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秋津内戦とは大東亜秋津帝国(現秋津皇国)にて発生した一連の動乱である。

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秋津地域には元々秋津皇国が存在し一定の繁栄を見せていたが、357年に華夏大陸から撤退して以来鎖国状態であった。
100年後の457年に秋津君主国として開国した秋津は、積極的に周辺諸国と外交関係を結び国際社会に復帰した。
しかし466年に突如として中央政府は崩壊し、秋津列島は無政府状態となり多くの難民が周辺国に押し寄せた。
この際に華夏・龍鮮両国に特に多くの秋津系難民が流入し一時大混乱となった。両国にはそれぞれ秋津人民政府・秋津臨時政府が樹立され、後に秋津人民臨時政府(本部:天海)として統合された。
この間に大東亜秋津帝国・合衆国日本を名乗る政府が台頭し、旧君主国の版図の大半を分割して統治していたがしかし依然として統一政府は樹立されず、内乱の時代が続くこととなった。
大東亜秋津政府は独自に天皇を立てて秋津国家の復活を宣言したが、旧秋津国家との連続性を否定し、また天皇も旧秋津皇国皇室出身ではないという宣言も出していたため、これが政府に正統性なしという見解が在外秋津人社会に当時からあった。
468年、大東亜秋津政府は秋津臨時政府を中夏民国の傀儡だと名指しで批判。これに憤慨した在外秋津人たちは有志を募って秋津人民義勇軍を編成し、その数は10万人を超えた。このとき資金の大半を出したのは秋津系夏人でファンド経営者の山本和明である。
人民義勇軍は中夏民国国軍に訓練を依頼し469年に球琉諸島から飛び石的に西方の急州島に上陸。
中華民国国軍も南方の宣角諸島を占領したが、大国の内戦への直接的介入を危惧する声明が聖マズダー教国から出されたことから直接介入はしない方針が打ち出された。宣角諸島には中夏民国軍政府が設置された。同時に中夏民国は秋津情勢が安定し次第全秋津領土から撤退すると表明し、これに対する批判をかわした。
470年2月に大東亜秋津・合衆国日本両軍閥政府は秋津人民義勇軍に無条件降伏した。
秋津臨時政府は秋津皇国政府として正式に発足したが、新政府の運営のノウハウなどから主権を制限した上で中夏民国が宣角軍政府を通じてアドバイスを送るという立場をとったが、これを民国による傀儡政権だという声も中夏国内外からも批判された。
中夏民国は秋津新政府に祝賀援助として資金・建材を支援し、同国の復興支援を行った。EC(東方共同体)への加盟、両国間の燃料貿易もこの時期に始まった。
472年5月、秋津新政府は復興は完了したので主権返還を要請し、中夏民国はこれに応じ主権返還を行うと約束。
しかしその数日後、秋津政府は突如として燃料貿易の廃止と、それまでの中夏民国との関係に対して非難声明を通告。
主権返還事務の途上でのこの突然の通告に民国首脳は大いに困惑し、関係者の処断を要請。
しかし秋津政府はこれを断固として拒否し、更なる挑発を繰り返したため民国側は主権返還の無期限凍結を通告した。
中夏民国情報部は内部で反動派によるクーデタがあったと判断し秋津政府首脳(皇王・首相)を保護し、中夏首都安京まで護送した。
民国はさらに反動派を掃討するために陸軍の増派を発表するが、各方面から批判が相次ぎ増派の無期限延期を決定した。


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最終更新: 2013-06-02 (日) 04:04:53 (JST) (3943d) by liu_bei