宇宙軍創設。 | |
6月 | 11日 | 気象衛星アメノウキハシ打ち上げ。 | |
561年 | 5月 | 14日 | 明日香宮皇帝紀元150年。13ヵ国来賓招聘し祝典挙行。 |
566年 | 4月 | 20日 | 浄土島、巨大隕石により消滅。後駿河宮はじめ南朝重臣死亡。 |
23日 | 吉備秋津義勇軍、後駿河宮の妹長押宮を奉じ嘉川島へ上陸。 | ||
26日 | 吉備秋津義勇軍、北朝嘉川島守備隊を撃退。正統吉備皇国再建(後南朝)。 | ||
567年 | 1月 | 21日 | 帝都室満京に巨大隕石落下。北朝国家機能喪失。 |
3月 | 25日 | 美作県英田市で南朝軍楠木雅貫挙兵。 | |
568年 | 6月 | 15日 | 足利直管領、再び皇国義勇軍名乗り敷倉市で挙兵。 |
572年 | 6月 | 9日 | 石動第三帝国・正統吉備皇国、石動第三帝国並びに正統吉備皇国の合併に関する条約に調印。大吉備帝国成立。 |
11日 | 尊子将軍、長押宮帝の宣旨を受け足利直討伐へ進発。 | ||
573年 | 2月 | 3日 | 新田秋穂陸軍卿、長押宮帝の宣旨を受け足利尊子征夷大将軍の将軍宣下取り下げ、公方府解体を布告。 |
15日 | 旧北朝武家勢力、尊子将軍を中心に、敷倉・津山で蜂起。 | ||
4月 | 22日 | 北朝勢力、帝都包囲。将軍宣下取り下げ・公方府解体両布告の撤回求める。 | |
6月 | 18日 | 新田秋穂陸軍卿、北朝の要求を拒否。 | |
20日 | 北朝勢力、帝都奪還。南朝、北朝の真備宮帝・孝寧君太上皇帝・後真備宮親王を拉致し嘉川島へ撤退。 | ||
11月 | 30日 | 成蘭王太子妃衵宮、石動太上皇帝に即位。衵宮太上皇帝の後見で真備宮帝の妹、旭宮帝即位。 | |
574年 | 1月 | 15日 | 南朝副管領宇都宮禎康、北朝に接近。三皇族の情報を提供。 |
8月 | 17日 | 幹国陸上防衛隊第一特務旅団第一空挺大隊、嘉川島襲撃。三皇族を無血救出。宇都宮禎康、越智家孝ら救出。 | |
575年 | 2月 | - | ノイエクスル自由国、北朝の鉄鋼購入申請を二年間放置した上で取引を拒絶(CAMEメタルショック)。 |
576年 | 6月 | 3日 | 旭宮帝、後真備宮第一皇女に譲位。後真備宮七代皇帝即位。 |
9日 | 外務省、ノイエクルス連邦大使にペルソナノングラータ通達。ノ連大使館閉鎖。 | ||
10月 | 11日 | ミッドガルド帝国、石動に40兆Va無償援助。 | |
577年 | 2月 | 29日 | 南朝派武装勢力が将兵を人質に航空宇宙軍の戦略ミサイル基地を占拠。 |
3月 | 25日 | 南朝派武装勢力、南朝側の反乱鎮圧のため嘉川島にミサイル発射。 | |
4月 | 21日 | 陸軍中央即応部隊群、南朝派占拠のミサイル基地突入。制圧し人質救出。 | |
578年 | 6月 | 14日 | 南朝阿蘇直子一派、長押宮を奉じ嘉川島全土を掌握。新田秋穂ら強硬派秋津丘州へ逃亡。一派の大部分が停船命令を無視し軍閥化。 |
16日 | 北朝・南朝間、停戦に合意。大吉備帝国(南朝)解体。嘉川島自治政府発足。 | ||
579年 | 1月 | 21日 | 嘉川島反乱軍閥鎮圧のため陸軍三個師団、親衛軍二個師団を派遣。 |
2月 | 22日 | 航空宇宙軍、嘉川島反乱軍閥鎮圧のため空爆を開始。 | |
7月 | 6日 | 統合参謀本部、嘉川島反乱軍閥の鎮圧完了を発表。 | |
8月 | 15日 | 大幹帝国によるノ連・石動間調停決裂。佐々木外務卿、CAME・OTOの破棄を通達。 | |
10月 | 7日 | 足利尊子一代将軍、将軍位返上。 | |
9日 | 尊子将軍の長女晶子様、二代将軍の宣下受ける。 | ||
581年 | 7月 | 7日 | 大幹帝国軍石動守護帥、本国の帰国命令を無視すると発表。 |
9日 | 大幹帝国、「石動第三帝国に対する最後通牒」可決。石動守護帥の拘束と送還、CAME、OTO両条約破棄の撤回を要求。 | ||
582年 | 4月 | 19日 | 大幹帝国、対石宣戦布告。 |
584年 | 3月 | 21日 | 陸軍中央即応部隊群特殊作戦大隊、香麗民主連邦和睦派の協力を得て「夜鷹作戦」決行。香麗強硬派を排除し和睦派の国内台頭を支援。 |
6月 | 25日 | 後真備宮皇帝、独断で対ノ連宣戦布告を発布。公方府これを一時撤回。 | |
7月 | 15日 | 統合参謀本部、対ノ連戦に備え四軍の作戦指導責任者を招集し緊急会議を開催。 | |
