現レガルトニアス共和国
¶現レガルトニアス共和国
¶商品 3兆Va相当
¶1番の魅力は、海の中を直接観察できるところにある。
科学都市「サイテス・シティー」
科学者が集まる街。国土の南西部に位置する。
観光都市「シルキア」
二つ目の観光都市。広い範囲で海に面していて、
夏には多くの観光客が訪れる。
国名の由来
建国者 「カズ・シャルスト」に由来
国歌 揺れる花
国花 サスケザクラ
北部の山にのみ自生する桜。固有種。
国旗
白地は、汚れていない純白の心。
赤い稲妻は、国を思う気持ちを、
青い星は、平和を表している。
首都名の由来
現地の住民の言葉で、誠実な都市という意味。
歴史
795年 建国
799年1月 首都『シンセアーシティー』ができる。
概要
民族構成
旧世界ヨーロッパ系 48%
旧世界アジア系(主に日本) 26%
旧世界オセアニア系 14%
原住民ラウル族系 12%
位置
西方諸国に属する
地理
ベスト・コア・シティー
首都中心部に位置する街
経済の中心であり、自然との共生を目指して開発が進んでいる。
ベストコアシティーの航空写真
科学都市「サイテス・シティー」
科学者が集まる街。国土の南西部に位置する。
観光都市「エミリアス」
自然との共生を目指した、最初の観光都市。
豊かな自然が魅力。
観光都市「シルキア」
二つ目の観光都市。広い範囲で海に面していて、
夏には多くの観光客が訪れる。
1番の魅力は、海の中を直接観察できるところにある。
主な輸出品
・燃料
・石材
・商品
主な貿易品のレート
資金 1兆Vaに対して
燃料 1億ガロン
食料 2億t
商品 3兆Va相当
内閣院 | 内閣の統括及びその他事務等 | 首相(内閣官房長官) | 法制局・国家情報庁・歳入庁・総務庁・中央人事委員会・地方協力庁・国家捜査庁・公正取引委員会・証券取引委員会・通信監理委員会 | 内局:内閣官房・経済財政会議・国家安全保障会議・内閣予算局・内閣人事局・国家安全保障局・内閣社会経済局・危機管理局・内閣広報官・内閣通商局 |
国家警察庁 | 国家警察 | 国家警察庁長官 | - | 877年1月に国家捜査庁に改称 |
第二代 | 計画 | 860年4月~現在 | 上院議員 | 社会党 |
第二代 | 計画 | 860年4月~現在 | 社会党上院議員 | - |
初代 | 令和 | 830年4月~860年4月 | 十河府長官 | - |
第二代 | 計画 | 860年4月~現在 | 上院議員 | - |
国名 | 昭栄国 |
国旗 | |
元首 | 菅帝 |
首相 | 平成 |
通貨 | Va |
建国 | フリューゲル暦477年 |
首都 | 十河府 |
830年4月に施行された憲法(830年憲法)で設けられた国家元首であり、行政府の長。国民の投票で選出され、任期は一期10年で四選禁止。権限は、予算案の提出権、条約締結権、民事会(下院)の解散権や首相と行政部長官などの任免権を有する。
昭栄国首相は帝により任命される。かつては、至高の帝大権として帝が干渉を受けずに首相を任命したが、徐々に参事会や民事会の議決を参考にするとの慣例が確立され、598年8月には観帝が「帝政則令」を発し、民事会の多数党党首を首相に任命すると定めて、勅令によって帝大権を制限した。628年11月に改正された憲法では、民事会が首相を指名し、帝が任命すると定められた。また、首相は民事会を解散することが出来る。
議会は参事会と民事会から構成される。帝室諮問会議の輔弼で帝により発される勅令とともに立法機関を構成している。また、628年に改正された憲法で勅令も制定から1か月以内に議会の議決が必要となった。参事会と民事会の議決が相反した場合は参民協議会での協議と多数決により決められるが、この協議会の定員を民事会が過半数を占めるので民事会優位が確立されている。
+ | 議会機構図 |
487年憲法により新設された帝の輔弼機関で、帝宮内の法機院に設置されている。帝室諮問会議委員は定員11人からなり、首相による推薦のもとで帝により任命される。帝室諮問会議長は帝室諮問会議委員から投票により選出される。帝室諮問会議は憲法改正と条約の批准について審理する。また、参事会委員候補を帝に推薦する。
+ | 歴代帝室諮問会議長 |
建国直後の鉱山開発協力以来普欧帝国との関係が深かったが、普欧帝国滅亡にからは中立政策を国是とする。基本的に、いかなる理由があろうとも他国への武力行使には消極的で、経済的支援を旨とし、この中立政策は普欧帝国滅亡以後長期にわたり堅持されていた。FENA加盟後は圏内の経済的関係を強め、安全保障政策でも足並みを揃える傾向になり、これはFENA優位政策と言われている。食料輸出国となってからは、FENA圏外とも多様な通商関係を有しFENA依存度は低下したが、成蘭連邦王国の解体後にFENA議長国に選出されてからは、外交政策の軸はFENAに回帰し特に通商問題について加盟国と緊密に協力している。
帝による統帥の下に帝室国防軍が編制されている。国防政策は国防長官が担当する。軍令は参謀本部が担当する。帝室国防軍は長らく、帝室国防陸軍及び帝室国防海軍により構成されていたが、620年2月に陸・海軍の広域航空作戦機能と宇宙衛星作戦機能が移譲されて帝室航空宇宙軍が創設されて三軍体制となった。さらに726年7月には航空宇宙軍が空軍と宇宙軍に再編された。帝室国防軍は帝によって統帥されているが、統帥権の行使は首相の助言と承認に基づくと規定されており、文民統制が確立されている。現在は、国防部本庁と帝室国防軍参謀本部はともに十河府に所在する。
かつては府と道が存在したが、570年の憲法改正で府に再編され、全国六府体制となった。同時に、官選で内務官僚より任命された各府長官も民選に改められ、現在まで議会の議決に基づいて任命される間接民主制が採られている。権限や財源は憲法改正で長官が民選となる以前より独立性が強く、税財源は国税の付加税と地方税により成り立っているが、多くは地方税によって占められており、税率も自主的に決めることが出来る。現在も中央政府から税源・権限の移譲が進められており、政府も将来的には各府財政が全て地方税で賄われることを目指している。
各府長官は首相より推薦され、帝により任命される。郡部道長官は内務長官より推薦され、首相により任命される。各府は府議会を、各郡部道は道議会を設置し、議員は成年男子による選挙により選ばれる。
各府にそれぞれ警察が組織され、十河府警察のみ警視庁と称される。警視総監は首相の同意に基づき十河府議会の議決により任命され、その他府警察本部長は各府議会の議決により任命される。公安部は警察関連の立法や予算案の作成などを担当し各警察を直接の指揮命令下に置かないが、公安長官は各警察の業務監査を行う権限を持つ。また公安部は各警察と密接な人事交流を行っている。基本的に警察は管轄の府域において発生した事件を担当するが、捜査権は全国に及ぶ。公安部の外局の国家警察庁は組織犯罪や国際犯罪を担当するが、捜査は各警察と緊密に協力する。
+ | 自治体警察一覧 |
各府・郡部道は警察本部を設置する。首都警察本部長及び警視総監は首相及び各府長官により任命され、その他警察本部長は公安長官による推薦のもと、各府・郡部道長官により任命される。
+ | 廃止された警察 |
もとは二審制であったが、570年の憲法改正で初級法院、控訴院、大審院からなる三審制となった。同様に任命規定も大幅に改められ、大審院判事は帝室諮問会議により推薦され、参事会・民事会の議決を経て帝が任命する。その他裁判所判事は大審院により推薦され、参事会・民事会の議決を経て帝が任命する。
終審裁判所として新弁府に帝立高等法務院が置かれている。帝立高等法務院長官は帝室諮問会議の推薦のもと帝により任命される。その他帝立高等法務院判事は参事会による推薦のもと帝により任命される。下級裁判所として各府・郡部道に府・道法務院が置かれる。これら府・道法務院判事は府議会・道議会の推薦のもと帝室諮問会議により任命される。
+ | 国内の裁判所一覧 |
義務教育として修学年限9年の初等教育が定められいる。これに対応して初等学校が置かれる。その後は修業年限3年の中等学校、および修業年限5年の恩賜・帝立大学と修業年限4年のその他国立・私立大学が置かれている。初等学校に於いて2年まで、それ以外ではそれぞれ1年までの繰り上げ卒業が認められており、最短13年で恩賜・帝立大学を卒業できる。この最短卒業者は通称短限組と呼ばれる。通常大学入学には中等学校卒業資格が必要とされるが、何らかの事情で中等学校への進学・卒業が出来なかった者は中等学校2学年相当の年齢以上であれば、中等学校卒業資格試験を受験して合格することでその資格を得ることが出来る。一部学校は、初等・中等教育学校を併設し、これらは通称一貫校と呼ばれている。また、帝室方及びその関係者のために帝立講学院が置かれ、これは初等・中等及び大学課程を併設しているが、区分上は帝室によって創設され保有されている私立学校に分類される。
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¶[添付]
¶冰州全図 | |
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国家概要 | ||
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国名 | 冰州連合 | |
正式名称 | 冰州条約連合,Confederation of Polar-zone Pact | |
国旗 | ||
首都 | 名称選定中 | |
評議会議長 | ヴィリ・エルステッド | |
政治体制 | 寡頭共和制 | |
主な産業 | 方針策定中 | |
人口 | 調査中 | |
公用語 | 旧北欧語 | |
建国 | フリューゲル暦813年7月 | |
公定レート | ||
品目 | 単位 | レート |
食料 | 1億トン | 1000億Va |
商品 | 1兆Va相当 | 3000億Va |
建材 | 1億トン | 2兆Va |
燃料 | 1億ガロン | 2兆Va(ストリーダ王国は1.5兆Va) |
木材 | 1億トン | 1億5000億Va |
石材 | 1億トン | 2兆5000億Va |
石油 | 1億バレル | 1兆Va |
銀 | 1万トン | 8兆Va |
食肉 | 1万トン | 3000億Va |
鋼鉄レート | ||
累計3億トン以下 | 鋼鉄1億トン= 3~4兆Va(国際レートの変動を考慮しながら決定) | |
累計3億トンを超過した分 | 鋼鉄1億トン= 50兆Va | |
※直近の鋼鉄購入から100期後にリセット (取引記録は当スレッドにおいて管理します、取引申請は従来通り観光者通信でお願い致します。) |
冰州連合(日本語読み:ひしゅうれんごう,英名:Confederation of Polar-zone Pact)[CPP]はフリューゲル極圏付近の寡頭共和制国家。
フリューゲル暦812年以前は民主共和制を標榜していたが、国内の民族主義の高まりを受け、政治的左派が衰退し、過激化したことで内戦に発展。内戦終結後、政治的右派にも、政治的左派にも「同等の政治上の力」を付与することを目的として、寡頭共和制を採用している。用いられる経済政策は混合経済的なものが中心。
(注:正式な名称は冰州条約連合だが、メディア等、一般的に用いられている国名は冰州連合が一般的となっている。政府が自国を指す場合に用いるものは冰州政府,連合政府などがある。)
民主共和制時代は国名を冰州共和国と言い、漂流期を経てフリューゲルに着陸した後(フリューゲル暦805年)は比較的安定した時代を謳歌していたが、先住民族との対立を受けて、政治的左派がマイノリティやアイデンティティのための闘争を繰り広げたために、左派への失望が社会的に蔓延。左派が政治的な力を失い、危機感を募らせたことで、過激化した左派が武力闘争を含めた過激的闘争を繰り広げたため、右派を支持し、右派の統制下にある国軍との間で内戦に発展した。
内戦は右派の勝利で終わったが、史上初めての内戦という社会的動揺を抑えることができず、右派と左派の間で和解を模索する動きが活発化。フリューゲル暦810年から始まった十六回の協議を経て「冰州条約(代表者の名前をとってセーレンセン=エルステッド条約とも)」を右派の代表である政治家エリザベス・セーレンセン(Elizabeth Sørensen)、左派の代表である政治家ヴィリ・エルスデッド(Willy Ørsted)で起草・合意、フリューゲル812年に議会で可決、フリューゲル暦813年7月より施行し、国名を冰州条約連合とした。
+ | 冰州条約の要旨 |
冰州条約連合発足後のエルステッド政権の功罪は未だ議論が分かれる。代表的な政策はいくつかある。
もっとも評価が高いのは冰州の学術に対する支援国を募集したことであり、これによってレゴリス帝国、ヘルトジブリール社会主義共和国、カルセドニー社会主義連邦共和国、中夏人民共和国、ロムレー湖畔共和国といったフリューゲルの国際政治を代表する国々との文化的な接点を有することに成功した点である。これらのうち、ロムレー派、カルセドニー派が建国初期の暫くの間は国内政治で台頭し軍部ではレゴリス帝国派が影響力を及ぼすようになった。これらの関係構築は、巨大隕石墜落後に破格の支援を受け取ることが出来た理由の一つとされる。
また、治安維持活動を外部に委託した点も特筆される。怪獣、反乱軍の鎮圧が弱小な国内軍では難しかったため、ヴェニス・セキュリティ・サービス株式会社に対して治安維持を委託し、世界的に見ても高水準の治安を確保した。一時国際幸福指数では90を突破し、一部先進国よりも幸福度が高い時期すらあった。
一方、評価が分かれるものとして、鉄鋼レート問題に関する外交紛争がある。エルステッド政権はフリューゲル暦820年に資金:鉄鋼レートを1:50に設定する公定レートを発表。これが先進国から強い反発を招いた。国際交易における配慮の枠組みに関する共同声明と題した国際共同声明は、当時冰州が影響を受けていたレゴリス帝国、ヘルトジブリール社会主義共和国、カルセドニー社会主義連邦共和国が名を連ね、国交を有していたガトーヴィチ帝国、ローレル共和国もこの声明に賛同したことに、国内では戦争の不安や孤立感、これらの国に対する強い困惑と憤り、あるいはエルステッド政権の通商政策を批判する声など、様々な声があった。
ヴィリ・エルステッド評議会議長は声明が出されたその日に談話を発表、冰州の立場を発信した上で理解を求めるとともに、漸次的な是正に取り組む方針を明らかにしたが、これでは収まらずカルセドニー中央通信をはじめとした諸外国のメディアからは談話を一部肯定するものの疑問を持つ声が多く見られた。また、普蘭合衆国政府からは過剰反応とする声明が発表され、冰州では国際社会への不信と孤立感が高まり、世界的に高い幸福度が一気に60前後まで下がり、一時政府の対応に強い不満が国内各所で挙がった。
しかし、この事態を打開すべく、冰州政府はストリーダ政府に対して書簡を送り、超大国として長年君臨する同国に、国際政治に精通した立場から助言を求めた。ストリーダ王国政府からは当時の政府高官が「非常に丁寧で親切さと厚意が滲む助言だった」と評するある提案を受けた。この外交交渉の後、冰州政府は「冰州鉄鋼取引所」を設立。提案をもとに累計3億トンを超過する取引のみに1:50レートを適用し、それ以下であれば国際的なレートを採用することで、国内需要と国外需要の双方に応えることのできる新政策を打ち出した。これらの外交紛争は、国内で共同声明国に対する不信と印象の悪化を(ただし、カルセドニー社会主義連邦共和国やヘルトジブリール社会主義共和国に対しては、建国時の多大な支援と隕石災害での人道的支援から、そこまで悪感情がない国民も多く、寧ろ過去に侵略戦争を多く引き起こしているレゴリス帝国やガトーヴィチ帝国に対する脅威論と悪感情が主とも言われている。ローレル共和国に関しては好悪ともに複雑な思いを抱く国民が多い)、ストリーダ王国に対する高い好感度と信頼を生むきっかけとなった。この後、軍部ではレゴリス帝国派が決定的な主導権を握り損ね、安全保障政策が迷走し、国内政治ではロムレー派の一強体制と、外交政策では親ストリーダ・ロムレー・中夏政策を生むことになる。
議会は一院制を採用しており「冰州人民議会」と呼ばれる。現在の議会の構造は下図の通り。
(議会成立、および運営の根拠は新憲法および冰州条約による。)
冰州人民議会 | ||||
---|---|---|---|---|
●中央党 ●人民共和連合 ●ANDERSEN ●指名議員 | ヘルトジブリール社会主義共和国の支援物資によって 建造が進められている 「ベッティーヴィル(Bettiwil)議事堂」。 両国の初代大使の名前に因んで名づけられた。 | |||
政 党 一 覧 | ||||
中央党 | 党旗 | |||
政治的傾向 | 右派 | |||
党首 | エリザベス・セーレンセン | |||
詳細 | 当初、宇宙船農業セクターの政治団体として発足。弱小政党だったが、宇宙船の食料問題が深刻になるにつれて解決のための政策を打ち出したことで広い支持を集め、現在の党勢を築いた。政治姿勢は中道右派的で、社会保守の立場にあったが、先住民族との対立の中で、次第に右傾化。一時は民族主義政党に姿勢を転じたが、内戦の惨禍を目の当たりにし、戦後の反省の中で、従来の中道右派に立ち戻った政策を展開する方針を戦後最初の党大会で決定。これらの反省から基本的に左派の主張に否定的ではなく、左派にも配慮した政策を行うことから中道右派ではなく中道主義に位置づけられることもある。一方で、対外的姿勢は未だにややタカ派寄りであり、国際協調よりも自国の独自路線的な主張をすることが多々ある。自国の軍備増強にも肯定的。 | |||
人民共和連合 | 党旗 | |||
政治的傾向 | 左派 | |||
党首 | ヴィリ・エルステッド | |||
詳細 | 地球時代より存在した政党で、中央党と同じく当初は弱小政党だったが、宇宙船の中の経済的不況や社会的不安の高まりの中で、労働者の救済や貧困者の救済を掲げて公共サービスの向上や一部企業の国有化などを中心にした政策が支持され、党勢を拡大した。ユーロコミュニズムの流れを汲んでおり、政治姿勢は中道左派よりもやや左翼的。社会民主主義政党に位置づけられることもあるが、歴史の中で政治的姿勢が度々変化しているため、現代においても厳密には定義出来ていない。戦前は先住民族との対立の中で、中央党の政治手法を厳しく批判し、文化左翼的な闘争を繰り広げたことで支持を失い、政治的な力も失った。このため、一部の党員はニュー・レフトのような過激的立場に転じ、政府との武力闘争も辞さない構えを示したことを発端に、次第に闘争の規模が大きくなり内戦に発展した。戦後はこれらの反省から、「政治的な力なくして権利の擁護はなし得ない」とする考えのもと社会主義的な経済政策に重点を置いた現実的な路線に転じた。対外姿勢はハト派であり、多国間協調を好む点で、中央党と一線を画すが、中央党と同じく話には否定的ではない。しかし一部には未だに過激な党員も存在するとされる。 | |||
ANDERSEN | IMAGE | |||
開発会社 | 極秘事項 | |||
詳細 | とある企業によって開発が進められている政治意思決定・課題解決型AI。内戦の後、人々が時に熱狂と狂気のうちに、現実を見失い、正しい選択が出来ないことがあるという反省のもと、AIの政治参画による「誤謬なき政治」を実現するために開発がスタートした。政治的中立性が重要であることから、開発に携わっている会社や、メンバーの名前は一切明かされておらず、評議会議長にのみ閲覧が許される冰州連合の最重要機密に位置付けられている。 |
冰州条約の規定により、15年に1度、右派と左派で行政府の長を持ち回りで受け持つ。この行政府のことを、右派の国家元首の場合には行政評議会、左派の国家元首の場合には冰州評議会と呼ぶが、メディア等ではややこしくなるという理由から、官邸が置かれている場所がアケルスス宮殿であることから、行政府をアケルススと呼ぶ。
中央党、もしくは人民共和連合の党員選挙で選ばれた者が行政府の主となり議会での承認を経て(儀礼的なもので、特別な理由がない限り、原則承認しなければならない)評議会議長に就任する。評議会議長は大統領型権限を有し、政党、議会からの指名を受ける以外には、原則立法府からは独立する。行政の最高責任者であり、首相職は置かれず、評議会議長は閣僚の任免権と、議会が混乱した際の裁定権、大統領議員指名権、臨時的な行政命令権を持つ。
閣僚は議員と兼務することはできないが、閣僚は大統領の出身党の党員であることが望ましいとされている。ただし、出身党ではない党の党員を一人は政権に入れることが暗黙の了解になっている。
現在の政権担当党は「人民共和連合」であり、ヴィリ・エルスデッドが評議会議長を務める。
エルステッド政権(人民共和連合)813年から現在 | |||
役職名 | 名前 | 任期 | 政党 |
---|---|---|---|
評議会議長 | ヴィリ・エルステッド | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
第一副議長 | ルドヴィク・ヨハンセン | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
第二副議長 | ヤン・ゲーゼ | 813年 - 現在 | 中央党 |
国防長官 | ヴィルヘルム・ラウドルップ | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
内務長官 | ケネス・イェンセン | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
財務長官 | ヤコブ・カールセン | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
緊急事態長官 | カリーナ・マグヌッセン | 813年 - 現在 | 中央党 |
外務長官 | カレン・スキビュー | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
司法長官 | マグヌス・サアアンスンド | 813年 - 現在 | 中央党 |
経済・エネルギー長官 | マルクス・ラスムセン | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
保険・社会開発長官 | オスカー・ヘンリクセン | 813年 - 現在 | 中央党 |
文化教育・科学長官 | リチャード・クローグ | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
天然資源・環境長官 | カスパー・ナビウリナ | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
農業・水産長官 | クレイトン・ルーカス | 813年 - 現在 | 中央党 |
運輸・観光長官 | パーニル・モルク | 813年 - 現在 | 人民共和連合 |
下級司法裁判所、中級司法裁判所、上級司法裁判所の三審制だが、事件によって裁判の開始階層が異なる。下級司法裁判所で裁判が開始した場合、中級司法裁判所で審理が終了するため、実質は二審制を採用している。ただし、死刑判決が下の階層における裁判所で出た場合や、政治的事件、社会的に重要度の高い事件の場合は三審制が適用される他、再審制度が広く適用されている。上級司法裁判所の上級司法裁判所長官、及び判事は、評議会議長、司法長官、内務長官の指名を受けた後、議会での承認を得なければならないとされている。現在の上級司法裁判所長官はアーリング・ホルト。
伝統的な経済政策は混合経済的であり、右派政権の場合には市場経済寄りに、左派の場合は計画経済寄りになる傾向がある。しかし、他国との円滑な貿易の観点から、813年以降は市場経済をやや優先した経済政策が採られている。主要産業は極地のため、将来的には工業や観光・サービス業を振興する方針であったが、フリューゲル経済の調査が進んでいないため、具体的な国土開発方針が定まっていないのが実情である。
地理に関しては調査が進んでいるが、公式地図を編纂中のため、当記事において公開できる情報が不足している。
冰州全図 | |
---|---|
首都ヴィスビグ(Vispig)(819年現在の様子) | |
時計回りに、ヴィスピグ中心街(中央は国家行政タワー)、アケルスス宮殿、夏丁鈴電波塔(中夏人民共和国の支援により建設) | |
【解説】 | ヴィスピグ地図 |
810年代に建設が進められた首都・ヴィスピグ。当時の冰州の技術力を活用し、諸外国の支援によって完成まで漕ぎ着けた。郊外は冰州らしい北欧風の町並みが見られるが、国家行政タワーを含む中心街は主に旧ロシア系の建築家らによって設計が行われたため、ロシア的な影響も見られる。首都中心部の人口は50万人程度と諸外国の首都に比べれば小さいが、郊外もあわせると200万人前後の大都市となり、現在の冰州の発展の原動力になっている都市と言える。 | ★官邸(アケルスス宮殿) ★教会地区(カテドラル) |
現代都市ブルーティアラ(819年現在、計画中) | |
時計周りに、ブルーティアラ中心部(中央はブルー・ティアラ国際金融センタービル)、ブルーティアラ中央駅、クリストフ・ガエル・イアサント・ラベー国際空港(ロムレー人政府顧問の名前から)※画像はイメージです。 | |
【解説】 | ブルーティアラ地図 |
普蘭合衆国からの支援資材によって建設が計画されている現代都市。都市の名前は普蘭合衆国からの支援の返礼として、冰州側から普蘭合衆国に命名を依頼し、普蘭合衆国から贈られたものである。300万人が居住できるだけの都市機能を備えることや、諸外国外遊で得られた知見を生かした先進的な都市計画が練られており、将来的には国際市場・金融において存在感を発揮する都市となることが期待されている。 |
冰州高等教育機関の一覧 | ||
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冰州学術支援国募集を経て結成。 | ||
冰州国立大学 | ||
詳細 | ||
未記入 | ||
各学局の名称(系統) | 学局長名 | 学局長プロフィール |
人文科学局 | ナタリー・マルセル・リディアーヌ・ペルグラン (ロムレー湖畔共和国) | アンゼロット記念大学教授(言語学博士) 【専門分野】 「レゴリス語の文法構造」 「古ノルド語文法体系」 「ノルン語からスコッツ語への交替に関する小論」 「ヴェニス島におけるゲルマン諸語の言語接触とヴェニス社の言語政策」 |
社会科学局 | ケレン・ヘリオトロープ (カルセドニー社会主義連邦共和国) | クリストバライト大学経済学部教授 【専門分野】 「新興国における工業の成立と発展」 「フリューゲルにおける農村都市間人口移動と都市化」 |
自然科学局 | ローザリンデ・ギーゼブレヒト (ヘルトジブリール社会主義共和国) | ヴァイセン大学化学・地球科学部教授 【専門分野】 「工業用薬品の開発」 「観測衛星を用いた地震発生予測システム開発」 |
ヴォルヴァ人民大学 | ||
詳細 | ||
未記入 | ||
各学局の名称(系統) | 学局長名 | 学局長プロフィール |
人文科学局 | シリン・コーサイト (カルセドニー社会主義連邦共和国) | カーネリアン大学文学部教授 【専門分野】 「History of Chalcedony」 「カルセドニー社会主義発達史」 |
社会科学局 | レオノーラ・ジーベル (ヘルトジブリール社会主義共和国) | アズリール大学社会学部教授 産業省元事務次官 【専門分野】 「各産業需要想定及び生産量の調整及びシステム改善について」 |
自然科学局 | 金球英 (中夏人民共和国) | 紅京大学工学部学部長 【専門分野】 「新時代農法と生産効率性」 |
国防関係校 | ||
詳細 | ||
未記入 | ||
士官養成校・指揮官養成大学名 | 学長名 | 学長プロフィール |
陸軍士官学校/指揮幕僚大学 | 安六山 (中夏人民共和国) | 楽陽軍事大学元学長 中夏人民共和国元陸軍統合参謀総長 【専門分野】 「国家防衛と外交分野の相互連動」 「宇宙防衛と戦術理論」 「国家と内乱」 |
空海軍士官学校/指揮幕僚大学 | テア・ディーツゲン (レゴリス帝国) | 国防大臣 帝国軍統合作戦本部総長 帝国海軍作戦本部総長 第4艦隊司令官 ……等歴任 【専門分野】 「世界に冠たる我がレゴリス-新たな時代に於ける国防戦略」 「4ヶ月戦役に於ける帝国軍の内線戦略に関する一考察」 「国家総力戦と継戦能力」 |
冰州特殊部隊教練校 | セレドニオ・アラゴン・セレーナ (ロムレー湖畔共和国) | ロムレー大気海洋局士官部隊准将 (安全保障学修士、理学博士) 【専門分野】 「雪中戦における気象状況分析」 「山岳戦教導」 |
学術提携校 | ||
詳細 | ||
未記入 | ||
提携校名 | 大学の特徴 | |
アンゼロット記念大学 | その由来を移民船時代に遡るロムレー最古の大学であり、建国以来多数のカレッジが競いながらロムレーの学界を牽引してきた実績を持つ。各国からの留学受け入れの実績有。著名な出身者(留学)に足柄小織現レゴリス総統など。 | |
ロムレー大学 | ロムレー唯一の国立大学で、ロムレーの官界・財界に多くの人材を輩出している大学。特に社会科学系を中心とした実学分野でアンゼロット記念大学に引けを取らない成果をあげている。外国語学部を抱え、外国学や地域研究を通じてロムレーだけでなく世界各地と交流できる点が強み。 | |
帝国大学 | レゴリスの国立大学の中で最高峰と呼ばれる最古の大学。政治家、起業家、俳優等、様々な著名人を輩出している。現レゴリス帝国総統である足柄小織女史も同大学の出身者。創立以降様々な国籍の学生の留学先として選ばれている実績を持つ。 | |
アルヴィドソン大学 | レゴリスの私立大学に於いて最も古い歴史を持つ大学。レゴリスにおいて”国立の帝国、私立のアルヴィドソン”と並び称されるように、帝国大学と同格の高い教育レベルを誇っている。帝国大学と同じく様々な国籍の学生の留学先として選ばれている実績を持つ。 | |
紅京大学 | フリューゲル暦400年に開学した東方地域でも歴史ある大学。旧京司国子監が前身で、民国期は北燕大学(燕大)と称した。略称は紅大。第一共和政の王賢之大総統や夏詩中興の祖と知られる大詩人陳英流などの歴史的な著名人を輩出している。夏丁鈴元主席も本学法学院出身の弁護士であったという。2度の中夏内戦で荒廃したが、習遠安政権期に復興し、東方地域最大の学府となった。国家重点大学の一つであり学部に相当する学院が存在する。特徴として経済学部に近代経済学院とマルクス経済学院に分かれていることや、中夏思想学院など独自の分野の学部が存在する。附属学校に紅京大学付属高校が存在する。 |
各学閥の政治影響力 | |||
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留学組 | |||
派閥名 | 影響力 | 印象補正 | 政策補正(トリガー:30%以上獲得) |
ロムレー湖畔共和国派 | 70% | 隕石+建国支援+ | イベント【留学組の政治闘争】において 「ロムレー派は強すぎる力を得た」を獲得。 |
中夏人民共和国派 | 30% | 建国支援+ | イベント【留学組の政治闘争】において 「中夏派は強い力を得た」を獲得。 |
レゴリス帝国派 | 0% | 特筆すべき事項無し | 特筆すべき事項無し |
政治への影響 | |||
冰州は特質「ロムレー湖畔共和国を特別視」、特質「中夏人民共和国を重視」を獲得した。 | |||
国内組 | |||
派閥名 | 影響力 | 印象補正 | 政策補正(トリガー:30%以上獲得) |
ロムレー湖畔共和国派 | 39% | 隕石+建国支援+学術支援+ | イベント【国内組の政治闘争】において 「ロムレー派は強い力を得た」を獲得。 |
カルセドニー社会主義連邦共和国派 | 32% | 隕石+建国支援+学術支援+ | イベント【国内組の政治闘争】において 「カルセドニー派は強い力を得た」を獲得。 |
ヘルトジブリール社会主義共和国派 | 25% | 建国支援+学術支援+ | 特筆すべき事項無し |
中夏人民共和国派 | 4% | 建国支援+ | 特筆すべき事項無し |
政治への影響 | |||
冰州は特質「ロムレー湖畔共和国を重視」、特質「カルセドニー社会主義連邦共和国を重視」を獲得した。 | |||
軍部 | |||
派閥名 | 影響力 | 印象補正 | 政策補正(トリガー:50%以上獲得) |
レゴリス帝国派 | 80% | 学術支援+ | イベント【冰州の安全保障政策】において 「レゴリス帝国の傘に入らねば!」を獲得。 |
中夏人民共和国派 | 20% | 建国支援+ | 特筆すべき事項無し |
ロムレー湖畔共和国派 | 0% | 隕石+建国支援+ | 特筆すべき事項無し |
政治への影響 | |||
冰州は特質「レゴリス帝国を特別視」、特質「レゴリス製兵器の購入の検討」を獲得した。 |
819年現在、キリスト教系の教派としてはプロテスタント、正教会の教徒が存在している他、オルペウス教の教徒の存在も確認されている。内戦以降に新興宗教としてノルド教(北欧神話信仰)や、コーデクス主義的なANDERSEN Church(AI信仰)の存在が確認されている。
教派 | 信仰比率(調査で「信仰を有する」と答えた人を対象に産出した。) |
---|---|
プロテスタント | 40% |
ANDERSEN Church | 31% |
正教会 | 17% |
ノルド教 | 12% |
原則として全ての国との国交を拒まない、とする方針が採られている。他国の政体、内政事情に対して、口を出すことは主権国家間の関係上慎むべきとする右派・左派の統一された見解のもと、右派政権でも左派政権でもある程度共通の政策が採られ易い。ただし、安全保障に関しては、右派は自国の軍備を増強して自衛能力を有するべきとする主張を行い、左派は他国との集団安全保障環境の形成による自国防衛を優先し、軍備は最小限とすべきという主張を行っており、安全保障に関しては政権によって方針が180度変わることもあり得る。現在はフリューゲルに存在する30数カ国のうち、13カ国と正式な国交を締結している。政府方針としては今後も外交官を増やし、国交締結国を増やしたい考え。
効力のある条約・協定一覧 (813年) | |
条約・協定名 | 締約国一覧 |
---|---|
ストリーダ王国と冰州条約連合との間におけるウラン鉱山開発支援協定 |
(「詳細」については観光客の感想に基づくもので、政府の公式見解ではありません)
国交締結国一覧 (813年) | |||||||
カルセドニー社会主義連邦共和国 | 国旗 | 普蘭合衆国 | 国旗 | ||||
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派遣大使 | ライタル・ビヤークネス(経済・エネルギー省) | 派遣大使 | アルフ・ランプランド(外務省) | ||||
在冰大使 | トレン・シトリン(元外交委員長) | 在冰大使 | ジョン・スミス(普蘭合衆国前首相子息) | ||||
関係/印象 | 国交締結/複雑 | 関係/印象 | 国交締結/平常 | ||||
詳細 | 多国間協調主義。社会主義と商業は両立するらしい。 | 詳細 | 新進気鋭の新興大国と呼ぶべきか。面子を潰されると怒る国らしい。空気は汚いが皆豊かそうだ。 | ||||
ロムレー湖畔共和国 | 国旗 | ヘルトジブリール社会主義共和国 | 国旗 | ||||
派遣大使 | ケティル・サーシュ(運輸・観光省) | 派遣大使 | ヴィルヘルム・スヴェンセン(保険・社会開発省) | ||||
在冰大使 | 不明 | 在冰大使 | ベッティーナ・エッシェンバッハ(ヘルトジブリール外務省) | ||||
関係/印象 | 国交締結/強い影響 | 関係/印象 | 国交締結/複雑 | ||||
詳細 | なぜ観光業だけで国が回るのかはよくわからないが、空気が綺麗だった。本当に全部緑なのかは怪しい。近年、政治の場でロムレー留学組とロムレー学派が主導権を握りつつある。 | 詳細 | 成功した社会主義はフリューゲルには存在するらしい。 | ||||
トラハト=ラシュハ連合王国 | 国旗 | ストリーダ王国 | 国旗 | ||||
派遣大使 | アウグスト・ミケルセン(天然資源・環境省) | 派遣大使 | クヌート・ゲーゼ(財務省) | ||||
在冰大使 | 特命全権大使 | 在冰大使 | カイ・ライトマイヤー(元外務省国際開発局参事官) | ||||
関係/印象 | 国交締結/平常 | 関係/印象 | 国交締結/高好感 | ||||
詳細 | 緑が綺麗だった。しかしあの大きな獣は最終兵器か何かだろうか。 | 詳細 | 世界一の大国。中立こそがあの大繁栄をもたらすのだろうか。留学してみたい。国内で最も好感度の高い国であり、鉄鋼レート問題ではこの国の寄与なくしては平和裏の解決は難しかったかもしれない。 | ||||
セニオリス共和国 | 国旗 | 中夏人民共和国 | 国旗 | ||||
派遣大使 | トリグブ・テアボーフェン(外務省) | 派遣大使 | アネッテ・リー(農業・水産省) | ||||
在冰大使 | シーグル・エルステイン(エルステイン財閥一族) | 在冰大使 | 黄春麗(元警察公安部長) | ||||
関係/印象 | 国交締結/平常 | 関係/印象 | 国交締結/好印象 | ||||
詳細 | 虐殺も非だが、内政干渉も非と言わざるを得ない。ある意味加害者で、ある意味被害者だろう。慰霊碑を立てるべきだ。 | 詳細 | まさか中共がここにまでいるとは思わなかった。そして政治経済もまるで同じだ。これから世界第二位の経済大国に成長するのだろうか。何かと多大な支援をしてくれた寛大な国であり、好ましく思う国民は多い。 | ||||
レゴリス帝国 | 国旗 | エルトアニア帝国 | 国旗 | ||||
派遣大使 | ビャーネ・ドンス(国防省) | 派遣大使 | フレドリク・ラーケ(内務省) | ||||
在冰大使 | カサンドラ・アーレンス(前領事局長) | 在冰大使 | 不明 | ||||
関係/印象 | 国交締結/悪化 | 関係/印象 | 国交締結/平常 | ||||
詳細 | 世界第二位の大国。三百万人が虐殺されるいたましい事件があったが、安易な武力行使がもたらすものが何か、我が祖国も学ぶべきところがあろう。その野心的外交から国内では警戒が強まっている。 | 詳細 | 順調に発展しており、国民も皆幸せそうだ。我が祖国もこれからかくありたいものだ。 | ||||
ギルガルド社会主義共和国 | 国旗 | ローレル共和国 | 国旗 | ||||
派遣大使 | アナス・クラスゴー(農業・水産省) | 派遣大使 | フレゼリク・ヘデゴー(運輸・観光省) | ||||
在冰大使 | ジョアン・ボレロ(外交委員会幹部委員) | 在冰大使 | エルネス・ショルタン(前外務省邦人保護局長) | ||||
関係/印象 | 国交締結/平常 | 関係/印象 | 国交締結/複雑 | ||||
詳細 | 質実剛健。武骨で飾り気の少ない町並みだが、社会主義と国民性によるものなのかもしれない。 | 詳細 | 緑豊かで、観光スポットも多い国。観光業でなぜ国は回るのか謎だが、国民が幸せならば国家のひとつの在り方かもしれない。 | ||||
カドレン共和国 | 国旗 | 香麗民主帝国 | 国旗 | ||||
派遣大使 | コニー・オルスヴィグ(保険・社会開発省) | 派遣大使 | ベルンハルト・スエンソン(国防省) | ||||
在冰大使 | メレディス・ヘルソン(カドレン外務省) | 在冰大使 | 朴智英(公主殿下,実務は李範浩公使) | ||||
関係/印象 | 国交締結/平常 | 関係/印象 | 国交締結/平常 | ||||
詳細 | 林業の発達している珍しい国。積極的な貿易で国を興している。きっと10年後にはまた違った国の有り様が見られるかもしれない。 | 詳細 | 幾度国名を変えようと、国難があろうと、民衆は大地に根を張り、逞しく生きている。民あっての国家なのだと、我が祖国にとっては良い見本だろう。 | ||||
ガトーヴィチ帝国 | 国旗 | ノイエクルス自由国 | 国旗 | [添付] | |||
派遣大使 | 調査中 | 派遣大使 | 調査中 | ||||
在冰大使 | 調査中 | 在冰大使 | 調査中 | ||||
関係/印象 | 国交締結/険悪 | 関係/印象 | 国交締結/平常 | ||||
詳細 | 行ったことすらないが、訪れたいとも思えない。鉄鋼レート問題における主犯であり、この国からの謝罪なくして相容れることはないだろう。誰も公の場で口にこそ出さないが、813年戦争の戦犯国であり、過去の侵略戦争の主導国として認識されている。 | 詳細 | 世界最古の老大国。官僚主義的らしい。レゴリス侵略戦争(491年戦争)や、スラヴ帝国主義諸国からの侵略戦争を受けており、国内では同情的な声が多い。 |
常設の陸空軍があわせて4万人体制で防衛任務に従事している。しかし、内戦で国軍が治安維持のためとはいえ、本来銃を向けるべきではない市民に対して銃を向けたことが(たとえ時の政権の命令だったとしても)戦後厳しく批判されたため、権限と規模が縮小傾向にある。また、戦後の荒廃と社会的混乱の中で、4万人もの規模の常設軍を維持することが経済的に大きな負担となっているため、兵器や武器のメンテナンスすら混乱になっている。これらの事情から、防衛任務は最小限で、警察組織と合同での治安維持任務が中心となっている。
英名:Coalition Security Supervision Force(CSSF)
冰州に駐留する多国籍の治安維持部隊。
現在、ヴェニス・セキュリティ・サービス株式会社からの部隊を中核に構成されている。
国産兵器は無く、これまでは地球時代のものか他国で使用された中古品を譲り受けて改修し使用してきた。
冰州条約連合発足後の820年に、鉄鋼騒動によって、国産兵器の開発の重要性が認識され始め、予算を小額投じて開発が進められている。
国名 | ミルズ共和国 |
正式名称 | 国民議会とミルズ市民 |
英語名称 | Repubulic of Miruzu |
首都 | サン・サンヨン(Sant. Soun Yoen) |
大統領 | マイク・グリーンウェル |
国民代議総理 | デジー・ウィルソン |
公用語 | ミルズ語 |
通貨 | ノイエスミルズゼニー(NMz) |
ミルズ皇国建国以来、ミルズ地域における独裁と混乱は市民に大きな損害を与えた。
アダム皇による専制体制からクーデター的に発生したラルバ・アイゼンシュタイン政権は、対外的には民主主義導入をアピールしているものの、その実態は民主制とは程遠い、かつ外部への情報発信も殆ど行われない閉鎖的な体質であることが市民の失望を買うこととなった。
アイゼンシュタイン政権下で反政府活動を行ってきた元野球選手で実業家のマイク・グリーンウェルは皇国政府の変革を諦め、独自にミルズ民族による民主政治の構築を模索することになった。
インターネットで呼びかけられた彼の声明に応じて多数の人々が集結し、皇国政府とは別個の「全ミルズ国民を代表する政府」を創設することとなった。
大統領は共和国の国家元首であり、国民の代表であり、国政の最高責任者とされている。
大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年、三選まで可能と定められている。
主な権限は、国民代議員大会の招集及び解散、国軍の統帥権、国民代議総理の任命、国民投票開催権、外交権(宣戦の布告及び講和を含む)、恩赦権である。
また、任期中は身体不可侵特権が与えられており、何者も大統領を傷つけることは許されないとされているが、あくまで慣習上であり、けっこう暗殺の危機にさらされている。
一院制の国民代議員大会がある。任期は5年、選出方法は中選挙区制で選挙区ごとに2~3人が選出される。定員は500。
ただし、「ミルズ皇国」支配地域における選挙区は選出凍結の措置が取られており、実質的な議員定数は300である。ただし、「皇国」支配地域代表としてそのうち10名ほどは無所属の万年議員として在籍しており、統一ミルズの正当性のために彼らもまた議決権を有する。
選挙権、被選挙権ともに15歳以上のミルズ市民の男女に与えられており、普通選挙制度が実施されている。法制上は「皇国」支配下の市民にも投票権があるが、政治的に不可能なため棄権率100%として扱われている。
国民代議員大会は、法律の制定、予算案の可決、条約の批准、国民代議総理(首相)の指名などその役割は多岐にわたり、憲法上最高権力機関と定められている。
会期は通常会議が年度前の1月に90日間開催され、4月の会計年度が開始前までに予算が決定されるが、会計年度までに予算が決まらない場合、前年度の予算が暫定予算として施行されることになっている。
また、必要に応じて会期延長も議決することができ、総議員の3分の1以上の発議、または大統領の招集によって臨時会議を開催することができる。
憲法改正は通常の法案提出と同様に大統領提出・内閣提出・議員提出が存在し、いずれの場合においても発議には総議員の半数による議決、改正には国民投票において過半数の賛成票が必要とされる。
政党 | 議席数 |
自由党 | 163 |
民主社会党 | 85 |
ミルズ統一運動 | 31 |
人民ミルズ | 11 |
無所属 | 10 |
合計 | 300 |
事実上議会から選出される国民代議総理が首相格に相当し、内閣を主宰する。国民代議総理は国内行政一般を司る。
その性格上、必ず議会多数派から選出されるが、国民直接選挙によって選出される大統領と所属政党が異なる場合が多々ある。
