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石動南北動乱
南朝側呼称:賢武の親政
北朝側呼称:己丑の乱
大幹側呼称:援石征賊戦争・壬子石征
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津山市近郊を爆撃する南朝軍
実質交戦期間
532年2月9日~578年6月16日
法的交戦期間
532年2月9日~587年1月20日
開戦理由
後明日香宮皇帝による皇帝専制国家「正統吉備皇国」(南朝)の創建。
結果
大吉備帝国崩壊と南北朝統一。(北朝勝利)
場所
石動本州・瀬戸海・浄土島・嘉川島・秋津丘州
交戦勢力
Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png大吉備帝国(旧正統吉備皇国
kibiakitugiyugun.png吉備秋津義勇軍
[添付]石動第三帝国
ryusen.png大幹帝国
akitujitishu.png丘州自治連合
戦闘終結時の戦力比
約4万人以下?約64万
指揮官
Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png後明日香宮
Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png後駿河宮
Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png長押宮
 Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png北畠千恵
 Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png新田紗代
 Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png新田秋穂
 Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png北畠顕
 Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png楠木雅茂
 Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png足利冬美
 Flag_of_Okayama_Prefecture.svg.png阿蘇直子
kibiakitugiyugun.png少弐頼久
kibiakitugiyugun.png宋定盛
[添付]真備宮
[添付]後真備宮
 [添付]足利尊子
 [添付]足利晶子
 [添付]高野翼
 [添付]細川勝男
 [添付]赤松佑弼
ryusen.png朴永成
 ryusen.png李黄永
 ryusen.png安徳昌
 ryusen.png白善花
akitujitishu.png龍造寺種家
akitujitishu.png菊池敏武

概要 anchor.png

 石動南北動乱は、後明日香宮皇帝が主導した政治革命と、それに伴う一連の国家分裂・皇統分裂・武力衝突を指す。本州を石動第三帝国(北朝)、嘉川島を大吉備帝国(南朝)が二分する形で継続されていたが、578年にようやく停戦合意が成され、587年に法的停戦が成された。実質交戦期間は46年間、法的交戦期間は55年間にも渡った。
 このため、この石動第三帝政初期の動乱期を「南北朝時代」と呼称することがマスメディアや公式会見などに於いても散見されている。南朝正統論者にはこの動乱期を「浄土島・嘉川朝時代」と呼称する者もいる。

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背景 anchor.png

 北条合藩連合から本州を奪還し、「石動第三帝国」の建国を成した石動動乱は、列強諸国の介入もさる事ながら、その中心をになったのは足利尊子臨時総統を中心とする武家権門などの軍事貴族であった。彼らは大幹帝国亡命後も帝国軍将校、幹部防衛官として盛んに活躍しており、本州奪還には彼らの協力が必要不可欠であった。しかし事実上武家の棟梁とも言える足利氏をなし崩し的に総統として祭り上げたことにより、武家は石動の執政権力である国家社会主義石動労働者党内部での実権を独占していき、平民出身の古参党員からは「我が党はもはや封建貴族主義石動武家党だ」とまで揶揄される様な状況を呈した。
 こうした状況は後明日香宮皇帝にとっても不愉快な状況で、彼女にしてみれば自分の体を売ってまで皇帝の座に着いたというのに、政府要職や実権は国社党を牛耳る武家層に恣にされている事に、大いに不快感を示した。本来武家層を自分達より格下と見ていた、宮内卿兼内大臣北畠千恵を初めとする有力公家層はこれに大いに同調。彼女らは後明日香宮帝に「皇帝が全ての決定権を持つ、徳に依る絶対帝政の王道楽土」の創建を提案。これにより後明日香宮は決起を決意。陸軍近衛師団を初めとする一部の陸軍勢力の協力を取り付け、532年2月9日、帝都に於いて軍事行動を起こすに至った。