9月 | 1日 | ノ連の龍鮮半島への攻撃停止を受け、対ノ宣戦布告を完全に撤回。 | |
585年 | 7月 | 15日 | 南部大震災発生。死者・行方不明者計90万人。陸軍造兵廠に被害。 |
8月 | 21日 | 孝寧君太上皇婿薨去。 | |
25日 | 足利尊子一代将軍薨去。 | ||
9月 | 30日 | 孝寧君太上皇婿・尊子将軍の合同国葬挙行。 | |
586年 | 3月 | 8日 | 大幹帝国、対石宣戦布告を撤回。 |
587年 | 1月 | 20日 | 石動・嘉川島自治政府、正式に停戦条約に調印。自治政府解体し長押宮私有地の佐貫大島荘へ移行。 |
後期
587年 | 9月 | 3日 | 本州・米子島間に巨大隕石落下。ニュータウン・陸軍駐屯地など消滅。 |
589年 | 7月 | 11日 | 「石動第三帝国によるラングラード=カルス帝国に於ける安全保障条約」調印。 |
8月 | 12日 | 陸軍三個師団、親衛軍二個師団によるラングラード=カルス派遣軍を派遣。 | |
590年 | 4月 | 21日 | 首都圏治安警察機構法失効宣言。首都圏治安警察機構解体。 |
5月 | 11日 | 立法会議成立。武官貴族合議制・部分的民主主義へ移行。 |
歴代内閣総統
代数 | 姓名 | 近影 | 期間 | 本人、内閣の異称 | 概要、評価 |
第一代 | 新田智義 | 411年5月14日~421年4月12日 | 武家内閣 | 初代総統。正二位。当時の議会派から総統専制を批判され辞職。 | |
第二代 | 足利孝弘 | 421年4月12日~432年3月26日 | 軍人宰相・軍閥内閣 | 正三位陸軍大将。元陸軍卿。在任中に帝国憲法を発布し立憲君主制を導入。議会政治の発達や現代都市造営による経済振興に務めた。燃料欠乏の引責により辞職。 | |
第三代 | 北畠知佳 | 432年3月26日~年446年12月21日 | 鉄血宰相・公家内閣 | 正二位。公家院議員。福祉政策、就業人口増加、宇宙開発等の内政や、アルカディア経済国家共同体への加盟、瑞陵王国へウラン鉱山開発支援をしてその対価として不当なレートでの燃料取引を強要するなどの積極外交を精力的に行っていたが、高齢により辞職。 | |
第四代 | 田中藤次 | 446年12月21日~448年3月19日 | 平民宰相・傾国宰相 | 初の平民院出身の総統。与党立憲帝政党総裁で、北畠総統より指名を受ける。貿易相手国が相次いで崩壊し、対処もままならず経済破綻を起こしてしまう。第一帝政瓦解後、国民数十人にリンチされ死亡。 | |
第五代 | 赤松雅彦 | 456年1月4日471年9月31日 | 名将宰相 | 正三位陸軍大将。菜良島奪還作戦総司令官から、第二帝国臨時総統に就任。 | |
第六代 | 高野直 | 471年9月31日~483年12月31日 | 中興宰相・曹長内閣・メルトダウン内閣 | 正三位。国社党員で元内閣総統府書記官長。下級武家出身の元陸軍曹長。当時の龍鮮王国と政治、外交で蜜月関係を築いたり、秋津皇国を編入するなどに積極外交を行っていたが、秋津自治政府の急速な態度硬化、行政指示の無視を受けての秋津州主権放棄、玉島原発のメルトダウンを経て国土を放棄し大幹帝国へ亡命。その後は亡命政府代表として石動人社会の維持に努めていたが、神凪宮帝に殉死。 | |
第七代 | 足利尊子 | 523年11月27日~543年10月1日 | 武家総統。躁鬱総統。将軍総統。最後の総統 | 第三帝国建国により内閣総統に任命された足利氏嫡流。初代征夷大将軍。内閣制度廃止を行ったため、最後の総統となる。 |
人物列伝
- 新田智義
大石動帝国初代総統にして、石動における新田氏の祖。任期中に石材不足を非難され精神を病み、療養中に枢密院の判断で当時陸軍卿の足利孝弘に総統の座を奪われる。彼はこの事で足利孝弘を非常に恨み、家人を使った暗殺騒動まで巻き起こし、新田氏と足利氏との間に深い溝を作ってしまった。これらの事から一般人の間での評価は非常に低い人物だが、任期中に成蘭の支援や借款を取り付け、さらにわずか一年で借款を返済できる程経済を発展させたことからも、もっと評価されるべきとする声もある。
- 足利孝弘