そのため、両者が対立した場合、首相を罷免する場合が多いが、その場合、国民の信を問うために30日以内に国民代議員大会解散・総選挙を実施しなければならない。
徴兵制であり、兵役期間は3年、「皇国」からの軍事的侵略の防止及び「皇国」支配下市民の解放を主な任務としている。
兵役期間を終えると自動的に予備役編入となり、有事の際は自動的に軍事招集されることになっている。また、予備役編入後も年に5日以上は近隣の軍事拠点へ赴いて訓練を受けなければならない。なおその際は訓練日当が支給される。最大で年間30日の予備役訓練を受けることができ、訓練期間中は雇用企業は休暇を出さなければならない。
ライン共和国 | 普通 | あり | 特になし |
ストリーダ王国 | 普通 | あり | 特になし |
ライン | ライン共和国 | 普通 | あり | 特になし |
ストリーダ王国|普通|あり|特になし|
¶ライン共和国 | 普通 | あり | 特になし |
ミルズ皇国の59%は犠牲で出来ています
ミルズ皇国の31%は波動で出来ています
ミルズ皇国の4%はミスリルで出来ています
ミルズ皇国の3%はお菓子で出来ています
ミルズ皇国の3%は心の壁で出来ています
犠牲…首都が3回消えたこと
波動…外交で動きまくる我が国
ミスリル…一度も攻められていない鉄壁国()
お菓子…平和を愛する理想主義
心の壁 情勢が読めない我が国()
ガトーヴィチ民主帝国 | 普通 | あり | 特になし |
国名 | ミルズ皇国 |
正式名称 | ミルズ皇国 |
首都 | ミルズシティ |
最大都市 | 自然の町アイルベルン |
最高指導者 | ラルバ・アイゼンシュタイン |
政治体制 | 立憲君主制 |
公用語 | ミルズ語 |
通貨 | Mz【ミルズゼニー】 |
主な産業 | 農業 |
国旗 |
フリューゲル歴827年に首都建設が行われたが正確な建国日時は記録が現存しないので不明便宜上建国は首都が建設された827年1月28日としている
我が国の政治システムは上院が法案の協議を行いさらに正当性を上院が確認し下院が実行するというシステムになっている
上院(元老院)
上院の定員は12名で皇の承認により選ばれる
上院は主に法律の制定に関する評議と役職を持ち責任ある立場として国政を動かし、政策の実行者である下院の監視を目的として存在する
また下院の提出した法案が著しく不当であったり国際社会あるいは自国に対し危険なものだった場合是正勧告を行うことができる権利を有する
だがこれはあくまで限定的な権利であり重要法案に関しては下院上院両者代表による議論と両者代表11名づつ総勢22名の採決によって決定される
下院(衆議院)
下院の指名は国民の指名により行われ任期は10年
定員は300名
業務は法案の制定と履行である
予算において優先的に下院が有利であり建設などを指揮するのは下院の役目である
しかし実行委員は役職上各大臣の下に位置する
理由は実行委員が独立して権力を持つともともと庶民の彼らは暴走しかねないという心配から一応は元老院の助言を受けながら政治を行うためである
だが先にも言ったように下院が優先的に予算を優先的に出せるため問題はない
なお首相と各大臣は上院と下院の中から皇によって任命される(儀礼的なものではある)
下院から大臣になるためには下院議員の半数以上の賛成が必要
上院が大臣になる場合は上院に属する者たちの半数以上の承認が必要
任期は両院何れから選出された場合も十年である なお大臣の役職中に下院議員としての任期を超えても解任されることはない
(民主主義化以前に大臣になっていたものは選挙日から起算して10年後に自動的に解任となる)
なおこの措置は永続性ではない)
なお第一回となる830年8月8日に行われた選挙は国民投票ではなく国民による立候補制であった
827年1月28日ミルズ皇国建国
828年1月5日セニオリス共和国との間に平和条約締結
828年1月25日首都が火災により壊滅(ミルズの大火)のちにテロと判明
828年2月7日首都ミルズシティを再建
828年11月28日大臣制を正式導入
830年8月8日立憲君主制に移行するための選挙が開催されアダム皇が最高権力者としての地位を退く
839年9月17日普蘭合衆国と平和友好条約締結
皇 | アダム・フォン・ミルズ(立憲君主のため政治的権力は消滅) |
外務大臣 | ケイン・フォン・マクレーン |
首相兼総務大臣兼財務大臣兼元老院議長 | ラルバ・アイゼンシュタイン |
産業大臣 | カイル・マックレー |
外務副大臣 | メイル・フォン・ミルズ |
軍務担当大臣 | グル・ド・バスタード |
元老院副議長 | デニウス・マイルズ |
皇専属秘書 | ミリア・フォン・マクレーン |
総務副大臣 | ジェン・ミクローラル |
財務担当副大臣 | レニィ・イリアス |
産業副大臣 | マイク・ミニュル |
軍務担当副大臣 | ジェスター・ド・アレクス |
財務実行委員 | レイカ・ヴェクターノイド |
総務実行委員 | アリス・バーク |
産業実行委員 | ハリス・ロイド |
国名 | 友好度 | 国交 | 備考 |
セニオリス共和国 | 良好 | あり | 支援してくださった恩国で貿易相手 |
中夏人民共和国 | 普通? | あり | 支援してくださった恩国 |
トルキー社会主義共和国 | 良好 | あり | 支援してくださった恩国で貿易相手 |
トラハト=ラシュハ連合王国 | 良好 | あり | 支援してくださった恩国で貿易相手 |
ヘルトジブリール社会主義共和国 | 良好 | あり | 貿易相手 |
エーラーン教皇国 | 普通 | あり | 特になし |
フェネグリーク帝国 | 普通 | あり | 特になし |
普蘭合衆国 | 普通 | あり | 平和友好条約締結国 |
レゴリス帝国 | 普通 | あり | 特になし |
ガトーヴィチ民主帝国 | 普通 | あり | 特になし |
ライン共和国 | 普通 | あり | 特になし |
ストリーダ王国 | 普通 | あり | 特になし |
ヴォルフ・ヴィントガッセン | (非公開) |
CEO | ローザ・クリスティーナ・エメリッヒ |
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ローザ・クリスティーナ・エメリッヒ | レゴリス帝国 | トレーダーとして様々な人や企業を見てきた為、人や企業を見る力を鍛えられたとは本人の言葉。その力、そしてBRBHでの勤務や大学での勉学を通じて得られた経済や経営、金融知識で以てBRBHの拡大を成し遂げた。ヴェニス支社勤務時代、支社長として複数のヴェニスグループ所属の子会社の株式買収を主導しており、株式会社ドリームハウスと株式会社ブラックオイルの株式を、それぞれ20%と15%握ったという。(ヴェニス銀行株式会社の株式も買収しようとしたが完全子会社であり、ヴェニスグループHDが株式売却に応じなかった為断念している。現BMグループのブライアン地所CEO兼ヴェニス不動産CEO兼ヴェニス銀行CEOを務めるローザ・クリスティーナ・エメリッヒとは同じ大学かつ学部も一緒の親友兼ライバルと言った間柄であったが、BRBH取締役CEO時代に、帝国最大のメガバンクであるバンク・オブ・レゴリスと組んで彼女の経営するブライアン地所に対して経営改革を迫り、結果として要求を全て呑ませた所から関係は拗れ今はとても仲が悪いと言われる。(本人曰く「彼女には申し訳ない事をしたが反省はしていない。それがBRBHとして最善だったと強く確信しているから」とのこと) 既婚者であり、ロムレー人の夫を持つ。夫とはアンゼロット記念大学在籍時に出会い彼女が一目惚れして猛アタックした結果、婚約を交わすに至ったという(その際の夫に対する周りの目はとても洒落にならないものになった)その後16歳の時に結婚。夫婦仲は良好とのこと。アプリル・ヴォルケンアンザムルング、リーゼロッテ・ヴェルトミュラー、マンフレート・ハルデンベルクといった3人の総統に仕え、凡そ1世紀に渡りレゴリス経済の拡大と安定に力を注ぎ続けたパウラ・フェルレーア通商産業大臣の直系の曾孫でもある。しかし彼女は所謂コネが大嫌いであり、大学への飛び級入学も、BRBHでの出世も全て自力で成し遂げている。 |
830年 1月上旬:ローザ・クリスティーナ・エメリッヒCEOが就任。
ヘルトジブリール社会主義共和国 | 778,607,830,000 | 36.72% |
南の風 | 352,468,900,000 | 16.62% |
ストリーダ王国 | 177,300,000,000 | 8.36% |
レゴリス帝国 | 160,000,000,000 | 7.55% |
国営ガトーヴィチ石油(ガトーヴィチ帝国) | 93,600,000,000 | 4.41% |
クレディ・ロムレー社投資銀行部門(ロムレー湖畔共和国) | 90,210,000,000 | 4.25% |
王国公的年金運用基金(トラハト=ラシュハ連合王国) | 90,100,000,000 | 4.25% |
中夏人民共和国 | 90,000,000,000 | 4.24% |
セニオリス共和国 | 85,000,000,000 | 4.01% |
BRBH(レ帝) | 39,000,000,000 | 1.84% |
バンク・オブ・レゴリス(レ帝) | 37,500,000,000 | 1.77% |
アンドリュー財団 | 29,750,000,000 | 1.40% |
ミルズ皇国 | 27,700,000,000 | 1.31% |
ローレル農業組合全国中央銀行 | 26,000,000,000 | 1.23% |
クレディ・ロムレー社投資銀行部門セビーリャ窓口(セビーリャ自治領) | 20,000,000,000 | 0.94% |
エーラーン教皇国 | 14,000,000,000 | 0.66% |
ローレル共和国 | 7,500,000,000 | 0.35% |
カタルシア王国 | 750,000,000 | 0.04% |
普蘭合衆国 | 750,000,000 | 0.04% |
ダグラス・シェリダン | カルセドニー社会主義連邦共和国 | 「南の風」中央処理委員、旧アーネスト士官評議会科学代表。 |
ヘルトジブリール社会主義共和国 | 377,506,670,000 | 31.55% |
王国公的年金運用基金(トラハト=ラシュハ連合王国) | 76,693,330,000 | 6.41% |
通称 | ヴェニス株式会社統治領 |
---|---|
正式名称 | ヴェニス島開発株式会社が経営するヴェニス島 |
社旗 | |
本社所在地 | ミッドガルドシティ |
最大都市 | ミッドガルドシティ |
CEO | ローザ・クリスティーナ・エメリッヒ |
経営体制 | 株主総会と取締役会、労働組合 |
公用語 | ドイツ語(書面上) |
通貨 | E-Vaミュンシェ(仮想電子通貨) |
創業 | 764年6月21日 |
ccTLD | .vi |
主な産業 | 観光、映画、IT |
ヴェニス株式会社統治領は、ヴェニスグループの1企業、ヴェニス島開発株式会社(別名:ヴェニス株式会社)が所有するヴェニス島と周辺諸諸島一帯の通称である。ヴェニス島とその周辺諸島はフリューゲルの北半球に位置する。
ヴェニス株式会社は民間企業のため、ヴェニス島そのものは無主地であると発表されている。そのため、ヴェニス島で居住している人は何らかの他国籍を所有しており、ヴェニス国籍というものは存在しない。
ヴェニス島全土のリゾート化計画「地上の楽園」計画により観光地化されている。
ヴェニス島はフリューゲル北半球の高緯度に位置しており、季節による日の出と日の入りの差が激しい。
島中央は隆起のすくない平原が続いており人口密集地になっている、北は起伏のあるヴェニス山地が連なる。
温暖気候で四季がはっきりしている。
夏は日差しが強く乾燥ぎみで、冬は降水量が増え強く冷え込む。
1年を通して朝夕の温度差が大きい。
1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
最高気温 | 12℃ | 13℃ | 16℃ | 19℃ | 23℃ | 27℃ | 31℃ | 31℃ | 27℃ | 22℃ | 17℃ | 13℃ |
最低気温 | 2℃ | 3℃ | 4℃ | 7℃ | 11℃ | 14℃ | 17℃ | 17℃ | 14℃ | 10℃ | 6℃ | 3℃ |
降水量 | 84mm | 76mm | 59mm | 49mm | 38mm | 31mm | 23mm | 36mm | 46mm | 107mm | 119mm | 91mm |
ヴェニス島の中心地。ヴェニス島開発株式会社本社ビル「ヴェニス・タワー」を中心とした円形に区画整備された計画都市。
ヴェニスグループと関連企業が集まっている企業都市。他にIT企業と映画スタジオが多く集まっている。
島中央部にある居住サービスを提供しているエリア。庭付きの余裕をもった生活空間が確保されるよう区画整備されている。
IOT技術により家電や家屋設備がインターネットと接続しており、遠隔操作が可能。
最高決定機関は株主総会にある。株主総会が長期的な経営方針を決定、細かな経営内容を代表取締役会が決定している。
島内での殺人や窃盗などの問題に関しての規定は、独立した労働組合が決定しており、労働組合の決定を元に、保安部が治安維持を行っている。
株主名 | 保有株数 | 割合 |
---|---|---|
ヘルトジブリール社会主義共和国 | 778,607,830,000 | 36.72% |
南の風 | 352,468,900,000 | 16.62% |
ストリーダ王国 | 177,300,000,000 | 8.36% |
レゴリス帝国 | 160,000,000,000 | 7.55% |
国営ガトーヴィチ石油(ガトーヴィチ帝国) | 93,600,000,000 | 4.41% |
クレディ・ロムレー社投資銀行部門(ロムレー湖畔共和国) | 90,210,000,000 | 4.25% |
王国公的年金運用基金(トラハト=ラシュハ連合王国) | 90,100,000,000 | 4.25% |
中夏人民共和国 | 90,000,000,000 | 4.24% |
セニオリス共和国 | 85,000,000,000 | 4.01% |
BRBH(レ帝) | 39,000,000,000 | 1.84% |
バンク・オブ・レゴリス(レ帝) | 37,500,000,000 | 1.77% |
アンドリュー財団 | 29,750,000,000 | 1.40% |
ミルズ皇国 | 27,700,000,000 | 1.31% |
ローレル農業組合全国中央銀行 | 26,000,000,000 | 1.23% |
クレディ・ロムレー社投資銀行部門セビーリャ窓口(セビーリャ自治領) | 20,000,000,000 | 0.94% |
エーラーン教皇国 | 14,000,000,000 | 0.66% |
ローレル共和国 | 7,500,000,000 | 0.35% |
カタルシア王国 | 750,000,000 | 0.04% |
普蘭合衆国 | 750,000,000 | 0.04% |
名前 | 国籍 | 説明 |
---|---|---|
ローザ・クリスティーナ・エメリッヒ | レゴリス帝国 | トレーダーとして様々な人や企業を見てきた為、人や企業を見る力を鍛えられたとは本人の言葉。その力、そしてBRBHでの勤務や大学での勉学を通じて得られた経済や経営、金融知識で以てBRBHの拡大を成し遂げた。ヴェニス支社勤務時代、支社長として複数のヴェニスグループ所属の子会社の株式買収を主導しており、株式会社ドリームハウスと株式会社ブラックオイルの株式を、それぞれ20%と15%握ったという。(ヴェニス銀行株式会社の株式も買収しようとしたが完全子会社であり、ヴェニスグループHDが株式売却に応じなかった為断念している。現BMグループのブライアン地所CEO兼ヴェニス不動産CEO兼ヴェニス銀行CEOを務めるローザ・クリスティーナ・エメリッヒとは同じ大学かつ学部も一緒の親友兼ライバルと言った間柄であったが、BRBH取締役CEO時代に、帝国最大のメガバンクであるバンク・オブ・レゴリスと組んで彼女の経営するブライアン地所に対して経営改革を迫り、結果として要求を全て呑ませた所から関係は拗れ今はとても仲が悪いと言われる。(本人曰く「彼女には申し訳ない事をしたが反省はしていない。それがBRBHとして最善だったと強く確信しているから」とのこと) 既婚者であり、ロムレー人の夫を持つ。夫とはアンゼロット記念大学在籍時に出会い彼女が一目惚れして猛アタックした結果、婚約を交わすに至ったという(その際の夫に対する周りの目はとても洒落にならないものになった)その後16歳の時に結婚。夫婦仲は良好とのこと。アプリル・ヴォルケンアンザムルング、リーゼロッテ・ヴェルトミュラー、マンフレート・ハルデンベルクといった3人の総統に仕え、凡そ1世紀に渡りレゴリス経済の拡大と安定に力を注ぎ続けたパウラ・フェルレーア通商産業大臣の直系の曾孫でもある。しかし彼女は所謂コネが大嫌いであり、大学への飛び級入学も、BRBHでの出世も全て自力で成し遂げている。 |
ヴォルフ・ヴィントガッセン | (非公開) |
王耀(ヤン・ワン) | 中夏人民共和国 | 中夏最大の財閥「夏輝集団(シャーチー・グループ)」の創立者。一介の油売りからライバルを蹴落としながら江南の財界を取り仕切るほどにまでなった手腕は「マムシ」とも言われている。 |
ブルクハルト・エクスラー | ストリーダ王国 | ストリーダ王国大手のクルーズ客船運航会社「エクスラー・クルーズ」の創業者兼代表取締役会長兼社長。 |
ダグラス・シェリダン | カルセドニー社会主義連邦共和国 | 「南の風」中央処理委員、旧アーネスト士官評議会科学代表。 |
アンネマリー・ハルトス | レゴリス帝国 | レゴリス帝国最大のメガバンク「バンク・オブ・レゴリス」の元CEO。ハイネセル=エルネスティア州首相、レゴリス帝国通商産業副大臣を務めた事もある政治経済のスペシャリスト。旧ハイネセル連邦共和国の首領ハーストリア・ハルトスの子孫。 |
ユベール・アランブール | ロムレー湖畔共和国 | クレディ・ロムレー社投資銀行部門マネージング・ディレクター。専門は数理ファイナンス。コーデクス主義者。 |
エーブ・ベナール | ローレル共和国 | (非公開) |
イオニアス・エルステイン | セニオリス共和国 | (非公開) |
(非公開) | カタルシア王国 | (非公開) |
ヴァネッサ・ティユリア | 普蘭合衆国 | (非公開) |
メリッサ・ペチュホフ | ラルティスタ社会主義共和国 | ラルティスタ・オラニエ・バンク&トラスト常務、元ラルティスタ社会主義共和国財務省主計局上級職員 |
カーロイ・モール | トラハト=ラシュハ連合王国 | 王国公的年金運用基金外国株式運用部長、ヴァンブルグ大学出身、修士号(経済学)保有者、元商務省官僚 |
民主的 | ◆------ | 独裁的 | 全人民は本質的に自由である |
政治的左派 | ◆------ | 政治的右派 | 国家権力は本質的に悪であり、ないほうがよいものだ |
開放社会 | ◆------ | 閉鎖社会 | 全人民は本質的に自由である |
自由経済 | ◆------ | 中央計画経済 | 全人民は本質的に自由である |
常備軍 | (非武装) | 徴兵軍 | "軍人"はいない。"警備員"はいる |
タカ派 | ------◆ | ハト派 | 暴力は無能力者の最後の避難所である |
介入主義 | ---◆--- | 孤立主義 | 企業なので営業活動はする。政治的な介入は一切しない |
レゴリス帝国出身の大投資家アンドリュー・ハーリーは、累進課税制度による高所得者への不平等と、行政の非効率的な運営に疑問を呈し、国家に代わり営利企業が居住サービスを提供する「カンパニーカントリー構想」を発表した。この構想に賛同した資産家たちの合資により、人口1万人に満たなかったヴェニス島のインフラ設備を乗っ取り、事業開発を開始した。
フィリップ・オルグレンCEOは莫大な開発資金を調達するため、株式発行を発表した。
集まった投資金により急速な埋め立てによる土地拡大を行い、開発用地を確保を行った。
しかしインフラ整備を一切行わなかったため、従業員と顧客に不満が蓄積されていった。
島滞在者800万人を超えた頃、従業員の大規模なデモ活動が発生した。
767年にはついに暴動にまで発展。数十万人の従業員が島外へ逃亡、100兆Vaに迫る損益を出した。
自体を受け緊急株主総会が開かれ、経営陣の交代と組織改革が決定した。
フィリップ・オルグレンを筆頭に当時いた経営陣の半分が引責辞任し、フリードリヒ・ヴェーバーが率いる新経営陣と交代した。
フリードリヒ・ヴェーバーは諸外国から知識のある人材を登用して経営方針を顧客確保からサービス向上へ変更した。
発電所の建設や食肉サービスの開始、従業員のための宗教施設建設や福祉サービス向上、インフラ整備により幸福度98と高水準を達成した。
創業10年がたち、巨大化した企業組織が非効率性を生み出しているとの批判が生まれる。
774年の臨時執行役員会にて、巨大化した企業組織を分離独立、企業グループ化する議案が全会一致で可決。
779年にグループ企業化、同時に島外事業展開を開始した。
「地上の楽園」計画発表から20年後、計画が完了した事が発表された。
当時の島内滞在者数は2300万人を超え、観光立国ロムレー湖畔共和国に次ぐフリューゲル第2位の地位を確立した。
観光収入だけで1年に270兆Vaの利益を出している。
近年発生していた島内赤軍テロを抑止のため、809年VSS社の重武装を取締役会で決議した。
しかし、この重武装化が営利戦争を招く可能性があるという一部国の危機感を持たせ813年戦争が勃発した。
有志連合の参戦により状況有利に傾き、武装を認めさせる形で終結した。
764年 6月中旬:創立。ヴェニス島のでの経営を開始。 767年 9月下旬:暴動が発生。フィリップ・オルグレンCEOが引責辞任。 767年10月上旬:フリードリヒ・ヴェーバーCEOが就任。 774年 7月上旬:「地上の楽園」計画を発表。 779年 1月上旬:社内組織を一部解体、グループ企業化。島外事業展開を開始 794年 1月上旬:「地上の楽園」計画の完了を宣言。 795年 9月上旬:ジュリアン・ブースCEOが就任。 796年 9月下旬:創始者アンドリュー・ハーリー死去 809年 11月上旬:VSS社の重武装化決議 813年 6月上旬:813年戦争勃発 813年 11月上旬:813年戦争終結 830年 1月上旬:ローザ・クリスティーナ・エメリッヒCEOが就任。
世界的観光地であるため、陸路、海路、空路の全方面に渡って発達してきた。世界中のフリューゲル人民が混在する社会のため、極力人間が介入せず機械が交通制御できるよう注力されており、AIによる自動化された交通網が大きく発達している。
環境汚染を防止するため、島内を走行する自動車は電気自動車であることを義務付けられてる。
また、全車自動運転走行が義務付けられており、ヴェニス島交通管理システムが常時監視を行っている。そのため、交通事故は極めて少なく渋滞も発生しない状態になっている。
自動運転タクシーが巡回しており、専用のアプリをダウンロードすると携帯端末からタクシーを派遣する事ができる。
元々は観光客向けに開発されたが、価格が安いためか居住サービス顧客や従業員も使用しており、自動車所有率は20%に満たない。試験的に無人輸送トラックも運行を開始している。
ミッドガルドシティを中心に、島内各リゾートエリアを結ぶように磁気浮上式鉄道が敷設されている。
都市部や各リゾートエリア内はモノレール網が広がっており、毎日大量の乗客を運搬している。
道路と同じくヴェニス島交通管理システムが常時監視しており、車両は全て無人走行モードで動いている。
イッドガルドシティ付近にあるヴェニス国際空港は、世界各国から来るリゾート客を迎え入れる巨大ハブ空港になっている。
島内向けの小型シャトル飛行機が多数往復しており、観光客や従業員が島内を早く移動する助けとなっている。
裕福な顧客向けの貸し倉庫付き空港が島内各地にあり、個人所有の航空機が離着陸する姿を見る事も多い。
都市部を中心に飛行船が多く往来し、ヴェニスグループや世界中の企業が広告として利用している。島内遊覧飛行船が定期巡回しており、速さを求めない観光客はこちらを利用する事もある。
ヴェニス島交通管理システム管理下で小貨物輸送としてドローン便が認められている。
都市部が居住サービス区で企業や宅配用貨物ドローンが多く行きかっている。
ヴェニス島は元々先住民族であるネイティブ・ヴェニスが住んでいた土地に、初期はレゴリス帝国から、会社発展後は世界中からの移住者が入ってきたため多民族多文化社会を形成している。ヴェニス島はどこの国家にも属していない無主地であるため、ヴェニス国籍というものが存在せず、島内居住者は無国籍か何かしら他国の国籍を持っている。
世界でも有数の多民族社会である。歴史的経緯からレゴリス人が人口比率の大半を占めていたが、年々その割合は下がりつつある。
名前 | 割合 |
---|---|
レゴリス人 | 20% |
ストリーダ族 | 18% |
華夏族 | 15% |
普蘭人 | 7% |
セビーリャ系民族 | 6% |
ジブリール民族 | 5% |
カドレン人 | 5% |
フォネルグリーク人 | 5% |
ガトーヴィチ族 | 4% |
カタルシア人 | 3% |
ガトーヴィチ民族 | 3% |
セニオリス人 | 2% |
トラハト民族 | 2% |
ロムレー人 | 1% |
ラシュハ民族 | 1% |
ミッドガルド人 | 1% |
ギル民族 | 1% |
ガルド民族 | 1% |
主力産業で「地上の楽園」計画により島全土が観光地化されている。
島内計画はリゾート地としての運用を考慮して作られており、その温暖な気候と大規模な投資金を使った巨大なリゾート地は世界中から大量の観光客がやってくる。
温暖な気候が撮影に適しており、国家の規制もはいりずらい事からか映画が非常に作りやすい環境になっている。
そのため首都近辺には大きな映画スタジオがいくつもあり、日夜新作映画が製作されている。ヴェニス島で作られた独特な映画は「ヴェニス映画」と呼ばれ、フリューゲル全土に輸出されている。
ヴェニス映画は多言語社会に適応した「言葉が分からなくても内容がわかる」考慮がされており、ダンスや歌が取り入れられたミュージカル映画が多い傾向にある。
ソサエティ(Society)はレゴリス帝国/成蘭連邦王国/ストリーダ王国/ヴェールヌイ社会主義共和国/テークサット連合/ヘルトジブリール社会主義共和国/ウェールリズセ連邦共和国/ガトーヴィチ帝国/ノホ・ヘレコ連邦/コーデクス共和国/ロムレー湖畔共和国の11カ国を原参加国とする首脳会議。各国の言語によって呼び名が異なるが、会議の公称は『首脳会議開催地名・ソサエティ』となる。711年現在で参加国総数9、ソサエティ参加国の人口総計は6億1782万人(フリューゲル総人口の47.9%)と、政治・経済・安全保障の三議題を共有するフリューゲル史上最大規模の会議であり、フリューゲルにおける枢要な会議の一つに数えられる。
ソサエティ(Society)はレゴリス帝国/成蘭連邦王国/ストリーダ王国/ヴェールヌイ社会主義共和国/テークサット連合/ヘルトジブリール社会主義共和国/ウェールリズセ連邦共和国/ガトーヴィチ帝国/ノホ・ヘレコ連邦/コーデクス共和国/ロムレー湖畔共和国の11カ国を原参加国とする首脳会議。各国の言語によって呼び名が異なるが、会議の公称は『首脳会議開催地名・ソサエティ』となる。711年現在で参加国総数9、ソサエティ参加国の人口総計は6億1782万人(フリューゲル総人口の47.9%)と、政治・経済・安全保障の三議題を共有するフリューゲル史上最大規模の会議であり、フリューゲルにおける枢要な会議の一つに数えられる。
ソサエティ設立に関する協定
ソサエティへの招致を受けた国家は、上記協定へ賛同して頂ける場合、調印、批准をお願いいたします。
845年7月 | 第36期 | - |
政党名 | 第36期 | 第35期 | 合計 | ||
トルキー労働党 | 64 | 69 | 133 | ||
社会民主党 | 31 | 28 | 59 | ||
共産党 | 6 | 4 | 10 | ||
革命的マルクス主義研究会 | 5 | 4 | 9 | ||
共和人民党 | 4 | 6 | 10 | ||
公正党 | 1 | 0 | 1 | ||
アルミニア民族共同体 | 4 | 4 | 8 |
中夏人民共和国 | 同じ社会主義国家。 |
冰州連合 | - |
政党名 | 第34期 | 第35期 | 合計 |
第51回 | 838年3月 | 任期満了による |
第52回 | 842年3月 | - |
835年7月 | 第34期 | - |
840年7月 | 第35期 | - |
トルキー労働党 | 202 | |
社会民主党 | 96 | |
緑の党 | 40 | |
共和人民党 | 17 | |
公正党 | 5 | |
無所属 | 2 |
政党名 | 第34期 | 第33期 | 合計 | ||
トルキー労働党 | 65 | 69 | 134 | ||
社会民主党 | 29 | 28 | 57 | ||
緑の党 | 8 | 8 | 16 | ||
緑のクルディア | 6 | 6 | 12 | ||
共産主義戦線 | 19 | ||||
共産党 | 7 | 4 | 11 | ||
革命的マルクス主義研究会 | 4 | 4 | 8 | ||
自由と正義の会 | 17 | ||||
共和人民党 | 5 | 6 | 11 | ||
クルディア民主主義党 | 3 | 3 | 6 | ||
アルミニア民族共同体 | 5 | 4 | 9 | ||
定数 | 132 | 132 | 264 |
シンボルカラーは紫。国内では中道右派とされることが多い。 760年に従来までの「トルキー民主社会同盟(Türkiye Demokratik Sosyalist İttifak/TDSİ)」と「自由党(Özgürlük Partisi/ÖP)」他小規模な地域政党2党が合併し誕生した政党。 社会主義経済下における個人の自由や権利を拡大させることを主眼とし、さらなる民主化の促進をその弊害も厭わずに行うことを主張する民主社会主義政党。社会主義経済の体制に民主主義の理念を組み込むことを提唱しており、生産計画策定の過程に労働者の直接の意見をより大きく取り入れることも模索している。党員数は国内では3番目であるが、上位との開きは大きく中堅政党として扱われる。 | |
公正党 | Adalet Partisi/AP |
シンボルカラーは青。国内では右派とされることが多い。 820年代の党勢を失っていく共和人民党より離脱した議員らが835年に形成した政党。 社会主義経済体制は民主主義の土台がなければ成り立たないとし、時に現状の体制を批判し真の民主主義の実現を強く求める社会自由主義政党。個人の良心と社会正義に基づいた体制を実現させることで国民全体が真に幸福な国家が完成されるとして個人の権利拡大も前面に押し出している。 |
830年7月 | 第33期 | - |
議会は人民院と地方院からなる二院制であり、地方院は少数民族や地方関連の法案を話し合う場とされている。両院の構造やシステムには特段の差異はない。
両院での議決に差異が生じた場合は両院評議会が設置されその可否が問われることとなる。基本的に話し合われる内容は少数民族や地方の関連があるかどうかであり、慣例においてはそれらに関連があると判断された場合は地方院の議決がそのまま通され、そうでない場合には人民院の議決がそのまま通されている。
一方で関連する事項が多岐に渡る、あるいは国家構造そのものに関連した場合に両院の議決が食い違い、審議不十分として否決とされたこともある。
トルキー社会主義共和国(Socialist Republic of Turkey) | |
正式名称 | 上に同じ |
国旗 | |
首都 | アンカラ |
最大都市 | イスタンベル |
元首 | 内閣総理大臣 |
政治体制 | 社会主義共和制 |
公用語 | トルキー語 |
通貨 | トルキーリア |
トルキー社会主義共和国(Socialist Republic of Turkey)とは637年8月に民主化し、トルキー臨時社会主義連合から国号を変更した社会主義国家。
日本語の漢語表記では土耳木とされることが多く、一文字表記では土となる。
それぞれの民族名などはトルキー語より由来するため国際共通語とは少々ずれる可能性あり。
現在の国旗は国号の変更を記念して、637年10月初旬に真っ赤な臨時国旗から変更されたものである。
赤は労働党、革命の際流れた血、革命的思想、社会主義、情熱を表し、
中央には社会主義の象徴である鎌と槌を
左上にはイスラムのシンボルたる三日月と五芒星を配している
生産のために必要な各種生産施設(工場や社屋など)や、農業や居住のため必要な土地や建物などの不動産は全て国が所有することとなっている。
新たに社屋の建設や耕地の拡大など土地の改変を行う際には現地の地方自治体に届け出をし役人の現地調査を受けて認められる必要がある。市町村役所や県庁が調査した記録は国にも集計され、管理がなされている。
また動産においても各種大型機械などの生産活動に必要な大掛かりな物については同様に国への届け出が必要である。こちらは通しの型式番号と機械の大まかな種別、現在の管理者・所在地の3種類のデータが管理され、管理者が公共機関である場合には点検の記録まで厳密に集計がなされていることもある。
国民の収入などについては扱いがやや煩雑となっている。まず営利法人の場合は直接に給料を支給せず、一月に一回毎にその期間の収入・支出を届け出、その届出を元に国が企業より資金を徴収する。その後国は徴収された額から各種税金を差し引き、その上で国民の収入を部門毎(独身、核家族など家族形態による分類が多い)に一定額に定め、分配する形で国民に支給する。この際特別な事情がなくその月に一定時間以上労働活動に従事していなかった者は支給対象から外されその月の収入を受け取ることができない。
次に個人事業主の場合は一月に一回ごとその期間の収入・支出を届け出、その届出を元にして国が求めた資金を納付する。残った売上げはその個人の判断にとされ、結果個人事業主には被雇用者よりもやや多額な現金の管理が委ねられることとなる。
こうして受け取った現金は国民が良心に基づいて自由に用いていいとされ、各種商品の購入や預貯金などに回すことができる。
負傷や再就職の失敗などの特別な事情があり労働活動に従事できなかった者に関しては届け出を行うことで一定額の現金支給を受けることが可能であるが、一般的な健康な国民が受けられる支給額に比べると微々たるものであるのが現状である。
これらの手続きや届け出の多くは現地の地方自治体を通じて行われるため、多量の届け出に対応するために地方自治体の担当部署や経済省労働収支局は人員が特に膨れ上がっている。また柔軟性の乏しい縦割り行政を生んでいるとの指摘も根強い。
教育や福祉、インフラなどの各種公共のサービスについては国の負担の元で無償で提供されることが定められている。
かつてはトルキー労働党による一党独裁制を憲法によって定めていたが、現在では議会が設置され選挙も行われるなど民主的な政治が行われている。
そのため現在では社会主義共和制を導入していると言える。
民主制が導入され、国会・内閣・裁判所による三権分立が行われているが、相互に抑制均衡するはずの三権が中央にやや寄っていたり、名目上は独立しているとされる司法が実際には党の出身者で占められていたりなど、完全に権力が分立しているとは言いがたい。
またかつての独裁時代からの名残から国内には「革命の有志が国民を主導する」という風潮が残っており、その風潮から多少の国民の不利益は見逃されてしまうことがあるため、完全に国民主権であるとは言いがたい。
地方自治法の定めるところにより10の県という広域行政区間と、2つの特別行政州から構成され、700年5月の改正によりそれ以下に市区町村という下位の地方公共団体が設置されるようになった。
下位の地方公共団体が存在しなかったのは旧世界において移民計画発動直前、一部の富を持った者が他の国民を支配するため勝手に地方公共団体を設置し、大きな混乱に陥れたことに対する反省や、それを封じ込めるための処置だった。
県にはそれぞれ30~80議席の小規模な県議会が存在し、県議会とそこから選出された県知事によって政治されることとなっている。
特別行政州はアンカラ、イスタンベルの2つで、それぞれ100議席の州議会を持ち、県より高い自治権を持っている。
特別行政州の首長は州知事であり、内閣によって直接指名される。
県議会・州議会の任期は5年、もしくは内閣が解散命令、もしくは裁判所が違憲・法律違反判断に基いて解散命令を下した時までである。
地方議会の解散は議会の解散と同時に行われるか、任期満了で各県や特別行政州が同時に行うのが通例となっている。
選挙は比例代表制によって行われ、国会に比べかなり簡素なものとなっている。
市区町村の設置は県に認められ、設置の際には県知事の発議を県議会が3分の2以上で可決し、さらに地方院の過半数の承認を得る必要がある。
市区町村の設置は必ずしも必要ではなく、地域によっては県が最も下位の地方行政機関となっていることも多い。
市区町村には必ず民主主義に基いて選出された10議席以上の議会と住民の直接選挙によって選ばれた首長が存在することになっており、運営はこの二元代表制を中心に行われることとなっている。
市区町村議会や首長の任期や選挙等は上位の県が決定することができ、国が定める地方自治の本旨に反しない限りはこの県の定めたものが適用される。
首都アンカラを中心とした地域を管轄する自治体。
議会、中央省庁、最高裁判所といった国の主要機関が集中した国家の要とも言える地域であり、社会主義の象徴として大規模な都市計画に基づき建設されたトルキー国内最大の計画都市である。
多くの組織の本部などが集中する地域でもあり、帝政期や内戦期を通じてトルキー国内の重要な都市に位置づけられていた。それゆえに内戦期には特に激しい戦闘が勃発した都市となり、長い動乱の内に史跡はほぼ全てが失われている。
トルキー国内最大の都市であるイスタンベルを中心とした地域を管轄する自治体。
国の主要機関は存在しないものの、トルキーの貿易において重要な位置にする海運の要所である。
帝政期の史跡も含めた伝統的な町並みが多く残される一方で、中心街は再開発により先進的なビル街に生まれ変わっている。
トルキー正教会の中心的都市でもあり、東方正教会の宗教施設が各地に見られることも特徴である。
ギリシヤ人が最も多く居住する地域だが、トルキー人が最多数派を占めるためギリシヤ語が見られることは多くない。その他にはクルディア人も居住している。
県都はブルシ。ブルシはトルキー第四の都市である。
山麓に位置し、イスタンベル・アンカラからの交通の便が良いことから冬には多くのスキー客が訪れる。
緑のブルシと呼ばれるほど公園や緑地が多い町並みが特徴。環境への意識が高く、緑の党の重要な強力な基盤の一つともなっている。
県都はアンタリア。
地中海性気候の代表的な地域。夏は乾燥した南風が吹き込み、冬も北部の山脈に北風が遮られ暖かい。
国内有数の避寒地。見晴らしの良い海岸には高級住宅街も存在し、この地域に別荘を持つことは憧れとも言われる。
県都はコンヤ。
著名なイスラム教の施設が多く存在する宗教色の濃い街。
政教分離が徹底されて久しいトルキーにおいてもある種敬服を持たれ、中心部では今も厳かな雰囲気が街を包んでいる。
気候区分的にはステップ気候に位置する。夏場の乾燥により、地元女性が肌を守るためヒジャブなどを着用することも雰囲気の形成につながっていると言われる。
アンカラとの交通の便が大きく改善されたことで、郊外はアンカラ都市圏のニュータウンとしての開発が模索されている。
県都はカイサリ。
トルキー人とクルディア人の混合地域だが、街中の多くはトルキー語が使用されている。
トルキー中部に位置し東西をつなぐ商業都市。
内陸のため気候は寒暖の差が大きくやや厳しい。
県都はマラテヤ。
トルキー人とクルディア人が概ね半々となっているが、使用される言語はトルキー語が主流である。
農業が経済の主となっており、杏の生産が盛んであり、特に乾燥杏は国内生産のほとんどをこの県が担っている。
県都はカリス。
トルキー人とアルミニア人の混合地域。近年は両民族の居住地域がより明確に別れつつある。
北部の高地に位置するため気温の年較差・日較差が共に大きい。
気候区分的には湿潤大陸性気候に位置する。
県都はムシュ。高地に位置する県であり、高地地中海性気候に位置するため夏は高温乾燥で、冬は冷え込み降雪が多い。
クルディア人が主流派である。都市部ではトルキー語とクルディア語の共存が進んでいるが、クルディア語のみが使用され続ける地域も存在している。
県都はエリジラム。
クルディア人とアルミニア人の混合地域。クルディア人は南部、アルミニア人は北部と概ね居住地域が別れている。
このためにトルキーの中でも特にトルキー語の勢力が弱く、多少政情も不安定な傾向にある地域となっている。
県都付近はいざ知らず、農村部などに出てしまうとトルキー語がほとんど通じない場合もある。
海抜1000メートル超の高地に位置し、典型的な厳しい湿潤大陸性気候となっている。
631年8月 | 革命政権樹立 |
634年6月頃 | 大フリューゲル帝国(後に共同管理区域クイーンズ)から宣戦布告 政府は「通り魔」と表現。 |
634年9月 | 「通り魔」の実態をようやく把握。政府の外交・情報収集努力のなさが浮き彫りに |
636年11月 | 労働党が将来的な民主化などを盛り込んだ講和条例を各党と締結。長きに渡る混乱が終わり、民主政へ |
637年8月 | 議会の設置により民主化。これに伴い国号もトルキー臨時社会主義連合からトルキー社会主義共和国に変更。 |
637年9月 | 民主化に伴う国内初の選挙の結果が発表。 |
638年1月 | 連合が社会民主党・緑の党が脱退する形で解体される。 |
639年5月 | 改憲や定数増加など抜本的な改革案を賛成198反対2で可決。 |
641年10月 | サンサルバシオン条約機構が設置される。 |
650年頃 | 国家機能停止期間(凍結期間) |
(不明) | 定数増加などの改革案を賛成多数で可決。 |
660年11月 | 長年非正規のみとなっていた軍隊が正規軍を編成し復活。実質的な再軍備。 |
673年3月 | トルキー初の人工衛星「オスマン」の打ち上げに成功 |
673年6月 | 国内外における石材の採掘や取引を終了。後継は鋼鉄へ |
673年12月 | 民族党の選挙への出馬を禁止。非健全社会主義的な政策を掲げたため |
674年1月 | アイクル首相の辞任のためイノニュ新首相が就任 |
675年7月 | 二院制の導入などの憲法改正案を全会一致で可決。行政改革の要 |
675年8月 | 観測衛星「メスィフ」の打ち上げに成功 |
681年5月 | 首都アンカラ付近に巨大隕石が落下。死者・行方不明者は1000万人以上。 |
687年3月 | イノニュ首相の辞任によりクルディア系のユセフ・シャヒーン元アンカラ州知事が就任。 |
687年9月 | 南部の農村地帯に巨大隕石が落下。死者・行方不明者は約230万人。 |
700年5月 | 市区町村の設置を定める地方自治法改正案が成立。13年に渡る議論がついに終結。 |
713年1月 | トルキー第四共和政の父、メフメト・セキ元首相が逝去。95歳。晩年は執筆活動に励む。 |
715年1月 | ユセフ・シャヒーン首相が高齢のため辞任し、ファルク・ウラス前軍部大臣が首相に就任。 |
729年頃 | 持続可能な経済を建設しようとする永続国家計画に基づく長期鎖国に突入。 |
731年6月 | 鎖国が諸外国の信頼を損ねたとしてウラス首相に対する第四共和政初の内閣不信任決議が可決される。 |
第20回人民院選挙の結果に基づきデスタン新首相の社緑連立政権が発足。労働党は初の下野。 | |
740年1月 | デスタン首相が突然死。初の規定の選挙後混乱の収束のため無所属の元軍人であるテミルジ氏が任命される。 |
743年12月 | 選挙出馬の認可範囲を拡大する他の憲法改正案が可決される。 |
746年7月 | テミルジ首相の辞任と人民院解散による選挙により、再度労働党単独政権が発足する。 |
755年9月 | 労働党員の汚職事件を受け「国民の信頼を回復する」とした選挙に労働党が敗北。 |
社会民主党の閣外協力を受け民社-社民-緑-自由の四党による連立政権が発足する。 | |
757年11月 | 緑の党が連立より離脱。アル首相は「今一度国民の応援をいただきたい」と解散に踏み切る。 |
759年1月 | 社会民主党が連立より離脱し、アル首相への内閣不信任決議が可決される。 |
第30回人民院選挙の結果に基づきトゥルナゴル首相が再選され、労働党単独政権が再発足する。 | |
764年3月 | トゥルナゴル首相の辞任のため、エリジェ新首相が就任する。 |
777年7月 | エリジェ首相の辞任のため、アクス前幹事長が首相に就任する。 |
780年4月 | 共和人民党との政策における対立を抱え解散した選挙に労働党が敗北。 |
選挙の結果によりギュルセル首相率いる共和-社民-緑連立政権が発足する。 | |
791年11月 | ギュルセル首相の辞任のため、バラミール新首相が就任。 |
814年7月 | バラミール首相の死去のため、第45回人民院選挙の結果に基づきアクス新首相が就任。 |
選挙の結果現政権は過半数を維持も、第一党は入れ替わり。83年振りに社会民主党から首相が選出される。 | |
