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ザイナル・エージェンシー  クシミニャール侯国の公営通信社
2月 15 (日曜日) 2015
【国際】特集:CAMEの凋落とその将来 01:10   
・2月23日にクシミニャール侯国はノイエクルス自由国へ燃料支援を行った。

・ブリュノール崩壊以後、ヴォルネスクでの暴動などCAME圏で問題が相次いでいる。

・CAMEの解散は考えにくいが、有力国である大幹・石動が圏外への結びつきを強くしており、連帯意識は薄れていくだろう。

(576年2月28日、京城、国内報)2月23日、クシミニャール侯国献酌府は昨年行われたタヂカラオへの支援に引き続き、ノイエクルス自由国への燃料支援を行った。量は10億galとし、政府機能が鈍っているタヂカラオへの燃料支援も継続する意向である。

 ノイエクルス自由国へはオセアニカ・アースガルド戦争終結に関する「大祖国戦争終戦60周年記念式典」での出席で関わりがある。しかしそれ以上に貿易申込に対する不親切な対応や国交樹立申込みへの無視など侯国とは良好な関係ではない。献酌府職員は「あまり良いイメージは無い」とザイナル人特有の陰険さを滲ませつつ支援に踏み切ったようだ。侯国の外交方針である「交易秩序の守護」が大きな決め手になったと記者は推測する。

 このところ、CAME圏(写真は共同体旗)の凋落が著しい。574年7月のブリュノール共和国崩壊に引き続き、同時期からのヴォルネスクにおける民衆暴動、575年2月の自由国による石動への取引拒否などCAME国内では問題が相次いでいる。平時では声明を行わない南瓜共和国もブリュノール共和国崩壊を受け、既存の声明を無言に変更した。その後「産業政策の方針転換が急務」であるとし、CAME圏外のヴェールヌイ社会主義共和国へ接触、造成のための石材を輸入した。献酌府職員も「ヴェールヌイで初めて南瓜人を見た」と(大変失礼な表現だが)恐竜でも見たかのような表情で語った。

 特にヴォルネスク社会主義共和国の衰退はフリューゲル世界においても大きな問題であろう。当国は数年前まで先進国に位置し5000万規模の人口を有していたが、ヴォルネスク人の幸福度が南西ヴォルネスク並にまで下降し、亡命や暴動が多発していた。結果、新興国以下にまで国家水準が下がってしまい、ノイエクルス連邦への吸収も現実的になってきている。

 ヴォルネスクはFSIの中でも古参社会主義国として大きな影響を与えていたが、今回の一件やノイエクルス連邦編入の可能性までも取りざたされてしまうと、発言力は大いに削がれるだろう。ここ数年社会主義国が増え、FSIの重要性が急上昇していることを考えると逸失した利益は大きい。エッカーマン総研のイレーリ研究員は「今後FSIの指導的立場は香麗かレゲロ、或はヴェールヌイになるでしょう」と予測している。

 編入しようとしているノイエクルス自由国の経済も好調ではない。燃料危機だけでなく、銀の遅配まで発生している。恐らく当国でダブついている鉄の鉱山をウラン鉱山に変換することで対応するだろうと予測するが、ノイエクルスの不況は今しばらく続くと考えられる。

 外交も低調気味で、ブリュノール共和国の穴を埋める国家がCAMEに現れるとは考えにくい。とはいえ、CAMEは解散まではしないと考えられる。CAME各国はオセアニカ・アースガルド戦争の「戦友」としての互助組織意識が極めて強い。特に外交の活発な大幹帝国や、内乱中とはいえ伝統のある石動第三帝国の存在はCAMEのみならず、フリューゲル世界の中でも際立っているといえるだろう。しかし当該二か国は近年圏外取引を活発化させるなど、非CAME圏との関係強化を模索している。絆が強いといえど時間と現実が徐々に風化させ、かつてはFENAと並び立っていたCAMEを有名無実化させていくのだろう。
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2月 05 (木曜日) 2015
【国際】特集:狂乱状態の南朝ゲリラでも分かる石動動乱 21:26   
・石動動乱は足利尊子派(北朝)とその反対派(南朝)に割れた対立構造が今まで続いている。