大石動帝国二代総統にして、石動における足利氏の祖。新田内閣における陸軍卿を経て、枢密院の指名を受け二代総統に就任。この際前総統新田智義から深い恨みを買うこととなった。在任中には帝国憲法の制定・発布と帝国議会設立により立憲君主制の枠組みを作った事で知られ、「石動における民主主義の父」と称されている(しかし皮肉なことに彼の曾孫は民主主義とはかけ離れた制度を導入することとなった)。燃料欠乏を議会から糾弾され、引責により辞任。二代総統在任時の功績を讃えられ明日香宮皇帝から女系化を許され、家督を長女の伊代に譲る。
- 高野直
大石動帝国六代総統。国家社会主義君主制期最盛期の総統で、石動中興の祖とされている。名君ともてはやさる一方、実は相当気が短い人物だったとも。高野翼元参謀総長の母に当たる。最終官暦は内閣総統。正三位(死後正一位敍)。
- 高野翼
高野直六代総統と、故姜英哲首相(当時)の弟、姜命哲氏との間に生まれた一人娘。戦術の鬼と名高い名将である一方。極端な武断路線の武闘派であった。思慮深かさは父親譲り、気の短さと目付きの悪さは母親譲りである。少年愛好癖があり、裏で秋津・中夏系美少年や平民の孤児を養育していた(このためネットで「ショタ姐さん」などの渾名がつく)。
また、「院や皇帝がどうしても必要だというのなら、チタニウム合金かセラミックで作れ」という石動史上最大の不敬発言を残しており、尊子将軍への敬慕はあっても、皇室への敬意は薄かったと見られている。最終官暦は統合参謀総長兼直参親衛軍総大将。従四位上。
- 楠木雅茂
従六位上陸軍大佐。元幹国航空防衛隊の戦闘機搭乗員であり、石動動乱の際は臣民突撃義勇軍航空義烈隊司令。日々航空兵力の拡充を訴える革新派。南朝に加担し美作決戦で戦死。漆黒の二一式戦闘機で自ら出撃し、華々しい戦果を挙げたため、敵であった幹国軍将兵からも名将と讃えられ、その菩提を手厚く葬られた。南朝での最終官暦は、正統吉備皇国航空騎兵団長。従五位下(死後正三位)。
- 足利直
尊子将軍の妹。管領であったが高野翼統合参謀総長を排斥しようとした結果カウンタークーデターを受け政界を追放され、出家し盤南寺の尼僧となったが、吉備義勇軍を名乗り敷倉市で挙兵した後尊子と和睦。その後は姉妹同士無事和解したかに思われていたが、尊子らは直に近い軍人・官僚らを次々と粛清し、最終的に痺れを切らせた直は帝都隕石直撃後に敷倉市でまたも南朝義勇軍を名乗り挙兵するが、南朝と和睦し討伐宣下を受けた尊子に討伐され死亡。
尊子とは正反対に冷徹でプラグマティックな性格。公家・武家が協力して政治を行うべきであるという極めて保守的な政治観を持ち、文治政治を重んじており、北朝方の公家層からは「党武の理性」と呼ばれ重んじられていた。このため国社党革新派や高野翼全国指導者の様な武闘派武家とはかなり折り合いが悪かった。北朝での最終官暦は石動第三帝国管領。従三位。
- 足利尊子
名門足利氏の嫡流。国社党総裁。元幹国海防隊次尉。国社党の強い要望により党総裁兼臨時総統となり、七代総統に就任。実は本人はあまり国家社会主義に興味関心がない。性格は非常に温厚だが、八方美人且つイエスマンの嫌いがある。532年、南朝の反乱を受け真備宮皇帝から初代征夷大将軍に任じられ、事実上軍事・行政上の最高指揮官となった。治世において公方府設立による征夷大将軍への権力集中や、真備宮帝による「征夷大将軍永代足利氏の勅」による世襲体制確立に成功するが、南朝と和睦し「大吉備帝国」を成立させるもすぐに破綻してしまうなどの混乱もあった。最終的に南朝側和睦派の南朝掌握により、在任中に南北統一を為す事が出来た。CAME脱退は将軍職を辞し「大御所」と呼ばれ恐れられていた(本人としては隠居同然の模様)。容姿端麗で、防大在学中には、同期の男子七名、女子一名から告白を受けたという。南北動乱以降、態度や主張がコロコロと変わるとメディアに指摘されており、一部では躁うつ病ではないかという噂もあった。
- 伊坂三依
正一位海軍元帥。現在の海軍で唯一「元帥」の称号を持つ海軍大将(石動陸海軍では元帥は称号であり、階級ではない)。菜良島奪還作戦、龍鮮戦争、オセアニカ・アースガルド戦争、石動動乱を戦い抜いた歴戦の名将。晩年の頃はかなり高齢だったはずだが、容姿は若い頃から至って変わらず、将兵らは畏敬の念を込めて「東方の魔女」「人外元帥」「海の妖怪」「現人神」と呼んでいた。眼帯をつけた左目は菜良島奪還作戦の際失ったとも、はるか遠距離を索敵できる魔眼なのだとも言われていた。最期には百数十年の年月を一挙に被ったかのように衰弱し息を引き取ったという。
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