823年3月 | 緑の党の連立離脱表明によりアクス首相は人民院を解散。第48回人民院選挙が実施される。 |
選挙の結果現政権は敗北。エルドアン氏率いる43年振りの労働党単独政権が発足する。 | |
823年8月 | 開国に伴う諸手続きが完了。約100年振りに外交活動が全面的に再開される。 |
825年5月 | 高密度都市地域に巨大隕石が落下。死者行方不明者は約1000万人に及ぶ惨事。 |
+ | 選挙関連 |
(一部意訳)
1.政府は各党の活動を承認し、これを弾圧してはならない
2.両者は636年11月初旬より一切の戦闘活動を停止する
2-1.ただし以下の場合両者は戦闘活動を再開することができる
2-1-1.両者がこの条約に反する何らかの行動をした場合
2-1-2.各党の側に何らかの抗争があるなど、分裂状態に陥った場合
3.政府は憲法改正、議会制の導入などを確約する
3-1.各党はこの確約に全面的に賛成し、支援する
4.政府は速やかにトルキー労働者評議会をトルキー労働党として再編する
5.政府は超長期的に正規の軍隊を構成する
代 | トルキー労働者評議会議長 | 所属政党 | |
1 | 631年8月~637年9月 | メフメト・セキ | トルキー労働者評議会 |
代 | 内閣総理大臣 | 所属政党 | |
1 | 637年9月~661年2月 | メフメト・セキ | トルキー労働党 |
2 | 661年2月~674年1月 | イブラヒーム・アイクル | トルキー労働党 |
3 | 674年1月~687年3月 | ハムゼ・イノニュ | トルキー労働党 |
4 | 687年3月~715年1月 | ユセフ・シャヒーン | トルキー労働党 |
5 | 715年1月~731年6月 | ファルク・ウラス | トルキー労働党 |
6 | 731年6月~740年1月 | ジェマル・デスタン | 社会民主党 |
7 | 740年1月~746年7月 | ハシム・テミルジ | 無所属 |
8 | 746年7月~755年9月 | アイシェ・トゥルナゴル | トルキー労働党 |
9 | 755年9月~759年1月 | イドリース・アル | トルキー民主社会同盟 |
10 | 759年1月~764年3月 | アイシェ・トゥルナゴル | トルキー労働党 |
11 | 764年3月~777年7月 | ジェウデト・エリジェ | トルキー労働党 |
12 | 777年7月~780年4月 | アッバス・アクス | トルキー労働党 |
13 | 780年4月~791年11月 | ジャフェル・ギュルセル | 共和人民党 |
14 | 791年11月~814年7月 | デニズ・バラミール | 共和人民党 |
15 | 814年7月~823年3月 | カスム・アクス | 社会民主党 |
16 | 823年3月~ | アフメト・エルドアン | トルキー労働党 |
憲法により三権分立を定めているが、前述の通り権力の偏りや党出身者による権力の牛耳りなどが存在するために十分に三権分立が機能しているとはいえない。
政策スライダー | |||
民主的 | --◆---- | 独裁的 | 民主制を導入している |
政治的左派 | ◆------ | 政治的右派 | 革命的思想こそ最良である |
開放社会 | -----◆- | 閉鎖社会 | 自由を謳う似非自由主義を警戒せよ |
自由経済 | ------◆ | 中央計画経済 | 社会主義経済を導入している |
常備軍 | ----◆-- | 徴兵軍 | 徴兵制度は国防の要だ |
タカ派 | ----◆-- | ハト派 | フリューゲルは平和にあるべきである |
介入主義 | -----◆- | 孤立主義 | 国家と国際社会の関係は常に複雑だ |
憲法により議会が国の唯一の立法機関とされている。
議会は内閣総理大臣を任命することができ、内閣不信任決議を行うこともできるが、この決議に強制力はない。
そのため内閣はこの決議が行われた場合は議会を解散し選挙することで総辞職を回避することも可能であり、「議会が実質的に内閣を結成するための踏み台と化している」という批判もある。
問題を起こした裁判官を罷免させるか否かを判断する弾劾裁判を行うことも可能である。
これによって罷免させられた裁判官は今後永久に公務員の地位に就くことを禁止され、この権利が回復されることはない。
選挙においては憲法により「社会主義経済体制に反対する政党(743年改正)」の出馬は認めておらず、これにより資本主義の他、サンディカリスム、アナキズム、ファシズムなどといった政党の出馬を制限している。
議会は人民院と地方院からなる二院制であり、地方院は少数民族や地方関連の法案を話し合う場とされている。両院の構造やシステムには特段の差異はない。
675年7月までは人民院からなる一院制であった。
両院での議決に差異が生じた場合は両院評議会が設置されその可否が問われることとなる。基本的に話し合われる内容は少数民族や地方の関連があるかどうかであり、慣例においてはそれらに関連があると判断された場合は地方院の議決がそのまま通され、そうでない場合には人民院の議決がそのまま通されている。
一方で関連する事項が多岐に渡る、あるいは国家構造そのものに関連した場合に両院の議決が食い違い、審議不十分として否決とされたこともある。
人民院は定数400の比較的小規模な議会である。
639年5月までは定数が200だった。
657年前後までは定数が300だった。
任期は5年もしくは当時の国家元首が解散宣言した時までである。
選挙は県や特別行政州をそれぞれ1区とした大選挙区制によって行われる。
その選挙制度からそれぞれの区からは一度で10~50人もの当選者が出ることとなるため、各区では同じ政党の候補者が何人も乱立することが一般的となっている。
政党名 | 議席 | |
トルキー労働党 | 202 | |
社会民主党 | 96 | |
緑の党 | 40 | |
共産党 | 38 | |
共和人民党 | 17 | |
公正党 | 5 | |
無所属 | 2 | |
定数 | 400 |
地方院は定数264の小規模な議会である。
任期は10年であり、選挙は5年ごとに半数ずつ行われる。
主に少数民族や地方の声を代弁する機関として設置された。
一般の法案に対する議決権は存在するが、人民院と異なる議決を行った場合でも人民院の議決がそのまま通されるなど権限はかなり弱い。
しかし少数民族や地方に関連する法案に対しては地方院の議決が優先され、これらに関してだけは強力な権限を持つ。
選挙においては10の県からそれぞれ12人、2つの特別州からそれぞれ6人ずつ比例代表制で選出される。
1つの選挙区から一度に20人以上の同党の当選者が出ることもある人民院の選挙とは異なり、比較的落ち着いた選挙戦が繰り広げられると言われている。
第一回の選挙は半数のみの選挙が行われた。
政党名 | 第36期 | 第35期 | 合計 | ||
トルキー労働党 | 64 | 69 | 133 | ||
社会民主党 | 31 | 28 | 59 | ||
チューリップ同盟 | 28 | ||||
緑の党 | 8 | 8 | 16 | ||
緑のクルディア | 6 | 6 | 12 | ||
共産主義戦線 | 19 | ||||
共産党 | 6 | 4 | 10 | ||
革命的マルクス主義研究会 | 5 | 4 | 9 | ||
自由と正義の会 | 17 | ||||
共和人民党 | 4 | 6 | 10 | ||
クルディア民主主義党 | 3 | 3 | 6 | ||
公正党 | 1 | 0 | 1 | ||
アルミニア民族共同体 | 4 | 4 | 8 | ||
定数 | 132 | 132 | 264 |
憲法により行政権は内閣に属するとされている。
内閣は議会から任命を受けた内閣総理大臣によって組閣され、議会の信任に基づき内閣を組閣することとなっている。
内閣の構成などに特に規定はないが、内閣総理大臣がその他の国務大臣の地位を兼任することは禁止されている。
これは万が一の際の混乱を防ぐためののほか、1人の人物に過剰に権力が集中することを防ぐための処置である。
内閣は議会の召集・解散を行うことが出来る他、最高裁判所の裁判官を任命することができる。
議会が解散中に緊急の必要が生じた場合は臨時で法律に変わるものとして緊急閣令を下すことが出来、この閣令は議会の開会次第失効、または法案化される。
内閣に属するとされる行政機関の主要なものとして以下が在る。
また内閣から独立した機関として会計検査院が存在する。検査権限は内閣に属する組織のみならず国会や最高裁判所にも及んでおり、行政機関の中では独特な地位を持っている。
憲法により司法権は最高裁判所と法律によって定められた下級裁判所に属するとされる。
議会の定めた法律や内閣の命令が憲法に違反していないか審査することが出来、違反していたと判断された場合それぞれ迅速に解散や総辞職をしなければならないとされる。
しかし憲法には司法は独立といった表記をされておらず、特定の政治団体に属する人物の裁判官への就任や指名を規制する法律もないため、各裁判所は様々な党の出身者がひしめき合っている。
通常の裁判は三審制によって行われ、最高裁判所の判断は行政機関の異議などによっても覆すことはできない。
憲法によって「社会主義経済体制に反対する政党」は選挙への出馬を認められていないが、そういった政党であっても政党自体の存在は認められている。
それらの政党は反体制的な活動かロビー活動などの間接的な政治活動を行うことを余儀なくされる。
743年に憲法が改正され、従来の「健全な社会主義を構築することに賛同しない政党」からやや寛容と言える現在の規定となった。
トルキー労働党 | Türkiye İşçi Partisi/TİP |
シンボルカラーは赤。国内においては中道左派とされる。 初期は強力な独裁を志向していたが、諸外国を視察するにつれ民主主義を志向する政党へと変化し現在に至っている。 建国時から636年11月以前の名称は「トルキー労働者評議会(Türkiye İşçi Konseyi/TİK)」。 内戦による分裂状態をまとめ上げた実績を持つトルキーにおける社会主義の中心的な政党。社会主義経済と民主主義政治の堅持を志向し、そのためには暴力や階級闘争も厭わないとするやや硬派な主張を行っている。その来歴から党員数は国内で最大を誇る。 党内には健全な社会主義経済のため民主主義政治の安定を優先する右派、社会主義と民主主義はどちらも不可分なものとし優越をつけない中道派、民主主義政治による社会主義経済の不安定化を警戒する左派の3つの派閥が存在する。 | |
社会民主党 | Sosyal Demokrat Partisi/SDP |
シンボルカラーは橙もしくは赤。報道などでは橙とされることが多い。国内においては中道とされる。 内戦においては政治体制を巡り労働者評議会と対立した。 社会民主主義を掲げ、独裁や暴力革命、階級闘争を否定する。民主主義の土台の上に社会主義経済が成り立つとして民主主義との衝突を生む可能性のある経済政策に反対するが、一方で公共事業の整備や産業改革など社会主義経済の維持・発展には協力的であり、また社会主義経済の過度な不安定化に繋がる民主化についても忌避する傾向がある。国防の強化など軍事・外交政策についても労働党と見解が似る部分がある。党員数は国内では二番目に大きい。 党内では社会主義経済の発展を重視する経済派と民主主義のさらなる促進を図る民主派といったやや主張の傾向が異なる派閥が存在し、無派閥議員の多い中でも存在感を持ち党内の均衡を保っている。 | |
緑の党 | Yeşillik |
シンボルカラーは緑。国内では中道右派とされることがあるが、当てはまりにくい部分も多い。 アンカラ大学の環境問題について研究するグループが元となった政党であり、識者を交え政治政党となった現在においても複数の専門家集団を有するアカデミックな政党である。環境への影響が大きい産業開発の反対だけでなく、農業・漁業の拡大、科学・教育分野への投資の増加といった主張も行い、更には多文化主義に基づく異文化保護や平和主義、草の根民主主義といった独特な主張も行っている。一方で社会主義そのものに関しては消極的か無関心であると言われることがある。 他の政党とはやや異なる方向性のイデオロギーを持つことから、大きな政治的な流動がある中でも比較的安定した勢力を保つことが多く、地味ながら無視できない影響力を有している。 | |
共和人民党 | Cumhuriyet Halk Partisi/CHP |
シンボルカラーは紫。国内では中道右派とされることが多い。 760年に従来までの「トルキー民主社会同盟(Türkiye Demokratik Sosyalist İttifak/TDSİ)」と「自由党(Özgürlük Partisi/ÖP)」他小規模な地域政党2党が合併し誕生した政党。 社会主義経済下における個人の自由や権利を拡大させることを主眼とし、さらなる民主化の促進をその弊害も厭わずに行うことを主張する民主社会主義政党。社会主義経済の体制に民主主義の理念を組み込むことを提唱しており、生産計画策定の過程に労働者の直接の意見をより大きく取り入れることも模索している。党員数は国内では3番目であるが、上位との開きは大きく中堅政党として扱われる。 | |
公正党 | Adalet Partisi/AP |
シンボルカラーは青。国内では右派とされることが多い。 820年代の党勢を失っていく共和人民党より離脱した議員らが835年に形成した政党。 社会主義経済体制は民主主義の土台がなければ成り立たないとし、時に現状の体制を批判し真の民主主義の実現を強く求める社会自由主義政党。個人の良心と社会正義に基づいた体制を実現させることで国民全体が真に幸福な国家が完成されるとして個人の権利拡大も前面に押し出している。 | |
共産党 | Komünizm Partisi/KP |
シンボルカラーは赤。報道においては労働党を薄めの赤としこちらを濃い赤にすることが多い。国内では左派~極左とされる。 636年11月以降の労働党の急激な民主化への舵取りに反発した党員らが離脱し結成された。 社会主義経済の堅持を望み、民主主義政治による社会主義経済体制の不安定化を強く警戒する非常に社会主義色の強い政党である。農業・工業をトルキーの国是と位置づけ、農工業の地位向上や開発促進や、社会主義経済体制の強化のため生産計画の厳守や産業の集団化などを主張する。 党内では従来の過剰な民主化を批判し社会主義の理念を忘れないよう主張する守旧派の他に、財産の共有化や憲法の社会主義色の強化など体制の中央集権化を主張する急進派が、743年に政治参加が合法化されたことに伴い共産党に合流し派閥を形成している。 |
+ | その他の政党 |
+ | 選挙への出馬を認められていない政党 |
+ | かつて存在した政党 |
国土の多くがケッペンの気候区分における地中海性気候に属するが、山岳部では気温が下がり高地地中海性気候や亜寒帯湿潤気候となる地域も存在する。冬には山岳部では降雪も見られる。
多くの地域において耐乾性の強い硬葉樹林が多く見られるが、冬の寒さが厳しい山岳部では針葉樹林がよく見られる。
旧世界時代にその原産地だったチューリップはフリューゲルにおいても栽培が続けられており、トルキーの主要輸出作物の一角をも担っている。
その他気候を生かしたオリーブやコルクガシ、オレンジなど加工向けや嗜好品向けの作物の栽培が多い。
主食の小麦は内陸部のやや乾燥する地域においての栽培が特に多い。沿岸部・内陸部共に小麦のほとんどは冬に栽培される。
家畜は乾燥を好む羊やヤギが飼育される。
特徴的なものとして料理が挙げられ、かつて旧世界において様々な地方との交流があったことからそれぞれの特色を活かした郷土料理が誕生し、それが新世界においても嗜まれている。
一方で独自の文化から生まれた料理も根付き、その代表例としてケバブが挙げられる。
トルキー文化の代表としてよく挙げられることが多く、トルキーの一種の象徴的な存在にもなっている。
またイスラム教国家でありながら、トルキーでの宗教事情が非常に世俗化したものであるということから、飲酒は自由に行われている。
トルキー人が全体の76%を占め、次いでクルディア人、アルミニア人、ギリシヤ人が少数民族として22%を占め残りは他国からの移民となっている。
特にクルディア人はトルキー内においてトルキー人に次ぐ多数派を構成しており、その構成は全体の18%であるとも言われる。
社会主義国家であるが、信仰の自由は存在している。
イスラム教スンニ派を国教とし、その他の少数宗教も認めている。
イスラム教が96.2%、トルキー正教会が1.1%、その他が2.7%となっている。
そのうちイスラム教の宗派は83%がスンニ派で、13%がアレヴィー派、残りの4%はその他の宗派である。
トルキーにおける宗教形態は非常に世俗的なものとなっており、戒律を全て厳格に守る信者らは少ない。
また政治の場では憲法によって厳格な政教分離が定められており、トルキーの政治家において宗教の話題は重大なタブーとなっている。
おおよそ150万人ほど存在する非正規軍の他、660年11月からは正規軍もある程度のペースで編成されている。
成人した男子には3年ほどの兵役の義務が与えられており、この期間の経験を経ることで正式に軍隊へ加入するということも可能である。
良心的兵役拒否は認められていないが、徴兵検査の基準が厳しいために検査不合格となる者が多く、維持費の増大が防がれている。
万が一の場合には主に兵役を満了した男子を中心に再徴兵することが認められている。
外交使節を送った/送られた国のみ。順は特に意味はなし。必ずしも政府の公式見解とは一致しない。
国名 | 備考 |
カルセドニー社会主義連邦共和国 | 同じ社会主義国家。国交樹立時はカルセドニー島共和国。建国の際多大な支援を送ってくれた国。 |
ヘルトジブリール社会主義共和国 | 同じ社会主義国家。SSpact加盟国。 |
ヴェールヌイ社会主義共和国 | 同じ社会主義国家。SSpact加盟国。 |
ヨリクシ共和国 | 現在長期の鎖国中である。 |
レゴリス帝国 | - |
西岸州独立連合共和国 | かつての植民地であり、様々な問題を乗り越えながら別々の国家となった修正資本主義国家。現在長期の鎖国中である。SSpact加盟国。 |
ストリーダ王国 | - |
ガトーヴィチ帝国 | - |
ロムレー湖畔共和国 | - |
ローレル共和国 | - |
タヂカラオ国 | - |
トラハト=ラシュハ連合王国 | - |
ギルガルド社会主義共和国 | 同じ社会主義国家。SSpact加盟国。 |
カドレン共和国 | - |
ライン共和国 | - |
ミルズ皇国 | - |
国名 | 備考 |
セビージャ北部臨時政府 | 旧セビーリャ自由共和国。現セビーリャ自治政府。現在は大規模な集約農業が行われ、フリューゲルの食料事情を支える地域の1つとなっている。 |
フランク連邦 | - |
成蘭連邦王国 | - |
ボアーズィチィ合州国 | 国交樹立時はボアーズィチィ帝国。同じイスラーム国家。 |
フリスラーン帝国 | 建国の際多大な支援を送ってくれた国。 |
アルビオン連盟王国 | スコッチランド時代に国交があり、建国の際多額の支援を送ってくれた。王政復古後関係は急速に悪化した。 |
北海社会主義共和国 | 同じ社会主義国家。 |
サバルタン国 | - |
テークサット連合 | 同じイスラーム国家。 |
コーデクス共和国 | - |
蒼鋼国 | - |
シャムレー民主共和国 | 同じ社会主義国家。 |
ラシニア社会共和国 | 修正資本主義を採用する国家。 |
中夏人民共和国 | 同じ社会主義国家。 |
冰州連合 | - |
エーラーン教皇国 | 836年11月加盟 |
普蘭合衆国 | 842年2月加盟 |
中夏人民共和国 | 768年9月加盟(当時は中夏民国)、846年1月滅亡 |
836年 | 11月 | エーラーン教皇国が国際交易協力機構条約に批准 |
842年 | 2月 | 普蘭合衆国が国際交易協力機構条約に批准 |
834年 | 2月 | 第8回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
戦争の正当性、という概念についてはカレストノープル平和議定書をはじめとして、国際社会において長年認知されていたが、それに関する具体的な基準は存在せず、戦争のたびに各陣営が自らの「正当性」をただ宣伝するだけでしかなかった。これに対して、客観的な基準を作成することをカルセドニー政府が提案し、それを具現化したのが本決議である。「戦争の正当性」を国際社会全体の目線で判断し、それを有さないような戦争に対して対応を可能にする条約の作成を、国際社会全体で実施するよう呼び掛けている。
この決議を受けて、835年6月中旬に「平和原則条約起草委員会」が設置された。
ギルガルド社会主義共和国のSSPact加盟により、同国はWTCOとSSPact双方に所属する国家となった。これに伴い、サンサルバシオン条約と国際交易協力機構条約、あるいはそれらの下に形成される議定書群の間に矛盾や解釈上の問題が発生しうると考えられ、これについて対立的ではない解決方法を模索する、という目的のため本決議は採択された。現時点でWTCOとサンサルバシオン条約機構との間では協議を進めている段階であり(ヴェールヌイ社会主義共和国の政府機能停止が長引いていることを最大の要因として)、具体的な合意形成には至っていない。
第7回加盟国会議で荒れた案件であるガトーヴィチ帝国の国際交易協力機構加盟について、唯一同国の加盟に明確に反対票を投じた中夏人民共和国より、「WTCOの加盟要件をより厳しくする」ことを提案する動議が行われた。これについて、中夏・カルセドニー両国を中心にいくつかの議決を「重要議案」として指定し、それらについて変更するには国際交易協力機構条約修正と同様3分の2の賛成票を必要とする旨定める条約修正が作成された。中夏代表からの提案であった「新たな国家の加盟を承認する議決」のほかに、複数の議定書を重要議案として指定する旨決議された。
国際交易協力機構(World Trade Cooperation Organization)はフリューゲル暦686年9月24日にカルセドニー島共和国、ヨリクシ共和国、蒼鋼国、及びサン・ピエル共和国の4ヶ国を原加盟国として発足した経済共同体である。
通常はWTCO(ウトコー)と略されるが、短く「機構」と呼ばれることもある。
現加盟国 | |
---|---|
カルセドニー社会主義連邦共和国 | 原加盟国 |
ローレル共和国 | 693年1月加盟 |
御岳山大社共和国 | 御岳山諸島自治巫女共和国の後継国家として加盟資格回復(当時は御岳大社領御岳山諸島) |
ギルガルド社会主義共和国 | 814年9月加盟 |
ガトーヴィチ帝国 | 816年6月加盟 |
エーラーン教皇国 | 836年11月加盟 |
普蘭合衆国 | 842年2月加盟 |
資格停止中の加盟国 | |
ヨリクシ共和国 | 原加盟国、第2回加盟国会議において資格停止 |
過去の加盟国 | |
サン・ピエル共和国 | 原加盟国、700年7月滅亡 |
御岳山諸島自治巫女共和国 | 692年9月加盟、710年頃滅亡 |
蒼鋼国 | 原加盟国、720年頃滅亡 |
ヴォルネスク・スラヴ共和国 | 814年11月加盟、823年11月滅亡 |
中夏人民共和国 | 768年9月加盟(当時は中夏民国)、846年1月滅亡 |
クリストバライト条約の調印式から6年ほどが経過した692年6月に第1回加盟国会議が開催された。第1回加盟国会議ではそれまでに加盟について事前協議が進められていた御岳山諸島自治巫女共和国及びローレル共和国の加盟が承認され、加盟国を6ヶ国とした状態で議論が進められた。会議では主に機構公定レートについてと政府機能が停止していることが危惧されていたサン・ピエル共和国への経済支援の内容が協議され、機構公定レートとサン・ピエル共和国への食肉支援についての決議が決議された。
ローレル共和国の加盟についての事務レベル協議に際し、ヨリクシ共和国との間に連絡の齟齬が発生したことがローレル共和国により指摘され、ヨリクシ共和国が陳謝するという事態も発生したが、議論は特に激しくなることはなく、両件ともカルセドニー島共和国が提出した草案の通り決議された。
第1回加盟国会議の後、カルセドニー島共和国・ヨリクシ共和国における政変と鎖国政策への移行のため機構は長期間にわたり活動を停止、その間に御岳山諸島自治巫女共和国及び蒼鋼国は滅亡していたが、鎖国政策を放棄して成立したカルセドニー社会主義連邦共和国はローレル共和国に機構の加盟国としての地位確認を求め、ローレル側がそれを承認したため機構は再稼働した。この両国が第2回加盟国会議を招集、765年7月におよそ70年ぶりの加盟国会議が開かれた。会議では機構の理念である「各加盟国が経済的な発展を遂げ、加盟国民の福祉の増進に寄与すること」及び「各加盟国の国際社会における立場を強化し、不当な外交的圧力を共同して排除すること」のそれぞれの実現に向けた議定書が両国のそれぞれからから提出されて採択された。前者の目的のために採択された域内資源の相互流通促進に係る議定書は経済面の、後者の目的のために採択された防衛装備品及び技術の移転に関する議定書は防衛面の協力関係の強化が期待されている。
また、この加盟国会議では鎖国政策の継続によって加盟国の役割を果たすことが困難であると判断されたヨリクシ共和国について、【ヨリクシ共和国の加盟資格停止についての決議】が採択され、同国は鎖国政策を継続している限り加盟国としての資格を有さない旨確認された。
域内資源の相互流通促進に係る議定書に基づく債権の移転についても1件審議され、これに係る第一号決議が採択された。
第2回加盟国会議の直後、中夏民国が加盟を申請、これに合わせて第3回加盟国会議が768年7月に開催された。会議では中夏民国の加盟が承認され、加えて加盟国が1ヶ国しかない場合でも機構が機能を失わないように定めた国際交易協力機構条約の改正案が採択され、その後は域内資源の相互流通促進に係る議定書に基づく債権の組み込まれる「新興国支援基金」の正式な設置とその運用について議論が行われた。
775年に第4回加盟国会議が開催された。この会議ではカルセドニー社会主義連邦共和国の提案に基づき新興国支援基金の下に2番目の開発支援計画である【福祉施設建設支援計画】の設立、機構内の組織である事務局の設置を定めた国際交易協力機構条約修正第2条が採択された。その後、事務局の機能を定めた【国際交易協力機構事務局への業務の委託に関する決議】も採択されたものの、最後の議題となった初代事務局長の選出については議論が中断したまま会議は終了した。
806年に第5回加盟国会議が開催された。この会議ではWTCO旗が正式制定され、事務局の権限強化のための事務委員会の設置、前回棚上げになっていた事務局長の選出、さらに経済連携のための【経済開発基金に関する議定書】の3つの議案が議論された。普中ト危機及び813年戦争により会議は一時的に中断を余儀なくされたものの、議論そのものは何事もなく運び、全ての議案が成立した。
814年に第6回加盟国会議が開催された。この会議では新たにギルガルド社会主義共和国及びヴォルネスク・スラヴ共和国の加盟が承認され、それ以外の議題は上がらずに直ちに閉会した。
816年に第7回加盟国会議が開催された。この会議ではガトーヴィチ帝国の加盟を第一に決定、その後カルセドニーより提案された、国際社会の戦争の正当性判断の枠組みの形成を求める【フリューゲルの平和原則に関する条約の提案に関する決議】、WTCOとSSPactに両属する国家(ギルガルド社会主義共和国)が出現したことによる外交上の対立回避を求める【SSPactとの協議必要性に関する決議】の2件が議論される予定になっていた。
しかし、ガトーヴィチ帝国の加盟について中夏人民共和国代表より「先の813年戦争(対ヴェニス武装襲撃事件)が起こったばかりであり、また戦争において同国は主導的な役割を果たしたことを鑑みて、平和を希求するWTCOの加盟は早急であると考えます。そもそも813年戦争自体その動機が不当であり、瓦国がわれわれの一員としてまっとうに行動できるとは思えません。」として反対票が投じられ、これを受けて御岳山・ヴォルネスク両国が加盟決議に棄権票を投じるなど会議は序盤から大混乱となった。結局、ガトーヴィチ帝国の加盟については「813年戦争についてガトーヴィチ帝国政府の立場からの説明はあってしかるべき」というローレル代表の提示した留保が付された状態で賛成3(カルセドニー・ギルガルド・ローレル)、反対1(中夏)、棄権2(御岳山・ヴォルネスク)で可決され、ガトーヴィチ帝国外政大臣K.C.ソフラノヴァ氏自身が813年戦争に関する見解を加盟国会議の議場で述べ、同国の加盟は正式に成立した。
【フリューゲルの平和原則に関する条約の提案に関する決議】については、ギルガルド代表から「起草委員会参加国が多数になることにより、全会一致のために有名無実化された条文が採択されないか」という懸念が、中夏代表から「防衛を目的とした抗戦を排除することはないように配慮するべき」という主張がなされ、それを受けて提案者であるカルセドニー代表より「根本理念」を加盟国会議より示し、それに同意することを起草委員会参加の条件にする、という決議案の修正案が提案され、その通り可決された。【SSPactとの協議必要性に関する決議】についてはSSPactの加盟国であるギルガルド代表より、両組織間の協議がそれぞれの代表者により行われるのであれば、当事国である自国はオブザーバーとして協議に参加する資格を有するべきであるとの主張がなされたものの、決議案そのものは原案通り採択された。
その一方で、中夏代表より「WTCOの加盟要件についての規約変更」が提案された。ガトーヴィチの加盟手続きでもめたことが背景と見られるが、これについても議論を経た末中夏代表が作成した条約修正第三条が提出され、その中では「加盟要件」を含めた複数の重要な議定書について「重要議案」として指定、その変更には「棄権した加盟国を除いた全加盟国の3分の2の賛成を必要(条約修正と同等)」とするとされた。
以上の議案が採決まで移行するまでには非常に長い時間(リアル3ヶ月間近く)を必要としたが、結果的に全ての議案について決議及び条約修正が採択され、加盟国会議は閉会した。また、本会議の開催期間中にヴォルネスク・スラヴ共和国が突然崩壊し消滅、加盟国会議終了後の加盟国数は再び6ヶ国となった。
年 | 月 | 出来事 |
---|---|---|
686年 | 9月 | 国際交易協力機構条約が締結される |
692年 | 6月 | 第1回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
692年 | 9月 | 御岳山諸島自治巫女共和国が国際交易協力機構条約に調印 |
693年 | 1月 | ローレル共和国が国際交易協力機構条約に調印 |
694年 | 6月 | 第1回加盟国会議が閉会 |
700年 | 7月 | サン・ピエル共和国が滅亡 |
710年頃 | 御岳山諸島自治巫女共和国が滅亡 | |
720年頃 | 蒼鋼国が滅亡 | |
765年 | 7月 | 第2回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
766年 | 10月 | 第2回加盟国会議が閉会 |
768年 | 1月 | 中夏民国が機構への加盟を申請 |
768年 | 7月 | 第3回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
768年 | 9月 | 中夏民国が国際交易協力機構条約に調印 |
771年 | 6月 | 御岳大社領御岳山諸島が御岳山諸島自治巫女共和国の後継国家として加盟資格を回復 |
775年 | 8月 | 第4回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
806年 | 2月 | 第5回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
814年 | 9月 | 第6回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
814年 | 9月 | ギルガルド社会主義共和国が国際交易協力機構条約に調印 |
814年 | 11月 | ヴォルネスク・スラヴ共和国が国際交易協力機構条約に調印 |
815年 | 11月 | 第7回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
816年 | 6月 | ガトーヴィチ帝国が国際交易協力機構条約に調印 |
823年 | 11月 | ヴォルネスク・スラヴ共和国が滅亡 |
834年 | 2月 | 第8回国際交易協力機構加盟国会議が開催される |
836年 | 11月 | エーラーン教皇国が国際交易協力機構条約に批准 |
842年 | 2月 | 普蘭合衆国が国際交易協力機構条約に批准 |
第1回加盟国会議において、国際交易協力機構条約第4条VII項に基づき機構公定レートが決定された。レートは「事実上の取引レートの“下限”」である(当該条項は「機構公定レートを著しく下回る貿易について是正を勧告することができる」と定められている)ことから、レートは国際的に広く用いられている取引価格の下限近くが設定された。
一方で、公定レート制定後、サン・ピエル共和国への食肉支援についての決議やローレル共和国・レゴリス帝国間の資源供給の安定化に係る協定では公定レートが貿易取引の際の基準として用いられており、公定レートが取引の“下限”ではなく“基準”として扱われることも多くなっている。
第1回加盟国会議において、政府機能が停止していた加盟国であるサン・ピエル共和国に対する支援決議が採択された。同国の情勢不安を緩和するために食肉が支援の主体となっており、決議案の内容もそれを反映したものとなった。なお、本決議V項にある食肉生産費用の分担率が当面カルセドニー島共和国が当面全額を負担する旨同時に決定されている。サン・ピエル共和国はフリューゲル暦700年7月下旬に滅亡したため、これを受けて8月初旬に決議は失効した。
【サン・ピエル共和国への食肉支援についての決議】
第2回加盟国会議において、鎖国政策を継続しているヨリクシ共和国の加盟資格を停止する決議が採択された。同国は加盟国としての地位を保っていたものの、鎖国政策によって加盟国会議への出席などは困難となっており、同国の加盟資格を停止することで加盟国会議における議事の円滑化をはかるため加盟資格停止決議が採択された。
【ヨリクシ共和国の加盟資格停止についての決議】
第2回加盟国会議において、機構加盟国間での防衛装備品及び技術の移転(砲弾の取引)を可能とするために防衛装備品及び技術の移転に関する議定書が採択された。本議定書の目的は機構条約の第I条(ii)に定められた「各加盟国の国際社会における立場を強化し、不当な外交的圧力を共同して排除すること」を達成することとされ、機構加盟国が一定の防衛に関する協力を行うことを示した。
【防衛装備品及び技術の移転に関する議定書】
年月 | 移転元の国 | 移転先の国 | 砲弾輸送量 | 備考 |
---|---|---|---|---|
766年4月初旬 | カルセドニー社会主義連邦共和国 | ローレル共和国 | 6万4000メガトン |
フリューゲルのいくつかの国家は、国際経済の変動のあらゆる影響を受けない体制を築き上げた。しかし、この事実は、同時に自国内で保有する資源を輸出するモチベーションの低下を意味した。本機構の加盟国であるローレル共和国も例外ではない。実際、一部の資源を除き、国際経済指標では「潤沢」であり、輸出する余力を残しながらも、その輸出実績はほとんど記録されていないのである。この蓄積した資源の輸出を促進するため、新たな経済主体を擬制する本議定書案が第2回加盟国会議において提出された。
この議定書を運用することによって、WTCOは独自の経済力を有することとなり、迅速かつ効果的な資本投下を可能とする一方、債権を譲渡する国家等がWTCOの意思決定に関与し、自己保有資源の行く末について影響力を発揮する余地を残すことで、債権譲渡を促進する狙いが含まれる。
そして、本議定書は、防衛面から加盟国間の連携を強化する「防衛装備品及び技術の移転に関する議定書」と両翼をなす経済面の議定書として第2回加盟国会議において、満場一致で採択され、加盟国は経済面の連携をより一層深めたのである。
域内資源の相互流通促進に係る議定書
第1条 本議定書は、域内諸国が保有する資源の放出を促進することで、もって国際交易協力機構(WTCO)の理念である「各加盟国が経済的な発展を遂げ、加盟国民の福祉の増進に寄与すること。」を目的とする。
第2条 加盟国は、WTCOに対して、自己が保有する、外国政府並びに国家と同等の機能を備えた企業体、集団(以下、国家等と呼称)に対する債権を譲渡することができる。
2 前項の譲渡は、国家の独立性を侵害しえない形態、すなわち各加盟国政府の任意によって行われなければならない。そのため、本議定書のみならず、あらゆる国際条約、合意によって強制することはできない。
第3条 譲渡された債権は、WTCOに終局的に帰属する。加盟国による、譲渡した債権の返還等その他債権の帰属の主張は、これを認めない。
第4条 債権の行使、放棄、移転(以下、行使等と呼称)は、第6条の決議に基づいて行われる。
第5条 第2条に基づく債権の譲渡、第4条に基づく行使等を決定した場合は、その旨及び対価を輸送すべき対象について、債務を履行すべき国家等に可及的速やかに通知する。
2 前項の通知の前後を問わず、本議定書に反した輸送が行われた場合には、加盟国は第6条の決議に基づき本来、輸送されるべき対象に輸送するものとする。
3 債務を履行すべき国家等及び加盟国政府による本議定書に反する輸送の結果、加盟国政府に経済的損害が生じた場合には、第一次的にWTCOが原状回復する義務を負う。
そして、損害を生じせしめた国家等、加盟国政府に対してWTCOが求償することで、損害の確実な回復を図ることを約束する。
第6条 第2条に基づく譲渡の通知があった後に、WTCOは以下の事項を速やかに加盟国会議で決定しなければならない。
一.対価を輸送すべき対象
二.輸送された対価の使途
三.その他加盟国会議が必要と認めた事項
第7条 本議定書の成立より以前に成立した債権についても本議定書の対象とする。
第8条 本議定書の改廃は加盟国会議の決議に基づく。ただし、改廃があったとしても、債権の帰属先や第6条に基づき既に決定された事項について変更されるものではないことを確認する。
国際交易協力機構条約は、加盟国が1ヶ国となった場合に適正な運用が不可能となることが発覚した。すなわち、第XIII条に定められた通り加盟国会議は2ヶ国以上の加盟国の要請が開会に必要であり、加盟国1では加盟国会議を開くことが不可能になる。その上、新たな加盟を承認することが可能であるのは加盟国会議のみである以上、新たに加盟国を迎えることもできなくなりWTCOはその機能を停止してしまいかねない。以上の問題を解決するため、加盟国会議が開催できなくても他国の加盟を認めることが可能となる修正が第3回加盟国会議において提案された。カルセドニー社会主義連邦共和国代表の提出した原案では「加盟申請については事務局に対し書面で行い、適正な字形や字体によるもののみ受理する。」とした第I条第(i)項があったが、ローレル代表による「事務局が加盟申請を受理するか否か恣意的な運用が可能になる」との指摘によりこの条文は削除された。
第2回加盟国会議において成立した域内資源の相互流通促進に係る議定書に基づいて成立した第一号決議において「新興国支援基金」が設置されることが示された。しかし、この基金について明文化された規定は存在せず、運用方法も宙に浮いてしまっていた。そのため、第3回加盟国会議において新興国支援基金を設置する規定を定めた本議定書が採択された。この議定書では、新興国支援に関する支出は別に作成される計画に基づいているものであれば加盟国会議の決議を経ずに行われるものと定められ、新興国支援の迅速化が図られている。
【新興国支援基金に関する議定書】
新興国支援基金に関する議定書の制定に合わせて、新興国支援の具体的な内容を定めた新興国支援計画が制定された。支援が可能となる条件を計7項目にわたって定め、これを満たす国に対し30兆Va相当までの資金と建材を提供することが可能となる内容となった。原案では30兆Va相当が支援の上限であったが、ローレル代表によってこの額では支援が不足する可能性が指摘され、加盟国会議の決議があれば無制限に支援を供給できる内容に変更された。
ギルガルド社会主義共和国連邦が本計画の最初の適用国となった。
【新興国支援計画第1号:ウラン鉱山開発支援計画】
支援が可能となる条件
支援の内容
計画の有効性
第3回加盟国会議において、中夏民国が、加盟以前より継続するトラハト=ラシュハ連合王国との鋼鉄定期貿易について、機構公定レートに違反することがカルセドニー政府の指摘で判明した。そして、同政府は引き続き、中夏民国に対して是正を促す勧告案を提出した。当事国である中夏民国が、勧告案の提出とほぼ同時期にトラハト=ラシュハ連合王国とレートの改定交渉に着手したため、同勧告を発出する必要性はほとんど失われたものの、勧告発出の独自の意義を強調するローレル代表の賛成によって、是正勧告案は取り下げられることなく、成立した。クリストバライト条約第四条VII(機構公定レートを著しく下回る貿易について是正を勧告することができる。)に基づく措置をWTCOが発動した史上初のケース。
【中夏民国政府とトラハト=ラシュハ連合王国間の貿易に対する是正勧告】
第4回加盟国会議において、新興国支援基金による新興国支援計画としてウラン鉱山開発支援計画に続いて本計画が制定された。支援を受ける条件をウラン鉱山開発支援計画よりやや厳しくし、その代わり投資可能な金額を拡大している。ローレル代表の提案した修正として国際図書館内の被支援国の記事の内容について詳細を定めた附則が作成された。
カタルシア王国が本計画の最初の適用国となった。
【新興国支援計画第2号:福祉施設建設支援計画】
支援が可能となる条件
支援の内容
計画の有効性
+ | 国際交易協力機構によるカタルシア王国に対する福祉施設建設支援協定 |
第4回加盟国会議において成立した国際交易協力機構の事務局の設置について明記した条約修正。既に機能していた事務局について、後から法的根拠を与えた。また、これに合わせて本条約修正第II条にある事務局への委託を決議した。
国際交易協力機構加盟国会議は以下に定めた業務を国際交易協力機構事務局へ委託する。
第5回加盟国会議において採択された、事務局の権限強化を定めた議定書であるが、内容としては本来加盟国会議のみの権能であった議定書等の作成を事務局内の「事務委員会」が実行することが可能とするものであり、「全会一致」を条件とするものの加盟国会議を経ずに機構が判断を行うことができるようになった。
【事務委員会の設置に関する議定書】
域内資源の相互流通促進に係る議定書に基づき移転された債権はこれまでの議定書によれば新興国支援基金に移転するよりなく、これは機構から新興国への経済開発支援に用いることは可能であるが、機構加盟国内の経済開発を機構から支援する方法はなかった。御岳山大社共和国が鉱山再開発を行うにあたりこの点が問題視され、加盟国に対して資金援助を機構が保有する資産から実施することが可能にするため、本議定書が作成された。
戦争の正当性、という概念についてはカレストノープル平和議定書をはじめとして、国際社会において長年認知されていたが、それに関する具体的な基準は存在せず、戦争のたびに各陣営が自らの「正当性」をただ宣伝するだけでしかなかった。これに対して、客観的な基準を作成することをカルセドニー政府が提案し、それを具現化したのが本決議である。「戦争の正当性」を国際社会全体の目線で判断し、それを有さないような戦争に対して対応を可能にする条約の作成を、国際社会全体で実施するよう呼び掛けている。
この決議を受けて、835年6月中旬に「平和原則条約起草委員会」が設置された。
【フリューゲルの平和原則に関する条約の提案に関する決議】
国際交易協力機構は、
ギルガルド社会主義共和国のSSPact加盟により、同国はWTCOとSSPact双方に所属する国家となった。これに伴い、サンサルバシオン条約と国際交易協力機構条約、あるいはそれらの下に形成される議定書群の間に矛盾や解釈上の問題が発生しうると考えられ、これについて対立的ではない解決方法を模索する、という目的のため本決議は採択された。現時点でWTCOとサンサルバシオン条約機構との間では協議を進めている段階であり(ヴェールヌイ社会主義共和国の政府機能停止が長引いていることを最大の要因として)、具体的な合意形成には至っていない。
【SSPactとの協議必要性に関する決議】
国際交易協力機構加盟国会議は、
第7回加盟国会議で荒れた案件であるガトーヴィチ帝国の国際交易協力機構加盟について、唯一同国の加盟に明確に反対票を投じた中夏人民共和国より、「WTCOの加盟要件をより厳しくする」ことを提案する動議が行われた。これについて、中夏・カルセドニー両国を中心にいくつかの議決を「重要議案」として指定し、それらについて変更するには国際交易協力機構条約修正と同様3分の2の賛成票を必要とする旨定める条約修正が作成された。中夏代表からの提案であった「新たな国家の加盟を承認する議決」のほかに、複数の議定書を重要議案として指定する旨決議された。
また、組織の円滑な運営のため、条約委員会から指名を受けた加盟国が分野に応じて代表を派遣することで、各種の連帯について強化、育成を図ると同時に、組織の外交窓口を担当することになっている。現在は、政治分野について担当する「政治代表」と安全保障分野について担当する「軍事代表」、外交分野について担当する「外務代表」が設定されている。