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経過 anchor.png

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同乱勃発と南北朝状態への落着。 anchor.png

 後明日香宮帝の突然の挙兵に第三帝国政府は完全に虚を突かれる形となった。幸い足利尊子総統を初めとする主要閣僚、孝寧君太上皇婿、真備宮親王らは帝都から津山市へと落ち延びたが、この際新田紗代副総統は南朝へ加担し埴輪県を占拠、山名重詮内務卿は南朝に捕縛され、後にネット上で公開処刑されてしまった。孝寧君太上皇婿は後明日香宮帝を廃帝とし、真備宮親王を新皇帝とした。さらに真備宮帝は足利尊子総統に「征夷大将軍」の位を授け、陸海親衛三軍の統帥権を事実上「譲渡」した。足利尊子将軍は津山市に「津山大本営」を置き、徹底抗戦の構えを見せた。
 しかし南朝軍は攻撃の手を緩めず、6月18日には美作県美作市を制圧。8月1日には津山市に爆撃を敢行。北朝は兵力面で南朝に勝りつつも、南朝軍の異様な士気の高さに戦闘に於いては劣勢を強いられる事となった。
 これを受け石動第三帝国の友好国である大幹帝国は、在石防衛隊の治安出動及び「援石征賊帥」の増派を決定。これにより彼我兵力は155000対35000と、圧倒的に北朝優位に傾いた。

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帝都奪還時の両軍の進路。

 この勢いに乗じ北朝は幹国防衛隊とともに年11月21日に美作市を奪還。翌533年3月25日には帝都及び埴輪県を奪還した。南朝軍は捲土重来を期し本州南方の浄土島に逃れ、新田紗代の長女新田秋穂を報じた残党軍は旧秋津領丘州へ逃れ、現地の軍閥少弐頼久・宋定盛らの協力を得て「吉備秋津義勇軍」を発足した。
 浄土島は本州の目と鼻の先にあるものの非常に狭小で、上陸可能な海岸も少なく、さらに同島には浄土島大観音などの貴重な宗教施設があり、さらに現在北朝は否定しているものの、「南朝は北朝に偽の三種の神器を残して本物を確保している」などの吹聴もあり、浄土島の南朝征伐は以前実現できておらず、今も本州に北朝「石動第三帝国」、浄土島に南朝「正統吉備皇国」の二政権二皇統が両立する形となっている。
 その後動乱で経済基盤を破壊されたた為に臣民の暮らしぶりは困窮を極め、これを南朝軍が利用。本州北部に潜伏していた脇屋義介、北条時宏らは北朝の足利政権に不満を持った石動臣民を扇動し、度々挙兵を繰り返し、当時現代都市であった津山市を焼き討ちするなどし、石動社会の不安定さは日増しにその深刻さを増した。そしてついに540年3月の脇屋義介、北条時宏らの挙兵により在石大幹帝国防衛隊石動守護師が、その駐屯地ごと壊滅させられるという事態が起きる。この時南朝の脇屋義介・北条時宏らの死亡が確認されたことや、政府が臣民懐柔のために社会保障予算増額などを行った結果臣民の不満も和らいだことなどにより、以後南朝軍の活動は沈静化している。

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応叡の外寇(庚申東征) anchor.png

 またこの石動守護師壊滅事件は大幹帝国社会に大きな衝撃を与え、幹国世論が一気に反南朝に傾いた。幹国政府は秋津州丘州の吉備秋津義勇軍を討伐するため防衛隊出兵を決定。防衛隊は対馬を経由、丘州の副岡・辛津・宗方へ上陸した。装備・戦力ともに圧倒的に幹国防衛隊有利と思われていた戦いであったが、秋津人抜刀部隊によるゲリラ戦法に対処できなかった大幹帝国防衛隊は死傷者を増大させ、辛津・宗方部隊が副岡本隊へ合流。遂には副岡の全部隊が丘州から敗走させられるに至った。

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応頴の外寇(辛未丘征) anchor.png

 その後、資金に困窮した南朝は吉備秋津義勇軍に「海上有得銭徴収」の実行を指示。指令を受けた吉備秋津義勇軍は大幹帝国船籍のタンカー一隻、シベリア共和国連邦船籍のコンテナ船一隻を拿捕した。これを受けて大幹帝国は白善花陸防将補を総司令とする吉備秋賊征伐帥を秋津丘州へ派遣。拘束されていた幹国人・シベリア人船員を救出し、吉備秋津義勇軍を丘州南方の鹿仔島まで撤退させるに至った。さらに大幹帝国は丘州地域安定化のために丘州秋津人による自治政府「丘州自治連合」を組織するに至った。

