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KiCT  KiCT(赤きトルキーの取材局)は708年にトルキー政府の正式な認可を受けて民間により設立された報道機関です。国営報道機関である統一日報が国内で一強体制を敷く中、その体制に風穴を開けることを目標としています。
7月 03 (水曜日) 2019
【アーカイブ】大規模通信障害が継続中 全世界で混乱 ほか 21:47  トルキー社会主義共和国 
本記事は国際的通信障害が続く843年4月(30358期)に国際談義場において行われた本局報道のアーカイブ及び再掲記事です。



大規模通信障害が継続中 全世界で混乱

839年中旬、突如としてフリューゲルの全域において長距離間通信が不可能となる現象が発生した。その後840年初旬に一時的に回復が確認されるが、同年11月頃再度発生し現在まで続いている。

この通信障害により民間においては国際報道が事実上不可能となった他、国家間においても国際会議場の使用が不可能となったことで外交交渉などが停止するなど深刻な混乱が生じている。

原因についてはかつて無い規模の恒星フレアの影響という説が有力視されている。

関係者らは早期の復旧を目指すとしているが、ある専門家は「今現在の技術を続けるのなら復旧は無理。代替を早く探した方がいい」と話すなど復旧の目処は今だに立っていない。

現在各国は国際談義場により取り組みの継続を図っているものの非公式の枠を出ておらず、国際社会全体が事実上完全に停止した状態は長引きそうだ。



ミルズ皇国において内戦勃発

839年11月、ミルズ皇国においてミルズ王党派を名乗る勢力が武力蜂起し同国は内紛状態へと突入した。内紛は2年後となる841年12月に収束が発表されたが、その8ヶ月後の842年7月には反政府勢力による大規模な破壊活動が報告されており情勢は依然不安定な状態が続いている。

同国はトルキーとの間で貿易取引を行うなど比較的深い関係にある国家であり、情勢はトルキー国内においても注視されていた。

外務省は会見において一連の騒動に言及し、「ミルズ皇国の2年間に及ぶ内紛の勃発に関し、戦災による犠牲者に哀悼の意を表すると共に、約2年間の時を経て留めない争いに終止符が打たれていることに祝意を表したい。一方で同国には情報公開の不足やその政治体制などには強い懸念が存在しており、この内戦の収束によりこれらを解決する取り組みが加速することを期待する。」と話した。

内乱に関しては一部よりミルズ皇国政府の政治弾圧の可能性も指摘されるなど同国の責任を追求する向きも存在する。大規模な通信障害により国際社会は停止状態が続いているが、同国政府が何らかの行動を示すことは避けられない見通しだ。

一方でそれらの懸念に基づき共産党の議員より同国への武力介入が主張されたことに対しては政府は「混乱を更に増大させるのみの結果となるだろう」と否定した。

政府は勤労階級の復興支援及び内政状況の安定化のため複数の支援を送っており、ミルズ政府がそれら支援により持ち直しを図ることができるのか注目される。



【独自】民主化に躓くミルズ、その道筋を追う

839年11月から841年12月まで続いた内戦を含むミルズの混乱はいかにして始まり、そして続いているのか。ミルズ市民及び政府関係者への独自取材により紐解いていく。

事の発端は同国の建国にまで遡る。建国当初はアダム・フォン・ミルズによる絶対王政により始まったその国家は830年に突如として民主化を宣言し、アダム皇が政治的実権を手放すと共に第一回の"選挙"を行った。

この"選挙"はそれぞれの候補者らの立候補により議席が定められるという民意が反映されがたい方式によるものであり、国際社会はこれを民主的でないとして半ば否定した。

しかし当時の政府関係者によれば、この"選挙"もまたようやく実現されたものなのだと言う。

「建国当初においては今みたいな混乱などなかったんです。それはアダム皇の手腕とカリスマ性があらゆる不満をかき消すほどに素晴らしいものであったからです。王党派の妙なアダム皇信仰はこの頃が忘れられないからなのでしょう。

皇国にとっての転機のは829年中頃だったでしょうか。この時にアダム皇が民主化を進めたいと言いだしたんですね。しかし残念ながら政府や国民はほとんどが民主主義について十分な知識を持っていませんでした。ここから歯車が次第に狂い始めました。

まず第一の失敗は政府の多数派が民主主義について誤った見解を共有しそこで凝り固まってしまったことでした。そこで皇国は830年選挙での完全民主化の機会を逃すこととなりました。

第二の失敗は第一回選挙の当選者を『立候補者からの抽選』などという方式で決めてしまったことです。これにより選出された下院は政治知識が無い議員も混在する魔境となり、その後の正しき民主化への取り組みに大きく支障を与えることとなりました。

第三の失敗は国民の間に民主主義国家の一員であるという自覚を萌芽させられなかったことです。これにおいてミルズの民主化が空回りすることが確定づけられてしまいました。」

830年選挙当時のミルズシティ市民らに対する我々の独自取材では市民はこう答えている。「選挙って何か良いんだろ?」「初めて出来た外国の友達に『投票には行ったんだろうね?』と言われたよ 投票って何?」「なんかよくわからないけど、前に進んでるんならいいんじゃない」…

これらの市民の声から見えてくるのは関係者での証言でもあるようなミルズ皇国市民の権利に対する意識の致命的な欠如だ。選挙への立候補者はなんと全国民の4分の1にも及んだと言われているが、国民の意識がこうであれば選出議員の意識が如何であるかは想像に難くない。

「無理だったんですよ。選出された下院には会派という概念が当然無ければ、なんならどんな職務をこなすのかという自覚さえ全く無かったんですから。」こう語るのはラルバ内閣においてミルズの民主化に向け携わってきたと語る議員だ。