¶840年9月決議
条約機構の体制改革について
条約機構運用に関する諸改革について
WTCOとの協議必要性及び間近の国際情勢について
1.組織について
641年より続く条約機構の体制について変革が必要であるとの見解に基づき、体制について以下のように再編を行う。
A.代表の役割の分離
政治代表より外交的な役割を分離し、新たに"外務代表"を設置する。
外務代表は機構の外交窓口的な役割を旧来の政治代表より引き継ぎ、加盟国及び条約機構の外交活動の円滑化を促進するものとする。
外務代表は使命国の文民大使とする。
政治代表は加盟国の政治上の安定や地位向上を図り、また必要に応じ協議、諮問、勧告等を行うものとする。
B.代表派遣国
条約機構設立当初より政治代表派遣国を担い続けたヴェールヌイ社会主義共和国の滅亡及び本決議による役職の再編に伴い、以下の通り締結国より代表派遣国を任命する。
政治代表派遣国…トルキー社会主義共和国
軍事代表派遣国…ヘルトジブリール社会主義共和国
外務代表派遣国…ギルガルド社会主義共和国
C.加盟資格の停止
締結国における突然の政府機能停止による条約機構の機能不全の防止のため、締結国が可逆的に加盟資格を停止され得る規定を盛り込むものとする。
加盟資格の停止においてはSSpactの諸活動に対する参画が停止され、国際談義場(Slack)における参考意見に権限が>留められるものとする。
加盟資格の停止は以下の規定に基づき行われるものとする。
I. 政府機能停止(放置)状態が180期以上継続した場合において自動的に
II. 鎖国(凍結)状態において自動的に
III. 他の締結国全体が資格停止に値すると認めた場合においてその旨を含む決議の表明により
本項はこの決議が表明された時点より有効であり、表明時点において規定に当たる締結国(西岸州独立連合共和国)に対しても適応されるものとする。
D.加盟資格の回復
上述の加盟資格の停止に関し、政府機能の回復などによる加盟資格の回復について以下の規定により行われるものとする。
I. 停止規定I項の規定により停止された締結国に関し、政府機能停止(放置)状態の断絶が確認された後に該当国の要請に基づき
II. 停止規定II項の規定により停止された締結国に関し、鎖国(凍結)状態の解除が確認された後に該当国の復帰表明により自動的に
III. 停止規定II項の規定により停止された締結国に関し、当該国の要請及び状態に基づき限定的に(後述)
IV. 他の締結国全体が資格回復するべきと認めた場合においてその旨を含む決議の表明により
E.限定的な加盟資格の回復
上述の加盟資格の回復規定III項に基づいた限定的な加盟資格の回復について、政府機能が再度停止したと判断された時点において順次資格は再停止されるものとする。
また回復が認められる国家は一定期間内(現実時間約1ヶ月)に開国の見込みがある国家に限るものとする。
本項は長期の鎖国を経た締結国が段階的に国際社会復帰に至る取り組みを支援するものであり、当該国の国際社会復帰に伴い本決議1-D項に定める回復規定II項に基づき自動的に加盟資格は完全回復される。
2.運用について
締結国間の国際協力の推進のため不文律の明文化も含む運用の改革が必要であるとの見解に基づき、以下の通り運用の指針を>定める。
A.決議の発効
決議の提案は全締結国に開かれており、決議はその提案に基づいた条約委員会での締結国間の交渉において必要であると認められた場合に行われる。
発議国は交渉において定められる。発議国は国際論議場(掲示板SSpactスレ)において条約委員会として新たな決議の表明を行う。
条約委員会より条約機構の決議が表明された後、発議国を含む加盟各国の調印により決議は発効する。
本項はこの決議が表明された時点より、加盟資格停止国の決議への参画に関係する1-C項及び本項自身を除き本決議に対しても有効であるものとする。
B.決議の失効
新たな決議の発効において過去の決議との矛盾する部分が生じた場合、自動的に過去の決議の矛盾箇所は失効するものとする。
C.情報公開(wiki)
これまでwikiの編集が特定国に任せられ事実上停止していたことを鑑み、wikiの編集について全締結国がその権限を持つことを改めて表明する。
締結国においては自国の該当部分に関し都度確認し編集を行うことを推奨する。
また諸役職を有する国家より派遣される人員について、人事上当該の人名を都度記載することが困難であることから、指名国のみの記載とする。
D.軍事連携
有事において、締結国は必要であると認めた場合に自国保有の砲弾を随時他の締結国に対し分け与え得るものとする。
平時における砲弾の融通については締結国間での交渉や貿易に委ねられるものとする。
3.その他
昨今の国際情勢及び条約機構の対外関係に関連した事案に関係し、以下のように決議が採択された。
A.国際交易協力機構(WTCO)との協議必要性について
WTCOにおいて行われた【SSPactとの協議必要性に関する決議】に関して、条約機構はWTCOとの協議必要性を確認し合意形成に向けた取り組みを促進する。
B.ミルズ皇国における内紛について
839年11月よりミルズ皇国において発生している内紛に関係し、条約機構は同国における内紛・政治状況に関する情報公開の乏しさに懸念を表すると共に、同国の勤労人民に対しその求めの次第において必要な支援を用意可能である旨表明する。
C.ガトーヴィチ帝国における民主帝国法の可決について
840年1月にガトーヴィチ帝国において政権主導により民主帝国法が可決されたことに関して、条約機構は同国における昨今の勤労階級の権威向上に祝意を表すると共に、同法が同国の勤労人民の権利向上に資するものとなることを強く祈念する。
この決議は840年9月に各国の調印が完了し発効された。
- 正加盟国
- ヘルトジブリール社会主義共和国
- トルキー社会主義共和国
- ギルガルド社会主義共和国
- 加盟資格停止
- 西岸州独立連合共和国(840年8月決議による)
- 過去の加盟国
- ヴェールヌイ社会主義共和国(839年9月滅亡)
#region(840年8月決議発効以前の旧規定)
加盟国の政治外交上の安定と地位向上を図る役職。加盟国及び条約機構の政治外交活動の円滑化を促進し、加盟国に関係する政治外交上の諸問題について、必要に応じて協議、諮問、勧告等を行う事を任務とする。
#endregion
加盟国の政治上の安定や地位向上を図り、また必要に応じ協議、諮問、勧告等を行う事を任務とする。(840年8月決議発効以後よりの規定)原則として指名派遣国の文民大使が務める。
840年8月決議により設置された役職。旧来の規定における政治代表より機構の外交窓口的な役割を引き継ぎ、加盟国及び条約機構の外交活動の円滑化を促進する事を任務とする。原則として指定派遣国の文民大使が務める。
1.政治代表派遣国をヴェールヌイ社会主義共和国とする。
¶2.修正以前の条約前文・第七条・第八条を除く合意された付帯決議を含む全ての事項については継承される。
¶#region(条約委員会決議事項の一覧)
641年10月決議
サンサルバシオン条約機構の発足について
代表設置と任命のルールについて
条約委員会の運用について
1.条約委員会は、第五条の規定に基づいて、サンサルバシオン条約に基づく組織として同条約機構を発足させる。
2.条約委員会は、条約機構の円滑かつ合理的な運用の為、条約機構に政治代表及び軍事代表を設置、任命して、必要な任務について委任する。
3.条約委員会は、条約機構の最高意思決定機関として、同盟のあらゆる側面に関する問題を協議する。発議は全ての締約国が必要に応じていつでも行う事が出来る。議事進行は原則として政治代表が行うか、政治代表が他加盟国を指名する。全ての決定は加盟国の多数決による。
4.政治代表及び軍事代表は条約委員会の信任決議により、それぞれに一ヵ国を使命する。政治代表は使命国の文民大使とする。軍事代表は使命国の参謀総長クラスとする。任期は原則無期限とし、条約委員会が新たに信任決議を行う場合にのみ交代する。
641年12月決議
代表国の任命について
条約機構の本部事務局の設置について
1.政治代表派遣国をヴェールヌイ社会主義国とする。
2.軍事代表派遣国をヘルトジブリール社会主義共和国とする。
3.条約機構本部をトルキー社会主義共和国アンカラを所在地として設置する。その維持管理に係る一切は全締約国が平等に負担する。
672年4月決議
条約を一部改訂することについて
西岸州独立連合共和国の条約批准について
1.条約前文・第七条・第八条について一部表現を修正する。
2.合意された付帯決議を含む全ての事項については継承される。
3.西岸州独立連合共和国が条約への加盟を希望していることについて、条約委員会は全会一致でこれを認めた。
#endregion
サンサルバシオン条約機構 | |
条約機構のシンボル(各国語で表記されているのは「公正と平和」) | |
略称 | SSpact |
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本部 | アンカラ(トルキー社会主義共和国) |
サンサルバシオン条約機構(SanSalvacion Pact Organization)は、ヴェールヌイ社会主義共和国首都サンサルバシオンで調印された社会主義相互援助条約(サンサルバシオン条約-641年10月発効)に基づき社会主義諸国が結成した相互扶助と安全保障についての同盟。略称はSSpact(エスエスパクト)。本部はトルキー社会主義共和国の首都アンカラに設置されている。
+ | 「サンサルバシオン条約」全文(672年4月一部改正現行版) |
+ | 条約委員会決議事項の一覧 |
SSpactに盟主国は存在せず、組織の最高意思決定は、それぞれの政府代表が参加する条約委員会において多数決によって決定される。条約委員会では政治・経済・安全保障など、あらゆる問題が協議される。
また、組織の円滑な運営のため、条約委員会から指名を受けた加盟国が分野に応じて代表を派遣することで、各種の連帯について強化、育成を図ると同時に、組織の外交窓口を担当することになっている。現在は、政治分野について担当する「政治代表」と安全保障分野について担当する「軍事代表」、外交分野について担当する「外務代表」が設定されている。
条約第五条の規定により設置される最高意思決定機関。同盟のあらゆる側面に関する問題を協議する事を目的としており、条約機構そのものが条約委員会の補助機関設立条項に基づいて設置されたものである。発議は全ての加盟国が必要に応じていつでも行う事が出来る。議事進行は原則として政治代表が行うか、政治代表が他加盟国を指名する。全ての決定は加盟国の多数決による。基本的には本部事務局に常駐している加盟国の外相全権大使により開催されるが、場合により外相や行政の長(首相や同様の権限を有する国家元首クラス)による首脳会議として開催されることもある。
+ | 840年8月決議発効以前の旧規定 |
加盟国の政治上の安定や地位向上を図り、また必要に応じ協議、諮問、勧告等を行う事を任務とする。(840年8月決議発効以後よりの規定)原則として指名派遣国の文民大使が務める。
加盟国の安全保障体制構築の促進及び連携について統括する役職。平時においては加盟国が協力して適切な防衛体制を整備できるよう調整し、有事においては加盟国軍隊の統合運用を図り、必要に応じて指揮する。原則として指名派遣国の参謀総長クラスが務める。
840年8月決議により設置された役職。旧来の規定における政治代表より機構の外交窓口的な役割を引き継ぎ、加盟国及び条約機構の外交活動の円滑化を促進する事を任務とする。原則として指定派遣国の文民大使が務める。
スラヴ主義に中てられていた頃の面影はどこへやら、中道右派からさらに左へ傾斜を深めている。まあ民族主義者にならないなら好きにしておれば結構とは思うが。
829年5月に開会されたFENA総会において、レゴリス帝国はセニオリス共和国の正規加盟国昇格に待ったをかけた。そして信じがたいことに、かつてセニオリス領海にレーザーを試射した普蘭がセニオリスを擁護しレゴリスに反論したことにより繰り広げられた論戦、セニオリスの外交的失策などから、レゴリスとセニオリスは831年9月28日に何の予告もなく(なお、共和国外交局は820年代にレゴリス側から対セニオリス政策について意見を求められたことがあるが、その際には慎重を期すよう返答していた)突如レゴリスがセニオリスを併合する条約に調印した。これにより突如として外交的に信頼のおけない地域に対して路烈安保の条文上防衛義務を負う(セビーリャではリアライン条約に基づけば防衛は努力義務に過ぎない)ことにより、議会は恐慌状態となった(併合危機)。さらに833年ごろにはセビーリャ地域の情勢が一時悪化(セビーリャインフラ危機)、統治委員会が非常事態宣言を発する事態となった。この事件により、レゴリスと密接に連携して安全を確保し、同時にセビーリャ地域の安定化を進めるというロムレーの長らくの外交政策は大きく動揺した。この時期の混乱をよく示しているのが併合条約に関してレゴリスに対して加普と共同で送った質問状であり、これは「それが安全保障上受忍しがたいリスクを含む場合、共和国はレゴリスの意志に忠実であるとは限らず、むしろレゴリスの意志を変更させようと試みることがありうる」ことを示し、さらにはサンディカリストやアナーキストが勢力を拡大するなど政変の兆しを見せた。結局、レゴリス帝国が併合を撤回したことにより危機は回避され、セニオリスの政変に対し共同で介入する部隊を派遣する展開となったが、ここではロムレー軍は「自国や同盟国の人命がかかっていない初の戦争」であることと併合危機以降の政治的混乱により大いに士気が乱れ、これまでの戦争と比しても挙げられた戦果は限定的なものであった。併合危機・セビーリャインフラ危機で混乱していた共和国はこの失態によりさらに動揺したが、結局責任追及はサンディカリストとアナーキストをさらに台頭させる結果につながることが恐れられ、諸々が不徹底なまま830年代後半には元の平穏な情勢に戻ったとされる。
伝統的にレゴリス帝国との安保体制による安全保障を主軸とした外交を展開しており、現在までそれは維持されている。しかしながら、これは「レゴリス自身がリスク要因とはならない、少なくともレゴリスがリスクをとるのは別のリスクに対処するため」という理解に基づくものであり、セニオリス併合危機以来それが疑問視されるようになってしまった現在、共和国の外交政策に関するコンセンサスは失われつつある。
ヴェニス島が急速に観光開発を進める中で、628年以来世界最大の観光大国の地位を維持しつつも長らくその規模は横ばいにあったロムレーでもこの観光需要の拡大に乗らない手はないという考えが一部の観光業者の中で広まっていた。観光局はこれに対して消極的ではあったが、ヴェニス社への投資を通じていち早くこの動向をつかんでいたクレディ・ロムレー社がロムレー国内の観光開発への投資を進めたことで、この年代には一世紀半ぶりのロムレー国内での観光業拡大が進んだ。しかし、この観光業の拡大は過当競争を招き、ロムレーにおいてもヴェニス島においても観光業の利益率を大幅に低下させた。そのため、800年代後半には監査委員会のイジドール・コルネイユを中心に経営の整理が進められ、809年までにロムレーの観光業規模は780年代前半の水準に戻った。
伝統的に民族主義を理解しないロムレー人はこの時期にはガトーヴィチ帝国のスラヴ主義などを白眼視していたが、809年に設立されたエルドラード条約機構(ロムレーでは通例ETOと略する)は、保護主義を掲げるセニオリス共和国とスラヴ主義を掲げるガトーヴィチ・ヴォルネスクによる勢力であり、当然のことながら路烈同盟にとっては協調の余地がない存在であった。セニオリス共和国が812年にヴェニス島に侵攻すると、同地に滞在するレゴリス市民にも犠牲が出ることになったが、これに対してセニオリス共和国はレゴリス帝国への謝罪を拒否、レゴリス帝国とその友好国はセニオリス共和国に宣戦し、ETOもセニオリス防衛のため参戦したため数百年ぶりのフリューゲルにおける大規模戦争である813年戦争が開戦した。この戦争ではカルセドニー(反社会主義を掲げるセニオリスに敵視されていた)の支援などもありこの規模の大戦としては珍しく半年ほどで停戦、ETOの解散とETO諸国の軍備制限を約したディースブルク講和条約が結ばれた。
813年戦争に勝利した後、共和国はこれまでもそうだったように平穏を享受し、旧ETO諸国もガトーヴィチはWTCOに、セニオリスはFENAに加盟し国際社会に復帰した。しかし、この時期に起こった普蘭・中夏によるセニオリス領海での衛星レーザー試射実験、セビーリャにおける評議会派主導の内政の停滞は、後の三重苦の遠因となっていくことになる。
829年5月に開会されたFENA総会において、レゴリス帝国はセニオリス共和国の正規加盟国昇格に待ったをかけた。そして信じがたいことに、かつてセニオリス領海にレーザーを試射した普蘭がセニオリスを擁護しレゴリスに反論したことにより繰り広げられた論戦、セニオリスの外交的失策などから、レゴリスとセニオリスは831年9月28日に何の予告もなく(なお、共和国外交局は820年代にレゴリス側から対セニオリス政策について意見を求められたことがあるが、その際には慎重を期すよう返答していた)突如レゴリスがセニオリスを併合する条約に調印した。これにより突如として外交的に信頼のおけない地域に対して路烈安保の条文上防衛義務を負う(セビーリャではリアライン条約に基づけば防衛は努力義務に過ぎない)ことにより、議会は恐慌状態となった(併合危機)。さらに833年ごろにはセビーリャ地域の情勢が一時悪化(セビーリャインフラ危機)、統治委員会が非常事態宣言を発する事態となった。この事件により、レゴリスと密接に連携して安全を確保し、同時にセビーリャ地域の安定化を進めるというロムレーの長らくの外交政策は大きく動揺した。この時期の混乱をよく示しているのが併合条約に関してレゴリスに対して加普と共同で送った質問状であり、これは「それが安全保障上受忍しがたいリスクを含む場合、共和国はレゴリスの意志に忠実であるとは限らず、むしろレゴリスの意志を変更させようと試みることがありうる」ことを示し、さらにはサンディカリストやアナーキストが勢力を拡大するなど政変の兆しを見せた。結局、レゴリス帝国が併合を撤回したことにより危機は回避され、セニオリスの政変に対し共同で介入する部隊を派遣する展開となったが、ここではロムレー軍は「自国や同盟国の人命がかかっていない初の戦争」であることと併合危機以降の政治的混乱により大いに士気が乱れ、これまでの戦争と比しても挙げられた戦果は限定的なものであった。併合危機・セビーリャインフラ危機で混乱していた共和国はこの失態によりさらに動揺したが、結局責任追及はサンディカリストとアナーキストをさらに台頭させる結果につながることが恐れられ、諸々が不徹底なまま830年代後半には元の平穏な情勢に戻ったとされる。
共和国において存在する党派としては最も古い派閥であり、830年代に至るまでの間はほぼ恒常的な最大派閥(ただし建国期を除いて単独過半数の規模であったことは一度もない)で、現在は第二派閥。個々人によってカルヴァン主義と共和主義のどちらに重きを置くかは差があり、人によってはこの二つを分けるが、分けようとすると曖昧さを残す結果になるので大体の場合仕方なく一緒くたに扱われる。実際、中央議会において最も極端な共和主義者でもカルヴァン主義の精神を賞賛するし、最も極端なカルヴィニストでも共和主義を支持している。
830年代まではカルヴァン主義共和派と双璧を成し、それにほぼ拮抗する勢力を持ってきたが、三重苦の危機以降はロムレーの最大党派。力点をどこに置くかは人によって異なるものの、政治的には表現・信仰・精神の自由の擁護、経済的には穏健主義の範囲内での自由放任と自由貿易を掲げる、一般的な古典的自由主義者。特に宗教的寛容・信仰の自由の精神を背景としていることが多いため、単に自由主義者というよりもリベルタンと表現され、ロムレー人のカトリックや非カルヴァン派プロテスタントは概ねここに位置する。支持層は都市商人、学生、知識人、公務員(特に中央政府)、宗教的少数派。支持層が都市の知識層中心のため、教育を重視する傾向があり、とりわけ高等教育を(社会自由派以上に)かなり重視する。
主要党派のなかでは比較的外交にイデオロギー的な視点を持ち込むことに肯定的な党派である。といっても、議会制民主主義が肯定され、実際に複数政党制が運用されていれば、彼らはそれ以上は求めてはこない。基本的にはディフェンシブ・リアリストで、他国に対する積極的介入を好まない傾向にある。
三重苦の危機の際にサンディカリストと並んで一時的に存在感を示したが、その後は沈静化した。しかしその際に当選した何人かの議員はそれ以降も議席を守っている。
組合の類の本部(あるいは事務的な中心地)が置かれることの多いポワンクールに支持者は集中していたが、三重苦の危機の際に躍進し、現在ではサンディカリスト議員は各地に存在する。
経済面では特定の国に偏ることなく観光客を誘致する観光立国を振興しており、国際貿易体制からは自由であり、自国が経済共同体や資源産出国機構に加盟し拘束されることを避ける一方で、国際分業体制については擁護する立場で、保護主義を警戒する。
イデオロギー的な拘束に関しても比較的弱く、民主社会主義から伝統保守主義までどのようなイデオロギーも問題としないが、民族主義に関しては理解不可能なものとされ、明確に敵対的態度をとる。
伝統的にレゴリス帝国との安保体制による安全保障を主軸とした外交を展開しており、現在までそれは維持されている。しかしながら、これは「レゴリス自身がリスク要因とはならない、少なくともレゴリスがリスクをとるのは別のリスクに対処するため」という理解に基づくものであり、セニオリス併合危機以来それが疑問視されるようになってしまった現在、共和国の外交政策に関するコンセンサスは失われつつある。
火を拝するものが、灰のなかからよみがえった。さて、この不死鳥はかつての繁栄の高みに飛び立てるだろうか?
世界第三位になってしまった大国。早い段階から留学が可能になったこともあってロムレー人の最も主要な留学先であり、政治的・軍事的に大きな影響を受けてきたが、近年ではむしろレゴリス人のロムレー留学者も相当数存在する。
相互安全保障条約を締結し、現在まで軍事同盟関係を維持している。併合危機は同盟関係を大きく動揺させたが、現在でも対レゴリス協調は安定をもたらすと考えられている。
コーデクス主義者の手による、壮大な社会実験場。どうだろう、そろそろ実験を次の段階へ…そう、「独立国」をつくるという試みを始めてみてもよいのではないかね?
三重苦の危機後、議論をひとまず落ち着かせた後、もはや自らの目標とする「効率的な経済」ではなく別の問題が争点になったことを見て834年に引退。
中央議会第十三代議長。
セビーリャ系一世で熱烈なコーデクス主義者である論理学者とロムレー人で計算機工学者を両親に持つセビーリャ系二世。三重苦の危機で主要党派が混乱する中、独自の主張で注目を集め議長に就いた。
生まれ育った環境からコーデクス主義に慣れ親しんでおり、そのままロムレー大学で経済物理学を学び修士号を取得。これを通じてレッセ・フェール的な思想傾向も持つようになり、その後クレディ・ロムレー社投資銀行部門に勤務し普藍やヴェニス島といった新興資本主義経済の急成長を間近で捉えたことによりその傾向を強める。
本人は自由思想派であると自認しているが、同じ自由思想派でありながらもコルネイユ前議長とは犬猿の仲である。文化的自由主義である自由思想派のメインストリームと異なり、自由放任経済を主唱するという点で異端児であり、一方でコーデクス主義者としても中央コンピューターへの集約化より分散的なネットワークを重視する変わり者でもある。
国名 | République de Lacustre Lomeray |
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(英訳) | Lakeside Republic of Lomeray |
標語 | Liberté et Patrie(自由と祖国) |
国歌 | Ô monts indépendants(おお自由なる山々よ) |
公用語 | ロムレー・フランス語 |
宗教 | カルヴァン派(国教)、キリスト教他教派、無宗教、その他 |
政体 | 議会主義・代議制共和国 |
通貨 | ロムレー・フラン |
建国 | フリューゲル暦 611年 5月 15日 |
本土は台地状の島であり、国土に占める高地の割合が高い。ただし干拓地や離島など、ある程度は低地も存在する。
いずれの地域においても自然環境は厳しい環境基準の下でよく保護されると同時に、自然享受権が法的に広く認められている。
中央高地に存在する三つの主要な平地に広がる都市。
それぞれが中核となる都市地域を有する。ロムレー市とサン=トゥルミエール市はほとんど連接しているが、行政区画上は別コミューンであり、それぞれが独自のCBDを持っているため、一般的には別の都市として扱われる。
住民意識としてはこれらは三大都市と呼ばれ、湖畔共和国の中核をなしていると考えられている。
実際、観光地として以外の要素で海外に入ってくるロムレーの情報は基本的に三大都市から発信されるものがほとんどである。
中心地は(9,11)近郊。共和国最初の都市にして法令上の首都。中央議会とそれに関連する政府機関の施設が存在する。建国の契約が交わされた丘もそのまま記念碑として残っている。
建国最初期のごく数ヶ月間の間、共和国はロムレー・コミューヌと一体の事実上の都市国家であり、その名残で都市名は国名と同じである。外国から見ると紛らわしいことこの上ないが、ロムレー人は自国のことを「(湖畔)共和国République(de Lacustre)」と呼ぶのが普通なので、国民の間ではあまり気にされていない。一応、特に区別が必要な場合にはロムレー市Ville de Lomerayと呼ぶ。
政治的には特定の党派の優位は見られないが、議会主義が非常に尊重される土地柄、ラディカリズムに対しては比較的冷淡とされる。
中心地は(9,14)近郊。同名の大聖堂の所在地であり、ロムレーにおける宗教上の中心地。移民船が着陸した地点であり、その船体の一部がそのまま大聖堂の建物に使われている。
観光地・保養地としての発展が共和国内でも最も早かった地域であり、現在でもこの都市の郊外に共和国最大のリゾート地が広がっている。第一回ソサエティはこの都市で開催された。
アンゼロット記念大学とサン=トゥルミエール大聖堂という二つの文化施設ゆえに知識人の町、大学都市として知られる。カルヴァン主義共和派と自由思想派双方の特に穏健派の基盤であり、ロムレー体制イデオロギーの安定をもたらしている。
中心地は(13,9)近郊。共和国の最大都市(ゲーム的には首都)。中央高地の中では最大の盆地に位置し、また建築上の規制が他のコミューヌに比べ緩やかなことから国内では珍しく高層ビルが林立する景観がみられるが、それでも他国の大都市ほどの密度はない。
631年11月に巨大隕石の直撃により壊滅的な被害を受けたが、現在は復興、その後の都市計画の巧みさもあり、インフラのよく整備された都市として商業上・行政上の中心地の地位を守り続けている。郊外には墓地を中心とする巨大隕石災害のメモリアルパークが所在する。
一方で、コーデクス主義とサンディカリスムというロムレーの二大急進主義党派はいずれも中央議会での議席の多くがポワンクール選出議員であり、本部をロムレー市ではなくポワンクールに置くなど、この街に大きく依存している。それゆえ、ロムレー・ラディカリズムの町という別名もある。
三大都市以外の中央高地には防災化された集落と森、そして山小屋や高原リゾートが広がる。これらの地域は行政用語では内奥ロムレー、住民の自称ではロムレー・ハイランドと呼ばれている。
ロムレーでも特に保守的な地域であり、自然と調和した牧歌的な牧畜と林業が営まれる山地、というロムレー像はこの地域では現実のものである。政治的には圧倒的多数のカルヴァン主義共和派と若干の重農=環境派の堅固な地盤であるほか、反動的な無政府主義の傾向も見られる。
島の周辺部は海岸線としてはあまりなだらかではなかったが、近海の地形は特に北西岸と南東岸において遠浅であり、干拓に適していた。このため、建国期後半になると干拓事業が開始され、ロムレー最大の農業地帯へと姿を変えた。
内奥ロムレーの保守的傾向を嫌う農民が中核となって開拓したため、自由主義の傾向が強い。穏健派では自由思想派と社会自由派、急進派では無政府主義者などの地盤。
周辺に点在する島々。国立公園指定のなされた自然保護地や対着上陸侵攻用の防衛陣地が多くを占めるが、本島と同様に多数の観光地が存在する。観光バブル期には多くの観光開発事業が行われたが、バブルが去った後は多くの地区は元の自然の姿を復元しようという方向へ進んでいる。そもそも平地が少なく住宅地としては不便なうえ、環境規制が本島よりも厳しくして住宅開発を進めない政策がとられており、住民は少ない。
特に北西部に存在する油田の扱いは環境保護の観点から度々政治的争点となってきたが、現在はセビーリャ産石油で事足りるため産油事業を停止している。また、南西部には海軍向けの軍港がいくつか存在する。
611年5月、現在のサン=トゥルミエールに降り立ったロムレー移民団は、ロムレーの地にはひとまず牧牛に食ませる草と暖を取るための炭が充分あることを確認し、入植を開始した。一般にロムレーの建国は5月15日14時にロムレーの丘で交わされた建国の誓約によってなされたとされ、この日が建国記念日となっている。そして同時期にフリューゲル国際社会との接触も図られ、また、独自に行われた資源調査でウラン鉱を発見、613年から始められた資源輸出により、国家として安定して経営できる状態を確立した。ウラン鉱の開発において他国の投資を受けずに行われたのには、以後のロムレーにおける他国への経済的依存を回避しようとする傾向の原型を見出すことができる。
この時期においては共和国はカルヴァン主義共和政を理念とし、また政府の機能は抑制され、ある程度各種産物の商業的な輸出をし、形式的にはレンティア国家的でありつつも基本的には独立自営農民を中心とする社会が築かれていたといえる。この時代のロムレーの、当時の表現では「ピューリタン的理想郷」と呼ばれる社会は現在のロムレーでも「古き良き国制」として理想化され根強い支持を集めている。
しかし610年代も後期に差し掛かると国際社会への理解が進展、フリューゲルで広がっていた学問を国内に浸透させるには移民船時代の徒弟制的な技術伝承・教育の形態では不十分との考えが広まって618年ごろから公教育制度の整備や海外への留学生の送り出しが始められるほか、619年ごろから大々的な保養地の整備が行われて長期滞在観光客の呼び込みが始まるなど、610年代末の時点で既に後のロムレー社会の原型は形成されつつあった。
その国際社会への理解の進展をもたらしたものとして最も大きいのは、時期は若干遅いが619年に行われたウィリーツェン会談であろう。この会談でのウェールリズセ代表の弁が国内で伝えられると、共和国民はその内容に大いに興味を持ち、国際政治への関心が高まった。これは公教育制度拡充の直接的原因ではないがそれに拍車をかけたのは間違いない。
風光明媚な景観に助けられつつ留学組の持ち帰った技術を用いて振興された観光業は620年代には年率二桁の高成長を続け、628年ごろにロムレーの滞在者数はそれまで滞在者数世界一であったエルツ帝国を抜いて世界一に到達した。基本的にロムレーはこの年代に観光大国の地位を確立したといえる。一方で観光業に土地と労働力を奪われて農業生産については後退し、この時代には食料自給能力が失われることになった。
また、資源輸出と観光業を両輪とする経済が確立されたことで経済的にも好況が訪れ、627年に設置された福祉医療局を中心に留学組のなかでも社会自由主義者を中心とした勢力がヴェールヌイをモデルとした福祉国家化を図る運動を始め、この時代に幸福度も国際指標上で大幅に向上した。
この時代の後半は安全保障・宇宙開発においても進展があった。627年末に気象衛星の打ち上げに成功したほか、629年にレゴリス帝国との相互安保条約を締結している。もっともそれが本格化するのは630年代になってからのことになる。
この時期にも引き続き観光業は成長を続けているが、ロムレー人にはこの時代はなによりもポワンクールへの巨大隕石落下、そして対レゴリス相互安保を受けての防衛力拡充の時代として記憶されている。
631年11月に起きた最大都市ポワンクールへの巨大隕石の落下はロムレー史上最大の大災害であり、これにより共和国のほとんどの官僚機構が機能停止する危機的状況に陥った。このときに効力を発揮したのが3年前に締結したばかりのレゴリスとの相互安保であり、そこではレゴリスからの救助隊が活躍した。
この巨大隕石の衝撃はロムレーに軍隊の機能を認識させる結果となり、それまで「軍服を着た観光案内所係員」と評される状態だったロムレー軍はレゴリスからの軍事顧問であるルーミヤ・グドリャンの下で改革されて主に山岳戦を中心とした実戦能力を身につけ、また635年10月には安全保障局が迎撃衛星の打ち上げにも成功している。
なお、634年のクイーンズによる対全国家宣戦を受けた際、直接的な影響はなかったものの、これを受けて行われた海防力向上のための調査の結果を活用して、沿岸部の干拓が行われ、干拓地での酪農などによって食料自給能力を回復した。これも中央政府が大きな役割を振るうというこの時代の特徴的な出来事でもあるかもしれない。
この年代の起こった外交上のできごととしては、カルセドニー島共和国が提唱する資源輸出国機構創設を目指す9ヶ国会議への出席もあったが、この交渉参加にあたっては議会を始めとする諸勢力の激しい抵抗にあって代表団派遣が遅れるなど、当時のロムレー人の経済的な国際機構への抵抗感があらわになった。なお資源輸出国機構構想自体は会議中断後音沙汰はなく、事実上頓挫している。尤も、仮にこれが成立していた場合、中央議会での批准に失敗するか、あるいは政変に至っていた可能性が高い状況であり、共和国にとってはこの構想の挫折は好ましかったと語られることがほとんどである。
この時期にはもはや観光業の成長はひと段落し、滞在者は2000万人弱、観光収入は200兆Va/年強でその成長は極めて緩やかであった。
641年に創設されたソサエティには共和国は原参加国として参加し、645年にサン=トゥルミエールで行われた第一回ソサエティにおいて議長国の役目を果たしたほか、ソサエティによるトロピコ査察団に人員を送り出した。
この年代のロムレーはあらゆる意味で安定し、繁栄を享受した。第一回ソサエティの成功はその結実であった。
しかし、この時期にトロピコ問題やヴァノミス問題は水面下で進行しつつあった。第一回ソサエティの共同声明の第一項がトロピコ問題を扱うものであったことは示唆的である。
650年に入り、トロピコやヴァノミスを巡って国際関係は急速に緊迫したが、共和国はこれまでの外交姿勢を継続し、同盟国のレゴリス帝国を支持してENEC諸国と協調する立場をとり、結果としてヴァノミス危機とトロピコ戦役に身を投じることとなった。
ヴァノミス危機は大戦の危惧を抱かせたものの、ぎりぎりで回避された。しかし、これによって建国以来最大の資源輸出先であったアルドラド帝国との関係は断絶され、トロピコ戦役直前にアルドラドによって行われたトロピコへの砲弾納入のためにそれはもはや修復不能なものとなった。
トロピコ戦役はその有志連合の軍事力に反して3年以上にも及ぶ長い戦いとなった。その中でロムレーの民間人や観光客が被害を受けることはなかったものの、トロピコ軍によってロムレー軍は大きな損害を被ったし、戦費や経済的な負担も膨大なものとなった。典型的なピュロスの勝利といえる。
多くの戦争に言えることだが、例に漏れずこの戦争を通じてロムレーは変質を被ることとなった。それは建国以来の共和政のシステムも議会主義の理念にも手をつけず、変質したのは政府と軍のみであったが、ともあれここにおいて共和国は620年前後に匹敵する変質を遂げた。
ロムレー軍は大規模に動員され、建国以来主要産業として大きな影響力を持った鉱業は、いまや戦時体制の下で動かされる存在となった。
なお、この戦争の戦訓は多く、それを活用して654年3月には防衛衛星の打ち上げに成功している。また、656年からレゴリス資本の兵器整備拠点がロムレー軍基地周辺に建設され、軍備の国内完結性が高められることになる。
戦後の一時期には政府や軍の無策な戦争遂行への非難が盛り上がり、激しい議論が交わされたこともあったが、最終的にはうやむやのうちに終わり、650年代の後半はロムレーは再び平穏な日々を過ごすこととなった。
657年にはENECにオブザーバー加盟し、トロピコ戦役以来の国際的立ち位置はここで完全に確定されたといえる。
661年に共和国は建国50周年を迎え、各地で式典が開催された。戦後の内向き意識の中で積極的な外国代表の招待は行わなかったものの、中央議会の記念式典ではレゴリス帝国総統が演説を行っており、レゴリスとの同盟関係が再確認された。この年代にはレゴリスの国際的地位は低下傾向にあったが、ロムレーは良好な対レゴリス感情からあくまでレゴリスを支援しつづけている。
なお、666年の連合国によるセビーリャ作戦において共和国軍はウェールリズセ側に立ち支援兵力を派遣しているが、この作戦の間、本土は一貫して平時体制を維持したままであった。平時体制の状態で派兵ができるようになったことは、650年代の共和国の変質の結果であり、セビーリャ派兵を通じてそれが新しい共和国の体制として定着した。セビーリャ作戦完了後は占領委員会の一員として占領政策にも一定程度関与しているが、共和国はセビーリャに対しなんらの利害関係もなく、またセビーリャになんらの利益も期待しなかったため、共和国はそこでは専らセビーリャの安定化だけを追求する姿勢にある。
673年の石動・アルビオンによるサン・ピエルへの九ヶ条要求に端を発する一連の外交問題において、ソサエティはこれに反対する姿勢を見せた。ここでは共和国はソサエティ諸国との協調を優先したが、国民的にはそれほど大きな関心を集めず、むしろロムレー史における「古き良き国制」の再検討のような国内的で学術的な議論に終始した傾向がある。
一方で軍事的なENEC諸国との連携は引き続き深化させられ、678年にPDECに加盟した。
この時期には国際社会も比較的平静であったが、国内はそれに輪をかけて静かであった。なお、この時期は国際社会が安定していた時期ではあるが、ヴァノミスにおいては一時内戦状態に突入している。しかし、これについては前述の通り当時の共和国では不干渉主義が強まっており、ロムレー軍はこれに出兵はせず、内戦終了後に復興支援を行うに留まった。一方で、この時期のコーデクスの統治機構改革の試みは合理的紀律を重視する勢力を中心に大きな影響を与えていた。しかし、実際の導入は末端における小規模で持続的な改良にとどまり、ロムレーの国制を刷新するに至らないまま、コーデクス解散の時を迎えることとなった。
720年代の前半、ほぼ平行して起こった二つの事件がロムレーの政治情勢を大きく変動させた。一つはコーデクス共和国の解散であり、もう一つはヴォルネスク戦争である。
コーデクス共和国の解散は膨大な研究資料の提供によりロムレーの学界のあらゆる学問領域に革新をもたらした。一方でコーデクスという一つの理想を失った合理的規律派、とりわけコーデクス主義者はその研究資料の分析に注力するようになって非政治化した。
ヴォルネスク戦争はロムレー国民にとっては不正義で不人気な戦争であった。スラヴ主義はロムレー国内において公然たる軽侮の対象となり、カトリックを中心とした一部勢力はノイエクルスに物資支援すらした。また、別府がもはや理想郷と思えなくなったことで社会自由派は何を理想とするかで分裂、その一部は急進化してサンディカリストや評議会制共産主義者になるか、社会主義自体を放棄して自由思想派に移るかし、もともと脆弱であったロムレーの社会主義は大きく退潮した。
この二つの事件を通じてこれまでの共和国の政治風土の後景であったENECへの期待感というものは瞬く間に霧消した。レゴリスのPDEC脱退の黙認、ENECの機能不全への不関与はこの帰結である。
この時期に起こった変動はある意味ではカルヴァン主義共和派と自由思想派による二大政党制化ととれなくもないが、当時の議長のトリベール=スィズィニョレの下では両派は大きな対立をなさなかったため、マジック・フォーミュラー的な体制自体の抜本的な変更はなされなかった。
既に事実上政府が機能していなかったテークサットが国際法上も主権国家としての地位を失ったことにより、ENEC・PDECともに存在感をほぼ完全に消失した。既に二重の衝撃の中でそれを受け入れる方向に向かっていたロムレーはそのままPDECの清算を確認した。
CDXによる計画通り、764年に共同管理区域セビーリャは長期凍結期間を終了した。凍結期間の間からセビーリャ政策を主導していたコーデクス主義系のテクノクラートたちは、それまでのコーデクス的教育の成果を引き継いでそのままセビーリャをコーデクス主義のユートピアにしようと目論み、セビーリャ人の中からコーデクス共和国公務員試験の問題を通じて優秀者を選抜し、彼らを官僚としてセビーリャ自治政府を発足させた。自治政府の統治は予想以上に安定し、1年後には一時的にではあるがセビーリャの幸福度は世界一に達するに至った。768年に起こったユリウス事変ではセビーリャ防衛のためロムレーはレゴリスと共にセビーリャ防衛のためユリウスに宣戦し、セビーリャ近海でのユリウス上陸部隊の撃破や連合軍によるユリウス本土での殲滅戦などでロムレー空軍が作戦行動に当たった。この際の警察予備隊増員の許可を皮切りに、その後もセビーリャ地域の自治は段階的に拡大が続き、784年の自治20周年では司法府の独立や出入域管理の緩和により相当程度の自治権を与えるに至った。
ヴェニス島が急速に観光開発を進める中で、628年以来世界最大の観光大国の地位を維持しつつも長らくその規模は横ばいにあったロムレーでもこの観光需要の拡大に乗らない手はないという考えが一部の観光業者の中で広まっていた。観光局はこれに対して消極的ではあったが、ヴェニス社への投資を通じていち早くこの動向をつかんでいたクレディ・ロムレー社がロムレー国内の観光開発への投資を進めたことで、この年代には一世紀半ぶりのロムレー国内での観光業拡大が進んだ。しかし、この観光業の拡大は過当競争を招き、ロムレーにおいてもヴェニス島においても観光業の利益率を大幅に低下させた。そのため、800年代後半には監査委員会のイジドール・コルネイユを中心に経営の整理が進められ、809年までにロムレーの観光業規模は780年代前半の水準に戻った。
伝統的に民族主義を理解しないロムレー人はこの時期にはガトーヴィチ帝国のスラヴ主義などを白眼視していたが、809年に設立されたエルドラード条約機構(ロムレーでは通例ETOと略する)は、保護主義を掲げるセニオリス共和国とスラヴ主義を掲げるガトーヴィチ・ヴォルネスクによる勢力であり、当然のことながら路烈同盟にとっては協調の余地がない存在であった。セニオリス共和国が812年にヴェニス島に侵攻すると、同地に滞在するレゴリス市民にも犠牲が出ることになったが、これに対してセニオリス共和国はレゴリス帝国への謝罪を拒否、レゴリス帝国とその友好国はセニオリス共和国に宣戦し、ETOもセニオリス防衛のため参戦したため数百年ぶりのフリューゲルにおける大規模戦争である813年戦争が開戦した。この戦争ではカルセドニー(反社会主義を掲げるセニオリスに敵視されていた)の支援などもありこの規模の大戦としては珍しく半年ほどで停戦、ETOの解散とETO諸国の軍備制限を約したディースブルク講和条約が結ばれた。
813年戦争に勝利した後、共和国はこれまでもそうだったように平穏を享受し、旧ETO諸国もガトーヴィチはWTCOに、セニオリスはFENAに加盟し国際社会に復帰した。しかし、この時期に起こった普蘭・中夏によるセニオリス領海での衛星レーザー試射実験、セビーリャにおける評議会派主導の内政の停滞は、後の三重苦の遠因となっていくことになる。
829年5月に開会されたFENA総会において、レゴリス帝国はセニオリス共和国の正規加盟国昇格に待ったをかけた。そして信じがたいことに、かつてセニオリス領海にレーザーを試射した普蘭がセニオリスを擁護しレゴリスに反論したことにより繰り広げられた論戦、セニオリスの外交的失策などから、レゴリスとセニオリスは831年9月28日に何の予告もなく(なお、共和国外交局は820年代にレゴリス側から対セニオリス政策について意見を求められたことがあるが、その際には慎重を期すよう返答していた)突如レゴリスがセニオリスを併合する条約に調印した。これにより突如として外交的に信頼のおけない地域に対して路烈安保の条文上防衛義務を負う(セビーリャではリアライン条約に基づけば防衛は努力義務に過ぎない)ことにより、議会は恐慌状態となった(併合危機)。さらに833年ごろにはセビーリャ地域の情勢が一時悪化(セビーリャインフラ危機)、統治委員会が非常事態宣言を発する事態となった。この事件により、レゴリスと密接に連携して安全を確保し、同時にセビーリャ地域の安定化を進めるというロムレーの長らくの外交政策は大きく動揺した。この時期の混乱をよく示しているのが併合条約に関してレゴリスに対して加普と共同で送った質問状であり、これは「それが安全保障上受忍しがたいリスクを含む場合、共和国はレゴリスの意志に忠実であるとは限らず、むしろレゴリスの意志を変更させようと試みることがありうる」ことを示し、さらにはサンディカリストやアナーキストが勢力を拡大するなど政変の兆しを見せた。結局、レゴリス帝国が併合を撤回したことにより危機は回避され、セニオリスの政変に対し共同で介入する部隊を派遣する展開となったが、ここではロムレー軍は「自国や同盟国の人命がかかっていない初の戦争」であることと併合危機以降の政治的混乱により大いに士気が乱れ、これまでの戦争と比しても挙げられた戦果は限定的なものであった。併合危機・セビーリャインフラ危機で混乱していた共和国はこの失態によりさらに動揺したが、結局責任追及はサンディカリストとアナーキストをさらに台頭させる結果につながることが恐れられ、諸々が不徹底なまま830年代後半には元の平穏な情勢に戻ったとされる。