・公方府設立と足利尊子将軍の将軍就任による権力掌握により、南北対立は激化している。

・公方府解体、将軍宣下取消処置により足利尊子将軍が蜂起し、大吉備帝国は消滅した。

・現在、北朝は足利将軍、南朝は強硬派の新田卿が権力を掌握しており、再合併は当分困難である。



(574年8月19日、ベイオール、議会有志会報)侯国統一議会内の特集記事をお知らせ致します。

 国際情勢に強い議員諸賢においても、石動情勢の複雑さには頭を抱える者が多いかと察します。そこで、議会有志会報では分かりやすく石動動乱についてまとめました。なお、細かな政争については全て省いています。政争を辿るには石動地方紙の山王新聞縮刷版を参照することをお勧めします。

 石動南北動乱は532年の後明日香宮帝による正統吉備皇国建国に端を発します。石動第三帝国は建国以後、武官貴族(「武家」「国社党」)―特にそのトップである足利尊子臨時総統(写真)が政治権力を握っており、皇帝や文官貴族(「公家」)は実権を掌握していませんでした。当時の皇帝後明日香宮帝は皇帝に忠誠を誓う武家や公家と共にクーデターを起こしました。即ち、足利尊子派閥が現在の石動第三帝国(以下北朝)であり、後明日香宮帝派閥の後継者たちが現在の正統吉備帝国(以下南朝)なのです。

 当初クーデターは南朝優位に進んでいましたが、大幹帝国が北朝に援軍を出したため、南朝は敗走。石動本土は北朝、浄土島に南朝の南北朝体制となります。北朝では後明日香宮帝派閥を追いだした足利尊子臨時総統が公方府を設立。征夷大将軍の職に就くことで足利家の世襲地盤を固めますが、北朝内部に高野翼(後に殺害される)などの反感勢力を生みだします。

 暫くは南北朝体制で進み、大きな動きは無かったのですが、566年に南朝本拠の浄土島が隕石で消滅。南朝は嘉川島に拠点を移し、長押宮を即位(後南朝)させます。翌年の北朝における隕石衝突については、我が国でも物資支援を行ったことから記憶に新しいでしょう。以上の大災害と大幹帝国の仲介を受けて南北朝が接近、長押宮を正統とし、南北朝互いに大臣を登用する石動吉備合併条約が締結されます。

 無事内乱終結となるはずだったのですが、新政府による公方府の解体、足利尊子将軍の将軍職取消の発表で事態が急変します。足利尊子将軍が首都にて蜂起し石動本土を占拠、南朝側が北朝皇族を拉致して嘉川島に撤退し、再び南北朝体制に逆戻りします。公方府解体等の処置については南朝のブレーン阿蘇直子卿が反対するなど、南朝側大臣も相当に迷ったようです。北朝の中でも足利政権に対して反感を持つ者が一定数おり、実のところここで権力減衰を図ったのではないかと一部の献酌府議員は推察しています。

 現在北朝では成蘭の衵宮王太子妃が即位し、公方府体制による足利尊子政権が続いています。南朝においては和睦派の阿蘇直子卿が失脚、強硬派の新田秋穂卿が実権を握っています。以上の流れを辿るとわかりますが、基本的に足利将軍派とその敵対者という構図が続いているだけであり、さほど複雑な情勢ではありません。社会主義国からの君主不要論による批判がありましたが石動皇帝は正当性の為に利用されているだけであり、後明日香宮帝以後はあまり関係ありません。また、このような情勢下となると南北朝統一はさらに遠のいたと言うべきであり、面子を潰されたに近い大幹帝国の今後の動きにも注視していく必要性が有ります。

 献酌府においては「交易できる国が模範的国家、交易秩序を乱す国は敵対国家」の方針に基づき、取引の円滑さに定評のある石動第三帝国を変わらずに支持する方針です。
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