「最終的な首相の選出は少人数の委員会が行ったと記憶しています。ラルバ氏は優等な教育機関で政治の知識が豊富だったということが良かったのでしょうね。しかし会派という概念がないこの議会では彼はまさしく"一人与党"の情勢でした。したがって彼がまず何をしたかと言えば選出された議員に対する教育からでした。

これによってようやく議会が議会の体を成し始めたのがなんと3年ほど過ぎた時からだったでしょうか。それほどまでに議会は壊滅的な状態でした。

そこから機は熟したと判断した内閣は国民への社会教育の推進に取り掛かり始めました。この教育はすでに成人し義務教育課程を修了した国民も対象に非常に広く再度行われる運びとなり、民主主義国家への土台が完成するのをひたすら待ちここで3年が経過したと思います。

これで6年なわけですが、実のところ全ての政治家や市民がこの方針に賛同したわけではありませんでした。それらの知識を履行した上で、改めて王権の強化を求める意見が一定数存在したんですね。

氏の見落としはその政治信条が共和制の国家におけるものだったことです。一方でアダム皇は元首を退いてもなお国民からの敬服を失ってはいませんでした。これが君主制の持続を望む人々との乖離を生み出す結果となってしまいました。

コレにより生み出された最も重大な結果はミルズ国内における政治団体についてそれらの要件及び民主主義観点からの尊重を定めたいわゆる"政治団体法"の制定に失敗したことでしょう。これによってそれまで緩やかに形成されてきた"政党会"は"政党"となる機会を失い、全てがいわば"地下組織"であるという異常な状況を生み出しました。

報道では地下組織化させたと言っていますが、そりゃ地下組織化するってもんですよ。だって規定が出来なかったんですから。合法か非合法かもわからないのに堂々とやる真似は出来ないってもんです。まあ、結局の所これが一番の内戦の要因だったんでしょうね…」

民主化の取り組みが遅々として進まぬまま時は選挙を目前に控える839年11月となり、ついに政党会の一つであるミルズ王党派が「自然の町」を拠点に武力蜂起を行う。

絶対王政の必要性を訴え、社会主義者を虐殺するなど非常に急進的な色の強かったこの政党会はなぜ政府に反旗を翻し内戦の決断を行ったのか。

ある王党派の関係者は我々の取材にこのように語った。

「背景にあるのはこの国の歩みゆく未来への深刻な不安感だ。建国当初、我々は明確に前を見据え歩めていたはずなのだ。ところが"民主主義"が入り込んでからというもの、この国は一切前に進めていない。

このままでは何もかもが中途半端なままこの国は迷宮の中で消えていく運命になる。そういう感覚が我々の中にはあった。」

事実、この時期の取材において市民の一部からは「この国はこのままダメになるのか」といった政治体制に関する不安の声も聞かれるようになっていた。国家全体に薄いながらも閉塞感が存在したことは確かなようだ。

「私が決断に至ったのは総裁の演説を聞いてのことだ。総裁は私が抱えていた閉塞感を明確に挙げ、この国を再び前に進ませようとする強い意志をぶつけてくれた。おそらく王党派の殆どがそうした理由で行動を始めた者だったろう。」

結果として王党派は一部地域を占領するに至るまでの人員を確保することとなり、839年武力蜂起に至る。

しかし間近に選挙が存在する状態でなぜこうした強硬な手段に出る決断に至ったのか。こう問いかけると関係者はわずかに後悔の念も口にした。

「私は盲目的な状態にも陥っていたのだろう。前を向けないからと戻るのではなく、前に向くために全力を注げばよかったのだ。

そうでなくとも我々は"政治団体法"で規定されようとしていたところの政治団体の要件を満たすものとなっていたのだから、来る第二回選挙で堂々とそれを掲げていればよかったのだ。

しかし、当時の私はそれが出来なかった。そうしたくなかった。この国を作り直したい、という自己の欲求を満たしたかったのかもしれない。

…我々が武力蜂起を決断したことには総裁の願いも関わっていたように思う。『選挙が来ればこの国は確実に手遅れになる』そんな思いがあったように記憶している。

政府に対する不安と不信が極限に達したのがあの瞬間であったのだろう。」

しかしその後反王党派勢力は急速に連携を深め、結果として841年12月に勝利に至っている。

王党派に対する団結の背景には一体何があったのだろうか。ある議員は語る。

「王党派の蜂起はまさしく藪から棒でした。それまで宇宙空間に自由浮遊するがごとく何ら進まなかった我々に『このままでは民主主義はダメになる 間に合わなくなるぞ』という憔悴が生まれました。歩みだそうという共通認識が初めて生まれたと言っても過言ではないでしょう。

考えて何もしないことは、考えずして何かを成すことよりも恐ろしい。そんな気に至りました。」

第二回選挙は内戦に伴い延期され、またどのような規定で行われるかも不明なままだ。しかし内戦を乗り越えた国民らは確かな前に進む決心を抱いているようだ。

「新たな選挙がどういう制度であるか、私はまだ知らない。しかしどういう制度であろうが、私は私なりの考えを政治に反映させたいと強く願っている。」

内戦はミルズ皇国に深刻な経済的損失と国際信用の喪失をももたらした。同国の政治家や国民はこの痛みを戒めとして、前に進むエネルギーとすることができるだろうか。ミルズ皇国の歩みは始まったばかりだ。



その他

842年にミルズにて蜂起の勢力は赤色テロ組織か―民間企業報告

【局説】安易な攻撃が生むものは無し

【広告】ヴェールヌイ語原版図書展を開催。希望者には貸出も可。詳細は博物館まで。―イスタンベル州立博物館
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