中央議会に政府機関としては最も大きく権限が与えられている議会主義体制国家。他のフリューゲル諸国(主にレゴリス帝国)への留学者が学んできた各国の国制からも一定の影響を受け、民主主義の体裁を保っている。
建国以来政変や暴動の経験はなく、632年初頭の世界同時社会不安や650年代前半のトロピコ戦役出兵の最中においても安定を保った。ここ百数十年はフリューゲル最高水準の支持率と満足度を維持しており、治安・支持率・財政などの指標も建国以来恒常的に健全な状況を保ち続けている。
共和国中央政府の議会。移民船内で地球出発直後から行われてきた船全体の方針決定会議を継承するとされる。
共和国は議会主義を掲げているが、その議会主義はロムレー人に伝わるところのスイスの議会制度を基にした特殊なもので、移民船時代から建国期にかけての党派対立の存在しなかった時期の無政党政治が建前の上では維持されていることになっている。
とはいえ事実上はカルヴァン主義共和派、合理的規律派、重農=環境派、自由思想派、社会自由派という五つの主要な党派が存在しており、歴史資料から再建されたマジック・フォーミュラー的な方法で閣僚が選出される。閣外の党派として復古的無政府主義者や評議会共産主義者などが存在するが、これらの議席はごく少数である。
なお中央議会議員選挙においては各コミューヌによる州主権的な理論が採用されており、各コミューヌごとに議席の定数が割り当てられ、コミューヌ毎にそれぞれの定めた選出方式により議員を選出し中央議会に送る形式をとっている。そのため選挙方式は一様ではないが、ほとんどのコミューヌでは単記移譲式を初めとして何らかの選好投票が用いられている。
共和国には中央政府の行政組織としては外交局・通商局・安全保障局・大気海洋局・教育局・観光局・社会基盤局・福祉医療局・公安局・監査委員会の9局と1委員会が存在する。
共和国の官僚組織は形式としては中央議会の各部会ごとに付属する事務局に過ぎず、そのために最上位の官庁が省ではなく局を名乗っている。
なお、共和国の雇用における公的セクターの比率はかなり高いが、ほとんどは各コミューヌに属する公務員であり、中央政府の官吏はごく少数にすぎない。
地方分権 | -◆----- | 中央集権 | 結局のところ、コミューヌごとに任せるのが一番効率が良い |
貴族中心 | ----◆-- | 富豪中心 | 私利に拘泥せずにすむだけの資産と論説を際立たせる広く深い教養、議員には両方が必要なのだ |
農奴制 | ------◆ | 自由農民 | スイス農民の子らよ、我らの自由と権利と独立を永遠に守り通そうではないか |
保守主義 | --◆---- | 革新主義 | 『伝統』には観光客を楽しませる力がある |
重商主義 | ------◆ | 自由貿易 | 知識、あるいは資産。その果実を我らに与えてくれる者が通るのを妨げる理由などあるまい |
攻撃主義 | -----◆- | 防御主義 | 共和国と盟邦を守る。それだけでよいのではないか? |
陸軍重視 | ---◆--- | 海軍重視 | 本分を果たしているのは海空軍ばかりではないか。陸軍はただの観光資源なのか? |
精鋭 | ---◆--- | 大軍 | 国家規模からすると軍事力は量的にはこれが限界だろう |
1番 | 2番 | 3番 | 4番 |
Ô monts indépendants, Répétez nos accents, Nos libres chants. A toi patrie, Suisse chérie, A toi la vie le sang De tes enfants. | Nous voulons nous unir, Nous voulons tous mourir Pour te servir. Ô notre mère! De nous sois fière, Sous ta bannière Tous vont partir. | Gardons avec fierté L’arbre au Grütli planté La liberté! Que d’âge en âge, Malgré l’orage, Cet héritage Soit toujours respecté. | Dieu soutins nos aïeux, Il nous rendra comme eux, Victorieux! Vers lui s'élance Notre espérance, La délivrance Viendra des cieux. |
共和国の中央議会では理念としては討議による一致が理想とされており、政党政治は好まれず、制度的に政党に特殊な地位を規定してはいない。
とはいえ国の理想像を巡っておおまかな傾向が存在し、とりあえずそれを派閥や党派として扱うことはできる。概ね以下の様相である。
歴史的には、移民船時代の士官にルーツを持ちロムレー人の伝統的な国民性を重んじる建国期の議員層を中心とした系譜(ジャンベール党)と、620年前後から出現した海外の思想を受け入れ官僚組織を発展させていこうとする主に留学帰り組からなる系譜(ポワンクール党)という二大思想潮流が存在していたとされ、後者の出現によって620年代に前者から支流である合理的紀律派と重農=環境派が現れ、本流としてのカルヴィニスト共和派も確立、7世紀前半のうちに後者も自由思想派と社会自由派の差が明瞭化していった結果現在の5派閥が成立したとされる。
内閣における閣僚のポストは630年代以来長らくカルヴァン主義共和派3・自由思想派2・合理的規律派1・重農=環境派1・社会自由派1というように割り当てられており、おおむね政治的な影響力もこの通りであったが、770年代後半からはカルヴァン主義共和派2・自由思想派2・合理的規律派2・重農=環境派1・社会自由派1となっている。
「ピューリタン的理想郷」時代の中央議会議員層の流れを汲む党派、あるいは系統。その名の通り初代中央議会議長ジャンベールの理念を支持する。
ポワンクール系が次第に拡大する中で対抗して政治哲学的な議論が深まるなかで、ジャンベールの理想は何であったかで意見が一致しなくなり、合理的紀律派と重農=環境派が成立した。もはや三派の中で現実の政策における調和などみられないが、いずれもジャンベール以来の系譜を主張し、また他国とは異なったロムレーを希求するという点では一致している。
「古き良き国制―神の下に自由な国民による自由な共和国」
共和国において存在する党派としては最も古い派閥であり、830年代に至るまでの間はほぼ恒常的な最大派閥(ただし建国期を除いて単独過半数の規模であったことは一度もない)で、現在は第二派閥。個々人によってカルヴァン主義と共和主義のどちらに重きを置くかは差があり、人によってはこの二つを分けるが、分けようとすると曖昧さを残す結果になるので大体の場合仕方なく一緒くたに扱われる。実際、中央議会において最も極端な共和主義者でもカルヴァン主義の精神を賞賛するし、最も極端なカルヴィニストでも共和主義を支持している。
「古き良き国制」の支持者であり、要するにロムレーにおける保守主義である。都市商人層から農民、軍人から公務員まで、支持層は幅広い。外国観としてはイデオロギー的な相対主義者で、他国にはその国の事情に合わせた国制があると考えており、社会主義国家も保守主義国家も彼らの目からすると主権国家という国際社会における対等なアクターである。実際の外交においては全くのオフェンシブ・リアリストで、伝統的な親レゴリス政策の担い手。
経済 | 平等 | ---◆--- | 市場 |
外交 | 国家 | --◆---- | 世界 |
市民 | 自由 | --◆---- | 権威 |
社会 | 伝統 | --◆---- | 進歩 |
「理性の共和国―理性的な国民、効率的な制度、合理的な国家」
強力な中央議会による議会絶対主義の下での極度に紀律づけられた合理的な軍制と効率的な経済、そしてそれらに対応した社会基盤を求める。外交的には崇拝に近いほど親コーデクス(彼らによると合理的紀律の極北らしい)で、また親レゴリス(こちらは常識的な範囲である)、というよりコーデクスとレゴリス以外の外国は彼らの眼中にない。コーデクス共和国解散後は、コーデクス主義者のセビーリャ自治政策の成功を下支えするのが彼らの基本路線であるとされる。
いわゆる軍国主義的な要素もあるが、精神論よりただ合理主義を重んじ、軍人には極端な合理主義を求める。なお合理主義も宗教の方面では徹底されてはおらず、宗教的な態度は完全には世俗化されていない理神論的なありようが主流。
若干権威主義的だが平等主義的な教育制度と整ったインフラ、紀律づけられた国民に報いるための福祉を求め、ロムレー流の近代国家を形成しようとした(できたとは言ってない)。
右派的だが高水準の福祉を求める点で社会自由派と一致し、下手をするとカルヴィニスト共和派相手の共闘すらありうる。逆に環境保護を求めて合理化を阻害する重農=環境派とは水と油で、自由思想派とも相性はあまりよくない。
支持層は主に軍人と軍需産業の工場労働者であるのだが、「軍服を着た観光案内人」の伝統から観光業系の開発者や経営者が支持していたりするのがロムレーの独特な政治風土を物語っている。
コーデクス解散後は他派と比べかなり勢力を失っていたが、セビーリャ自治の進展に伴うコーデクス主義の再評価により勢力を幾分回復した。
経済 | 平等 | --◆---- | 市場 |
外交 | 国家 | -◆----- | 世界 |
市民 | 自由 | ---◆--- | 権威 |
社会 | 伝統 | -----◆- | 進歩 |
「麗しき国土―造化の妙の驚異は観光客を楽しませ、国民に尽きることのない果実を与える」
重農主義的文脈で理解された環境保護主義。支持層は主に農民、それと留学帰りの環境保護思想に被れた知識層。農民の間ではむしろカルヴィニスト共和派のほうが広く支持されているのだが、ロムレーは農民が多いのでそれでも一つの派閥をなす規模がある。
この派の環境保護政策のためにロムレーにおいて近代的な重工業は出現を阻まれ、製造業は専ら職人的な方法で営まれるものになった。合理的紀律派とは激しく対立する(これはロムレー政界唯一の明確な党派対立である)が、他の派とはイシューによって態度が変わる。しかし観光業の繁栄が環境保護の成果によることは明らかなので、環境保護政策については他派からも一定の理解はされている。
経済 | 平等 | --◆---- | 市場 |
外交 | 国家 | ----◆-- | 世界 |
市民 | 自由 | --◆---- | 権威 |
社会 | 伝統 | ----◆-- | 進歩 |
ポワンクール市創設の頃から現れてくる党派。レゴリスなど海外への留学組が中心となっており、海外からの思想的影響を強く受けている。
彼らはいずれもジャンベール系議員が好むところの「ピューリタン的理想郷」をむしろ停滞状態とみなし、共和国を普通の近代的自由主義国家にすることを目指した。
自由思想派と社会自由派は当初は旧来の議員層から一緒くたにされてポワンクール系としてまとめて扱われていたが、ジャンベール系の分化と福祉国家の進展の中で異なる理想像を描いていることが広く理解されるようになった。
「自由の避難所―いかなる考えにも寛容であれ」
830年代まではカルヴァン主義共和派と双璧を成し、それにほぼ拮抗する勢力を持ってきたが、三重苦の危機以降はロムレーの最大党派。力点をどこに置くかは人によって異なるものの、政治的には表現・信仰・精神の自由の擁護、経済的には穏健主義の範囲内での自由放任と自由貿易を掲げる、一般的な古典的自由主義者。特に宗教的寛容・信仰の自由の精神を背景としていることが多いため、単に自由主義者というよりもリベルタンと表現され、ロムレー人のカトリックや非カルヴァン派プロテスタントは概ねここに位置する。支持層は都市商人、学生、知識人、公務員(特に中央政府)、宗教的少数派。支持層が都市の知識層中心のため、教育を重視する傾向があり、とりわけ高等教育を(社会自由派以上に)かなり重視する。
移民も政治的な参画を行おうとした場合には大抵ここにくるのだが、彼らに関してはロムレーの政治風土に面食らったあと、仕方なく移民にも比較的寛容なこの派閥の下に入るという流れが多い。ロムレー社会は総じて移民にあまり優しくなく、移民受け入れ人数も少ないので、移民による党派の結成という手はとれず、ここに来るしかないのである。
主要党派のなかでは比較的外交にイデオロギー的な視点を持ち込むことに肯定的な党派である。といっても、議会制民主主義が肯定され、実際に複数政党制が運用されていれば、彼らはそれ以上は求めてはこない。基本的にはディフェンシブ・リアリストで、他国に対する積極的介入を好まない傾向にある。
経済 | 平等 | ----◆-- | 市場 |
外交 | 国家 | ---◆--- | 世界 |
市民 | 自由 | ◆------ | 権威 |
社会 | 伝統 | -----◆- | 進歩 |
「穏やかな社会―誰も苦痛に苛まれることなかれ」
フリューゲル諸国から社会的なものに影響を受けての派閥、つまりはロムレーにおける社会主義であり、実際にふつうロムレー人の言う「社会主義」とはこれを指すが、社会観は相当に自由主義的である。社会改良主義という理解がおそらくは最も近いであろう。
政策としては福祉政策の拡充と労働者保護、就学前教育と初等教育の水準向上を主眼におく。外交政策にあまり関心を持たないことからそれが実際の外交に反映されることはほとんどないが、一応外国観としては親別府であった。ヴォルネスク戦争以後は国民の親別府感情がかなり薄らいだため、ヘルトジブリールを模範にする傾向にある。近年ではカルセドニーの社会主義もそれなりに関心を集めている。
支持層は工場労働者(ただしロムレーには軍需以外の近代工業がないことに注意)、学生、公務員(特に各コミューヌ)。
なお、福祉政策に強く関心を寄せるだけあって、福祉医療局の局長のポストは長らく社会自由派が独占している。
特に鋭く対立する他派というものはなく、どの派とも是々非々の関係を持っている。というより他の派閥との関係で検討していくと社会自由派という枠組みが意味をなすかは怪しく、他の四派の中の社会主義分派の寄せ集めに過ぎないと皮肉られることもある。
経済 | 平等 | -◆----- | 市場 |
外交 | 国家 | ----◆-- | 世界 |
市民 | 自由 | ◆------ | 権威 |
社会 | 伝統 | ----◆-- | 進歩 |
ロムレーにおけるラディカリスト。議会にもこれに属する議員は存在するが、極めて少数派で、いずれも議席数はあっても数議席に過ぎず、そのため現在の体制下では政権には入っていない。ただし、ラディカリストとはいえ議会主義の伝統を逸脱するほどの急進派はほとんど存在しない。
「純粋無政府主義―政府は何もしなくてよい。全てのことは我々がする」
古き良き国制を純粋無政府主義と解釈する急進的な一派。要するにリバタリアン。外交的にも孤立主義。
社会保障をほとんどゼロにし、官僚組織と軍も大幅に縮小する。議会政治についても民主主義の体裁を廃し、寡頭制的な議会に復古しようとする。
実は古き良き国制は実態としてはこれに近い。というより、実態がそうであるからこそ復古的であると名乗れている。
議会における議席は、主にロムレーやサン=トゥルミエール近郊の保守的な農村コミューヌと周辺離島の人工的に作られた計画的コミューヌからのもの。明らかに前者は反動主義、後者は無政府主義であって思想的風土が異なっており水と油にしか見えないが、彼ら自身に少数派である自覚が強いので共闘関係にある。特に前者の影響で市民権については割と排他的で、リバタリアンの割に非ロムレー人の権利に制限的な態度が特徴。
三重苦の危機の際にサンディカリストと並んで一時的に存在感を示したが、その後は沈静化した。しかしその際に当選した何人かの議員はそれ以降も議席を守っている。
経済 | 平等 | ------◆ | 市場 |
外交 | 国家 | ---◆--- | 世界 |
市民 | 自由 | ◆------ | 権威 |
社会 | 伝統 | -◆----- | 進歩 |
「第二のコーデクス―電子頭脳が国家理性を体現する」
合理的規律派のなかでも合理化の方向性としてコーデクスモデルをロムレーにおいても実現しようとする急進的な一派。ロムレーにおいても行政の担い手として第二のCDXを作り出し、議会はそれに諮問するだけの機関にしようとする。合理的規律派の主流派と異なり、外交的には自らの理念を他国にも広げようとする意味で広くフリューゲル全体に目を向けることが多く、宗教的には明確に理性の名によって宗教を否定する態度をとる。
コーデクス共和国が実際に存在していた時期には支持基盤はほぼテクノクラートと軍人に限られ広がりを欠いていたが、技術士官の半分がコーデクス主義かぶれであるともされるようにその主唱者たちの形成は進んでいた。コーデクス共和国解散後はコーデクス計画の成果を発展させる研究に注力しようという運動に変化し非政治化していたが、凍結期からテクノクラートとしてセビーリャ統治に関してはむしろ最も主要な政治的アクターとして活動、セビーリャ統治が実際に成功すると政治的な勢力として復活し、既に単なる合理的規律派のなかでの急進派とは言えなくなっている。
経済 | 平等 | ---◆--- | 市場 |
外交 | 国家 | ◆------ | 世界 |
市民 | 自由 | ----◆-- | 権威 |
社会 | 伝統 | ------◆ | 進歩 |
「組合による再分配―自由を損なわない平等」
自営業中心のロムレーではあるが、労働組合や職能組合、協同組合のようなものは比較的多くの産業に存在する。そのため、再分配に関心を寄せると、その手段としては国有化よりも各種組合中心の経済が構想されやすい。なお、マルクス主義はロムレーではほとんど忘れられており、急進社会主義としては彼らが中心である。外交政策における影響力は皆無に等しいが、カルセドニー開国後はその社会主義からの影響をかなり受けている。
組合の類の本部(あるいは事務的な中心地)が置かれることの多いポワンクールに支持者は集中していたが、三重苦の危機の際に躍進し、現在ではサンディカリスト議員は各地に存在する。
経済 | 平等 | ◆------ | 市場 |
外交 | 国家 | ------◆ | 世界 |
市民 | 自由 | -◆----- | 権威 |
社会 | 伝統 | ---◆--- | 進歩 |
「議会の下の平等―対等者による合議が平等を保障する」
議会主義的な伝統を維持したまま共産主義を実現しようとする一派。ロムレーにおける共産主義者とは彼らのことである。
経済 | 平等 | ◆------ | 市場 |
外交 | 国家 | ----◆-- | 世界 |
市民 | 自由 | --◆---- | 権威 |
社会 | 伝統 | ------◆ | 進歩 |
経済面では特定の国に偏ることなく観光客を誘致する観光立国を振興しており、国際貿易体制からは自由であり、自国が経済共同体や資源産出国機構に加盟し拘束されることを避ける一方で、国際分業体制については擁護する立場で、保護主義を警戒する。
イデオロギー的な拘束に関しても比較的弱く、民主社会主義から伝統保守主義までどのようなイデオロギーも問題としないが、民族主義に関しては理解不可能なものとされ、明確に敵対的態度をとる。
伝統的にレゴリス帝国との安保体制による安全保障を主軸とした外交を展開しており、現在までそれは維持されている。しかしながら、これは「レゴリス自身がリスク要因とはならない、少なくともレゴリスがリスクをとるのは別のリスクに対処するため」という理解に基づくものであり、セニオリス併合危機以来それが疑問視されるようになってしまった現在、共和国の外交政策に関するコンセンサスは失われつつある。
※各国への論評は中央議会における評価意見の大勢であり、公的な効果を持つものではない。
国名に打ち消し線のある場合はかつて国交があったが現在はないことを意味している。
極端に観光業に指向した産業構造を持ち、その観光客滞在数は世界一で他国と比べても突出して多い。
建国後十年程度は資源輸出によるところも大きかったが、それ以降は恒常的に突出して巨大な観光業が主導する経済であり続けている。
いずれにせよ、外貨獲得能力は高く、国民所得水準は極めて高いといえる。
なお、製造業はほとんど行われておらず、ロムレー軍に兵器を供給するレゴリス系の軍需工場を除けば職人的な工場における木製品や乳製品の一部がコミューヌの枠を超えて国内市場で出回る程度に留まる。
ウラン鉱が存在し、その輸出による収入は建国期の共和国を支えた。現在ではもはや収入源としての存在感は皆無に等しいものの、燃料自給により経済を安定させることには貢献している。
鉄鉱も存在するが、トロピコ戦役直前に急遽整備されたことから分かるように専ら軍需向けである。
観光業が高度に発展しており、観光客向けに様々なサービスが提供されている。
本来の観光業のターゲットが長期滞在の富裕層であったことから、充分な所持金さえあればサービス業関連で困ることはないといえる。
ロムレーで最大かつ最も歴史ある銀行で投資銀行やアセットマネジメント、パーソナルバンキングなどの業態を営んでいる。本社はサン・トゥルミエールにある。投資傾向はクレディ・ロムレーに比べると若干保守的。
投資銀行などを営むロムレー第二の銀行。本社はポワンクールにあり、セビーリャでも事業を展開している。コーデクス主義的潮流が多分に流れ込んでいる。
ロムレー最大の新聞社で、国内ではLe Tribuneとして知られる大手紙。本社はロムレー市にある。論調は自由思想派寄り。ロムレーのマスメディアとしては最も国際展開に積極的。
レゴリス帝国の軍需企業レゴリス・ミリタリー・インダストリーズのロムレー法人。レゴリス本国からのライセンスを受けてロムレー軍の装備の製造と維持をロムレー国内で完結される体制を構築しており、ロムレー最大の重工業メーカーである。
通貨は独自の法貨として移民船時代以前から続くロムレー・フラン(Fr.,LRF)が使われているが、観光業の発展に伴い、他国の通貨の流通も一般化している。
国際通貨であるVaはロムレー・フランと並んで価格表記にも使われ、また主要な通貨は概ね通用する。
公用語とされている言語はフランス語であるが、このフランス語はいわゆるフランシアン語ではなく、ヌーシャテル近郊のスイス・フランス語であり、近年はこの言語をロムレー・フランス語と呼ぶことも多い。なお、一応フランシアン語でも通用はする。
英独伊語あたりもそれぞれの母語話者が一定数いるほか、レゴリス語やコーデクス語を初めとした友好国の言語も広く学ばれており、これらの一つだけでも話せれば何の支障もなく観光できる。
宗教の構成比率はカルヴァン派66%、カトリック10%、その他プロテスタント4%、CDX信仰3%、その他のキリスト教諸宗派2%、その他の宗教1%、無宗教14%。
信教の自由は完全に認められているが、カルヴァン派は事実上の国教の地位にあり、自らの所属する宗派への献金に対する税制上の優遇措置である什一献金特例が公的に定められているなど、政教分離は徹底されていない。
ゾロアスター教などを始めとする国際的な宗教勢力は国内にほとんど地歩を持っていないとされ、ロムレー教会評議会に参加しているキリスト教の宗派と無宗教だけで国民の95%以上に達する。
移民船時代に行われたロムレー内部でのキリスト教のエキュメニズム運動に端を発する組織。
ロムレー国内のほぼ全てのキリスト教組織から構成され、国内の宗教間平和と協調を目的としている。会報として『キリスト者の一致』がある。
教義上の統一は特に図らず、キリスト者アイデンティティの統合を図ろうとしており、このためにロムレーのキリスト教コミュニティは独自性を維持している部分がある。
無宗教者には什一献金特例が適用されないことから、これに対抗してコーデクス主義者によって設立された宗教法人。献金された資金はそのまま計算機科学を中心とした科学研究につぎ込んでいる。会報の内容も実質的には論集である。
キリスト教的風土の強いロムレーにおいて公然とキリスト教のドグマを批判するため、ロムレーのキリスト者、特にカルヴァン主義者からは煙たがられている。
ロムレーは国家規模が小さい割には学術文化は比較的発達している。特に言語学に関する成果が知られているが、広く人文・社会・自然問わず基礎科学分野一般に豊富な蓄積があり、コーデクス共和国解散後の資料流入でさらに発展を遂げた。学問の世界での「コーデクス主義」は、この研究をさらに進展させようという一大潮流である。
このような学術文化発達の背景には中央議会の弁論の場において教養主義が重んじられていることや、観光客とのやり取りの中で幅広い知識が必要とされたこと、極めて高い所得水準ゆえの充分な余暇の存在などが考えられているが、はっきりとした理由は明らかではない。
発達した学術文化の成果として、多くの学術誌が発行されている。その中でもいくつかの誌は新聞広告に掲載され一般家庭にも購読されるほど有名である。
ロムレー軍はその国家規模の小ささに反してイレギュラーを保有し、また海外への航空戦力投射能力も備えている。これは実戦経験としてはトロピコ戦役とセビーリャ作戦という二つの派兵経験を通じて形成されたものである。そのように航空・海上部隊は豊富な実戦経験を有する一方、地上部隊は大規模な派兵を経験しておらず、むしろ国土防衛を主眼とする編制のままであり、多数の民兵といくらかの山岳戦特化の部隊を主体とする。これらは「ロムレー軍はスイス軍の制度を引き継いでいる」という軍を観光資源に使うための建前(移民船期に実質が失われているということは国民の間では公然の秘密である)がそのまま引き継がれたものである。そのために民兵はトロピコ派兵以前のロムレー軍の評価としてよく用いられたフレーズである「軍服を着た観光案内人」的な軍のあり方を今でも保っている。ただし常設の在外部隊などは基本的に持たず、セビーリャ地域にも統治委員会の最低限の警備部隊を置くのみである。そのほか、陸海空軍のほかに大気海洋局と福祉医療局も士官部隊を有している。
なお、兵器に関しては基本的にレゴリス・ミリタリー・インダストリーズ社をはじめとするレゴリスの軍需産業の在ロムレー工場で生産されるものが使われており、基本的にロムレー国内で生産・整備ラインが完結しているものの、レゴリス帝国軍の装備体系とほぼ完全な互換性を持つ。
中央議会初代議長。
移民船の船内環境を専門とする優れた工学者であり、船内において発生した重大な機械故障に際しての復旧を強い指導力によって指揮し、移民船のフリューゲル到達をどうにか実現した。
その際の手腕から入植直後の共和国においても一定の人気と権威があったが、本人は重力下での環境は専門外であるとして直接手腕を振るうことなく、一貫して中央議会の決定を支持した。
彼の時代のロムレーでは土地との共生が重視され、アーミッシュ的な古き良き理想郷と評される社会を築いたが、その後期にはレゴリス留学組を始めとするフリューゲル諸外国からの影響で公教育制度の整備が進んだ。
移民船時代の活躍についてはいまや歴史上のこととして再評価が進んでいる人物ではあるが、最初期の共和国において議会主義体制を確立した立役者であることは確かである。
中央議会第二代議長。
レゴリス留学組を中心に教育分野などの必要性から官僚組織が拡充されていく中で、ジャンベール引退後の共和国の主導権をレゴリス留学組が握ることを危惧した中央議会の議員たちによって選出された。
本人はこれといった強い主義主張は持っていないが、調整能力に優れ、レゴリス留学組と旧来の議員層を巧妙に調停して教育政策とインフラ整備を推進し、共和国は彼の在任中に世界最大の観光国となった。生まれ育った時期が移民船時代のため高等教育にあたる学歴は持っていないが、学術サークル時代のアンゼロット記念大学に属しており、その学識はフリューゲルの学問の取り入れに貢献したといわれる。
なお、独自に打ち出した政策はあまりないが、唯一例外的に鉄道振興にはこだわりがあるらしく、道路網よりも鉄道網を中心とした交通インフラ整備を強力に推し進めた。この政策は観光業の発展には貢献したようである。
彼の在任期間の終わりごろにはヴァノミス危機やトロピコ戦役が発生、その中で中央議会の権限は一時低下したが、それもあって戦後の平時体制復帰後は議会の権威の再確立に奔走した。ENECオブザーバー加盟の際の演説を行い、それが承認されるのを見届けて中央議会の職を引退。
中央議会第三代議長。
第一期のレゴリス留学組の中でも最年少(初等教育段階)であった女性。最終学歴はレゴリス帝国大学法学部(首席)。レゴリスからの軍事顧問としてロムレーにいたことのあるルーミヤ・グドリャンとは友人。
キャリア官僚であるが、その出自もあいまって同期の中でも一番の出世頭であり、官僚としては監査委員会でキャリアを積む。
トロピコ戦役中の戦時体制では形式上は通商局の役割である鉄鋼資源の管理について、その実務を集約させられた鉄鋼資源管理セクションのリーダーを担当。ロムレーの行政機関としては動員体制を完璧にこなせたのは彼女のセクションぐらいである。戦後はその成果を認められ、監査委員会委員長(行政官としては最高位)に出世した後、二年ほどで慣例に従い退職。中央議会議員に転身、そしてフィールズ議長の退任後の中央議会議長に就任した。
レゴリス留学組の中でも最も有能な人物であることは間違いなく、官僚の影響が大きくなりすぎると渋る議員もいないではなかったが、その能吏ぶりが広く認められていたことは確かである。
680年代を前にして引退、その後はレゴリスとロムレーを行き来しつつ悠々自適の老後生活を送り、時折レゴリス語やレゴリスのエリア・スタディーズ研究の学会誌に論文を寄稿していた。
中央議会第四代議長。
ロムレー大学で工学を修めた後、サン=トゥルミエールのリゾート地でエンジニアとして活躍、後に経営者にもなり周辺島嶼での観光地開発に参入し成功、その後中央議会議員になった。
経歴から観光業への造詣が深く、治安と社会インフラの維持を重視しているとされる。
また、海空軍に対し否定的な見解を抱いている(一説には周辺島嶼の土地収用で海空軍と一悶着あったとも、海外にリゾートを広告する際にトロピコ戦役の悪評に直面したともいわれる)とされ、海外派兵にも消極的な態度をとり、国防予算も抑制された。
690年代末の北東島嶼部の油田開発を巡る論争を抑えきれずに議長職を辞職、現在は一議員に戻り観光政策を中心課題として活動している。
中央議会第五代議長。
安全保障局のキャリア官僚。合理的規律派に属する議員で、コーデクス主義者。ただ不遇にも彼の時期にはコーデクスが外交的に不活発な時期で、コーデクス外交から得られる成果は少なかった。
軍に抑制的な政策に対する不満の中から中央議会議長に選出された。ノエルとは一転して軍事力の強化を主張し、軍事訓練に努めた。
彼の目指す軍事力増強政策が一応達成され、軍を重視する声が収まったため705年に退職、その次の選挙に出馬することもなく、その後は軍事コンサルタントとして在野で活動している。
中央議会第六代議長。
オロール・オーブ・トリベールの孫娘。その容姿も才能も祖母の鏡写しで、物理学と言語学(趣味らしい)で博士号を持っている才媛。アルヴィドソン大学(レゴリス)、アンゼロット記念大学などで研究員・教授職を歴任してきた。中央議会議員になったのは祖母を超えるためらしいが、実務能力を認められ結局祖母と同じ中央議会議長になってしまった。たまにオロール本人なのではないかと疑われるが、彼女はナイスジョーク的に流す。
祖母譲りの調停能力でノエルやクレマン時期の議会内の方針対立を抑え、国制に関する議論を一段落させた。彼女の下で久方ぶりにロムレー政治は理念的な無政党政治に近づき、党派対立の少ない時代を迎えた。
720年代前半のコーデクス共和国解体というロムレー国民にとっての政治的大変動を平穏のうちに乗り越えられたのも彼女の下でカルヴァン主義共和派と自由思想派がうまく調停されていたためである。
730年に入り二重の衝撃後の政治秩序が落ち着きカルヴァン主義共和派と自由思想派の折り合いもつくようになったことで、彼女の在職期間が祖母の在職期間を上回ったことを口実に引退。その後は祖母同様再び学究の生活を過ごしている。
中央議会第七代議長。
カルヴァン主義共和派のなかでも長老格の穏健派。特筆すべき業績も問題もないまま、もともと高齢だったこともあって748年に健康問題のため退任。
中央議会第八代議長。
農林業の保護を主眼とする重農主義者。主だった業績としてはセビーリャ自治政府における聖樹保護推進やユリウス戦役の指揮があげられる。769年に引退した後は自らの農場経営に専念、農協直営店でその名前をよく見かけるという。
中央議会第九代議長。
教育局出身の文教族議員。新興国における学術振興を図り、サン=トゥルミエール協定とポワンクール協定を締結した。外交予算から学術的コーデクス主義を支えることになったが、政治的コーデクス主義に関しては本人は微温的だったとされる。782年に引退、その後は母校であるアンゼロット記念大学に再入学して生涯学習に励みながら余生を過ごしている。
中央議会第十代議長。
自由思想派の主流派に属する。コーデクス主義に対して懐疑的な態度から、セビーリャの自治を拡大してコーデクス主義者の影響力を削ぐ方針をとった。794年の自由輸出裁量枠制度導入で統治委員会通商部の力を決定的に削げたと判断し795年に退任。
中央議会第十一代議長。
左派共和主義・社会主義的傾向の強いカルヴァン主義共和派。自由思想派からの反発は強いが、合理的規律派と重農=環境派の対立を仲裁できる数少ない人物であり、北西島嶼の開発計画で盛り上がった両者の対立を融和するために選出された。807年のレゴリス帝国500周年記念式典を最後に引退。
中央議会第十二代議長。
ロムレー大学を卒業後ロムレー・ユニオン銀行に勤務していたが、第二の観光開発の時代にそれを後追いして行われたインフラ整備が財政を圧迫していることにある時気付き、状況を改善すべく監査委員会に職を得て観光業とそのインフラへの整理を断行、財政的に苦しい状況にあった周辺島嶼部コミューヌの立て直しに成功した人物。その業績からコンパクトで効率的な政府を望む民衆の支持を背景に、自らの行った効率化へのバックラッシュを阻止すべく中央議会議長に就いた。
凡百の政治評論家の評価では、過度な観光開発が経済にも環境にも負荷を与えているという立場から重農=環境派に配慮した政策をとる自由思想派。
しかしその実態は、資本家と近しいはずの自由思想派でありながらロムレーの最も主要な資本家である観光資本から徹底的な嫌悪を受け、ポワンクール派である自由思想派に属しながら最も支持層になりにくいはずの地方の保守的なコミューヌの農民から支持を集め、それでいて自らの大衆的な支持に反してポピュリズムをエリート主義的立場から警戒し、コーデクス主義の発展に対する楽天主義を乱開発の元凶として倦厭する一方で学術的コーデクス主義の凡そあらゆる研究領域に通暁し、しかも政治的コーデクス主義者と敵対しながら合理的規律派の主流派には一定の評価を受けており、さらにはセニオリス的ないわゆる「ダイエット主義」に近い経済観を持ちながら813年戦争ではセニオリスを初めとするETO諸国との戦争を指導するという矛盾の人。
そんなこんなでとにかく毀誉褒貶の激しい人物であり、就任直後から「観光立国ロムレーの奇妙な死」「手の込んだ自殺」とも「ジャンベールの再来」「古き良き国制の再建者」とも評される。
三重苦の危機後、議論をひとまず落ち着かせた後、もはや自らの目標とする「効率的な経済」ではなく別の問題が争点になったことを見て834年に引退。
中央議会第十三代議長。
セビーリャ系一世で熱烈なコーデクス主義者である論理学者とロムレー人で計算機工学者を両親に持つセビーリャ系二世。三重苦の危機で主要党派が混乱する中、独自の主張で注目を集め議長に就いた。
生まれ育った環境からコーデクス主義に慣れ親しんでおり、そのままロムレー大学で経済物理学を学び修士号を取得。これを通じてレッセ・フェール的な思想傾向も持つようになり、その後クレディ・ロムレー社投資銀行部門に勤務し普藍やヴェニス島といった新興資本主義経済の急成長を間近で捉えたことによりその傾向を強める。
本人は自由思想派であると自認しているが、同じ自由思想派でありながらもコルネイユ前議長とは犬猿の仲である。文化的自由主義である自由思想派のメインストリームと異なり、自由放任経済を主唱するという点で異端児であり、一方でコーデクス主義者としても中央コンピューターへの集約化より分散的なネットワークを重視する変わり者でもある。
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本稿では、カルセドニー社会主義連邦共和国及びその前身であるカルセドニー連合、カルセドニー島共和国、カルセドニー島入植地の歴史について主に記述する。なお、以下の記事は全てカルセドニーによる歴史記述であり、完全な中立性に基づいて書かれているとは言えない。あくまで、「カルセドニーの視点からの歴史」であることを留意したうえでお読みいただきたい。
憲法制定議会選挙は、それを求めていた右派諸党の想定した結果にはならなかった。全600議席のうち、第1党の地位を占めたのは225議席を獲得した労働党であり、右派の期待を背負って立つことになった共和党は善戦したものの150議席にとどまることになった。この後、各党派の間では激しい連立交渉が展開されたが、連合党・進歩党のいずれかを引き込めば議会の過半数を確保できる労働党と、連進両党の支持を必要とした共和党ではすでにパワーバランスが傾いていた。共和党の提示した連立政権案は、進歩党への配慮の結果連合党に対して極めて厳しいものであり、それを察知した労働党は連合党の切り崩しに方針を定め、結果として労連両党の連立政権が成立することになった。
労連両党の主導で成立した新憲法は、カルセドニー連合の行政制度の大部分を維持しつつ、大統領の権限強大化及び議会と自主管理組織の直結をより明確化し、「カルセドニー社会主義連邦共和国」としてのスタートを踏み出すものとなった。
なお、ヨリクシ共和国はこの時点で開国を選ばず、鎖国を永続することを選択したため、両国間の交流はカルセドニー開国をもってほぼ完全に途切れた。カルセドニーは有力な同盟国を有さないまま、60年の鎖国の間に激変したフリューゲルに乗り出すことになった。
カルセドニー(及びヨリクシ共和国)の鎖国期間中に、御岳山諸島自治巫女共和国及び蒼鋼国は滅亡し、国際交易協力機構(WTCO)はほぼその機能を失っていた。765年にカルセドニーは最後のWTCO加盟国であるローレル共和国に対して機構加盟国としての地位確認を求め、ローレル側の同意を受けておよそ70年ぶりの加盟国会議が開催された。これ以降、WTCOはカルセドニー外交の主軸として再設定され、加盟国数を増やしながら国際社会における活動を続けている。
766年5月18日、レクハ・アメトリン大統領は談話を発表し、「分離を目指す民族主義」と「団結を目指す民族主義」の差異についての意見を表明した。その中で、レクハは「社会主義と民族主義は共存が可能であり、両者は絶対的な矛盾関係ではない」と言明、連合時代から継続してきた民族主義に対する警戒的な方針を転換した。労働党は鎖国政策の継続を掲げて第1党となったものの、連合党との連立交渉の過程で鎖国を放棄せざるを得なかったことから、不明瞭なままになっていた外交政策について、「社会主義世界に限らない国際協調」という以降の方針の第一歩となったものであると現在では評価されている。
このような談話の背景としては、外交委員会がイデオロギー的に対立するガトーヴィチ帝国との関係悪化を避けたかったことが第一であることは明らかとなっている。ガトーヴィチ帝国は当時「770年までのイレギュラー打ち上げ」を掲げ軍備強化に邁進していたことから、この当時レゴリス帝国を中心とした最大勢力に次ぐ第二極としての地位を形成しつつあり、外交委員会が友好関係の構築に力を入れていたヴォルネスク・スラヴ共和国(実際、この談話の5ヶ月後に農業振興協定を同国との間で締結している)の最大の友好国でもあることから、「同国との関係改善のために忖度した」というのがこの談話の実態に近い。
しかしながら、外交委員会がガトーヴィチ帝国との関係を具体的に強化しようとした形跡はこの時期には見られず、後にガトーヴィチ帝国内で「五月革命」が起こり左派政権が成立した際にも国内世論は冷ややかであったことから、「ガトーヴィチに対する忖度」はむしろヴォルネスク側に対するポーズであり、同国をガトーヴィチから引きはがして自陣営に取り込むことが最終目的であった、とみることもできる。
ユリウス王国は760年代に出現した国家であり、ラルティスタ社会主義共和国が主導する「新興諸国開発共同体」の原加盟国となるなどの活動をしていたが、その外交姿勢は極めて不可解なものであり、最終的に我が国やセビーリャ地域に対して「宣戦布告」を宣言、慣習国際法を無視した攻撃を実施するに至り、カルセドニー及びロムレーを中心とする諸国により焼き払われた。ユリウス王国の詳細やユリウス戦争をめぐる外交交渉などは正直どうでもいいが、カルセドニー軍は史上初めて大規模な海外での作戦行動を実施することになり、のべ1600機を超える数の爆撃機がユリウスに対する反復攻撃を行ったことにより、その軍練度は大幅に向上したとされる。
一方で、ユリウス戦争以前にユリウス地域と比較的かかわりが深かったカルセドニーの外交委員会はその「世界の癌」を早期に取り除けなかったことの責任を国内で問われることになり、トリク・ユーファストーン外交委員長(カルセドニー連合最後の大統領で、連合党の外交委員長として入閣していた)の辞任を結果としてもたらし、この戦争はカルセドニー外交委員会における労働党優位の一端ともなった。
775年3月27日、トリクの後任であるケレシ・ブラッドストーン外交委員長はヘリオトロープ市内でレゴリス帝国通商産業大臣ゼプテ・ナインティアモーナントと会談、「工業国に関する共同声明」を発表した。両国の共同声明はこれが史上初であり、互いに友好国とは言えない関係であったがためにその内外への反響は大きかった。声明の内容は「低特価工業による資源の浪費に対する懸念」といったところであり、陣営こそ異なれどともに商品などの必須物資を海外に依存する大商業国である立場の同一性から、この声明に関する合意に至ったと言える。
国内が後述するガーネット州建材工場ストで揺れていたことから、国内的にはさほど注目を集めなかった加烈声明であるが、レゴリス帝国を中心とする陣営を常に最大の仮想敵として見なしてきた旧来のカルセドニー外交の大前提を揺るがすものであることから、本声明の歴史的な重要性は極めて大きい。ケレシはもともと生産搬送配給委員であった人物であり、外交に関しては専門家とは言えない。このような人物がユリウス戦争をきっかけとした政局混乱を経て外交委員長になったことが、この声明をきっかけとしたカルセドニー外交の大転換を生んでいくことになったとも言えるだろう。
カルセドニー国内において、商業生産に次ぐ主要産業である建材製造であるが、その拠点である建材工場は大部分がガーネット州内に立地していた。連合期にセビーリャ系・ヴァノミス系住民が大量流入したガーネット州は本土とは風土が異なり、社会主義的な風潮に対して警戒感が強く、憲法制定議会選挙以降の諸選挙では共和党の支持基盤となっていた。この共和党の最大の後援組織が、ロニア共和党代表自身がトップを務めるガーネット州自主管理連合組織同盟「南の風」である。「南の風」はヴェニス社株式の購入など国際金融業界で存在感を発揮する一方で774年にガーネット州内の建材工場職員を主導して大規模なストライキを実施した。このストライキは1年半余り継続した後776年1月4日に中央政府と「南の風」が建材工場職員の待遇改善に関する合意を結び終息したが、中央政府はガーネット州からの建材買い上げ価格の高騰を受けてこの年の9月に建材輸出レートを引き上げている。
これ以降、「南の風」はカルセドニー国内で存在感を増し、たびたび中央政府の政策に影響を与えるようになっている。ただ、中央政府も「右翼的主体(絶対君主制国家や巨大無国籍企業など)との取引」に対して反発が根強い本土の世論に配慮しながらも経済的な利益をそれらの取引によって得るため、「南の風」を緩衝材として利用しているというところがあり、「南の風」は単なる中央政府の目の上のこぶというわけではない。
「南の風」への対応については与党内でも意見が大きく割れており、労働党が中央集権体制の堅持のために「南の風」の抑え込みを訴える一方、連合党は「南の風」とのパイプを作り、その利用に熱心である。このような対立姿勢は中央政界にも波風を立てることになった。775年、785年の2度の共和国議会選挙で立て続けに連合党は大幅な議席増を成し遂げ、一方で労働党はやや勢力を減じたため、785年には連合党が議会の第1党の座を奪取した。このとき、連合党は労働党を排除しての連立の組み換えをちらつかせたとされ、結果としてペレネ・モスアゲート連合党副代表が憲法の規定(3選禁止)で退任するレクハ・アメトリン大統領に代わってカルセドニー社会主義連邦共和国第2代大統領に就任することになった。憲法制定議会選挙では第4党に甘んじた連合党から、20年を経てついに大統領が輩出されたということである。
