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Re: 龍鮮王朝秘史

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なし Re: 龍鮮王朝秘史

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/7/26 18:52
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第四章 「三国鼎立」

443年1月、オストマルク民主連邦に亡命した龍鮮労働党はビュッヒャー書記長の支援により「龍鮮人民共和国」を建国した。労働党総書記の李策明が国家主席に、腹心の黄鵬が首相に就任した。
龍鮮人民共和国は武力による王国打倒を掲げ、また、王国側では主戦論を唱える金忠献率いる両班派と和平論を唱える尹明策率いる勤官派の論争が連日のように続き、有効な手立てを立てられずにいた。

幹羅道・蔡洲島は古代に龍鮮人と秋津人の移住者が切り拓いた地で、かつては眈羅国(たんらこく)と呼ばれ、独自の王・政府が存在していた。
しかし、3世紀の香麗王朝4代国王で名君の誉れ高き「元宗大王(ウォンジョンデワン)」の命を受けた鄭明燁将軍によって征服されて以降、龍鮮本土の支配を受けてきた。
香麗王朝の支配者は蔡洲島を罪人の流刑地として扱い、蔡洲人を白丁(ペクチョン)と呼んで差別していた。
香麗が秋津皇国に併合された後の秋津植民地時代に「蔡洲人」としての意識が高まり、中夏民国(357年~387年)が崩壊して龍鮮半島に軍閥が割拠するようになって以降は「蔡洲独立運動」が高まった。

内乱時代に蔡洲を支配した幹羅軍閥の成英権(ソン・ヨンゴン)は蔡洲独立主義者を武力弾圧し、50万人以上の市民を虐殺した。

龍鮮統一後、王国政府は蔡洲島を幹羅道・蔡洲郡とし、郡衛府を設け1万5千の兵を配していた。郡知事の李平一(イ・ピョンイル)は蔡洲独立運動を厳しく取り締まっていた。

崔永成「我々蔡洲人は本国に対し、平和的に自治を要求していたが政府はそれを拒否し、弾圧を行っている。最早蔡洲人が自由を得る方法は武器を持って戦う以外にない!蔡洲人よ!今こそ起ち上がる時だ!」

蔡洲国民党率いる蔡洲独立軍に島民は次々と加わり、その数は30万を超えた。
蔡洲郡衛府1万5千では独立軍を鎮圧することは不可能であった。崔永成は郡衛府に投降を求めたが、プライドの高い両班の李平一知事は頑として拒否し、衛府軍に徹底抗戦を命じ自決した。衛府軍1万5千は独立軍30万と戦い全滅した。

443年8月蔡洲市
崔永成「我々蔡洲人は自由の戦いに勝利した!ここに蔡洲共和国の建国を宣言する!」

龍鮮王国龍鮮人民共和国蔡洲共和国の三国が鼎立した。

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