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石動北朝内部での政変 anchor.png

 一方、北朝内部では内閣制度の公方府制への移行による征夷大将軍への権力一本化などの改革が行われた一方、その北朝公方府内部における管領足利直と参謀総長高野翼との関係が急速に悪化。遂には足利直管領が高野翼参謀総長を失脚させるに至ったが、これに反発した高野翼参謀総長は自身の忠実な配下である直参親衛軍(旧武装親衛隊)を動かしカウンタークーデターを展開。公方府を包囲し足利尊子将軍、直管領姉妹を武力恫喝し、自身の参謀総長職罷免の撤回と足利直管領の永久公職追放を確約させる。さらには後を受けた直派筆頭の上杉重義管領を暗殺し、自身の暗殺を目論んだ直派の畠山一泰陸軍中将を首都圏治安警察機構に逮捕させ銃殺刑に処すなど、直派の排斥に努め、高野翼参謀総長による事実上の権力掌握が成功するに至った。しかしその後出家した足利直は敷倉市で僧侶・陸軍将兵らを糾合し反乱。和睦を申し入れた尊子将軍に高野翼の永久公職追放と自らの要職復帰を要求、尊子将軍がこれを受け入れる事により足利直は再び管領に返り咲き、一方の高野翼は護送中に暗殺されこの世を去った。しかしこれによって尊子・直姉妹の確執が消え去ってはいなかったという事は、後の直管領の秘書官長、斎藤利継氏暗殺事件からも暗に窺い知ることが出来る。

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隕石落下による浄土島消滅と帝都消滅・大吉備帝国の成立 anchor.png

 そんな中、566年4月20日、浄土島が巨大隕石により消滅。後駿河宮帝をはじめとする南朝重臣は浄土島ごと跡形もなく消滅してしまった。これに窮した吉備秋津義勇軍は、当時丘州に下向していた後駿河宮帝の妹、長押宮を吉備七代皇帝に奉じ、浄土島のさらに南方にある嘉川島に上陸、北朝の同島守備隊を撃破し同島を完全に占領。同島において正統吉備皇国の健在を示した。さらにこれに呼応するかのように石動第三帝国帝都、室満京市に巨大隕石が落下。皇帝・将軍はじめ武家・公家・主要閣僚は辛くも逃げおおせたものの、政府機関はマヒし、多くの帝都市民が犠牲となった。この事態に内応し足利直は再び敷倉市で挙兵、銀行から徴収した金品を献上し南朝に接近を試みたが、隕石落下による国力低下を受け事態を憂慮した将軍をはじめとする北朝武家層は、大幹帝国に仲介を依頼し、南朝皇帝を正統とするなど南朝側に相当譲歩した条件で(あるいは北朝皇帝家を切り捨てるような形で)南朝と和睦を図った。結果、573年に石動第三帝国正統吉備皇国両国の国交・条約を継承し、長押宮を正統皇帝に戴いた大吉備帝国が成立した(条約内容)。大吉備帝国が成立するや否や尊子将軍はすぐさま長押宮帝の宣旨を取り付け、敷倉市の足利直を討伐した。