この2回の選挙で最も割を食ったのは右派の得票を共和党に、左派の得票を与党2党に奪われた中道政党の進歩党で、785年選挙では改選200議席のうちわずか8議席の獲得にとどまるなど壊滅的な敗北を喫した。
795年の第25回共和国議会選挙においても時代の趨勢に変わりはなかった。連合党はますますその議席を伸ばし、改選議席の過半数を獲得する圧勝となった。労働党はややその勢力を減じたものの、両党は議会の3分の2を超える437議席を獲得し、両党は「5年以内の改憲発議」を選挙の直後に発表している。
「5年以内の改憲」を訴えた労連両党であったが、この後両党は改憲案をめぐって熾烈な綱引きを繰り広げることになった。両党の改憲案の隔たりはざっと下の表の通りである。
制度 | 労働党 | 連合党 |
---|---|---|
大統領制 | 強化 | 廃止 |
政党 | 一党制 | 二大政党制 |
議員任期 | 20年 | 30年 |
改選議席数 | 300 | 200 |
連邦制 | 廃止 | 維持 |
生産手段の公有化 | 国家管理 | 労働者管理 |
これらの対立点について調整が繰り返され、結局改憲が実施されたのは803年にずれこむことになった。両党は次回選挙である805年の前に改憲を実行するためにぎりぎりになって議論を急ぎ、両党の「折衷案」じみた改憲案が作成された。すなわち、大統領制は廃止され、議会は二大政党制を取ることになるが、議員任期は20年、一度の改選議席は300議席となった。連邦制については名目上維持されるが、州の自治権はほぼ失われ単なる行政区画であることが明確になった。
もっとも重大な決定として、「生産手段を保有する主体は労働者である」ということが明確化され、これまで事実上の「経営者」として君臨することがあった自主管理連合組織の「マネージャー(自主管理組織運営のためのプロ経営者)」は自主管理組織の組織系統に加わることができなくなったことが挙げられる。議会制度にも大きくメスが入れられ、自主管理組織がその構成員から共和国議会議員を選出することが明確化された。すなわち、プロ経営者は自主管理組織の構成員ではないことから共和国議会への被選挙権を事実上失い、議会を「労働者」で埋めることが可能になった。結果、進歩党・共和党の議員の大多数が直ちに実施された第26回共和国議会選挙の時点で議員資格を失い、その残余は連合党に合流するか無所属での立候補を選んだため両党は議会から消滅することになった。
811年3月下旬、普蘭合衆国はトラハト=ラシュハ連合王国との間の貿易を同国が一方的に打ち切り、それに関する交渉を拒否したとして同国に対して最大級の抗議を表明、「制裁の一環」として宣戦布告を行った。この直前の810年末に行われた第27回共和国議会選挙の際に外交委員長に選出されていた労働党のペレト・サードオニクスはこの時点では業務の引継ぎが完了していなかったこともあり静観の構えであったが、同年5月初旬に中夏人民共和国がトラハト=ラシュハ連合王国に宣戦布告を行うと、事態は急変した。客観的に見て正当性があるとは言えない中夏による対トラハト宣戦が国際社会からの強い非難を受けることは簡単に予測がつき、場合によっては一部国家(レゴリス帝国を想定していた)が中夏に対する宣戦に打って出る可能性があると外交委員会は判断した。カルセドニーは中夏人民共和国を同盟国である御岳山大社共和国を除けば最友好国と位置付けていたため、同国の国際的地位を揺るがしかねないこの事態に対する対応を余儀なくされた。
カルセドニー外交委員会は直ちにギルガルド社会主義共和国・トルキー社会主義共和国(トルキーはこの時点ではまだ鎖国化にあった)と共同で「交戦各国に対する要請」を発表、戦争を対話により解決するための第三者委員会を設置することを提案した。この要請の中で「交戦各国」とは「現時点で普蘭合衆国、中夏人民共和国、トラハト=ラシュハ連合王国を指すが、もしこのような戦争状態に加わろうとする国が存在するならそれらの国々も」含むとされているが、これは中夏に対して宣戦を布告しかねないとにらんでいた一部国家に対する牽制であり、結果として、これ以上この紛争に介入しようとする国家は現れなかった。また、「第三者委員会に委員を派遣する国」の条件として「交戦各国の軍事同盟国ではない」ことを求めており、中夏・トラハトには軍事同盟国が存在しなかったことから、普蘭の同盟国であるレゴリス・ロムレー両国を事実上名指しで排除している。当時のカルセドニー外交委員会が本件に対する烈路両国の介入を「中夏の安全保障を損ねる」として非常に強く警戒していたことがここから明らかである。
第三者委員会はカルセドニー、ヘルトジブリール、ギルガルド、トルキー、セニオリスの5ヶ国が参加する形で開始された。ヘルトジブリール代表からは「制裁」に言及するなど非常に中夏に対して厳しい主張が行われ、停戦を拒否した場合には中夏に対する開戦やむなしなどの意見も見られたが、カルセドニーは「中夏にとって壊滅的な結果を回避する」という目標のもとこれに対して不同意を示し、その根拠として「外交協議による解決が本委員会の目的である」などと述べている。一方で、議場が中夏に対して極めて批判的であったことから、「遺憾の意」を中夏の行為に対して表明することは余儀なくされた。以降の第三者委員会においては中夏政府によるトラハトへの謝罪、トラハトにおける社会主義政党の扱いについてが主に議論されたが、最終的には「トラハトの対中賠償請求権の放棄」「トラハトの選挙制度に関する国際社会への公開」「トラハトの次回選挙に関して第三国からの選挙監視団を受け入れること」「選挙終了後、両国は友好平和条約を締結し、中夏政府はトラハトにその場において謝罪すること」が定められた。「中夏政府によるトラハト側への謝罪」はトラハト側の強い要求であり、第三者委員会でもその必要性が認められたことからやむを得ないが、それ以外の点に関してはほぼ中夏側にとり不都合な内容とは言えず、中夏への国際社会からの批判も事実上立ち消えしたためカルセドニー外交委員会としてはおおむねその目標を達成したと言える。
その後、トラハトでは第三者監視のもと選挙が実施されたが、中夏が後援する「トラハト=ラシュハ人民共和国臨時政府」は1議席も獲得できない壊滅的敗北を喫し、そのまま国際社会から姿を消した。トラハト国内で中夏の行為が社会主義世界に対する懸念を生んだことは間違いなく、「中夏の行為は社会主義世界そのものの株を下げた」と批判する声は根強い。これ以降常に外交委員長が労働党から排出されていることからも、「国際社会主義勢力の連帯」を訴える連合党の外交方針が「夢物語」であるとの世論が醸成されていることは疑いなく、その一端はこの際の中夏の暴走であるともいえるだろう。
813年戦争に関する詳細は当該記事を参照のこと
774年に左派による「五月革命」を成し遂げていたもののその後ぱっとせず、799年にスラヴ主義勢力が復活を遂げていたガトーヴィチ帝国であるが、同国は809年9月20日に資本主義市場経済相互援助条約機構(エルドラード条約機構:EDTO)を発足させ、ヴォルネスク・スラヴ共和国及びフェネグリーク帝国、さらに以前の加烈声明後「自給自足体制」を批判されレゴリス帝国との対立を深めていたセニオリス共和国と同盟関係に入った。この「資本主義」を掲げる、明瞭にカルセドニーをはじめとする社会主義諸国に対して敵意を向ける軍事同盟の発足は国内に衝撃を与え、ペレネ・モスアゲート前大統領は「EDTOに攻撃され、カルセドニー国土が焦土になる夢を見た」と側近に語るほどであった(カルセドニーPLがマジでそんな夢を見た)。
812年6月、EDTOの一角であるセニオリス共和国はヴェニス社に対してなんだかんだと言いがかりをつけて宣戦布告(ここの詳しい経緯はカルセドニー外交委員会は問題視していない)、9月初旬にはヴェニス株式会社統治領に対してミサイル攻撃を実施した。これに対してヴェニス社統治領内に民間人多数が居住するレゴリス帝国が猛反発、セニオリス共和国に対して即時停戦と講和条約締結交渉の開始を要求した。セニオリス共和国がエルドラード条約機構を頼みとしてこれを拒否すると、レゴリス帝国及びその同盟国3ヶ国にヘルトジブリール社会主義共和国を含めた5ヶ国による有志連合はセニオリス共和国に対して宣戦を布告した(この際の普蘭合衆国臨時首相レラ・サンドロットの発言、「ジャッジメントですの!」は迷言として歴史に刻まれている)。
エルドラード条約機構はこれに対して集団的自衛権の行使を表明、セニオリス・ヴェニス紛争は2つの巨大勢力を巻き込む「813年戦争」として知られる大戦争へと発展した。カルセドニー外交委員会は当初中立を表明したものの、813年3月27日にレゴリス帝国との間で「カルセドニー社会主義連邦共和国と有志連合間における軍需物資支援協定」を締結し、物資供給の面で有志連合を支持することを明確にした。外交委員会はEDTOとガトーヴィチの過激な民族主義、セニオリスの社会主義に対する敵視を脅威とみなしており、この協定はそれを片付けつつレゴリス帝国との関係を一気に改善するための共和国の秘策であった。この時点まで共和国はレゴリス帝国を最大の仮想敵国と見なし、同国と対抗可能な国際体制の構築を目指してきたが、この時点でその方針を大幅に転換したことになる。なお、この協定に基づく軍需物資支援はエルドラード条約機構が早々に降伏したため実際に行われることはなく、816年10月下旬にカルセドニー政府より有志連合側に終了を通告、翌年4月下旬をもって失効している。
813年戦争の終結からしばらく経ったころ、敗戦で損なわれた国威の回復を目指すガトーヴィチ帝国より「貿易レートに関する声明」を実施することが我が国を含む複数の先進国に対し提案された。これは、近年建国された冰州連合がヴェニス社に対して鋼鉄を極めて高額なレートで売却したことをきっかけとしており、820年5月に一連の問題の初出となる「国際交易における配慮の枠組みに関する共同声明」がカルセドニー外交委員会の起草により発表された。この声明の中では、「貿易による国際社会の利益を守るための配慮の枠組み」の重要性を訴え、その例としてWTCOレートなどを挙げている。カルセドニー外交委員会は冰州の鋼鉄輸出レートをさほど重要視しておらず、813年戦争以来の「親烈外交」の一環として同国を含んだ複数の主要国により共同声明を発表すること、また、その中でWTCOレートを「適正な配慮」の随一として関係各国に認めさせることをむしろ重要視していた。
しかし、国際社会の大勢は当然ながらこの声明をガトーヴィチ政府の企図したような冰州の鋼鉄レートへの懸念付けとして評価し、冰州政府は特にこれに対して明確な反応を見せた。同国のヴィリ・エルステッド評議会議長は直ちにその鋼鉄レート(鋼鉄1億トン=50兆Vaという国際社会の標準から見ればかなり異様なレートであったことは間違いない)を擁護する声明を発表、しばらく経過した後に「冰州鉄鋼取引所」を設置し「部分的鋼鉄1億トン=50兆Vaレート」を採用する旨国際社会に公表した。これを受け、821年7月にガトーヴィチ政府が起草し、部分的にカルセドニーより修正がなされた「国際交易におけるレート設定に関する共同声明」が国際社会に公表されたが、こちらは明確に「異常なレート」に対して批判をなすものであったため、冰州政府は非常に強い反応を示した。カルセドニー政府は冰州との関係を重視していたため、このような形で同国と外交的対立が激化することは想定外であったものの、レゴリス・ヘルトジブリールといった国際社会における重要なアクターと、WTCOの盟友であるローレル、ガトーヴィチ(同国は813年戦争終了後の816年にWTCO加盟国となった)両国との関係を重視する立場から本件に対する深いコミットを余儀なくされていった。
改憲後のカルセドニー議会は事実上労連両党の二大政党制となったものの、その勢力は改憲直前の30年の動向を反映し連合党が優勢であった。810年の選挙では労働党が改選過半数を獲得したものの、非改選議席の大半を連合党が有していたために議会は連合党が優勢なままであった。しかし、9世紀に入ってから次第に労働党が「国際協調外交」を外交方針として確立し、普中ト事変の仲裁などの形で実績を上げたことからその勢力を次第に拡大し、820年9月に行われた第28回共和国議会選挙においてついに労働党が第1党の地位を奪還した。労働党はこれ以降国内外での影響力をさらに増大させ、830年代に至る「国際協調」と「世界の安定のための介入主義」路線を一層明確にしていくことになる。
カルセドニーは当初、816年11月の「カルセドニー入植200周年記念式典」の開催を予定していたが、813年戦争のため国際社会があわただしくなり、他国首脳の出席がほぼ見込めないとしてこれを中止していた。しかし、813年戦争が終結したことを受け、818年に政府は821年5月19日に「カルセドニー島共和国建国200周年記念式典」を開催することを決定した。カルセドニー島共和国時代をどのように評価するかは国内でも意見が分かれており、これを記念することは望ましくないとする声も(特に連合党を中心に)大きかったが、労働党は「200年の発展を経てフリューゲルの大国の一角となった我が国の現在を他国に伝えることは国際協調路線の一つの手段となる(赤光紙より)」として開催を決定した。
813年戦争後一時の安寧を得ていた国際社会はこの慶事を歓迎し、記念式典には実に22ヶ国から来賓の参加を得た。労働党を代表してペレト・サードオニクス外交委員長が、連合党を代表してペレネ・モスアゲート大統領が演説を行い、続いて中夏人民共和国馬来道国家主席が演説を行った。中夏国家主席よりあらかじめ送付された演説の原稿には初めから末尾に「万雷の拍手」が書き込まれていたことは特筆に値する。
821年の声明以降動きのなかった貿易レート問題だが、823年9月になって「今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明」がストリーダ、ノイエクルス連邦、普蘭、中夏、トラハト、タヂカラオ、カタルシア、カドレン9ヶ国(ノイエクルス連邦構成国を2ヶ国としてカウントしている)から発表された。この声明は冰州側の働きかけによるものであると一般に考えられており、冰州との関係良好であり「冰州鉄鋼取引所」の設立に際して助言を行っているストリーダ王国を主導国として2度にわたる「貿易レート」声明を行っている5ヶ国に対して冰州との協議による解決を求めているものであった(と国際社会一般は解釈した)。
これを受けて、5ヶ国側は「『今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明』を受けた共同声明」を発表、「和解のための対話」を期待するとともにそれに向けた条件(「対話は公開の議場で行われること」「成果文書はコンセンサスによること」「第三国1ヶ国が議長国を務めること」)を提示した。しかし、冰州政府はこれに対して「仲裁に当たる諸国が最終決定権を有すること」「議論に参加する第三国は複数国であること」などを求めて反発、和解協議が開始されるまでにはもうしばらくの外交交渉が必要となったが、最終的にはストリーダ・中夏・普蘭・トラハト4ヶ国による「仲裁委員会」が設置されることで合意が見られた。
ローレル共和国はカルセドニー島共和国時代からWTCOに加盟しており、同盟国である御岳山大社共和国を除いては最も関係の深い国家であると言っても過言ではないが、両国間の安全保障関係を明確化したメトリーナ条約が825年11月に調印された。この条約は基本的にカルセドニーがローレルの防衛義務を負うものだが、カルセドニーが所有権を有する軍需物資をローレルに移転することが可能となる旨定めており、有事にはローレルをカルセドニーの弾薬庫として利用する、という狙いもある条約となった。
(当時の中央通信の記事を引用)
829年7月16日、フリューゲルに落下した小惑星は上空で複数の破片に分裂、そのうち少なくとも7つの大規模な破片が共和国に落下した。その1つがクリソプレーズ市中心部に落下、中心市街全域が破壊された。死傷者数は集計が進んでいないが、現時点で20万人を超える死者とそれに匹敵する数の行方不明者が報告されている。落下した隕石の破片は直径が2km程度と見られ、621年9月にクリソプレーズ市南西60kmに落下、200万人を超える死者を発生させたものと同程度の規模であると軍部委員会が発表した。
幹部会を構成する9名の委員長は隕石落下時に全員がクリソプレーズ市内におり、その中で、落下地点から最も近傍にいたペレト・サードオニクス外交委員長の安否が不明になっている。ペレト外交委員長が落下時点で遊説を行っていた地区は隕石落下時の衝撃波で灰燼に帰しており、生存は絶望視されている。幹部会の事実上の筆頭であったペレト外交委員長が不在になったことで中央政府の初動が遅れる一方で、ペレネ・モスアゲート前大統領がジャスパー市の共和国議会議事堂で緊急事態宣言を提案するなど、議会が中心となって被災者の救出・支援活動が行われている。
(引用終わり)
隕石の落下で行方不明になったペレト外交委員長はその後ほどなくして死亡が認定され(遺体は今なお発見されていない)、後任を選出する臨時の投票が実施された。連合党は隕石落下直後の初動をリードしたペレネ・モスアゲート前大統領が自ら外交委員長候補として登場し、これを機会に労働党から外交の主導権を奪還しようと試みたが、労働党の「国際協調外交」に対して広く信頼が寄せられていたこと、連合党の動きが火事場泥棒的にみられたことから、労働党候補のユハル・ツァボライトに大敗を喫した。ユハル・ツァボライト新外交委員長は代々検事を務める家系であり、外交委員長としては「国際社会の正義」をモットーにすることを就任早々に明らかにした。労働党が進めてきた「陣営」より「国際社会全体」という外交スタンスをさらに過激にしたと言えるユハル外交はこれ以降のカルセドニー外交に大きな影響を及ぼすことになる。
激化の様相を見せていた一連の貿易レート問題であったが、冰州国内情勢の変化を背景として同国が鎖国を決定したことにより急転直下解決に向かうことになった。予定されていた議論をほぼ完全に飛ばし、カルセドニー政府が起草した「貿易レート問題に関する共同声明」が当事国6ヶ国の間で合意され、832年5月にこれが国際社会に公表された。その内容は、「資源レートを高額に設定することはほかの種類の物資の価値を過剰に低減させることになりかねない」ことは同意されるが、「個別的な貿易の可否は国家が自由に決定でき、公定レートに拘束される必要性は必ずしもない」ということとなり、両陣営が懸念を有していた事柄についてはおおむね解消されたものと思われる(とカルセドニー政府はとらえている)。
813年戦争の「原因」として最大の軍縮義務が課されていたセニオリス共和国であるが、戦後、818年にFENAの準加盟資格を得、その国際的地位の回復に努めていた。しかし、826年には普蘭・中夏両国による領海による衛星レーザー照射事件、828年には建国されたばかりのミルズ皇国における首都火災の犯人がセニオリス人であったとされる疑惑(普蘭合衆国ベルクマリ・タイムズ紙が報じたものだが、結局カルセドニー・普蘭両国による火災原因調査ではセニオリス人の関与に関する何らの証拠も発見されなかった)などに巻き込まれ、同国は政治的な安定性を見出していなかった。このような状況を受け、829年にレゴリス帝国はセニオリスのFENA正式加盟が認められた直後に同国の「主権意識が欠如している」としてその正規加盟資格を取り消して準加盟に格下げする動議を行った。これに対して、大方の予想に反して普蘭合衆国が反発、セニオリス側を擁護する発言を行った。しかし、セニオリスは両事件に普蘭合衆国及び同国の国内紙が関わっていたことからレゴリス帝国の格下げ動議は「普蘭合衆国の陰謀」であると主張、同国に対する激しい批判をFENA上で行った。そして、この直後に「セニオリス併合条約」がレゴリス・セニオリス両国間で締結されたが、一連の外交的経過を無視して突然出現したこの条約に国際社会からは強い批判が降り注ぎ、特に普蘭合衆国は両国に強い非難を浴びせた。
我が国においては〈赤光〉紙がレゴリスを批判する社説を掲載し、外交委員会は「セニオリス併合条約」の解釈についてロムレー・普蘭と共同で質問状をレゴリス帝国政府に送付するなどの対応を本件に対して行っていたが、この時点では特に対応を行う予定はなかった。しかしながら、FENA議場でのセニオリス代表カール・マルクバーグ氏の発言を理由に同国政府がマルクバーグ氏を「内乱罪で逮捕した」と発表、それに付随する説明から、外交委員会はセニオリス国内で社会主義者に対する弾圧が行われている可能性を認識、社会主義4ヶ国(ヘルトジブリール、カルセドニー、トルキー、ギルガルド)で共同質問状をセニオリスに対して送付した。この直後、セニオリス国内でクーデターが発生、「ラングラード臨時政府」なる政府が登場した。我が国はこれを武力による国家転覆で、許容されるべきではないとの声明をレゴリス帝国との間で発表したうえで、「セニオリス地域平和維持活動実施」を声明、6ヶ国連合軍をもって「ラングラード臨時政府」に対する攻撃を行った。連合軍ともともと軍縮を強いられていたセニオリス側との実力差は圧倒的で、戦闘は短期間で終了し、事実上降伏したセニオリス地域(現在は「クラリス共和国」と名乗っている)は6ヶ国及び便乗参戦した中夏を含めた有志連合軍の保障占領下におかれている。
鎖国後に正式に採択されたカルセドニー連合憲法に基づいて705年末にレンデ・アゲートが初代カルセドニー連合大統領に選出された。レンデは民衆の強い支持を背景に強力な社会主義政策を続けたが、消費財の供給をほとんど海外に頼っていたカルセドニー内の物資供給は一瞬のうちに危機に陥り、唯一貿易関係を継続したヨリクシ共和国との貿易や都市部の手工業者の努力をもってしても慢性的なモノ不足は解消されなかった。レンデは政権の維持のために軍部との協力を推し進め、結果的に労働党内の組合派(地方の労働組合を母体とする勢力)とレンデを中心とする共産派(旧共産党の党員及び軍人を母体とする勢力)の関係は次第に悪化することになった。
レンデは3期15年にわたり連合大統領を務め、720年の選挙に立候補せず、後継者に同じく共産派のレペイ・ヘリオトロープを指名して政界を引退した。
レンデのあとを受けて721年から連合大統領に就任したレペイ・ヘリオトロープはレンデ以上に軍部との癒着を深め、共産派と組合派の関係はいよいよ悪化した。軍部と協力に結び付いたレペイは組合派の弾圧を図り、いくつかの労働組合系組織が解体を命じられるなどカルセドニー革命の理念はほとんど消滅するに至った。しかし、組合派の方が民衆から人気があったために国内の反発は著しく、レペイ政権の末期には国内の治安は極めて深刻な状態になった。
レペイは自らの地位を守るためにレンデが固辞した連合大統領4期目を目指すと表明、これが引き金となり734年に暗殺された。暗殺者は内務公安委員会に拘束される前に自殺したため暗殺の動機は不明のままだが、レペイはあらゆる方面に敵を作っていたためこの結末は想像に難くない。レペイの死後、およそ3年にわたって共産派と組合派の抗争が続き、当初は軍部の支持があった共産派が優勢であったが、軍内部にも分裂が生じ結果的に組合派が政界を掌握する形となった。
738年に3代目の連合大統領に就任したテシク・スティショバイトは軍部と組合派の融和を図り、軍部のクーデターを防ぐためだけにその任期を費やすことになった。751年に後を継いだトリク・ユーファストーンも個人的な国民からの人気こそあったもののさほど立場は変わらず、軍と党の不安定な関係は国内情勢の安定化を妨げた。当初は組合派にあった民衆の支持も次第に失われ、752年に行われた革命50周年記念式典における“共和派”への特別恩赦も国民感情にに対した変化をもたらさなかった。また、国際的に「豊作危機」と呼ばれる聖樹生産の著しい減少は国内の食料供給を崩壊させ、トリク政権は革命後最悪の情勢に直面することとなった。
このころ、旧世界からの移民船が漂着するという事件があった。この移民船は旧世界でもフリューゲルでもない第三の惑星を経由してフリューゲルにたどり着いたという異色の経歴があり、さらに代表は「ロニア」と名乗り、断絶したと考えられていた「5大氏族」の生き残りであると主張したため話題を呼んだ。氏族信仰を否定する立場の労働党は情報の抑え込みを図ったが、噂は一瞬にして広まり、結局労働党も「赤光」で事実関係について報道を行った。トリクが恩赦した“共和派”はロニアを祭り上げて「旧世界不滅論」と「氏族信仰」が結びついて成立したルナ教と結びついたため一気に勢力を拡大、一介の非合法組織から有力な政党として頭角を現した。
トリクの3期目の終わりが近づき、有力な後継者のいなかった労働党組合派は共産派から次第に突き上げを受け始めた。トリクの個人的な人気でもっていた組合派政権はその退任と同時に崩壊しかねなかったため、トリクは起死回生の策として共和党(“共和派”が形成した右派政党)が主張し、進歩党(労働党の衛星政党となっていた社会民主党の後身)が同調していた普通選挙の実施に同意した。共産派は当初「真の社会主義を破壊しようとする右派反動勢力の試みは受け入れられない」などとして普通選挙を拒否しようとしたが、連合議会は過半数の議員(進歩党・労働党組合派)が参加を拒否したため麻痺状態になり結局は共産派も憲法制定議会選挙に参加せざるを得なかった。
本稿では、カルセドニー社会主義連邦共和国及びその前身であるカルセドニー連合、カルセドニー島共和国、カルセドニー島入植地の歴史について主に記述する。なお、以下の記事は全てカルセドニーによる歴史記述であり、完全な中立性に基づいて書かれているとは言えない。あくまで、「カルセドニーの視点からの歴史」であることを留意したうえでお読みいただきたい。
カルセドニー島の人口の大部分を占める“パームグラネット民族”は全て、旧世界の北極海(Arctic Ocean)に存在した柘榴諸島(Pomegranate Islands)からの移住者である。本項では柘榴諸島のパームグラネット民族の歴史について述べる。
旧世界では、パームグラネット民族の伝統的な暦であるパームグラネット暦と、近代国家成立以降に周辺諸国との関係により作られた海域暦の2つが併用されていた。旧世界からの移住計画であるカルセドニー計画が行われた時期は海域暦2275年、パームグラネット暦2457年である。
柘榴諸島の歴史はパームグラネット暦紀元前800年頃に発生した「始まりの大火災」から始まる。これ以前の歴史はこの「始まりの大火災」によりすべて焼失したため、口承による伝説程度のものしか残っていない。
柘榴諸島ではこれ以降数多くの王朝が興亡したが、最終的にリヨ・ラノ・レハ・ロニの4族が最高位の氏族であるルナ一族を中心に緩やかな連合を行う連合王国体制が成立して安定した。しかし、パームグラネット暦2300年代から次第に連合体制はその実を失っていき、事実上4つの国家が柘榴諸島に分立する情勢となった。
結局、4国は抗争を繰り返した末、4国の1つである“アルフィク”の主導により統一され、近代中央集権国家である“連邦”がパームグラネット暦2367年5月(海域暦2199年3月)に成立した。連邦は旧来からの4国をそのまま構成共和国として引き継ぎ、共和国の首相には各族の当主が、連邦の大統領にはルナ一族の当主(名前は伝わっていない)が就任した。そのため、連邦は共和制と言うよりむしろかつての連合王国体制に近いものであった。
連邦は成立後、それまでの柘榴諸島の政権で初めて柘榴諸島の外にある諸国との接触を図った。その中でも同じ北極海内の諸島を領域としていたエーリック合衆国などの諸国と連邦は友好関係を築き、緩やかな経済同盟である“アークティック経済同盟”を海域暦2213年(パームグラネット暦2382年)に成立させた。アークティック経済同盟の加盟国の経済基盤は強くはなく、世界全体に与える影響は小さかったが、連邦がある程度地域内で主導的な役割を果たすことになった。
しかし、アークティック経済同盟の成立とほぼ時を同じくして旧世界は急速な衰退を始める。その端緒となったのが世界全体の発展に重要な役割を果たしていたラ・マジョルカ島政府の崩壊で、その後も世界の諸国の政府崩壊が相次いだ。連邦はこの中で政府が崩壊したエーリック合衆国の領域に進駐、同地域の治安維持を行うなどしたものの、世界全体の衰退を食い止めることは叶わなかった。
世界全体の衰退を憂慮した連邦の第2代大統領ルナハは、海域暦2275年(パームグラネット暦2457年)に人口の一部を他惑星に移住させる計画を立てた。それが、カルセドニー計画である。旧連邦は汎用型大気機動宇宙船”イレギュラー”の運用経験がなく、無人の人工衛星の打ち上げ経験のみしかなかったため計画は困難を極めたが、何とか実用に耐える有人宇宙船を作り上げて打ち上げた。しかし、大部分の宇宙船は粗雑な設計から故障を生じ、フリューゲルまでたどり着くことができたのはごく一部でしかなかった。
また、この際に“5大氏族”に属する人々は優先的に計画に参加したが、エーリック島に移住し行方が分からなくなったロニアを当主とするロニ一族が計画に参加せず断絶している。また、ルナ一族の当主であったルナハ自身は計画への参加を拒否したためルナ一族の宗家は旧世界に残り、カルセドニー計画に参加したのは分家のルナリのみとなった。
旧連邦は「海域」全体の中で強国とは言えない国家だったが、海域のほかの国家がすべて崩壊したために海域歴2276年初頭に「世界最大の経済大国」として表彰された。このことを「裸の王様」事件と言い、旧連邦時代の世界的な衰退を象徴している。カルセドニー計画参加移民船団は宇宙空間で旧連邦から通信を受け取り、この事件の発生を把握した。しかし、これが旧連邦と移民船団の最後の交信となった。
旧世界からの通信はこの事件を最後に途絶えたため、カルセドニー島共和国は現在この「裸の王様事件」を旧世界の消滅として捉えている。しかし、旧世界はまだ滅びておらず、旧連邦の最後の大統領となったルナハや、エーリック島に渡って行方不明になったロニアがまだ生存していると信じている者も多い。これは氏族信仰と結びつき、“旧世界不滅論”として今でも唱えられている。
カルセドニーの入植開始から初めの5年間は極めて困難な時代だった。鉱山開発は進展こそしたものの当時の先進国との外交的衝突を立て続けに引き起こし、国内情勢は不安定で2度に渡る都市化闘争は度重なる政変を呼び、経済成長が軌道に乗るまでのこの期間はカルセドニー国民にとって最も苦しい時代となった。
カルセドニー計画に参加した移住者のうち、きわめて幸運な一部のみが生きてフリューゲルに到達した。移住者は居住に適した無人島を発見、これを“カルセドニー島”と命名してフリューゲル暦616年11月初旬に移住を開始した。これが、カルセドニー島入植地の建設であり、現在でも“入植記念日”として祝われている。
当時の記録によれば、カルセドニー島入植地に対して最も早く無償支援を提供したのは旧フランドル共和国領(フランドル統一準備政府)で、石材・建材各1億トン、資金3兆Va、食肉2万5000トンの内訳となっている。他にも、アルドラド帝国が“通信費”として1000億Vaを支援したことが記録されている。
カルセドニー島入植地総督府は建国直後の617年初頭にウラン鉱山開発の外資導入を発表した。外資導入は初めに参加国を募集し、その後入札の形式を発表する流れを取ったが、結果としてそれが後述する成蘭連邦王国との貿易トラブルを引き起こした。
外資導入には順にウェールリズセ共和国、昭栄国、レゴリス帝国、ノホ・ヘレコ連邦、アルドラド帝国、成蘭連邦王国が参加したが、後述する事情により開発支援内容の提案を行ったのはウェールリズセ、昭栄、ノホ・ヘレコ、アルドラドの4ヶ国のみとなった。
カルセドニー島入植地総督府がウラン鉱山開発について各国と折衝を行っている最中である617年5月下旬、カルセドニー島西方沖で津波災害が発生した。1ヶ所の農村と2ヶ所の村落が壊滅し、死者は20万人に達するカルセドニーで初めての大規模災害となった。被害は甚大かと思われたが、総督府はこれを直ちに国際社会に発表したため、各国から莫大な支援が到着、“津波特需”と呼ばれるまでの経済効果があった。津波災害から50年が経った667年、リヨネ大統領は当時の各国の支援に感謝する旨の演説を行っている。記録に残っている各国からの支援物資は以下のとおりである。
外資導入の形式を総督府が発表してから22期後の617年7月、総督府は国内の燃料不足(当時の燃料備蓄は1500万ガロンまで落ち込んでいた)による開発停滞を危惧し成蘭連邦王国及びレゴリス帝国代表の開発プラン提示を待たずに外資導入国をそれまでに協定案を提示した中で最も条件の良かったノホ・ヘレコ連邦に決定した。しかし、この突然の入札終了より公募から突然締め出された形になった成蘭連邦王国及びレゴリス帝国は遺憾の意を表明し、特に成蘭連邦王国は「大使館を利益代表部に降格させる」などとかなり強い態度で総督府の対応を批判した(なお、この時点で成蘭連邦王国とカルセドニー島入植地の間に大使級外交関係は存在せず、大使館も設置されていなかった)。
総督府はこの件をあまり重大にとらえておらず、成蘭側との交渉はリヨル・カーネリアン暫定総督兼外務委員長ではなくリヨン・ジャスパー外務副委員長が行った。リヨンは成蘭側の心証を若干改善することには成功したが、結局両国の外交関係は長く利益代表部にとどまることになる。
この件を受け、住民会議ではリヨル暫定総督の問責決議案が審議されたが否決された。リヨルの対外関係より国民の生活維持を優先する判断が評価されたといえる。
成蘭連邦王国からの非難と前後して、外資導入国に決定したノホ・ヘレコ連邦の代表からも懸念が表明されたため、ウラン鉱山開発の対価は当初の予定であった燃料貿易契約ではなく、燃料定期輸出に関する公開入札の形となり、公募に参加できなかった各国に配慮した形となった。
ノホ・ヘレコ連邦からは資金90兆Va及び建材5億トンの莫大な支援を受け取り、これを利用してウラン鉱脈の探査が行われた。ジャスパー山におけるウラン鉱脈の探査は難航し、618年4月になって第19次調査隊がついにウラン鉱脈を発見した。
ウラン鉱山の開発終了後、カルセドニー島入植地総督府は燃料取引に関する公開入札を行う旨発表したが、この際の最低入札価格を1億ガロン=2兆Vaとした。これは、もともとノホ・ヘレコ連邦の開発支援案にこのレートでの取引が求められていたため、同国は確実にこのレートで入札すると総督府が予想されていたためであった。
この公開入札に対し、新興諸国経済理事会(ENEC)が入札が開始された618年5月中旬にこの公開入札に対し“世界的な燃料価額上昇を招く”などとして是正を勧告したため、総督府は公開入札を「取引レートを1億ガロン=2兆Vaに固定、複数国が入札した場合はくじ引き(に近い方法)で取引国を決定する」という方針に変更した。しかし、成蘭とのトラブルに続きENECとも問題が生じたことを原因として公開入札は国際的に支持されなくなり、結局公開入札への参加国は現れなかった。
これ以降、カルセドニーの燃料輸出は1億ガロン=1.5兆Vaを基本レートとするようになったため、総督府は燃料を高レートで輸出する機会を逃したといえるが、貿易契約にとらわれない柔軟な燃料輸出を行えるようになったと本件を好意的にとらえる見方も多い。
移住者によるコロニー群に過ぎなかったカルセドニー島入植地は、619年以降次第に国家機能を整えていった。その過程で、619年3月中旬に議事堂が建設され、3月下旬にはクリソプレーズ入植地に首都機能が整備された(首都建設を619年9月とするのは誤り)。議事堂では住民会議が開設されたが、住民議会には実際的な権限は一切与えられず、総督府の支配体制を強化するためのものに過ぎなかった。
クリソプレーズ入植地の首都化に伴い、同地に人口が集中し、郊外にはスラム地区が乱立することになった。しかし、総督府はクリソプレーズ山の鉄鉱山開発を優先し、これらのスラム地区に対して何らの対応も取らなかった。国内で初めて総督府に対する批判を掲げるデモが発生した619年9月に総督府はようやく事態の重大性に気が付き、社会保障制度の設置など改革方針を示したが、時すでに遅く619年10月下旬に総督府に反発する大規模な暴動が発生した。これを第1次都市化闘争という。
総督府は11月中旬に総督府陸軍を派遣して暴動を催涙弾などで鎮圧するとともに、公共投資や社会保障政策を矢継ぎ早に実施、数ヶ月の間反政府勢力は沈静化した。
第1次都市化闘争が鎮圧されたのち、およそ8ヶ月の間国内で暴動は発生せず、危うい均衡が維持されていた。しかし、620年7月下旬に再度暴動が発生、総督府陸軍の一部に不服従が発生するなど総督府側の対応が遅れたために620年9月に1度はクリソプレーズ入植地が完全に暴徒に制圧され、政府機能が停止する事態となった。この際、暴徒に沈静化を呼びかけるとして自ら市街地に出たリヨル・カーネリアン暫定総督が暴徒に襲撃され重傷を負い、政務の遂行が不可能となった。
総督府内ではリヨルの負傷を受け総督の任務を代行する者を決めるため会議を開いたが、この際に総督府陸軍の支持を得たハギワ・サードオニクス防衛委員長が総督府内でイニシアチブを握り、委員長間の互選を制して暫定総督代行に就任した。ハギワは就任直後に当時の暫定議会であった住民会議の解散と自身に対する全権委任を要求したが、総督府内で猛反発にあったためこの計画は頓挫した。しかし、ハギワはクリソプレーズ市街の暴徒に対し実弾を用いて鎮圧するように指示し、住民側に100人以上の犠牲者を出しながらも暴動を鎮圧した。
第2次都市化闘争はハギワの総督府陸軍派遣で終了したとされるが、暴動の継続した期間は2ヶ月に及び、経済被害は直接的なものでも60兆Va、施設の再建費用も含めればそれ以上となるカルセドニー島最悪の国内混乱となった。
第2次都市化闘争で首都周辺が混乱する一方で、東へ150km離れたアゲート入植地では総督府陸軍1個大隊が駐屯して中央の混乱の波及を防いでいた。しかし、620年9月中旬に発生したハギワの暴徒に対する強硬な軍事介入の報が伝わると、アゲート入植地の反政府勢力がこれに対して蜂起、総督府陸軍の駐屯地を襲撃した。駐屯地内部でも反乱が発生するなど適切な対応が取れなかった陸軍側は装甲車などの装備を放棄して首都方面へ敗走、蜂起勢力は駐屯地を制圧して装備を鹵獲した。
敗走した陸軍部隊から情報を得たハギワ暫定総督代行は617年のウラン鉱山開発支援協定以来関係が深かったノホ・ヘレコ連邦に反乱の鎮圧を依頼、ノホ・ヘレコ連邦空軍の爆撃によって蜂起勢力は駐屯地ごと消し飛んだ。
ノホ・ヘレコ連邦軍の迅速な対応により被害の拡大は防がれたものの、アゲート反乱はカルセドニー島の歴史上唯一の組織だった勢力による反乱であり、これ以降の陸軍の装備体系など非常に大きな影響を与えた。
アゲート反乱の際に反政府勢力に鹵獲された物と同じアルデラミン装甲車
第2次都市化闘争の直前からアルドラド帝国と、その終結後からノホ・ヘレコ連邦と相次いで燃料輸出取引が開始され、共和国は比較的潤沢な資金を獲得することに成功した。その中で、総督府は620年11月から社会保障指数を大幅に引き上げ、国内情勢は総督府に好意的とは言わないまでも敵対的ではなくなった。しかし、ハギワはその強権的な手法を崩さず、ハギワ政権への反感は強まるばかりだった。
その中で、リヨル・カーネリアンに代わって外務委員長に就任していたリヨン・ジャスパーが総督府内の反ハギワ派のリーダーに推され、621年5月にリヨンはハギワ政権に対するクーデターを敢行した。総督府陸軍は静観を決め込んだため、総督府内にハギワの味方をする者はおらず、ハギワは暫定総督代行から失脚した。陸軍の指揮官としては優秀だったハギワは防衛委員長の職には留めおかれたが、総督府内での発言力はほぼ失われた。
リヨンは総督府の委員長間の互選で暫定総督代行あるいは第2代暫定総督に就任すると見られていたが、静養中だったリヨル暫定総督の意見で国家指導者を決める国民投票が行われることとなった。しかし、当時リヨン以上に知名度のある政治家はおらず、リヨンは圧倒的な得票を集めて国家指導者に選出された。
国家指導者の名称は暫定総督代行が予定されていたが、リヨンの希望で「大統領」に変更され、国名もこれに合わせて「カルセドニー島共和国」に変更された。現在ではこの国民投票(第1回首長選挙)が行われた621年5月19日を共和国の建国記念日としている。
カルセドニー島共和国が建国されてからの初めの10年は見るべき対外政策はなく、共和国のエネルギーはもっぱら国内の経済成長と貿易による物資の獲得に注がれていた。都市化闘争が終わり軌道に乗ったカルセドニーの経済成長はすさまじく、商業売上高は632年まで624年の例外を除いて2桁成長を成し遂げ、共和国は一介の最貧国から経済成長を続ける新興国へと発展した。
共和国の建国から間もない621年9月8日、カルセドニー島を史上最大の災厄が襲った。首都クリソプレーズ市(共和国の成立に伴い入植地から市へと名称が変更された)の南西60kmの地点に直径2kmの巨大隕石が落下、直径90kmの巨大なクレーターが生じクリソプレーズ市は爆風で壊滅的な被害を受けた。大統領府(入植地時代の総督府と実質的に同じ)のメンバーは大統領府地下のシェルターに非難して難を逃れたものの、200万人を超える死者が発生する未曽有の大災害となった。
この後再建された首都がすぐに火災で壊滅するなど、この巨大隕石で共和国の中枢の受けた打撃は大きく、現在に至るまで最悪の災害となっている。
622年3月、共和国南部のクリストバライト市に現代都市が建設された。これは国内初の現代都市であり、630年までにさらに3ヶ所の現代都市が建設され共和国はこれ以降商業をその経済の柱とすることになる。
現代都市建設に伴い建設されたクリストバライト市庁舎は湾曲した建物のデザインが特徴的で、ひときわ目を引く建物である。正面の広場にはブロンズ像が立ち、夜は建物全体がライトアップされて幻想的なムードが漂う。クリストバライト市庁舎はカルセドニーを代表する建築物で、632年のクリストバライト9ヶ国会議、686年の国際交易協力機構条約(クリストバライト条約)の調印式はこの建物で行われた。
共和国のシンボル、クリストバライト市庁舎ビル
621年の第1回首長選挙と同時に第1回共和国議会選挙が行われ、住民会議は共和国議会に発展した。しかし、基本的に政治権力は入植地時代の総督府と同様に大統領府に集中していた。そのため、議会側では三権分立の確立と憲法の制定を求める声が強くなっていった。625年には憲法制定に向けた有識者会議が設置され、627年9月30日に大統領府が提出した憲法草案を共和国議会(当時の報道に“国民議会”との表記が見られるが、これは誤りである)が可決、成立させた。
憲法では行政権は国民の選挙で選出された大統領が行使すること、立法権は共和国議会がこれを行使するが大統領は法案の拒否権を有することなどが定められた。憲法制定にはリヨン大統領の意思が大きくかかわったため、大統領の任期は20年と極めて長く、3選までできることと合わせると最大60年間同一人物が大統領を務めることができる制度となり、反リヨン派からは「終身大統領制」と揶揄されるなど問題点もある内容だった。
共和国は商業化を志向していたが、その一方で農業生産高を比較的高い規模に保とうとしていた。その副産物として現代都市に付属する工業が完全に稼働していたため、大統領府はこれを有効活用するため工業政策を重工業に変更し、国内の商品需要の一部を賄おうと考えた。重工業は630年代の共和国の一大産業となり、工業生産は最も多い時で8800億Va/期にまで成長した。しかし、重工業の原料である鋼鉄の消費が想像以上に多く(工業人口200万人で5000万トンの鋼鉄を毎ターン消費するが、これは鉄鉱山1基の生産量とほぼ同じである)、工業規模の拡大に伴って鋼鉄の莫大な消費が逆に共和国経済を圧迫し始めるに及んで642年に重工業政策は終了した。
結果的に重工業化による鋼鉄供給の減少はこの後の共和国の外交政策に大きく影響することになった。
630年12月7日、627年に成立した憲法に基づく初めての“憲政下の”大統領選挙・共和国議会選挙が行われた。当時の議会は右派の国民党と左派の民政党の二大政党制に近い情勢で、事実上両党の一騎打ちとなったが、リヨン・ジャスパーの人気は圧倒的で、65%の高い得票を得てリヨンが初代大統領に当選した。同時に行われた共和国議会選挙でもリヨンの支持基盤である国民党は100議席中69議席を獲得する圧勝で、リヨン政権はその地盤を固めた。
「入植と混乱の時代」がカルセドニー国民にとって最も苦しい時代であったならば、この時代はカルセドニー国家にとって最も苦しい時代であった。共和国の経済発展のために大統領府が行った外交政策はことごとく諸外国との軋轢を生み、セビーリャ動乱では共和国は破滅の一歩手前まで追い詰められた。その一方で、この時代はこれ以降の共和国の外交方針を固め、その進む方向を決定づけた重要な時期であるともいえる。
626年に建国されたセビーリャ共和国はサルバドール・プラダ・ルシエンテス大元帥の統治のもと、建国直後に鉱山開発支援国の公募を行っていた。この中でセビーリャ共和国は工業化する方針が明示されたため、商業化に伴い安定的な商品供給源を欲していた共和国は外資導入への参加を表明した。共和国はセビーリャ共和国のウラン・銀鉱山の開発のため資金60兆Va、建材10億トンの支援物資を投入したが、これは当時の共和国の経済規模を考えると相当な負担であった。
しかし、ファシスト党独裁のセビーリャ共和国は国内情勢が極めて不安定であり、セビーリャ政府の言う「共産主義者」「劣等人種」がたびたび反乱を起こしていた。共和国はハギワ防衛委員長の主導でセビーリャ情勢の安定化のため631年7月下旬から635年6月下旬までの4年間に8次にわたる反乱鎮圧作戦を実施したが、セビーリャ情勢は安定化の兆しを見せなかった。国内でもRB通信が「リヨン政権はセビーリャ共和国に対する関わり方を再考するべきであろう」と社説で主張するなど批判が相次いだが、共和国は多額の投資を回収することにこだわったため撤退を決断できず、状況は悪化するばかりだった。
