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2月 05 (木曜日) 2015 | ||
【国際】特集:狂乱状態の南朝ゲリラでも分かる石動動乱 | 21:26 | |
・石動動乱は足利尊子派(北朝)とその反対派(南朝)に割れた対立構造が今まで続いている。 ・公方府設立と足利尊子将軍の将軍就任による権力掌握により、南北対立は激化している。 ・公方府解体、将軍宣下取消処置により足利尊子将軍が蜂起し、大吉備帝国は消滅した。 ・現在、北朝は足利将軍、南朝は強硬派の新田卿が権力を掌握しており、再合併は当分困難である。 (574年8月19日、ベイオール、議会有志会報)侯国統一議会内の特集記事をお知らせ致します。 国際情勢に強い議員諸賢においても、石動情勢の複雑さには頭を抱える者が多いかと察します。そこで、議会有志会報では分かりやすく石動動乱についてまとめました。なお、細かな政争については全て省いています。政争を辿るには石動地方紙の山王新聞縮刷版を参照することをお勧めします。 石動南北動乱は532年の後明日香宮帝による正統吉備皇国建国に端を発します。石動第三帝国は建国以後、武官貴族(「武家」「国社党」)―特にそのトップである足利尊子臨時総統(写真)が政治権力を握っており、皇帝や文官貴族(「公家」)は実権を掌握していませんでした。当時の皇帝後明日香宮帝は皇帝に忠誠を誓う武家や公家と共にクーデターを起こしました。即ち、足利尊子派閥が現在の石動第三帝国(以下北朝)であり、後明日香宮帝派閥の後継者たちが現在の正統吉備帝国(以下南朝)なのです。 当初クーデターは南朝優位に進んでいましたが、大幹帝国が北朝に援軍を出したため、南朝は敗走。石動本土は北朝、浄土島に南朝の南北朝体制となります。北朝では後明日香宮帝派閥を追いだした足利尊子臨時総統が公方府を設立。征夷大将軍の職に就くことで足利家の世襲地盤を固めますが、北朝内部に高野翼(後に殺害される)などの反感勢力を生みだします。 暫くは南北朝体制で進み、大きな動きは無かったのですが、566年に南朝本拠の浄土島が隕石で消滅。南朝は嘉川島に拠点を移し、長押宮を即位(後南朝)させます。翌年の北朝における隕石衝突については、我が国でも物資支援を行ったことから記憶に新しいでしょう。以上の大災害と大幹帝国の仲介を受けて南北朝が接近、長押宮を正統とし、南北朝互いに大臣を登用する石動吉備合併条約が締結されます。 無事内乱終結となるはずだったのですが、新政府による公方府の解体、足利尊子将軍の将軍職取消の発表で事態が急変します。足利尊子将軍が首都にて蜂起し石動本土を占拠、南朝側が北朝皇族を拉致して嘉川島に撤退し、再び南北朝体制に逆戻りします。公方府解体等の処置については南朝のブレーン阿蘇直子卿が反対するなど、南朝側大臣も相当に迷ったようです。北朝の中でも足利政権に対して反感を持つ者が一定数おり、実のところここで権力減衰を図ったのではないかと一部の献酌府議員は推察しています。 現在北朝では成蘭の衵宮王太子妃が即位し、公方府体制による足利尊子政権が続いています。南朝においては和睦派の阿蘇直子卿が失脚、強硬派の新田秋穂卿が実権を握っています。以上の流れを辿るとわかりますが、基本的に足利将軍派とその敵対者という構図が続いているだけであり、さほど複雑な情勢ではありません。社会主義国からの君主不要論による批判がありましたが石動皇帝は正当性の為に利用されているだけであり、後明日香宮帝以後はあまり関係ありません。また、このような情勢下となると南北朝統一はさらに遠のいたと言うべきであり、面子を潰されたに近い大幹帝国の今後の動きにも注視していく必要性が有ります。 献酌府においては「交易できる国が模範的国家、交易秩序を乱す国は敵対国家」の方針に基づき、取引の円滑さに定評のある石動第三帝国を変わらずに支持する方針です。 | ||
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