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大吉備帝国瓦解とその後 anchor.png

 しかし大吉備帝国における旧南朝勢力のタカ派、新田秋穂陸軍卿は長押宮皇帝から、尊子将軍の将軍宣下取り下げ、並びに公方府解体の宣旨を取り付け、これを布告。狼狽した尊子将軍を中心とする旧北朝武家勢力は敷倉市と津山市の二大都市に合流し蜂起。結果573年4月22日に北朝側は帝都を包囲。帝都に篭城した南朝に「将軍宣下取り下げ撤回」「公方府解体撤回」を条件に2ヶ月の猶予を示し和睦を迫ったが、6月18日、新田秋穂陸軍卿よりこれが拒絶され、北朝軍は帝都を攻撃。わずか2日間で帝都を奪還し南朝を再び嘉川島へ追いやる事となったが、大吉備帝国による統一はわずか8ヶ月しか続かず、さらに北朝三皇族を南朝に拉致されるという醜態まで晒してしまった。
 北朝は皇統維持のために成蘭王太子妃の衵宮に太上皇帝即位を嘆願し、彼女の後見により真備宮帝の妹、旭宮親王が皇帝に即位した。これは石動では伝統的に太上皇帝ないし太上皇婿の後見がなければ皇帝が即位できないためのやむを得ぬ処置であったが、結果として衵宮は自らの叔母にあたる旭宮の即位を後見するといういびつな状況を生み出した。
 しかし574年1月15日、南朝穏健派の副管領宇都宮禎康が北朝に接近。三皇族が幽閉されている場所などの情報を提供し、同じく穏健派の越智家孝とともに亡命を希望してきた。当時の陸軍中央即応部隊群では人質救出作戦は困難と見た公方府は大幹帝国に支援を要請し、8月17日に幹国陸上防衛隊第一特務旅団第一空挺大隊が嘉川島木田郡を襲撃。三皇族を無血救出し、同時に宇都宮禎康、越智家孝らが北朝へ亡命した。生還された真備宮帝は、旭宮帝に帝位を自らの長女、後真備宮皇女に譲位させた。北朝はどうにか直系皇統を維持することができた。
 その後、南朝の支配する嘉川島では南朝の圧政に耐え兼ねた民衆がしばしば蜂起し、577年には南朝ゲリラが本州の航空宇宙軍のミサイル基地を占拠し嘉川島の反乱軍を攻撃するという事件まで起こった。こうした動きは日増しに強まり、遂に578年6月14日、嘉川島各地の武装勢力を糾合した穏健派の阿蘇直子太政大臣が嘉川島全土を掌握。強硬派の新田秋穂を秋津南方の埜久島へ追放し、南朝皇帝長押宮帝とともに「嘉川島自治政府」を発足。ここに北朝と南朝双方が停戦に合意するに至った。一方で阿蘇直子太政大臣ら穏健派に加担した嘉川島の武装勢力は停戦命令に従わず各地で軍閥化し、略奪を繰り返していた。当時の嘉川島の人口は国際法により爆撃が行えないほどの数であったため、北朝は579年1月21日、嘉川島反乱軍閥鎮圧のため陸軍三個師団、親衛軍二個師団を派遣し、2月22日、航空宇宙軍が軍閥鎮圧のため空爆を開始。7月6日にようやく軍閥は鎮圧された。
 その後、北朝の石幹問題やCAME問題などによって停戦交渉は頓挫するものの、ようやく587年に「石動第三帝国・嘉川臨時政府間停戦協定」(内容)が調印され、「鋼鉄取引を本国の承認制とする」「本国以外との砲弾取引の全面禁止」などを条件に、長押宮親王の不動産資産「佐貫大島荘」として本国へ編入された。またこれに先立つ582年2月には「柏宮流皇帝家・近江宮流皇帝家間に於ける皇統継承の相互同意」(内容)が両家で確認され、「石動皇帝は柏宮流・近江宮流が交互に即位する」という「両統迭立」の形を取ることが決定した。