632年1月中旬に国際的な社会福祉に対する不安感(管理サイドの仕様変更で社会保障指数1当たりの幸福度向上効果が0.35から0.2に引き下げられたことによる)からフリューゲル同時社会不安が発生した。社会不安が発生した直後には5ヶ国で同時に暴動が発生するなど、国際的に大きな影響が発生し、特に国内で反乱が頻発したテークサット連合、一時的な警察国家への移行を余儀なくされた昭栄国の両国が最も大きな被害を被った。
共和国内でも社会不安の影響は大きく、政権支持率は一時19%まで低下、連日各地で大統領退陣を求めるデモが行われた。共和国議会では野党民政党が大統領辞任を要求する決議案を提出、与党国民党内部からも造反者が賛成票を投じたが、国民党の主流派はリヨン支持を崩さなかったため決議案は否決され、政府のさらなる混乱は避けられた。大統領府は社会保障の拡充やアゲート市の現代都市建設などの施策を立て続けに実施、およそ3ヶ月が経過した4月に国内状況は社会不安以前の水準を回復した。
カルセドニー島入植地総督府は都市化闘争の時期に暴動鎮圧のため鋼鉄を生産する必要があると判断し、鉄鉱山を開発した。共和国の情勢が安定して以降も国内の防災化のため鋼鉄の生産は続けられたが、余剰の鋼鉄は対外輸出に回されていた。しかし、627年3月に共和国が制定した公定レートでは鋼鉄1億トン=2兆Vaとなっており、このレートでは十分な資金が獲得できるとは到底言えなかった。そのため、共和国は631年に鋼鉄の単価を1億トン=3兆Vaへ引き上げたものの、“鉱山1期あたりの資源生産額”はそれでもウラン鉱山の3分の1程度しかなく、共和国財政に鉄鉱山の維持は非常に負担をかけていた。
大統領府は鋼鉄価格が“国際常識”によって低価格に抑えられていると考え、この状況を打破するために当時国交を有していた鋼鉄生産国であるフリスラーン帝国、クイーンズ連邦、スコッチランド共産主義同盟(他にノイエクルス自由国及びタヂカラオ国が鋼鉄を生産していたが、この時点で両国とは国交がなかった)に対し鋼鉄価格に関する協議を申し入れた。共和国はこの時点で鋼鉄生産国による国際機構の設置を構想していたが、共和国が協議を行っていた3国の中の1国から「国際機構を資源輸出国全体に広げ、フリューゲル資源輸出国機構(OFREC:Organization of Fluegel Resource Exporting Countries)として諸国に呼びかけるべき」という意見を示した。共和国はこの構想に賛同し、当時“資源輸出国”(資源輸出がその主要な資金獲得手段となっている国家)であると共和国が判断していた9ヶ国に呼びかけることとなった。
共和国は634年7月~635年9月にかけて国内の鉱産資源生産量の調査を行った。調査の結果、1年間で鋼鉄は18億1590万トン、燃料は104億6320万ガロンがそれぞれ1基の鉄鉱山・ウラン鉱山から得られていた(ともに、毎ターン資源採掘を行っている)。これを、当時のレートである鋼鉄1億トン=3兆Va、燃料1億ガロン=1.5兆Vaに換算すると、鉄鉱山からは54兆4770億Va、ウラン鉱山からは156兆9480億Vaの収益が上がったことになる。両者の比はおよそ1:3となる。
共和国は先に鋼鉄の価格について協議を行っていた3ヶ国に加え、ヘルトジブリール社会主義共和国、ロムレー湖畔共和国、ゴルカ連邦共和国、エウシウワンジャ共和国、トロピコ共和国、セビーリャ共和国の6ヶ国に資源輸出国機構に関する国際会議への参加を呼びかけ、セビーリャ共和国以外の8ヶ国から参加の連絡を受けた(セビーリャ共和国については、「我が国は資源輸出国を目指しているわけではないので参加を見送る」と断りを受けている)。
国際会議は632年10月10日からクリストバライト市庁舎において行われた。初めに共和国は資源輸出国機構の理念として「加盟各国の平和友好関係」「加盟各国の経済協力・最恵国待遇」「加盟各国の資源の国際取引に関する共同歩調」を提示した。この理念についてはヘルトジブリール・フリスラーン・スコッチランド・クイーンズの各国代表から好意的な意見を得た。
ここで、この会議と同時期に発生したベルサリエーレ王国軍による同国民大量虐殺疑惑について、スコッチランド代表が「軍事大国への軍需物資輸出を抑制し、特に軍事目的の鋼鉄・石油輸出を停止すべき」などとする意見を述べた。これについてクイーンズ代表が異論を唱え、トロピコ共和国代表が「議論が錯綜しており、発言することが困難である」と述べるなど議場は一時的に混乱した。これに対し、共和国は「軍需物資の輸出規制については機構設立前に論じることは相応しくない」と述べ、この件についての議論を中断して理念についての協議を優先させる形をとった。
しかし、この直後にクイーンズ連邦が突然大フリューゲル帝国への改称及び全世界への宣戦布告という暴挙を行い、これに伴いクイーンズ連邦を参加国としていた9ヶ国会議は大きく動揺した。クイーンズの暴走は結果的にすぐに停止したものの、クイーンズのほかにも参加の意思を表明していたゴルカ連邦共和国・エウシウワンジャ共和国が会議に代表を派遣せずに政府機能停止・滅亡するなど会議の混乱は重大なものとなり、共和国は会議の仕切り直しが必要であると判断し各国の同意を得てクリストバライト会議を終了した。
会議の終了の時点で参加していた6ヶ国については、改めて国際会議を開きその際に参加を要請するとされていたが、この直後に発生した鋼鉄レートに関する先進各国との衝突やセビーリャ動乱などの影響で、結局第2回の資源輸出国機構設立会議は開かれることはなかった。
このクリストバライト会議は結果的に何らの具体的な成果もを見出さなかったが、構想の主導国と見なされた共和国が国際社会において良くも悪くも注目されることとなった。共和国の対外政策の開始点となったという意味ではこの会議は共和国に多大な影響を与えている。
628年に建国されたクイーンズ連邦は建国直後から積極的な外交を展開し、クリストバライト9ヶ国会議に代表を派遣する一方で民主化移行を進めており、共和国はストリーダ王国と共同で総督代表選挙の監査人を派遣していた。しかし、634年5月にウェールリズセ連邦共和国が突如としてクイーンズ連邦に対し外交関係格下げを通告し(この理由については「外交姿勢に幾何の危惧を有するに至った」としか発表されておらず、詳細な原因は今もって不明である)、48時間以内に大使館要因を相互撤収するようクイーンズ側に通知していたが、これに対しクイーンズ連邦の大スラブ主義者がウェールリズセ大使館を襲撃、駐在大使及び大使館員が殺害される事件が発生した。
ウェールリズセ連邦共和国はこれに対し最上級の非難声明を発表、クイーンズ連邦に対して宣戦布告を行った。この宣戦布告と前後して行われた総督代行選挙において、民族進歩党員プリヘーリヤ・マトヴェーエヴナ・アヴェルチェヴァ(ガトーヴィチ系移民)が総督代行に当選、自らを皇帝と称し国名を大フリューゲル帝国に変更、全世界への宣戦布告を行った。このとき、共和国の派遣していた選挙監査人は行方不明になり、後に死亡したものと認定されている。
共和国はこれに対し戦時体制への移行を開始したが、1週間のうちに大フリューゲル帝国は滅亡、共和国が戦火にまみれることは結局なかった。その後、大フリューゲル帝国は共同管理区域クイーンズとして戦勝国のウェールリズセ連邦共和国・エーラーン教皇国によって占領下におかれたが、最終的に国際法の処断により消滅した。
この事件について、共和国ではウェールリズセ連邦共和国の突然・原因不明の外交関係引き下げがそのきっかけになったと判断しており、クイーンズ連邦について「ウェールリズセ帝国主義の被害者」とする意見も少なくない。
セビーリャ共和国は共和国の軍事・経済面での支援を受けながら工業化を進める一方で、資金獲得のためエルツ帝国及び石動第三帝国に燃料輸出を行っていた。しかし、同国の燃料輸出は燃料余剰量を大幅に上回り(輸出量は6期あたり14億ガロンに達していた)、結果として634年5月下旬に備蓄燃料の枯渇を引き起こした。共和国はセビーリャ共和国に対し燃料支援を行い、当座の問題を解消したが、セビーリャ政府は燃料問題に対する必要な対応を行わなかった。その一方でセビーリャ共和国では燃料危機の原因と見られたサンティアゴ・セスコ・メンデス産業通商大臣が“行方不明”になり(後に外務大臣のバルドメロ・エンシーナ・レイバが同氏を殺害したとセビーリャ民主共和国政府が発表したが、共和国はセビーリャ民主共和国政府の発表を一切信用していない)、また、旧ク連の全世界同時宣戦の際にはクイーンズ連邦の大使が“公開処刑”(これについてものちにバルドメロ外務大臣の個人的策動によるとセビーリャ民主共和国政府が発表している)されるなど理解に苦しむ事件が多発し、セビーリャに対する国際的な批判は強まっていった。
クリストバライト会議の終了直後である635年7月下旬、大統領府は「637年より施行」として物資輸出レートの改定を行った。改定内容のうち、食料の輸出レートの1億トン=1200億Vaへの引き上げは特に問題なく貿易国に受け入れられたものの、鋼鉄の公定レートを1億トン=5兆Vaへ引き上げたことは国際社会に簡単には認められなかった。国際社会では長く鋼鉄1億トン=2~3兆Vaが標準的な価格として使用されており、共和国の発表したレートはこれを大きく上回っていたために特に軍備に大量の鋼鉄を消費する先進諸国には受け入れられなかった。「災害から人々を守る鉄鋼の力は平時の市場価値により定められるものでない」と事実上鋼鉄の買い叩きを正当化する発言を公共事業相が行った国もあり、先進諸国の鋼鉄レート引き上げへの嫌悪感は並々ならないものがあった。
セビーリャ問題、鋼鉄レートの引き上げなど共和国が国際社会、特に先進諸国との外交軋轢が強まっていることは大統領府内でも問題視された。大統領府はこの問題を解消、ないし緩和するために当時から国際情勢に対し最も大きな影響力を持っていたウェールリズセ連邦共和国に対し外相級会談を提案した。外相会談は635年9月16日にウェールリズセ連邦共和国のサンジュブレで行われたが、ウェールリズセ連邦共和国の外務参事アルフレード・ヴァンタドゥールは会談内で徹底的に冷淡な態度をとり、結局セビーリャ問題・鋼鉄レートのどちらの件についても建設的な対話はできずに終わった。
サンジュブレ会談は現在では共和国とウェールリズセの関係を改善する最後のチャンスであったと考えられているが、これが失敗に終わったのはリヨネ・アメシスト外務委員長(事務協議の際のミスでウェールリズセ側には肩書が外相として伝わっていたが)の外交手腕が不足していたこと、ファシスト政権のウェールリズセ連邦共和国と共和国は決定的に価値観が対立していたこと、などがあげられる。どちらにせよ、共和国はこれ以降ウェールリズセ連邦共和国と同国の滅亡まで対立的な関係を続けることになる。
サンジュブレ外相会談と同時期に、共和国はエルツ帝国より鋼鉄を議題とした外相会談を行いたいと連絡を受けた。リヨネ外務委員長はサンジュブレから直接エルツ帝国に渡り、635年12月にエルツ帝国ティルブルフにおいて同国外相セリーナ・ワイラーと会談が行われた。
会談の冒頭は議論が平行線をたどり、サンジュブレ会談と同様の結果になるのではないかと危惧されたが、両国間の意見の齟齬は次第に修正されていき、最終的には「両国の友好関係を前進させることができ」た。共和国の主張が完全に受け入れられることはなく、結局この後共和国は鋼鉄レートの引き上げを断念せざるを得なかったが、それでも共和国の内部ではエルツ帝国に対する好意的な見方が広まり、サンジュブレ会談で大きく失点したリヨネ自身も“エルツ帝国との建設的な協議を行った名外交官”との評価を獲得、リヨネの大統領府内での地位向上につながった。
国際事件としてのセビーリャ戦争は当該記事を参照のこと
636年3月に発生したセビーリャ共和国政府のウェールリズセ連邦共和国に対する通信をきっかけとしてウェールリズセ連邦共和国はセビーリャ共和国(ウェールリズセの通告直後にセビーリャ民主共和国へ体制変更)に対し最後通牒を発した。この一方で、セビーリャ情勢の混乱を以前から懸念していた共和国はセビーリャと貿易関係にあったエルツ帝国、成蘭連邦王国、石動第三帝国と状況改善のための会議を計画しており、ウェールリズセのセビーリャに対する通告の直前に会議を開始していた。しかし、ウェールリズセ連邦共和国は諸外国の活動を無視しセビーリャに対し軍事的圧力をもって内政顧問団の派遣を認めさせ、さらにセビーリャの貿易関係を変更するように強要するなどの活動を行った。
共和国は4ヶ国協議を継続することででセビーリャ情勢の安定化を図ろうとしたが、ウェールリズセはこの行為に対し「外交上の攻撃策動」とのレッテルを張り、共和国に対し最後通牒を発した。ウェールリズセはさらに4ヶ国協議を支持するといえる発言(「我が国の問題は貿易関係にあったすべての国で話し合うべきであると考えている。」)を行ったセビーリャ民主共和国に対し宣戦布告を行い、もはやこの問題について諸外国と協調して解決する意思がないことを示した。
これに対し共和国は、共和国及びセビーリャに対し好意的な意見を持っていたアルドラド帝国と同盟の締結を含めた外交協議を行ったが、結局同国との同盟は成立しなかったためウェールリズセの恫喝外交に屈して最後通牒を受諾、セビーリャ情勢から完全に手を引いた。結果、4ヶ国協議は瓦解しセビーリャはウェールリズセの攻撃により荒廃することになった。
リヨン・ジャスパーはのちに「軍事力の不十分だった当時の我が国がファシストに支配された国家を外交交渉でどうにかできると考えたことが誤りだったのだろう」と述懐しており、国家ファシスト連合が政権を握るウェールリズセ連邦共和国との関係を交渉によって改善しようとしたこと自体が外交方針の失敗であったと述べている。
アルドラドとの同盟が成立しなかったのは、セビーリャ先生が当時雑談掲示板で暴言を吐いていたことでアルドラドが犠牲を払ってまでセビーリャを救出する価値を見失ったためである。もし当時アルドラドとの同盟が成立して、ウェールリズセとアルドラド(場合によってはエルツ・エーラーンも)が交戦状態になっていれば、これ以降に起こった様々な悲劇は起こらなかった可能性が高い。そうならなかったのは共和国にとって残念なことである。
セビーリャ戦争で世界の主導権を握るウェールリズセ連邦共和国との関係を決定的に損ねた共和国は、長期間にわたり積極的な外交活動を行わず、表面的な休眠期に入る。しかし、この時期は共和国最高の友好国となるヨリクシ共和国や、軍事的な後ろ盾となるアルドラド帝国との関係が進展していった時期とも重なり、将来への下準備を進めていった時期とも言える。
636年までの20年間の不安定なカルセドニーに比べ、この20年間は共和国にとって非常に安定した時期となった。
636年11月20日、クリソプレーズ首都特別区において、ヴェールヌイ社会主義共和国側からの提案によりリヨン・ジャスパー大統領とフェリックス・ティシチェンコ閣僚評議会議長との間で首脳会談が行われた。ヴェールヌイ側は国際的に好意的には見られていなかった9ヶ国会議やセビーリャ情勢についての各国協議について“精力的外交活動”として比較的好意的な見解を示し、その上で共和国とヴェールヌイ社会主義共和国それぞれの元首の“望ましいと考える国際の在り方”について意見交換が行われた。両国の会談は具体的な協定や共同宣言に結びつくことはなかったが、ヴェールヌイ社会主義共和国との相互理解の強化や、共和国の外交理念を伝えることにつながった。
また、リヨン大統領はこの中で「望ましい国際社会の在り方とは、新興国が十分な発言力を確保できる国際社会である」と述べ、共和国の行ってきた新興国支援や資源輸出国会議などについて統一した目的を初めて明確に示した。これ以降、共和国はこのリヨンの思想を対外活動の主軸に据えることになり、諸外国からもそのような国家として認知されるようになる。
会談の際に用いられた両国の国旗。作っていただいたヴェールヌイ先生に感謝!
セビーリャ戦争が未だ継続する637年11月16日、共和国はヨリクシ共和国との間で工業化支援協定を締結した。ヨリクシ共和国は634年3月21日に建国された国家で、ウラン鉱山開発を先進国の支援協定なしで自力で成功させた。635年10月には海賊船の撃沈のための砲弾を提供するなど、建国直後から友好関係を深めていたが、この工業化支援協定で共和国との経済関係が強化されることになった。共和国はヨリクシへの支援にセビーリャを上回る資金60兆Va及び建材20億トンを投入(セビーリャへの支援が鉱山開発込みであったことを考慮すれば実質的な量は額面よりさらに多い)、セビーリャとの経済関係消滅により混乱した共和国経済を回復させる起死回生の一手とした。
ヨリクシ共和国は工業化に成功し、700年現在では年間470兆Va相当のヨリクシ製商品が共和国で取引されている。
639年に共和国議会は憲法改正の発議を行い、国民投票の結果改憲案が可決された。改憲の主な内容は大統領任期を20年から10年に短縮するもので、現職大統領のリヨンの任期も650年までから640年までに短縮された。この憲法改正はリヨン自身の推進によるもので、結果として先のセビーリャ動乱などで低下していたリヨンの支持率は持ち直すことになった。
640年1月16日、ジャスパー山のウラン鉱山で大規模な爆発事故があり、山体が丸ごと消し飛ぶという甚大な被害が発生した(実際は、枯渇した油田を処分する際にコマンド入力を誤り鉱山に対して連続掘削を行ったことが原因である)。大統領府は、クリソプレーズ山の鉄鉱山を急遽閉鎖、採掘物資をウランに切り替えることで事態の解決を図った。早くも2月下旬にはエライ海で噴火が発生、鉱山の再建もかなり迅速に行われたため、共和国の経済に致命的な打撃が起こることはなかった。
ヴェールヌイ社会主義共和国との首脳会談でもこの件について触れられ、同国から最大50億ガロンの燃料提供の申し出があったが、共和国の燃料が不足する事態には陥らなかったため支援は行われなかった。この提案も含めて、ヴェールヌイ社会主義共和国に対する印象は国内では高い。
640年11月27日に行われた第2回大統領選挙では、リヨン・ジャスパーが僅差での再選を果たした。630年代の外交政策の失敗は国内で大きな批判を浴びており、一時は支持率が対立候補とほぼ横並びになるほどであったが、民政党の立てた候補のトコシ・クリストバライトが知名度でリヨンに圧倒的に劣っていたため、結局政権交代とはいかなかった。
一方で、共和国議会選挙では与党国民党はもとより、最大野党の民政党も630年代の危機に対し適切な対応を取れなかったとの非難を浴び、新たに国会に保守党・民主連合・社会民主党の3党が議席を獲得した。社会民主党はこの時点では100議席中の10議席を有する第4党に過ぎなかったが、この後次第に勢力を伸ばし、30年後には代表を大統領の座に送り込むことになる。
643年11月1日、ヨリクシ共和国との間に治安維持協定が締結された。640年3月、ヨリクシ共和国クラ州に「蜂起軍」を名乗る武装集団が出現し、共和国とヨリクシ軍の共同作戦により鎮圧される事件が起こっており、同国との軍事的関係の向上が急がれていた。治安維持協定はヨリクシ共和国内に怪獣や反乱軍が出現した場合共和国が事前承認なしでこれの鎮圧を行える内容で、ヨリクシ国内が不安定な状況になった場合に力を発揮するものと見込まれていた。しかし、ヨリクシ共和国内の情勢はこれ以降同国の軍備が整えられるまでの間常に安定しており、結局655年にナウラ条約の締結に合わせて治安維持協定が解消されるまでの間、この協定に基づいた作戦が行われることはなかった。
643年、成蘭連邦王国政府から大使級外交関係開設についての打診があり、事務レベル協議の末643年11月17日付で正式に大使級外交関係が開設された。この際に、島尾充郎・成蘭連邦王国外政長官がカルセドニーを初めて公式訪問、新大使館開設式典に成蘭政府代表として出席した。共和国からはリヨン大統領及びリヨネ外務委員長が出席、両国間の友好関係を深めることとなった。
成蘭連邦王国との外交関係は建国直後の入植地総督府の実施したウラン鉱山開発外資導入に伴うトラブル以降悪化しており、利益代表部にとどまっていたが、四半世紀を経てようやく関係が改善されることとなった。
なお、成蘭大使に着任することになったキウィン・ウェストカーネリアンはその後両国関係を成蘭連邦王国の滅亡まで友好的に保つことに成功し、その手腕が認められて大統領府内で異例の抜擢を受けた。スポーツ委員長、文部科学委員長を歴任したあと外務委員長となったキウィンは、700年代のカルセドニー革命の際には大統領府の事実上のトップとなり、連合が国内全土を掌握してからは国内で指名手配されている。
638年、かつて大幹帝国や大和寧帝国が存在した幹半島、その周辺地域である中夏大陸にに萬州・和寧民主共和国が建国された。萬和国は共和国に対しウラン鉱山の開発費や議事堂の建設費用の提供を求め、共和国はこれに応じて(完全な無償で)支援を行っていた。しかし、情勢が不安定なまま民主化を行った萬和国は情勢が不安定で、たびたび反乱(後に地方軍閥の蜂起と判明)が発生していた。共和国はこれに対し萬和国の依頼に応じて軍事支援を行い、645年から646年にかけて3次にわたる空爆作戦を行った。
しかし、在石動和寧人向け新聞である石動和寧日報が「萬和国の首脳は旧中夏人民共和国や香麗民主連邦の政府・軍関係者、マフィア、匪賊、海賊であり、政府首脳の朱義清や全三成は中夏軍人・暴力団統領であると報じた。これを受けて石動第三帝国及びスコッチランド共産主義同盟は「和寧地域開放」「萬和政府解体と民族別の自治区制定」「自治区の軍政指導」の3ヶ条の要求を萬和国政府に対し行った。これに対し萬和国政府が拒否したため、648年初頭に石蘇両国は萬州・和寧民主共和国に対し宣戦布告した。戦争は8ヶ月の短期間で終了し、軍事力をあらかた失った萬和軍は逃亡を図った萬和国首脳を捕縛したうえで石蘇同盟に対する降伏を申し入れた。
この戦争の結果、幹半島には和寧第二帝国が建国され、中夏地域及び萬州地域には石蘇同盟による軍政が敷かれることになった。萬州・和寧民主共和国の消滅により同地域との関係を失った共和国はその関係改善までおよそ40年を必要とし、石動第三帝国との貿易関係(同国へは萬和戦争までの間食料を定期輸出していたが、戦争の影響で取引は終了した)も損ねたため大きな損失を被ることとなった。
萬和国への支援はこの時期の共和国の外交における最大の失敗とされるが、630年代の危機的な情勢に比べ“この程度の出来事が最大の失敗に過ぎない”ことはむしろこの時代の共和国の安定さを示しているとされることもある。
リヨン・ジャスパー大統領は健康状態の悪化を理由に3選を目指す出馬をしないことを表明、650年末をもって大統領職を退いた。650年11月20日に行われた第3回大統領選挙では、民政党・社会民主党の推薦を受けたリヨネ・アメシスト外務委員長が国民党候補のレルヒ・コーサイトを破って初当選を果たした。同時に行われた共和国議会選挙においても民政党・社会民主党が合計54議席を獲得し過半数となり、建国以来初めて左派が政権を握ることになった。一方で、下野することになったものの第1党を辛うじて守った国民党に対し、保守党は2議席しか獲得できず、「党の存続が危ぶまれるほどの大敗北」を喫した。この後660年の選挙の前に保守党は国民党に合流、解散することとなる。
642年5月初旬、ヴァノミス連邦はベルサリエーレ第一共和政(ベルサリエーレ共和国)から燃料を対価として砲弾を輸入した。これに対し「ヴォルデリア条約第八条(ヴァノミス連邦の安全保障に関する活動について、連邦最高評議会顧問委員会の許可を必要とすることを定めた条文)違反」との指摘があり、数年経過したのちにヴァノミス連邦政府は砲弾を連邦最高評議会顧問委員会構成国に引き渡したうえで謝罪声明を発表した。
しかし、ヴァノミス連邦がヴォルデリア条約の締結以前から保有していた砲弾の保有についてウェールリズセ連邦共和国はヴァノミスを非難し、ヴァノミスの釈明に対しても批判した上で事実上の最後通牒を発した。ヴォルデリア条約に基づいた手続きを踏まずにヴァノミスへの攻撃を示唆する発言を繰り返すウェールリズセの行動を憂慮したエルツ帝国が顧問委員会を招集したが、ウェールリズセは事実上これを無視したうえで同盟国と共に650年10月中旬(トロピコ戦争と同期)にヴァノミスに対する宣戦布告を行った。この結果、ヴァノミスの防衛義務を負っていたヴォルデリア条約の構成国であるアルドラド=エルツ帝国、及びエルツ帝国と相互防衛条約を結んでいたエーラーン・石動の両国がウェールリズセなどの攻撃側諸国に対し宣戦布告を行った。
強力な軍事力を持つ諸国が一斉に宣戦布告したことで、ウェールリズセ側の陣営は形勢不利と悟りヴァノミスに対する宣戦布告を取り下げたため、防衛側も宣戦を取り下げ世界大戦は回避された。しかし、この結果見捨てられる形となったトロピコ共和国は先述の通り“有志連合”に滅ぼされている。
共和国は商業を主産業とする一方で、食料自給率の維持を国策に掲げ、国土最南西部にスペサルタイト島行政区(世界で唯一の農業改良センターの周囲2HEXを完全に農業化した施設)を建設、大量の近郊住宅地による農業労働力の確保を行っていた。その中で、世界最大の食糧輸出国として知られる昭栄国から農業政策に関する会議の申し入れがあった。リヨネ大統領は就任後初の、外務委員長時代を含めてもティルブルフ会談以来の会談に参加、同国と農業政策、特に食料価格についての協議を行った。会議は最終的に「農業政策への緊密な協力」「食料レートに関する協力」「世界的な食糧需給の改善への協力」などを示した「十河会議共同声明」として結実した。
十河会議共同声明は共和国の農業国としての立場を示したものだったが、この後発生する世界的な商業国の減少を背景として共和国は商業力を大幅に強化し、結果として農業規模は縮小、スペサルタイト島行政区も690年代に解体されたためこの声明の実行力は失われつつある、というのが現在の状況である。
ナウラ条約の締結に始まるこの時代では、共和国は実質的にアルドラド=エルツ帝国の率いる勢力の一員として動くことになった。共和国はこれまでとは比べ物にならない軍事面での後ろ盾を得て、「ある日突然ウェールリズセに宣戦布告される」という恐怖から解放された。しかし、共和国はこの時期同盟国との水面下での協議をするばかりで、第2次セビーリャ戦争という非常事態に際しても表面上は特に何もすることはなかった。この時期を安穏と過ごすばかりであったことが670年代以降の外交面での苦慮につながっているとも言える。
655年4月1日、共和国はヨリクシ共和国及びアルドラド帝国との相互防衛条約であるナウラ条約に調印した。ヨリクシ共和国とは同国の建国以来の深い友好関係があり、アルドラド帝国とはセビーリャ動乱以来同盟に向けた協議を続けてきていたが、これがおよそ四半世紀の協議を経てついに結実した形となった。
ナウラ条約はヴァノミス危機直前に締結され、同事件において世界大戦を回避するための切り札となったエルツ帝国と石動第三帝国間における相互安全保障条約を参考にアルドラド帝国が起草したもので、各国が紛争に巻き込まれた際の相互参戦を規定する一方、これに「締約国の意思と希望に反する」という条件を加えることで制限を加えている。この規定は加盟国に参戦に関する柔軟な対応を可能にするものであるといえるが、一方で同盟関係を強固にすることへの妨げとなっているという意見も存在する。
この条約の文面は共和国政府によって手直しされたうえで後に締結されたエンディバラ条約・暁城条約・アウクシリア条約にも使用されており、共和国の安保条約のベースとなっている。
詳しくは当該記事を参照のこと
638年2月14日に終結した第1次セビーリャ戦争後、セビーリャはセビーリャ自由共和国として信じられないレベルの発展(最盛期には人口は8000万人を超えていた)を遂げたが、そのあまりに急激な膨張に資源供給がついてこず、しばしば燃料危機やそれに伴う取引国への商品の未配を起こしていた。これに対しいくつかの国は同国に対し借款や無償支援を行ったが、セビーリャ政府は適切な対応を取らなかったため経済状況は悪化する一方だった。
その中で、665年10月中旬にウェールリズセ連邦共和国以下セビーリャ統治委員会構成国はセビーリャ自由共和国に突如宣戦布告を行った。その理由について「セビーリャ人民の信託や我々の信頼を裏切った」などとされたが、ここに至る外交交渉は共和国が察知している限り何一つ存在せず、各国の報道も「セビーリャ自由共和国の放漫財政を契機とした社会不安について、同国政府が統治委員会に責任を競うとしたことに端を発する」(「Tribune de Lomeray」紙、ロムレー湖畔共和国)、「セビーリャ政府は)反乱の発生に対してその統治委員会諸国に対して鉄面皮にも鎮圧を要請した(ことが宣戦の直接の原因)。」(「アルビオンタイムズ」紙、アルビオン連盟王国)などと混乱しており、今回の戦役の背景状況の不透明さを示している。
セビーリャ自由共和国はデルタ・ベルン講和条約によって一切の軍備保有を禁じられており、統治委員会構成諸国の攻撃に対し一切反撃することはできなかった。8000万人の人口を有したセビーリャ地域は焦土と化し、住民のほとんど(軍備を有さないため、当然すべて民間人である)は無差別殺戮の憂き目にあうことになった。667年2月初旬、中央政府の崩壊により組織されたセビージャ北部臨時政府が無条件降伏を宣言、同国はあらゆる統治権を失い旧統治委員会諸国の完全な植民地とされた。その後、セビーリャ地域は諸国の統治に対し反乱が頻発する無法地帯となったまま連合国占領委員会(旧統治委員会)により超長期閉鎖とされた。
共和国はこれらの事態について引き続き静観を保ち、セビーリャ地域からの資本引き上げも問題なく終わったが、国内ではセビーリャ系移民を中心にセビーリャ解放運動がおこり、セビーリャ民族同盟(後に民主連合へ合流)などの極右系の組織が多数形成された。
638年に観測衛星「ベテルギウス1」が打ち上げられて以来、共和国における大規模な地震災害は絶えて久しかったが、667年4月から668年1月にかけて立て続けに4回の地震が発生、被災者は合計で300万人に上った。この災害は近年最悪のものであったため、大統領府は非常事態宣言を発表し、当時国際社会で活躍していたヨリクシ国際緊急援助隊の派遣を要請し両国で共同して事態の収拾にあたった。この地震災害は共和国の情勢を一時的に不安定にし、これが670年の政変の原因の1つになったとも指摘されている。
669年頃、アルビオン連盟王国との間で平和友好条約が締結された。条約は両締約国の武力行使を禁じ、外交問題に対する平和裏の解決を図る内容となっている。スコッチランド共産主義同盟時代に9ヶ国会議に参加して以来、同国とは比較的有効な関係が続いていたが、この条約の締結で互いの同盟国に次ぐ強い関係が築かれることになった。この後、アルドラド=エルツ帝国が滅亡した後、共和国はこの条約に端を発するアルビオン連盟王国、及びその同盟国である石動第三帝国を(同盟国を除いた中での)最友好国として外交を展開していくこととなる。
蒼鋼国は669年に建国された新興国で、共和国は建国された直後の669年6月中旬に諸外国に先駆けてウラン鉱山の開発支援を行い、さらにノホ・ヘレコ連邦と共同で工業化支援協定を締結した。工業化支援協定に基づいて工業化顧問団が派遣され、工業化のための助言を文書で行ったが、この文書は共和国のこれまでのヨリクシ共和国に対する工業化支援や、各種の新興国支援から得られた工業化のノウハウが詰まっており、共和国の新興国支援体制の成熟を示す資料となっている。この文書は「工業国になるには」の形で公開され、現在はだれでも閲覧することができる。
新興国の皆さん、これを読んで工業化してください!オナシャス!
Twitterによる投票の結果、共和国はその支持基盤が中途半端な状態のままでレハシ・ウェストカーネリアンという革新的に過ぎる人物をその元首の座に迎えることになった。レハシの大統領当選からその退場までの期間は4年強に過ぎず、カルセドニーの歴史からすれば極めて短い期間であった。しかし、彼の時代は共和国の国際社会での地位を著しく高め、その分大きな責任を背負い込むことになった。血みどろのテロリズムによって終わりを告げた彼の時代の残照は7世紀の終わりまでカルセドニーを支配し、結局その終わりは再び血みどろの革命を必要とすることになる。
レハシ・ウェストカーネリアンは旧世界のアルデラミン共和国の首相、また中央政府では工業資源大臣や商業大臣を務めたことで知られるレハルの直系の玄孫であり、その革新的な政策とは対照的に名族の出である。しかし、彼は若いころにその一族を捨て、弱体な勢力しか有していなかった社会民主党に入党した。社会民主党の中でたちまち頭角を現したレハシは、共和国の本格的な社会主義化など不可能だと考えていた当時の頭の主流派を抑え、668年1月18日に社会民主党の代表選挙で代表に就任した。
大統領候補となったレハシは、対内的には「労働者評議会の設置」や「大統領権の縮小」などを公約とし、対外的には「共和国の国際社会での地位向上」(いわゆるレハシ外交)を主張した。リヨネ大統領はレハシが共和国を赤化しようとしていると訴えたが、労働組合などの反発を買ったため苦戦を強いられ、670年11月18日に行われた結果としてわずかな差でレハシが勝利を収めた。しかし、同時に行われた議会選では左右に分裂していた民政党のうち、左派が社会民主党に合流して消滅、結果として左右両陣営も議会の過半数を握れない状況になった。無所属議員は右派についたため、レハシ政権は発足当時から議会の支持を得られない状況となった。
レハシは大統領府委員会委員長評議会の設置を行い、さらに慣例に反して大統領府のメンバーを大幅に入れ替えるなどの改革を行ったが、これは国内で称賛される一方で敵対的な勢力を生むことになった。
レハシの大統領就任の同年である671年、共和国の最大の軍事的後ろ盾であったアルドラド帝国の政府機能が停止した。すでにエーラーン教皇国・エルツ帝国の政府も停止しており、共和国が頼みとしていたエルツ帝国を中心とした陣営は事実上崩壊することとなった。
共和国はアルドラド帝国の政府機能回復を期待し、同国が大規模に行っていた中継貿易の維持のために100億ガロンを超える燃料をアルドラド帝国と貿易関係にあった石動第三帝国・ストリーダ王国などに流したが、結局アルドラド帝国の状況は回復しなかったため、政府機能停止が72期に達した時点で支援と貿易を打ち切り、アルドラド帝国の滅亡に備えた外交姿勢へ転じることとなった。
673年、石動第三帝国及びアルビオン連盟王国は「サン・ピエル共和国に対する共同要求」を発表、サン・ピエル共和国の「無礼な外交」に対する非難を述べたうえで同国の事実上の属国化を要求した。サン・ピエル共和国はこれを事実上拒否し、石亜両国の対サン・ピエル宣戦は時間の問題であるかに思われた。
共和国は軍備を有さないサン・ピエル共和国が石亜両国の攻撃で破滅すること、石亜両国が本件で国際社会から非難を浴びることを予測、これを回避し、本件を穏便に収めるため仲介を提案、両陣営がこれを受け入れたため協議が行われ、石亜両国の要求を事実上呑む形の条約の締結が最終的に行われた。しかし、ソサエティが石亜両国を非難、結局石亜両国はソサエティとの関係を決定的に損ねたあげくサン・ピエル共和国の権益を手放すことになった。
共和国がこの問題に第三国でありながら介入したのは、アルドラド帝国の政府機能停止によってイデオロギーの近い(反ウェールリズセ的な)国家群がもはや石動第三帝国の率いるFuCoSTOしか存在しなくなっていたためである。サン・ピエル危機が世界大戦に発展し、石亜両国が滅亡してしまえば共和国はウェールリズセ主義の大海の中で完全に孤立してしまうことが警戒されていた。また、レハシ大統領の個人的な思惑としては外務委員会の強い主張によって前政権から引き継がなければならなかったリヨナ・クリソプレーズ外務委員長をすり潰し、政界から叩き出すことがあったとされる。実際、リヨナはこの直後に「体調不良」を理由に外務委員長を辞し、その後レハシ政権が終わるより早く病死している。リヨナはリヨネの息子で、後継者と目されていたためそれが若死にすることはのちの大統領府の暴走につながることとなる。
サン・ピエル危機が世界大戦寸前まで悪化するに至り、共和国は御岳山諸島自治巫女共和国及び蒼鋼国との間で相互安全保障条約をそれぞれ締結した。御岳山諸島自治巫女共和国との外交関係は旧辺境日ノ本人皇国が政府機能停止に陥って以来不透明になっており、両国の駐在大使もいなかったため、協議は両国がともに国交を持つアルビオン連盟王国の仲介で、それぞれの在亜大使を介して行われた。そのため、674年2月15日に調印された条約の調印式は条約と直接関係ないアルビオン連盟王国内の都市エンディバラ(旧スコッチランド共産主義同盟首都)で行われた。
レハシ大統領はエンディバラから直接蒼鋼国首都暁城府に飛び、3月30日に暁城府において暁城条約が調印された。両国は工業化支援協定以降経済関係を深めていたが、これ以降軍事面での関係も強化されることになる。治安維持協定などの段階を飛ばした直接の安全保障条約は国際的にもかなり異例のものであったが、サン・ピエル危機により両国が緊迫する国際情勢に警戒感を持っていたためか交渉は四半世紀を要したナウラ条約に比してかなりの短期間でまとまった。
結果的にこの2つの条約の締結がレハシの最大かつ最後の業績となる。
(事件直後のRB通信の記事を引用)
レハシ・ウェストカーネリアン大統領は(675年)2月10日、遊説先のノースジャスパー市庁舎ビルで武装勢力の襲撃を受けた。護衛のSPが応戦したが、小銃のみならずロケットランチャーまで装備した武装勢力は極めて強力であり、最終的に武装勢力はレハシ大統領を人質に取って市庁舎ビルに立てこもった。
武装勢力のリーダーは「無政府共産主義者連盟代表ハギネ・サードオニクス」を名乗り、「真の社会主義を発展させられない現在の政策の中止と真の社会主義実現のための各種政策の実施」を大統領解放の条件として要求した。これに対し、政府軍は迅速な対応を行い、市庁舎を包囲したが、レハシ大統領の身柄を確保している武装勢力に対し攻撃をかけられないでいた。その中で、武装勢力はレハシ大統領自身に武装勢力の意思を市庁舎からの放送によって表明させようとした。しかし、レハシ大統領は中継がつながるやいなや、「もはや市庁舎ビルには私と犯罪者しか残っていない。私の身を顧みず犯罪集団を殲滅させよ」と叫んだ。
政府軍はこの放送を受けて緊急に「大統領の身の安全よりも武装勢力の壊滅を優先させる」との決定を下し、南方のアゲート空軍駐屯地から対艦攻撃機「アントリア1」の出撃を行った。2機のアントリア1から発射された10発の空対地ミサイルは狙い過たずノースジャスパー市庁舎ビルに命中、ビルは倒壊した。陸軍も同時に攻撃を行い、ビルから脱出を図った武装勢力は全員射殺され、倒壊したビルの残骸の中で大統領の死亡も確認された。
(引用終わり)
レハシはこの事件によって突然の死を遂げることになった。武装勢力は「無政府共産主義者連盟」と名乗ったが、この組織はこれまで特に活動の実態がなく、ハギネ自身も「極左」と言えるような人間ではなかったとされる(ハギネの息子であるハギト・カーネリアンによれば「父ハギワの性格を受け継ぎ、軍による政府の統制が必要と考えるようなむしろ右寄りの人物」である。)ため、この暗殺事件自体が全てリヨネ派の陰謀であると現在は(連合政府によって)考えられている。右派優勢の共和国議会は、この事件に関与したとして共産党の国政選挙への候補者擁立を禁止、これ以降共産党は20年間の地下活動期に入ることになる。
空軍の攻撃で倒壊したノースジャスパー市庁舎ビルの残骸。がれきの撤去にあたる車両が見られる。
レハシの暗殺を受けた共和国政府の対応は迅速で、暗殺から1ヶ月後の675年3月11日には臨時選挙である第6回大統領選が行われた。選挙はリヨネ前大統領が国民党・民政党及びレハシの死によって動揺していた社会民主党の協力を取り付け、議会の93%の支持を受け圧倒的な得票で大統領に選出された。
リヨネは後継者と目されていたリヨナ・クリソプレーズを失っており、この時点ですでにリヨネが死んだ際の隠蔽工作に向けた協議が大統領府や議会の中で始まっていたとみられる。
共和国は640年代以降長い時間をかけて軍備を拡大してきたが、この時期に軍事・防衛衛星、イレギュラーの打ち上げに成功して軍事大国の一員となった。また、アルドラド=エルツ帝国の滅亡による世界的な商品需要の減少に対応するために大幅な商業力強化を行い、商農業国だった共和国は9000万人を超える人口を抱える商業大国へと膨張した。686年には国際交易協力機構を立ち上げ、共和国はその絶頂期を迎えた。しかし、急速な膨張に伴う国内の歪みはその限度を超え、7世紀と共に終末を迎えることになる。
共和国は678年1月に防衛衛星「ラス・アルゲティ」を打ち上げ、その軍事力が十分なものに成長したことを国際社会に示した。これまでの共和国はアルドラド=エルツ帝国の防衛能力に依存しており、両国の政府機能停止によってレハシ期の共和国は非常に脆弱な状態だった。しかし、防衛衛星とこれに続く681年6月の軍事衛星「アンタレス」の打ち上げによって共和国の防衛は一応の安定を見た。
共和国は678年6月5日にサン・ピエル共和国との相互安全保障条約である「アウクシリア条約」の締結を行った。サン・ピエル共和国は先のサン・ピエル危機以降先進国間の非難合戦の口実として用いられてきたが、共和国がその後ろ盾となることで一応の安定を見る形となった。サン・ピエル共和国はこの後結成された国際交易協力機構に加盟したが、690年頃に政府機能停止に陥り700年に滅亡した。
680年11月、長期にわたり政府機能が停止していたアルドラド帝国が滅亡した。アルドラド帝国は630年代以降共和国と友好関係にあり、655年にナウラ条約が締結されて以降は同盟国として軍事的な協力も強めていた。しかし、670年代以降政府機能停止に陥り、この時ついに滅亡した。共和国は貿易関係をすでに解消していたが、同国内に備蓄されていた砲弾約80万メガトンが消失するなど共和国は主に安全保障面で大きな打撃を被ることになった。
アルドラド=エルツ帝国の滅亡は共和国に防衛面の打撃をもたらしたが、国際社会には経済面で大きな打撃を与えた。もともと、世界最大の工業国だったミッドガルド帝国が630年代に滅亡して以来、国際社会はその穴を埋めるために工業国の数を増やす方向に進んでいた。しかし、両国の滅亡によって世界全体の商品需要は著しく落ち込み、工業国では財政危機が叫ばれるようになった。共和国はこの状況に対応するため国土再開発計画を行い、685年に4ヶ所の現代都市を新たに建設した。これは共和国を商業大国として大幅に膨張させ、690年代に行われた更なる再開発(現代都市3ヶ所の増設)により7000万人台だった共和国の人口は9000万人を超えるまでに増加した。このことは共和国の経済力を強化したが、その一方で経済を不安定にし、700年代の革命の一端となった。
686年9月24日、クリストバライト市庁舎において国際交易協力機構条約(通称:クリストバライト条約)が締結され、WTCOが発足した。国際交易協力機構の原加盟国は全て共和国の軍事同盟国で、後に加盟した御岳山諸島自治巫女共和国もそうであるなど共和国の軍事同盟国による共同体という色が強い組織であったが、その中身は完全な経済協力組織であり、戦時の協力は「中立国に求められるもの」を限度とすると定められた。条約の内容を作成したのは共和国外務委員会であるが、その意図としては「共和国が何かの事情でその外交を停止させた際に、加盟国が軍事協力について柔軟に対応しうること」、「軍事同盟としての役割を一切排除することで第三国や、他の同盟に所属する国家の加盟を可能にすること」などが挙げられる。
一部の国家からは「陣営としての性格が強く、戦争抑止効果を期待したもの」との反応が見られたが、共和国としてはWTCOが戦争抑止を企図するものであることは確かだが、「陣営」としての役割を無理に求めるものではないと判断している。
詳しくは当該記事を参照のこと
692年6月に第1回WTCO加盟国会議が開催された。WTCOはこの時点で加盟国を2ヶ国増やして6ヶ国となり、世界最多(タイ)の加盟国を持つ組織となったが、700年にサン・ピエル共和国が滅亡したため加盟国数は5ヶ国となった。会議では機構公定レートとサン・ピエル共和国への支援が決議された。
680年頃、国内の混乱を理由に石動第三帝国及びアルビオン連盟王国は一時的な鎖国を発表していたが、690年代の終わりに両国とも外交を再開していた。しかし、鎖国期間中に貿易関係が完全に途絶え、特に石動第三帝国の主要な燃料供給源だった大明帝國及びサン・ピエル共和国の両国が政府機能停止に陥っていたため同国は経済が完全に崩壊、国内情勢も一気に不安定化した。
共和国はアルビオン連盟王国との平和友好条約を根拠として両国の、特に石動の経済を維持するために食料・商品などの大量の支援物資を投入したが、情勢は安定化の兆しを見せなかった。そんな中、赤松満介陸軍卿が足利教子将軍を暗殺する事件が発生、これをきっかけに石動第三帝国内では一気に騒乱が発生、まるで戦国時代のような様相を呈する。
その中で、700年10月に石動第三帝国第九代皇帝直衣宮から共和国への亡命の申し出が内密にあり、共和国はこれに応え700年11月1日に石動近海に艦隊を派遣して直衣宮皇帝以下の救出にあたった。この作戦は成功したが、石動第三帝国はこの時点で消滅することになった。
石動第三帝国の滅亡と前後して、アルビオン連盟王国の情勢も不安定になり、両国を中心としていたFuCoSTOは事実上崩壊した。共和国は「反ウェールリズセ的な」イデオロギーを持った両国を友好国と見なし、関係の向上に努めていたがそれは完全に無に帰すこととなった。この石動第三帝国の滅亡はカルセドニー島共和国の外交方針の完全な破綻を意味し、それが700年代の共和国政府の崩壊と鎖国政策を掲げる労働党の政権奪取につながっている。