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年表 anchor.png

532年2月9日後明日香宮帝、帝都にて挙兵。正統吉備皇国建国。
孝寧君太上皇婿、後明日香宮帝を廃帝とし、真備宮帝を新皇帝に。
11日南朝新田紗代、埴輪県占領。
5月15日真備宮帝、足利尊子総統を征夷大将軍に任命。
6月18日南朝楠木雅茂、北朝津山大本営を爆撃。
11月3日大幹帝国防衛隊援石征賊帥、北朝軍と合流。
21日北朝・幹国連合軍、美作市奪還(美作会戦・美作決戦)。南朝の楠木雅茂大佐戦死。
533年3月25日帝都及び埴輪県奪還。南朝の新田紗代左大臣兼鎮守府将軍、北畠顕近衛大将戦死。後明日香宮帝は浄土島へ。新田秋穂は旧秋津領丘州へ。
534年3月28日南朝後明日香帝崩御。後駿河宮帝践祚。
536年3月5日南朝脇屋義介大佐が津山市で挙兵。
15日脇屋義介大佐、現代都市津山市へ侵入し、同市市街地をわずか10日で焼き払う。
21日陸軍航空隊、脇屋軍を空爆し鎮圧。脇屋大佐の死亡は確認できず。
540年3月2日脇屋義助・北条時宏ら南朝軍、室満京市北区法戒院付近で挙兵。周辺地域を焼き討ち。
8日南朝軍、三軒屋駐屯地を攻撃。大幹帝国防衛隊石動守護師がこれに応戦。
14日三軒屋駐屯地壊滅。石動守護師全滅。
4月11日北朝空軍の空爆により南朝軍殲滅。脇屋義介・北条時宏の死亡を確認。
10月17日大幹帝国防衛隊、対馬から辛津・宗方・副岡への上陸に成功。
12月4日大幹帝国防衛隊の辛津・宗方部隊、死傷者多数を出し副岡本隊へ合流。
541年1月15日大幹帝国防衛隊、敗走し丘州より完全撤退。
548年10月16日足利直管領の讒言による参謀総長職罷免に反発した高野翼参謀総長がカウンタークーデター。足利直を公職追放。
549年4月23日二代管領上杉重義暗殺。後任に今川範邦。
549年10月18日高野翼参謀総長暗殺未遂事件。
11月17日首都系治安警察機構、高野翼暗殺未遂事件の首謀者として畠山一泰陸軍中将を逮捕。
551年8月16日吉備秋津義勇軍、「海上有得銭徴収令」宣言。幹国船籍のタンカー、シベリア船籍のコンテナ船を拿捕。
18日大幹帝国、議政府情報部・外事警察捜査官を秋津丘州に派遣。
9月1日大幹帝国秋賊征伐帥、北丘州の副岡に上陸。吉備秋津義勇軍主力部隊殲滅。
大幹帝国議政府情報部・外事警察の部隊、吉備秋津義勇軍本拠地を急襲、幹国人・シベリア人船員を救出。
2日大幹帝国秋賊征伐帥、北丘州の副岡を占領。
17日大幹帝国秋賊征伐帥、伍島列島の吉備秋津義勇軍を殲滅。
19日大幹帝国秋賊征伐帥、副岡の暴力団久藤会を殲滅。
552年1月1日丘州自治連合発足。
556年1月23日足利直、陸軍将兵・真言宗門徒・一般市民を糾合し敷倉市で挙兵。皇国義勇軍名乗る。
2月16日皇国義勇軍、中庄で北朝軍撃退。帝都へ侵攻。
20日皇国義勇軍、帝都攻略。北朝は津山市へ転身。
6月17日足利直元管領、尊子将軍と和睦。還俗し管領職に復帰。高野翼参謀総長、出家の上免職。
8月14日上杉重義管領の長男の上杉義典陸軍中佐、更迭中の高野翼殺害。
559年1月18日足利直管領の秘書官長、斎藤利継氏暗殺。
566年4月20日浄土島、巨大隕石により消滅。後駿河宮はじめ南朝重臣死亡。
23日吉備秋津義勇軍、後駿河宮の妹長押宮を奉じ嘉川島へ上陸。
26日吉備秋津義勇軍、北朝嘉川島守備隊を撃退。正統吉備皇国再建(後南朝)。
567年1月21日帝都室満京に巨大隕石落下。北朝国家機能喪失。
3月25日美作県英田市で南朝軍楠木雅貫挙兵。
568年6月15日足利直管領、再び皇国義勇軍名乗り敷倉市で挙兵。
572年6月9日石動第三帝国正統吉備皇国石動第三帝国並びに正統吉備皇国の合併に関する条約に調印。大吉備帝国成立。
11日尊子将軍、長押宮帝の宣旨を受け足利直討伐へ進発。
573年2月3日新田秋穂陸軍卿、長押宮帝の宣旨を受け足利尊子征夷大将軍の将軍宣下取り下げ、公方府解体を布告。
15日旧北朝武家勢力、尊子将軍を中心に、敷倉・津山で蜂起。
4月22日北朝勢力、帝都包囲。将軍宣下取り下げ・公方府解体両布告の撤回求める。
6月18日新田秋穂陸軍卿、北朝の要求を拒否。
20日北朝勢力、帝都奪還。南朝、北朝の真備宮帝・孝寧君太上皇帝・後真備宮親王を拉致し嘉川島へ撤退。
11月30日成蘭王太子妃衵宮、石動太上皇帝に即位。衵宮太上皇帝の後見で真備宮帝の妹、旭宮帝即位。
574年1月15日南朝副管領宇都宮禎康、北朝に接近。三皇族の情報を提供。
8月17日幹国陸上防衛隊第一特務旅団第一空挺大隊、嘉川島襲撃。三皇族を無血救出。宇都宮禎康、越智家孝ら救出。
576年6月3日旭宮帝、後真備宮第一皇女に譲位。後真備宮七代皇帝即位。
577年2月29日南朝派武装勢力が将兵を人質に航空宇宙軍の戦略ミサイル基地を占拠。
3月25日南朝派武装勢力、南朝側の反乱鎮圧のため嘉川島にミサイル発射。
4月21日陸軍中央即応部隊群、南朝派占拠のミサイル基地突入。制圧し人質救出。
578年6月14日南朝阿蘇直子一派、長押宮を奉じ嘉川島全土を掌握。新田秋穂ら強硬派秋津丘州へ逃亡。一派の大部分が停船命令を無視し軍閥化。
16日北朝・南朝間、停戦に合意。大吉備帝国(南朝)解体。嘉川島自治政府発足。
579年1月21日嘉川島反乱軍閥鎮圧のため陸軍三個師団、親衛軍二個師団を派遣。
2月22日航空宇宙軍、嘉川島反乱軍閥鎮圧のため空爆を開始。
7月6日統合参謀本部、嘉川島反乱軍閥の鎮圧完了を発表。
587年1月20日石動・嘉川島自治政府、正式に停戦条約に調印。自治政府解体し長押宮私有地の佐貫大島荘へ移行。
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影響 anchor.png