すでに述べられた通り、共和国はウェールリズセを最大の仮想敵とみなし、常にその正反対側の陣営に属していた。しかし、アルドラド=エルツの滅亡によって国際社会は大部分ウェールリズセ側の陣営(彼らの言う“主流派”)に属する国家によって埋められるようになった。共和国はその生き残りを図るために石動やアルビオンと友好関係を築こうとしたが、結局石動の滅亡によってウェールリズセ派から“国際社会の主導権を奪う”計画は画餅に帰した。この出来事は、すでに受験を控えていたカルセドニーのプレイヤーからモチベーションを失わせ、受験凍結に踏み切る大きなきっかけとなった。
石動第三帝国の滅亡によって、共和国の外交政策は完全に破綻した。それにより、押さえつけられていた国内のひずみが一気に膨らみ、革命と鎖国へと結びついていくことになる。
700年11月8日に行われた第9回大統領選挙はこれまででまれに見る大混戦であった。左派政党が擁立候補の統一に失敗し、過半数を獲得する候補がいない中、辛うじて中北部を抑えたリヨネ・アメシストが3回連続5回目の当選を果たした。しかし、701年1月8日に行われた議会における就任演説で労働党議員が突然リヨネに石を投げつけ、その石はリヨネにあたらずすり抜けて後ろの壁にあたった。この事件をきっかけにリヨネが十数年前にすでに亡くなっており、大統領府の工作によって長い間ホログラム映像などでごまかされていたことが明らかにされた。労働党を始めとする野党(議会の過半数を有しているのはこちらだったが)は大統領府を強く批判し、大統領選の実施を要求したが、大統領府は裁判所(共和国の裁判所は大統領府法務委員会の部局として設置されていた。)や議会に手を回して大統領選を拒否、710年の“ホログラム大統領”の任期満了までその地位を維持しようと図った。
大統領府委員会委員長評議会が臨時大統領選挙法に対し拒否権を発動したことに抗議するクリストバライト市庁舎前のデモ。
詳しくは当該記事を参照のこと
国内では権力にしがみつく大統領府への怒りが爆発、国内各所でストライキが頻発した。その中でも労働党の支持基盤であった南部ブラッドストーン市では大規模なストライキが行政機能を麻痺に追い込み、大統領府はこれを「反乱」と断定し軍による鎮圧を命じた。しかし、南方方面軍の内部でも不服従が発生、大統領府は政権支持率が高い中北部の軍部隊をブラッドストーン市に派遣した。
これに対し、南方方面軍の部隊が一部離反、ストを行う市民に合流した。これとストの鎮圧を目標とする西方方面軍との間にクリソプレーズ港の戦いが発生した。市民軍はこれに勝利をおさめ、南部全体に拡大したストライキを労働党主導で糾合、南方方面軍の支持を得て「カルセドニー連合」の設立を宣言した。この後内戦がしばらく続いたが、最終的に連合側が勝利をおさめ、大統領府のメンバーらは逮捕・処刑されるか国外逃亡・行方不明になり、連合がカルセドニー全域の統一を達成した。
国内を統一したカルセドニー連合政府は主導した労働党の主張通りこれまでの外交方針の全面的な破棄と鎖国政策への移行を宣言、しばらく国際社会と調整を行った後暫定外交部を閉鎖、鎖国へと移行した。
鎖国後に正式に採択されたカルセドニー連合憲法に基づいて705年末にレンデ・アゲートが初代カルセドニー連合大統領に選出された。レンデは民衆の強い支持を背景に強力な社会主義政策を続けたが、消費財の供給をほとんど海外に頼っていたカルセドニー内の物資供給は一瞬のうちに危機に陥り、唯一貿易関係を継続したヨリクシ共和国との貿易や都市部の手工業者の努力をもってしても慢性的なモノ不足は解消されなかった。レンデは政権の維持のために軍部との協力を推し進め、結果的に労働党内の組合派(地方の労働組合を母体とする勢力)とレンデを中心とする共産派(旧共産党の党員及び軍人を母体とする勢力)の関係は次第に悪化することになった。
レンデは3期15年にわたり連合大統領を務め、720年の選挙に立候補せず、後継者に同じく共産派のレペイ・ヘリオトロープを指名して政界を引退した。
レンデのあとを受けて721年から連合大統領に就任したレペイ・ヘリオトロープはレンデ以上に軍部との癒着を深め、共産派と組合派の関係はいよいよ悪化した。軍部と協力に結び付いたレペイは組合派の弾圧を図り、いくつかの労働組合系組織が解体を命じられるなどカルセドニー革命の理念はほとんど消滅するに至った。しかし、組合派の方が民衆から人気があったために国内の反発は著しく、レペイ政権の末期には国内の治安は極めて深刻な状態になった。
レペイは自らの地位を守るためにレンデが固辞した連合大統領4期目を目指すと表明、これが引き金となり734年に暗殺された。暗殺者は内務公安委員会に拘束される前に自殺したため暗殺の動機は不明のままだが、レペイはあらゆる方面に敵を作っていたためこの結末は想像に難くない。レペイの死後、およそ3年にわたって共産派と組合派の抗争が続き、当初は軍部の支持があった共産派が優勢であったが、軍内部にも分裂が生じ結果的に組合派が政界を掌握する形となった。
738年に3代目の連合大統領に就任したテシク・スティショバイトは軍部と組合派の融和を図り、軍部のクーデターを防ぐためだけにその任期を費やすことになった。751年に後を継いだトリク・ユーファストーンも個人的な国民からの人気こそあったもののさほど立場は変わらず、軍と党の不安定な関係は国内情勢の安定化を妨げた。当初は組合派にあった民衆の支持も次第に失われ、752年に行われた革命50周年記念式典における“共和派”への特別恩赦も国民感情にに対した変化をもたらさなかった。また、国際的に「豊作危機」と呼ばれる聖樹生産の著しい減少は国内の食料供給を崩壊させ、トリク政権は革命後最悪の情勢に直面することとなった。
このころ、旧世界からの移民船が漂着するという事件があった。この移民船は旧世界でもフリューゲルでもない第三の惑星を経由してフリューゲルにたどり着いたという異色の経歴があり、さらに代表は「ロニア」と名乗り、断絶したと考えられていた「5大氏族」の生き残りであると主張したため話題を呼んだ。氏族信仰を否定する立場の労働党は情報の抑え込みを図ったが、噂は一瞬にして広まり、結局労働党も「赤光」で事実関係について報道を行った。トリクが恩赦した“共和派”はロニアを祭り上げて「旧世界不滅論」と「氏族信仰」が結びついて成立したルナ教と結びついたため一気に勢力を拡大、一介の非合法組織から有力な政党として頭角を現した。
トリクの3期目の終わりが近づき、有力な後継者のいなかった労働党組合派は共産派から次第に突き上げを受け始めた。トリクの個人的な人気でもっていた組合派政権はその退任と同時に崩壊しかねなかったため、トリクは起死回生の策として共和党(“共和派”が形成した右派政党)が主張し、進歩党(労働党の衛星政党となっていた社会民主党の後身)が同調していた普通選挙の実施に同意した。共産派は当初「真の社会主義を破壊しようとする右派反動勢力の試みは受け入れられない」などとして普通選挙を拒否しようとしたが、連合議会は過半数の議員(進歩党・労働党組合派)が参加を拒否したため麻痺状態になり結局は共産派も憲法制定議会選挙に参加せざるを得なかった。
憲法制定議会選挙は、それを求めていた右派諸党の想定した結果にはならなかった。全600議席のうち、第1党の地位を占めたのは225議席を獲得した労働党であり、右派の期待を背負って立つことになった共和党は善戦したものの150議席にとどまることになった。この後、各党派の間では激しい連立交渉が展開されたが、連合党・進歩党のいずれかを引き込めば議会の過半数を確保できる労働党と、連進両党の支持を必要とした共和党ではすでにパワーバランスが傾いていた。共和党の提示した連立政権案は、進歩党への配慮の結果連合党に対して極めて厳しいものであり、それを察知した労働党は連合党の切り崩しに方針を定め、結果として労連両党の連立政権が成立することになった。
労連両党の主導で成立した新憲法は、カルセドニー連合の行政制度の大部分を維持しつつ、大統領の権限強大化及び議会と自主管理組織の直結をより明確化し、「カルセドニー社会主義連邦共和国」としてのスタートを踏み出すものとなった。
なお、ヨリクシ共和国はこの時点で開国を選ばず、鎖国を永続することを選択したため、両国間の交流はカルセドニー開国をもってほぼ完全に途切れた。カルセドニーは有力な同盟国を有さないまま、60年の鎖国の間に激変したフリューゲルに乗り出すことになった。
カルセドニー(及びヨリクシ共和国)の鎖国期間中に、御岳山諸島自治巫女共和国及び蒼鋼国は滅亡し、国際交易協力機構(WTCO)はほぼその機能を失っていた。765年にカルセドニーは最後のWTCO加盟国であるローレル共和国に対して機構加盟国としての地位確認を求め、ローレル側の同意を受けておよそ70年ぶりの加盟国会議が開催された。これ以降、WTCOはカルセドニー外交の主軸として再設定され、加盟国数を増やしながら国際社会における活動を続けている。
766年5月18日、レクハ・アメトリン大統領は談話を発表し、「分離を目指す民族主義」と「団結を目指す民族主義」の差異についての意見を表明した。その中で、レクハは「社会主義と民族主義は共存が可能であり、両者は絶対的な矛盾関係ではない」と言明、連合時代から継続してきた民族主義に対する警戒的な方針を転換した。労働党は鎖国政策の継続を掲げて第1党となったものの、連合党との連立交渉の過程で鎖国を放棄せざるを得なかったことから、不明瞭なままになっていた外交政策について、「社会主義世界に限らない国際協調」という以降の方針の第一歩となったものであると現在では評価されている。
このような談話の背景としては、外交委員会がイデオロギー的に対立するガトーヴィチ帝国との関係悪化を避けたかったことが第一であることは明らかとなっている。ガトーヴィチ帝国は当時「770年までのイレギュラー打ち上げ」を掲げ軍備強化に邁進していたことから、この当時レゴリス帝国を中心とした最大勢力に次ぐ第二極としての地位を形成しつつあり、外交委員会が友好関係の構築に力を入れていたヴォルネスク・スラヴ共和国(実際、この談話の5ヶ月後に農業振興協定を同国との間で締結している)の最大の友好国でもあることから、「同国との関係改善のために忖度した」というのがこの談話の実態に近い。
しかしながら、外交委員会がガトーヴィチ帝国との関係を具体的に強化しようとした形跡はこの時期には見られず、後にガトーヴィチ帝国内で「五月革命」が起こり左派政権が成立した際にも国内世論は冷ややかであったことから、「ガトーヴィチに対する忖度」はむしろヴォルネスク側に対するポーズであり、同国をガトーヴィチから引きはがして自陣営に取り込むことが最終目的であった、とみることもできる。
ユリウス王国は760年代に出現した国家であり、ラルティスタ社会主義共和国が主導する「新興諸国開発共同体」の原加盟国となるなどの活動をしていたが、その外交姿勢は極めて不可解なものであり、最終的に我が国やセビーリャ地域に対して「宣戦布告」を宣言、慣習国際法を無視した攻撃を実施するに至り、カルセドニー及びロムレーを中心とする諸国により焼き払われた。ユリウス王国の詳細やユリウス戦争をめぐる外交交渉などは正直どうでもいいが、カルセドニー軍は史上初めて大規模な海外での作戦行動を実施することになり、のべ1600機を超える数の爆撃機がユリウスに対する反復攻撃を行ったことにより、その軍練度は大幅に向上したとされる。
一方で、ユリウス戦争以前にユリウス地域と比較的かかわりが深かったカルセドニーの外交委員会はその「世界の癌」を早期に取り除けなかったことの責任を国内で問われることになり、トリク・ユーファストーン外交委員長(カルセドニー連合最後の大統領で、連合党の外交委員長として入閣していた)の辞任を結果としてもたらし、この戦争はカルセドニー外交委員会における労働党優位の一端ともなった。
775年3月27日、トリクの後任であるケレシ・ブラッドストーン外交委員長はヘリオトロープ市内でレゴリス帝国通商産業大臣ゼプテ・ナインティアモーナントと会談、「工業国に関する共同声明」を発表した。両国の共同声明はこれが史上初であり、互いに友好国とは言えない関係であったがためにその内外への反響は大きかった。声明の内容は「低特価工業による資源の浪費に対する懸念」といったところであり、陣営こそ異なれどともに商品などの必須物資を海外に依存する大商業国である立場の同一性から、この声明に関する合意に至ったと言える。
国内が後述するガーネット州建材工場ストで揺れていたことから、国内的にはさほど注目を集めなかった加烈声明であるが、レゴリス帝国を中心とする陣営を常に最大の仮想敵として見なしてきた旧来のカルセドニー外交の大前提を揺るがすものであることから、本声明の歴史的な重要性は極めて大きい。ケレシはもともと生産搬送配給委員であった人物であり、外交に関しては専門家とは言えない。このような人物がユリウス戦争をきっかけとした政局混乱を経て外交委員長になったことが、この声明をきっかけとしたカルセドニー外交の大転換を生んでいくことになったとも言えるだろう。
カルセドニー国内において、商業生産に次ぐ主要産業である建材製造であるが、その拠点である建材工場は大部分がガーネット州内に立地していた。連合期にセビーリャ系・ヴァノミス系住民が大量流入したガーネット州は本土とは風土が異なり、社会主義的な風潮に対して警戒感が強く、憲法制定議会選挙以降の諸選挙では共和党の支持基盤となっていた。この共和党の最大の後援組織が、ロニア共和党代表自身がトップを務めるガーネット州自主管理連合組織同盟「南の風」である。「南の風」はヴェニス社株式の購入など国際金融業界で存在感を発揮する一方で774年にガーネット州内の建材工場職員を主導して大規模なストライキを実施した。このストライキは1年半余り継続した後776年1月4日に中央政府と「南の風」が建材工場職員の待遇改善に関する合意を結び終息したが、中央政府はガーネット州からの建材買い上げ価格の高騰を受けてこの年の9月に建材輸出レートを引き上げている。
これ以降、「南の風」はカルセドニー国内で存在感を増し、たびたび中央政府の政策に影響を与えるようになっている。ただ、中央政府も「右翼的主体(絶対君主制国家や巨大無国籍企業など)との取引」に対して反発が根強い本土の世論に配慮しながらも経済的な利益をそれらの取引によって得るため、「南の風」を緩衝材として利用しているというところがあり、「南の風」は単なる中央政府の目の上のこぶというわけではない。
「南の風」への対応については与党内でも意見が大きく割れており、労働党が中央集権体制の堅持のために「南の風」の抑え込みを訴える一方、連合党は「南の風」とのパイプを作り、その利用に熱心である。このような対立姿勢は中央政界にも波風を立てることになった。775年、785年の2度の共和国議会選挙で立て続けに連合党は大幅な議席増を成し遂げ、一方で労働党はやや勢力を減じたため、785年には連合党が議会の第1党の座を奪取した。このとき、連合党は労働党を排除しての連立の組み換えをちらつかせたとされ、結果としてペレネ・モスアゲート連合党副代表が憲法の規定(3選禁止)で退任するレクハ・アメトリン大統領に代わってカルセドニー社会主義連邦共和国第2代大統領に就任することになった。憲法制定議会選挙では第4党に甘んじた連合党から、20年を経てついに大統領が輩出されたということである。
この2回の選挙で最も割を食ったのは右派の得票を共和党に、左派の得票を与党2党に奪われた中道政党の進歩党で、785年選挙では改選200議席のうちわずか8議席の獲得にとどまるなど壊滅的な敗北を喫した。
795年の第25回共和国議会選挙においても時代の趨勢に変わりはなかった。連合党はますますその議席を伸ばし、改選議席の過半数を獲得する圧勝となった。労働党はややその勢力を減じたものの、両党は議会の3分の2を超える437議席を獲得し、両党は「5年以内の改憲発議」を選挙の直後に発表している。
「5年以内の改憲」を訴えた労連両党であったが、この後両党は改憲案をめぐって熾烈な綱引きを繰り広げることになった。両党の改憲案の隔たりはざっと下の表の通りである。
制度 | 労働党 | 連合党 |
---|---|---|
大統領制 | 強化 | 廃止 |
政党 | 一党制 | 二大政党制 |
議員任期 | 20年 | 30年 |
改選議席数 | 300 | 200 |
連邦制 | 廃止 | 維持 |
生産手段の公有化 | 国家管理 | 労働者管理 |
これらの対立点について調整が繰り返され、結局改憲が実施されたのは803年にずれこむことになった。両党は次回選挙である805年の前に改憲を実行するためにぎりぎりになって議論を急ぎ、両党の「折衷案」じみた改憲案が作成された。すなわち、大統領制は廃止され、議会は二大政党制を取ることになるが、議員任期は20年、一度の改選議席は300議席となった。連邦制については名目上維持されるが、州の自治権はほぼ失われ単なる行政区画であることが明確になった。
もっとも重大な決定として、「生産手段を保有する主体は労働者である」ということが明確化され、これまで事実上の「経営者」として君臨することがあった自主管理連合組織の「マネージャー(自主管理組織運営のためのプロ経営者)」は自主管理組織の組織系統に加わることができなくなったことが挙げられる。議会制度にも大きくメスが入れられ、自主管理組織がその構成員から共和国議会議員を選出することが明確化された。すなわち、プロ経営者は自主管理組織の構成員ではないことから共和国議会への被選挙権を事実上失い、議会を「労働者」で埋めることが可能になった。結果、進歩党・共和党の議員の大多数が直ちに実施された第26回共和国議会選挙の時点で議員資格を失い、その残余は連合党に合流するか無所属での立候補を選んだため両党は議会から消滅することになった。
811年3月下旬、普蘭合衆国はトラハト=ラシュハ連合王国との間の貿易を同国が一方的に打ち切り、それに関する交渉を拒否したとして同国に対して最大級の抗議を表明、「制裁の一環」として宣戦布告を行った。この直前の810年末に行われた第27回共和国議会選挙の際に外交委員長に選出されていた労働党のペレト・サードオニクスはこの時点では業務の引継ぎが完了していなかったこともあり静観の構えであったが、同年5月初旬に中夏人民共和国がトラハト=ラシュハ連合王国に宣戦布告を行うと、事態は急変した。客観的に見て正当性があるとは言えない中夏による対トラハト宣戦が国際社会からの強い非難を受けることは簡単に予測がつき、場合によっては一部国家(レゴリス帝国を想定していた)が中夏に対する宣戦に打って出る可能性があると外交委員会は判断した。カルセドニーは中夏人民共和国を同盟国である御岳山大社共和国を除けば最友好国と位置付けていたため、同国の国際的地位を揺るがしかねないこの事態に対する対応を余儀なくされた。
カルセドニー外交委員会は直ちにギルガルド社会主義共和国・トルキー社会主義共和国(トルキーはこの時点ではまだ鎖国化にあった)と共同で「交戦各国に対する要請」を発表、戦争を対話により解決するための第三者委員会を設置することを提案した。この要請の中で「交戦各国」とは「現時点で普蘭合衆国、中夏人民共和国、トラハト=ラシュハ連合王国を指すが、もしこのような戦争状態に加わろうとする国が存在するならそれらの国々も」含むとされているが、これは中夏に対して宣戦を布告しかねないとにらんでいた一部国家に対する牽制であり、結果として、これ以上この紛争に介入しようとする国家は現れなかった。また、「第三者委員会に委員を派遣する国」の条件として「交戦各国の軍事同盟国ではない」ことを求めており、中夏・トラハトには軍事同盟国が存在しなかったことから、普蘭の同盟国であるレゴリス・ロムレー両国を事実上名指しで排除している。当時のカルセドニー外交委員会が本件に対する烈路両国の介入を「中夏の安全保障を損ねる」として非常に強く警戒していたことがここから明らかである。
第三者委員会はカルセドニー、ヘルトジブリール、ギルガルド、トルキー、セニオリスの5ヶ国が参加する形で開始された。ヘルトジブリール代表からは「制裁」に言及するなど非常に中夏に対して厳しい主張が行われ、停戦を拒否した場合には中夏に対する開戦やむなしなどの意見も見られたが、カルセドニーは「中夏にとって壊滅的な結果を回避する」という目標のもとこれに対して不同意を示し、その根拠として「外交協議による解決が本委員会の目的である」などと述べている。一方で、議場が中夏に対して極めて批判的であったことから、「遺憾の意」を中夏の行為に対して表明することは余儀なくされた。以降の第三者委員会においては中夏政府によるトラハトへの謝罪、トラハトにおける社会主義政党の扱いについてが主に議論されたが、最終的には「トラハトの対中賠償請求権の放棄」「トラハトの選挙制度に関する国際社会への公開」「トラハトの次回選挙に関して第三国からの選挙監視団を受け入れること」「選挙終了後、両国は友好平和条約を締結し、中夏政府はトラハトにその場において謝罪すること」が定められた。「中夏政府によるトラハト側への謝罪」はトラハト側の強い要求であり、第三者委員会でもその必要性が認められたことからやむを得ないが、それ以外の点に関してはほぼ中夏側にとり不都合な内容とは言えず、中夏への国際社会からの批判も事実上立ち消えしたためカルセドニー外交委員会としてはおおむねその目標を達成したと言える。
その後、トラハトでは第三者監視のもと選挙が実施されたが、中夏が後援する「トラハト=ラシュハ人民共和国臨時政府」は1議席も獲得できない壊滅的敗北を喫し、そのまま国際社会から姿を消した。トラハト国内で中夏の行為が社会主義世界に対する懸念を生んだことは間違いなく、「中夏の行為は社会主義世界そのものの株を下げた」と批判する声は根強い。これ以降常に外交委員長が労働党から排出されていることからも、「国際社会主義勢力の連帯」を訴える連合党の外交方針が「夢物語」であるとの世論が醸成されていることは疑いなく、その一端はこの際の中夏の暴走であるともいえるだろう。
813年戦争に関する詳細は当該記事を参照のこと
774年に左派による「五月革命」を成し遂げていたもののその後ぱっとせず、799年にスラヴ主義勢力が復活を遂げていたガトーヴィチ帝国であるが、同国は809年9月20日に資本主義市場経済相互援助条約機構(エルドラード条約機構:EDTO)を発足させ、ヴォルネスク・スラヴ共和国及びフェネグリーク帝国、さらに以前の加烈声明後「自給自足体制」を批判されレゴリス帝国との対立を深めていたセニオリス共和国と同盟関係に入った。この「資本主義」を掲げる、明瞭にカルセドニーをはじめとする社会主義諸国に対して敵意を向ける軍事同盟の発足は国内に衝撃を与え、ペレネ・モスアゲート前大統領は「EDTOに攻撃され、カルセドニー国土が焦土になる夢を見た」と側近に語るほどであった(カルセドニーPLがマジでそんな夢を見た)。
812年6月、EDTOの一角であるセニオリス共和国はヴェニス社に対してなんだかんだと言いがかりをつけて宣戦布告(ここの詳しい経緯はカルセドニー外交委員会は問題視していない)、9月初旬にはヴェニス株式会社統治領に対してミサイル攻撃を実施した。これに対してヴェニス社統治領内に民間人多数が居住するレゴリス帝国が猛反発、セニオリス共和国に対して即時停戦と講和条約締結交渉の開始を要求した。セニオリス共和国がエルドラード条約機構を頼みとしてこれを拒否すると、レゴリス帝国及びその同盟国3ヶ国にヘルトジブリール社会主義共和国を含めた5ヶ国による有志連合はセニオリス共和国に対して宣戦を布告した(この際の普蘭合衆国臨時首相レラ・サンドロットの発言、「ジャッジメントですの!」は迷言として歴史に刻まれている)。
エルドラード条約機構はこれに対して集団的自衛権の行使を表明、セニオリス・ヴェニス紛争は2つの巨大勢力を巻き込む「813年戦争」として知られる大戦争へと発展した。カルセドニー外交委員会は当初中立を表明したものの、813年3月27日にレゴリス帝国との間で「カルセドニー社会主義連邦共和国と有志連合間における軍需物資支援協定」を締結し、物資供給の面で有志連合を支持することを明確にした。外交委員会はEDTOとガトーヴィチの過激な民族主義、セニオリスの社会主義に対する敵視を脅威とみなしており、この協定はそれを片付けつつレゴリス帝国との関係を一気に改善するための共和国の秘策であった。この時点まで共和国はレゴリス帝国を最大の仮想敵国と見なし、同国と対抗可能な国際体制の構築を目指してきたが、この時点でその方針を大幅に転換したことになる。なお、この協定に基づく軍需物資支援はエルドラード条約機構が早々に降伏したため実際に行われることはなく、816年10月下旬にカルセドニー政府より有志連合側に終了を通告、翌年4月下旬をもって失効している。
813年戦争の終結からしばらく経ったころ、敗戦で損なわれた国威の回復を目指すガトーヴィチ帝国より「貿易レートに関する声明」を実施することが我が国を含む複数の先進国に対し提案された。これは、近年建国された冰州連合がヴェニス社に対して鋼鉄を極めて高額なレートで売却したことをきっかけとしており、820年5月に一連の問題の初出となる「国際交易における配慮の枠組みに関する共同声明」がカルセドニー外交委員会の起草により発表された。この声明の中では、「貿易による国際社会の利益を守るための配慮の枠組み」の重要性を訴え、その例としてWTCOレートなどを挙げている。カルセドニー外交委員会は冰州の鋼鉄輸出レートをさほど重要視しておらず、813年戦争以来の「親烈外交」の一環として同国を含んだ複数の主要国により共同声明を発表すること、また、その中でWTCOレートを「適正な配慮」の随一として関係各国に認めさせることをむしろ重要視していた。
しかし、国際社会の大勢は当然ながらこの声明をガトーヴィチ政府の企図したような冰州の鋼鉄レートへの懸念付けとして評価し、冰州政府は特にこれに対して明確な反応を見せた。同国のヴィリ・エルステッド評議会議長は直ちにその鋼鉄レート(鋼鉄1億トン=50兆Vaという国際社会の標準から見ればかなり異様なレートであったことは間違いない)を擁護する声明を発表、しばらく経過した後に「冰州鉄鋼取引所」を設置し「部分的鋼鉄1億トン=50兆Vaレート」を採用する旨国際社会に公表した。これを受け、821年7月にガトーヴィチ政府が起草し、部分的にカルセドニーより修正がなされた「国際交易におけるレート設定に関する共同声明」が国際社会に公表されたが、こちらは明確に「異常なレート」に対して批判をなすものであったため、冰州政府は非常に強い反応を示した。カルセドニー政府は冰州との関係を重視していたため、このような形で同国と外交的対立が激化することは想定外であったものの、レゴリス・ヘルトジブリールといった国際社会における重要なアクターと、WTCOの盟友であるローレル、ガトーヴィチ(同国は813年戦争終了後の816年にWTCO加盟国となった)両国との関係を重視する立場から本件に対する深いコミットを余儀なくされていった。
改憲後のカルセドニー議会は事実上労連両党の二大政党制となったものの、その勢力は改憲直前の30年の動向を反映し連合党が優勢であった。810年の選挙では労働党が改選過半数を獲得したものの、非改選議席の大半を連合党が有していたために議会は連合党が優勢なままであった。しかし、9世紀に入ってから次第に労働党が「国際協調外交」を外交方針として確立し、普中ト事変の仲裁などの形で実績を上げたことからその勢力を次第に拡大し、820年9月に行われた第28回共和国議会選挙においてついに労働党が第1党の地位を奪還した。労働党はこれ以降国内外での影響力をさらに増大させ、830年代に至る「国際協調」と「世界の安定のための介入主義」路線を一層明確にしていくことになる。
カルセドニーは当初、816年11月の「カルセドニー入植200周年記念式典」の開催を予定していたが、813年戦争のため国際社会があわただしくなり、他国首脳の出席がほぼ見込めないとしてこれを中止していた。しかし、813年戦争が終結したことを受け、818年に政府は821年5月19日に「カルセドニー島共和国建国200周年記念式典」を開催することを決定した。カルセドニー島共和国時代をどのように評価するかは国内でも意見が分かれており、これを記念することは望ましくないとする声も(特に連合党を中心に)大きかったが、労働党は「200年の発展を経てフリューゲルの大国の一角となった我が国の現在を他国に伝えることは国際協調路線の一つの手段となる(赤光紙より)」として開催を決定した。
813年戦争後一時の安寧を得ていた国際社会はこの慶事を歓迎し、記念式典には実に22ヶ国から来賓の参加を得た。労働党を代表してペレト・サードオニクス外交委員長が、連合党を代表してペレネ・モスアゲート大統領が演説を行い、続いて中夏人民共和国馬来道国家主席が演説を行った。中夏国家主席よりあらかじめ送付された演説の原稿には初めから末尾に「万雷の拍手」が書き込まれていたことは特筆に値する。
821年の声明以降動きのなかった貿易レート問題だが、823年9月になって「今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明」がストリーダ、ノイエクルス連邦、普蘭、中夏、トラハト、タヂカラオ、カタルシア、カドレン9ヶ国(ノイエクルス連邦構成国を2ヶ国としてカウントしている)から発表された。この声明は冰州側の働きかけによるものであると一般に考えられており、冰州との関係良好であり「冰州鉄鋼取引所」の設立に際して助言を行っているストリーダ王国を主導国として2度にわたる「貿易レート」声明を行っている5ヶ国に対して冰州との協議による解決を求めているものであった(と国際社会一般は解釈した)。
これを受けて、5ヶ国側は「『今般の取引レートに起因する貿易問題を受けた共同声明』を受けた共同声明」を発表、「和解のための対話」を期待するとともにそれに向けた条件(「対話は公開の議場で行われること」「成果文書はコンセンサスによること」「第三国1ヶ国が議長国を務めること」)を提示した。しかし、冰州政府はこれに対して「仲裁に当たる諸国が最終決定権を有すること」「議論に参加する第三国は複数国であること」などを求めて反発、和解協議が開始されるまでにはもうしばらくの外交交渉が必要となったが、最終的にはストリーダ・中夏・普蘭・トラハト4ヶ国による「仲裁委員会」が設置されることで合意が見られた。
ローレル共和国はカルセドニー島共和国時代からWTCOに加盟しており、同盟国である御岳山大社共和国を除いては最も関係の深い国家であると言っても過言ではないが、両国間の安全保障関係を明確化したメトリーナ条約が825年11月に調印された。この条約は基本的にカルセドニーがローレルの防衛義務を負うものだが、カルセドニーが所有権を有する軍需物資をローレルに移転することが可能となる旨定めており、有事にはローレルをカルセドニーの弾薬庫として利用する、という狙いもある条約となった。
(当時の中央通信の記事を引用)
829年7月16日、フリューゲルに落下した小惑星は上空で複数の破片に分裂、そのうち少なくとも7つの大規模な破片が共和国に落下した。その1つがクリソプレーズ市中心部に落下、中心市街全域が破壊された。死傷者数は集計が進んでいないが、現時点で20万人を超える死者とそれに匹敵する数の行方不明者が報告されている。落下した隕石の破片は直径が2km程度と見られ、621年9月にクリソプレーズ市南西60kmに落下、200万人を超える死者を発生させたものと同程度の規模であると軍部委員会が発表した。
幹部会を構成する9名の委員長は隕石落下時に全員がクリソプレーズ市内におり、その中で、落下地点から最も近傍にいたペレト・サードオニクス外交委員長の安否が不明になっている。ペレト外交委員長が落下時点で遊説を行っていた地区は隕石落下時の衝撃波で灰燼に帰しており、生存は絶望視されている。幹部会の事実上の筆頭であったペレト外交委員長が不在になったことで中央政府の初動が遅れる一方で、ペレネ・モスアゲート前大統領がジャスパー市の共和国議会議事堂で緊急事態宣言を提案するなど、議会が中心となって被災者の救出・支援活動が行われている。
(引用終わり)
隕石の落下で行方不明になったペレト外交委員長はその後ほどなくして死亡が認定され(遺体は今なお発見されていない)、後任を選出する臨時の投票が実施された。連合党は隕石落下直後の初動をリードしたペレネ・モスアゲート前大統領が自ら外交委員長候補として登場し、これを機会に労働党から外交の主導権を奪還しようと試みたが、労働党の「国際協調外交」に対して広く信頼が寄せられていたこと、連合党の動きが火事場泥棒的にみられたことから、労働党候補のユハル・ツァボライトに大敗を喫した。ユハル・ツァボライト新外交委員長は代々検事を務める家系であり、外交委員長としては「国際社会の正義」をモットーにすることを就任早々に明らかにした。労働党が進めてきた「陣営」より「国際社会全体」という外交スタンスをさらに過激にしたと言えるユハル外交はこれ以降のカルセドニー外交に大きな影響を及ぼすことになる。
激化の様相を見せていた一連の貿易レート問題であったが、冰州国内情勢の変化を背景として同国が鎖国を決定したことにより急転直下解決に向かうことになった。予定されていた議論をほぼ完全に飛ばし、カルセドニー政府が起草した「貿易レート問題に関する共同声明」が当事国6ヶ国の間で合意され、832年5月にこれが国際社会に公表された。その内容は、「資源レートを高額に設定することはほかの種類の物資の価値を過剰に低減させることになりかねない」ことは同意されるが、「個別的な貿易の可否は国家が自由に決定でき、公定レートに拘束される必要性は必ずしもない」ということとなり、両陣営が懸念を有していた事柄についてはおおむね解消されたものと思われる(とカルセドニー政府はとらえている)。
813年戦争の「原因」として最大の軍縮義務が課されていたセニオリス共和国であるが、戦後、818年にFENAの準加盟資格を得、その国際的地位の回復に努めていた。しかし、826年には普蘭・中夏両国による領海による衛星レーザー照射事件、828年には建国されたばかりのミルズ皇国における首都火災の犯人がセニオリス人であったとされる疑惑(普蘭合衆国ベルクマリ・タイムズ紙が報じたものだが、結局カルセドニー・普蘭両国による火災原因調査ではセニオリス人の関与に関する何らの証拠も発見されなかった)などに巻き込まれ、同国は政治的な安定性を見出していなかった。このような状況を受け、829年にレゴリス帝国はセニオリスのFENA正式加盟が認められた直後に同国の「主権意識が欠如している」としてその正規加盟資格を取り消して準加盟に格下げする動議を行った。これに対して、大方の予想に反して普蘭合衆国が反発、セニオリス側を擁護する発言を行った。しかし、セニオリスは両事件に普蘭合衆国及び同国の国内紙が関わっていたことからレゴリス帝国の格下げ動議は「普蘭合衆国の陰謀」であると主張、同国に対する激しい批判をFENA上で行った。そして、この直後に「セニオリス併合条約」がレゴリス・セニオリス両国間で締結されたが、一連の外交的経過を無視して突然出現したこの条約に国際社会からは強い批判が降り注ぎ、特に普蘭合衆国は両国に強い非難を浴びせた。
我が国においては〈赤光〉紙がレゴリスを批判する社説を掲載し、外交委員会は「セニオリス併合条約」の解釈についてロムレー・普蘭と共同で質問状をレゴリス帝国政府に送付するなどの対応を本件に対して行っていたが、この時点では特に対応を行う予定はなかった。しかしながら、FENA議場でのセニオリス代表カール・マルクバーグ氏の発言を理由に同国政府がマルクバーグ氏を「内乱罪で逮捕した」と発表、それに付随する説明から、外交委員会はセニオリス国内で社会主義者に対する弾圧が行われている可能性を認識、社会主義4ヶ国(ヘルトジブリール、カルセドニー、トルキー、ギルガルド)で共同質問状をセニオリスに対して送付した。この直後、セニオリス国内でクーデターが発生、「ラングラード臨時政府」なる政府が登場した。我が国はこれを武力による国家転覆で、許容されるべきではないとの声明をレゴリス帝国との間で発表したうえで、「セニオリス地域平和維持活動実施」を声明、6ヶ国連合軍をもって「ラングラード臨時政府」に対する攻撃を行った。連合軍ともともと軍縮を強いられていたセニオリス側との実力差は圧倒的で、戦闘は短期間で終了し、事実上降伏したセニオリス地域(現在は「クラリス共和国」と名乗っている)は6ヶ国及び便乗参戦した中夏を含めた有志連合軍の保障占領下におかれている。
海域暦2175年頃~没年不詳
旧世界の「連邦」の第2代大統領。旧連邦が海域歴2199年に成立した直後に若くして閣僚に抜擢され、初代大統領(名前は伝わっていない)が2255年に引退を表明したのち、5年半の暗黒期間の後第2代大統領に就任した。その後15年間大統領を務めたが、世界全体が各国政府の崩壊で衰退に向かう困難な状況は覆せなかった。
最終的に海域歴2276年に旧連邦は滅亡したと見られるが、その前年に「カルセドニー計画」を実施、一部の国民の旧世界脱出とフリューゲルへの移住を成し遂げた。本人はカルセドニー計画に参加せず、旧世界で死去したとみられている。
現在、カルセドニー島共和国における歴史上の人物の中で最も高い尊敬を集める人物であり、現在も国会議事堂には肖像画が飾られている。
海域歴2175年頃~635年
旧世界の「連邦」の結成に参画した人物の中の一人であり、旧世界での業績はルナハに並ぶ。初めは連邦の構成共和国の1つであったアルフィク共和国の首相を務めていたが、その後中央政界に抜擢され初代大統領政権下で要職を歴任、ルナハが大統領に就任したのちもそれを支援した。
カルセドニー計画に参加、フリューゲルへの移住を行った。彼がカルセドニー島の指導者であった期間は4年に満たないが、国の基礎を固めた人物として高く評価されている。
なお、リヨルは極めて長生きした人物であり、旧世界で100年、フリューゲルで29年の人生を送った。
海域歴2220年頃~652年
旧世界で陸軍軍人でありながら海軍大臣を務めるなど異色の経歴を持つ軍人。フリューゲル移住後は総督府陸軍の指揮を行っていたが、第2次都市化闘争の際に総督府内で軍事力を背景にイニシアチブを握り、暫定総督代行として8ヶ月間カルセドニー島の指導者の地位に就いた。性格は強硬なタカ派で、国内の安定のためなら国民の権利を一部制限してもかまわないと主張するような全体主義論者であった。それが災いしたのか総督府内での支持を集めることはかなわず、結局リヨンら共和派のクーデターで失脚した。
その後は防衛委員長としてセビーリャ共和国への軍事介入を主導していたが、635年のセビーリャ動乱の際に責任を問われ政界を引退した。
晩年の活動はあまり知られていないが、息子であるハギネ・サードオニクスが無政府主義思想に傾いていくことはよく思っていなかったようである。
ハギワは「独裁主義者」と呼ばれ、国内での評判はもともと低かったが、息子ハギネがレハシ大統領暗殺事件を起こしたことで近年さらにこき下ろされている。
海域歴2240年頃~669年
「共和国発展の父」と呼ばれ、フリューゲル以後の政治家では最も高い評価を得ている人物である。旧世界の生まれで、30代のころにフリューゲルへ移住してきた。入植地時代は外務副委員長としてリヨル暫定総督の直属の部下であり、成蘭連邦王国との貿易トラブル発生時に同国との交渉にあたった。その後、ハギワ政権下でクーデターを敢行、カルセドニー島共和国の大統領に就任した。その後、リヨンは650年まで大統領を務め、引退後も660年代の成蘭連邦王国崩壊に際しRB通信社に寄稿するなど活動を続けていた。
海域歴2215年頃~672年
旧世界の海軍軍人で、ルナハ連邦大統領のいとこ。いわゆる「ルナ一族」の分家の当主で、本家が旧世界で断絶したため事実上ルナ一族全体の長であった。ハギワ辞任後に防衛委員長に就任したが、この時点で80歳を超えている。しかし、「ルナ一族の秘術」(詳細は伝わっていない)のためか若さを保っており、その後660年代まで防衛委員長を務めた。
旧世界で軍事作戦を行った経験もある非常に経験豊富な軍人だが、本人は死ぬまで政治的な野心を全く見せなかった。
610年頃~684年頃?
旧世界からフリューゲルへと向かう移民船の船内で生まれたというかなり異色の出自を持つ。リヨン・ジャスパーが第1回大統領選挙に勝利して正式に大統領に就任した630年頃から外務委員長を務めた。この時点で20代の若者であり、その経験不足はセビーリャ動乱などの危機に対しては不利に働いたが、結果的にそのことが彼自身の責任となることはなく、むしろ評価を高めることにつながり650年にリヨンの退任に合わせて大統領に就任した。その後、一時的にレハシに政権を奪われるも最終的には700年まで大統領を務めることとなった。
しかし、その高い国民からの任期とカリスマは大統領府内に「リヨネ後」への不安を生じさせるに至り、最終的にその老衰死を国民に対し隠蔽した大統領府に対して反乱が発生、カルセドニー島共和国が倒れるに至る最大の原因を作った人物ともいえる。
635年~675年
リヨネの唯一の子であり、その後継者と目されていた人物。リヨネの大統領就任直後に外務委員長に就任、その後もヴァノミス危機に際する非参戦国国際会議に参加するなど精力的な外交活動を展開した。その評価は極めて高く、レハシが大統領就任の際に大統領府のメンバーを総入れ替えしようとしたが、外務委員会はこれに抵抗しリヨナを外務委員長の椅子にとどめた。しかし、リヨナを嫌ったレハシはサン・ピエル危機に際する石亜との交渉など、非常に多くの作業をリヨナに押しつけ、彼を外務委員長からの辞任と静養に追い込んだ。
リヨナはこの後すぐに病を得て死去したため、リヨネはその後継者を失い大統領の地位を譲るべき対象がなくなってしまった。このことがのちの大統領府の暴走の最大の要因であるともされる。
628年~675年
レハシは5大氏族の1つであるレハ一族の出身で、彼の高祖父であるレハルは旧世界のアルデラミン共和国の首相、また中央政府では工業資源大臣や商業大臣を務めたことで知られる。しかし、彼は若いころにその一族を捨てて社会主義活動に身を投じ、668年に社会民主党の代表となった。大統領候補としてレハシは、対内的には「労働者評議会の設置」や「大統領権の縮小」などを公約とし、対外的には「共和国の国際社会での地位向上」(いわゆるレハシ外交)を主張した。長期にわたるリヨ政権に対する不満がたまっていたことなどからレハシは僅差で現職のリヨネを破って大統領となったが、その独自手法はリヨネの率いていた大統領府と強く結びついた各委員会の官僚たちとの間に軋轢を生じさせた。結果、レハシは大統領府やその下の委員会に疎まれるようになり、結果として675年に暗殺されることになる。
622年~675年
レハシ暗殺の実行犯とされる人物だが、その経歴には謎が多い。彼はカルセドニー島入植地の軍事政権の指導者として知られるハギワ・サードオニクスの息子だが、父とは違い無政府主義思想に傾倒した。その結果、穏健な社会民主派に過ぎないと思われたレハシに失望し暗殺を実行したとされる。しかし、彼が真の無政府共産主義者であったかについては疑問が持たれており、ハギネが大統領府によってレハシ暗殺の実行犯に仕立て上げられた可能性も十分に考えられる。
625年~存命?
リヨ一族と無関係な初めての外務委員長。父はカルセドニー島入植地総督府のキウィア・コーサイト元法務委員長で、643年の成蘭連邦王国との外交関係開設にあたり大使に就任した。その後同国の滅亡まで駐在し、両国の友好関係発展に貢献した。その経験を買われ675年にリヨネが大統領に復帰した際に外務委員長に抜擢され、その後リヨネの、さらにはリヨネ老衰死隠蔽の最大の支持者となった。
カルセドニー革命の混乱の中、大統領府のメンバーがことごとく戦死、ないし処刑された中で1人だけ脱出に成功し、現在は国内のどこかに潜伏しているとされる。労働党によって革命の最大の敵とされ、連合市民の激しい憎悪が向けられている。
645年~存命
カルセドニー革命を主導し、現在は労働党書記長・連合大統領として国家元首の地位にある。アゲート市の中産階級の生まれで、675年から695年にかけての共産党の地下活動期にその手腕を発揮、700年の第9回大統領選挙において共産党から発展した労働党の候補となった。選挙そのものには僅差で敗れたものの、リヨネ・アメシストの老衰死隠蔽事件から始まる情勢混乱の中でも指導力を発揮、大統領の座を獲得した。
黒髪に黒い口髭を蓄え、がっしりした体格を持ち、そのカリスマ性から市民からは「ビッグ・ブラザー」と敬意を込めて呼ばれている。
643年~存命
モスアゲート市の生まれだが、685年の国土再開発計画に参加しユーファストーン市に移住、そこで市知事となった。687年に行われた大統領選挙法改正の積極的な推進者として一躍有名になり、所属していた社会民主党内で頭角を現した。その後、第8回・第9回の大統領選挙でリヨネの有力な対抗馬となったが、カルセドニー革命においてはレンデ率いる労働党に後れを取り、社会民主党は労働党の衛星政党化を余儀なくされた。
656年~存命
カルセドニー革命の際の連合軍の総司令官。長く南方方面軍第3軍団(ヨリクシ共和国駐屯部隊)の軍団長を務め、駐屯7周年記念映像の際にもヨリクシ共和国と協力して撮影を行っている。本国に帰任してからは南方方面軍の副司令官を務めていたが、革命の勃発の際に「ブラッドストーン市出身である」ことを理由に軍司令官に解任されそうになったため、逆に司令部の要員(ほとんどが南部諸市の出身)を味方につけ、軍司令官を射殺して南方方面軍の統帥権を握った。その翌日にはブラッドストーン市内でレンデと会見し、連合側の最大戦力として革命の成就に貢献した。その後連合のComaforceの最高責任者に任じられている。
駐屯地のPVを作ってくれたヨリクシ先生ありがとうございました!