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石動 anchor.png

 この動乱はようやく石動動乱から立ち上がり始めた石動の経済を徹底的に破壊した。長引く戦乱は市場停滞・情報停滞による経済破綻を引き起こし、さらに国庫は戦費に費やされ底を突き、南朝軍は北部で何度も挙兵し現代都市やニュータウンの焼き討ちを繰り返し我が国の商圏を破壊。一時は諸外国の援助なしには国家としての体を保てないほどに追い詰められた。成蘭との燃料対資金取引や大幹帝国からの商品輸入などでようやく経済破綻からは持ち直したものの、現在は食料自給率の不足等に悩まされ、さらに北部は常に南朝軍の魔の手に脅かされ、復興以来最悪の状況を醸成した。
 現在我が国の自殺者数、うつ病発症者の割合、障害事件発生件数などは動乱発生を期に跳ね上がっており、基本的に穏やかだったとされる国民性も失われてきているとされている。
 またこうした状況で石動の大部分を掌握した北朝は石動国内の安定化と将軍権力確立に努めたが、その中で発生した足利直派と高野翼派の対立は、暗殺の横行などの深刻な社会不安を醸成した。

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大幹帝国 anchor.png

 動乱発生初期から南朝を「偽石」と断じ北朝支持を明確にしそれを徹底的に支持した大幹帝国は、帝都を奪われその存亡の危機に立たされた石動北朝の強力な後ろ盾であることを世界に示した。
 一方で「応叡の外寇」での大敗は同国の軍事ドクトリンに大きな衝撃を与え、対ゲリラ戦法の対策などの戦術の見直しが図られ、後の辛未丘征での大勝利ではこれが大きく活かされた事が証明され、さらにシベリア人船員救出等による国際貢献の実績も重ねることができた。
 しかし大吉備帝国による南北統一を仲介したことは同国でも政治的混乱を招き、停戦会談の場で直接仲介に加わった大幹帝国初の秋津人総理、中川英憲氏が「吉備情勢は複雑怪奇」と言い残し内閣総辞職を行うまでに至った。

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秋津地域 anchor.png

 丘州への南朝勢力流入と大幹帝国によるその排撃は戦乱状態の秋津地域に大きな影響を与えた。やがて丘州においては南朝勢力たる「吉備秋津義勇軍」は南部の鹿仔嶋へ追いやられ、幹国の支援のもと「丘州自治連合」が結成されるに至った。
 さらに丘州の不安定化が秋津全体の荒廃に繋がると見た佰愿が秋津本州南部の一部と同盟し「南秋津諸藩連合」を結成。秋津全土に比べれば未だ僅かではあるが、結果として秋津地域の統合が促されたと言える。


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最終更新: 2015-05-10 (日) 14:23:13 (JST) (3276d) by isulugi