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KiCT  KiCT(赤きトルキーの取材局)は708年にトルキー政府の正式な認可を受けて民間により設立された報道機関です。国営報道機関である統一日報が国内で一強体制を敷く中、その体制に風穴を開けることを目標としています。
7月 22 (土曜日) 2017
KiCT外国向け報道開始 他 12:34  トルキー社会主義共和国 
26108期 725年3月14日

KiCT外国向け報道開始

KiCT(赤きトルキーの取材局)の外国向け報道が正式に認可を受け開始された。

現在までのところトルキーから外国へ向けての報道が認可されている民間の報道機関は存在せず、民間の機関としても報道機関全体としても初の快挙である。

統一日報の運営の他、民間報道機関の認可なども司るジェウデト・アヴジ報道担当官は、認可について「外国への報道を統一日報が全て担うのでは公平性に欠け、(統一日報の)仕事の多さから速報性にまで欠けてしまう。KiCTにプレッシャーをかけるわけではないが、トルキー国内の時勢を外国に伝える重要な機関となることを期待している。また統一日報一強体制に風穴を開け、その他の民間報道機関が躍進する一つのキッカケとなれば我々としても肩の荷が下りる。」とした。

我が局の取材に対し、トルキー国内のみならず外国の報道機関やその実情などを研究するファリフ・チェリク=アンカラ大学教授は「第三共和政(注1)で多くの報道機関が取材機能を喪失し、唯一取材機能が残ったのが元々労働組合党(注2)の機関紙だった統一日報だった。この状態は17年の内戦(注3)を経ても修復されることはなく、内戦(注3)においてトルキー労働者評議会(注4)が勝利して以降、別々の機関が担うべき取材・報道機能は全てこの統一日報1つで担ってきた。開国して外国に向けての報道が必要になるとそれすらも担うようになり、もはや統一日報はパンク寸前になっていた。そこで708年以降国内の報道を民間の報道機関に任せ、経験が積まれ次第順次海外向け報道も任せていき統一日報の負担を減らそうということをやってきていた。その最初の成功例が出て統一日報としても本当に肩の荷が降りたと思っているのではないか」と話した。



注1:正式名称は「トルキー社会共和国」。トルキー内戦(第三期)の終結に伴って建国され、4年間存続した社会党による一党体制国家。アッバス・アタイズィによる独裁体制が敷かれ、報道機関に対しても「反動勢力」として強力な弾圧を加えていた。

注2:社会党に強制的に合併されるまで存続した社会主義政党。第三共和政の崩壊後反アタイズィ派の社会主義者らをまとめ上げトルキー労働者評議会を結成した。

注3:第四共和国(現在のトルキー)が建国されるまで続いたトルキー内戦(第四期)を指す。社会主義勢力と社会民主主義勢力、独立を求める少数民族との衝突だった。

注4:現在の労働党の原型となる社会主義政党。第四共和政での民主主義の導入に反対した勢力が共産党として分離した以外はほぼ労働党に受け継がれた。




【独自】第十八回人民院選挙の前後を探る

労働党結党以来の分断が元となって発生し、労働党が労働党の議席を奪い取るという初の"労労対決"も行われた第十八回人民院選挙の前後ではどのようなことが起こっていたのだろうか。

我が局独自の取材を通してそれを探っていきたい。

まず労働党対労働党という構造を理解するには、その分断の原因から知っておかねばならない。

720年6月までの労働党は主に現在のトルキーの食料生産方針を見直し、より農業生産効率を高めようとする農業改革の具体的な方法について話し合っていた。

この時既に労働党では主にハト派党員によって主張された「農業組合のシステムを改革し、効率のいいシステムに再編する」農業組合改革案、主にタカ派党員によって主張された「農業組合が行政的行為を行えるよう権限を拡大し、集団農業の効率を高める」大集団農業案の2つの案までは絞られていたが、これ以上の議論の進展が見えず行き詰まりの状態にあった。

これ以上議論による成果は出ず、内閣にその判断が委ねられていたのだが、そんな中ヴォルネスク独立戦争が発生し、SSpact加盟国もそれに伴って戦争状態に突入したことによって労働党は騒然となった。

農業改革の議論は一旦棚上げされ、労働党としてもこの事態に対する対処を議論していたのだが、しかしこれもハト派党員の「SSpactとしての参戦には当たらず、参戦の必要はない」という主張とタカ派党員の「ヘルトジブリールに倣い、我が国も参戦するべきだ」という主張が真っ向から対立し、なかなかまとまらなかった。

そこに一国の運命を決める議論に決着がつかないままにファルク・ウラス内閣総理大臣が、労働党の分断を避けるため独自に「SSpact加盟国の戦争状態突入という事態を重く受け止める」という声明を行ったが、この声明がタカ派党員の目には「不参戦を内閣総理大臣が独断で決定した」ように写り、ウラス首相に対する不信感が募ってしまったのである。

最終的な決着がつかないままにヴォルネスク独立戦争は終結し、経緯や理由は全く異なりながらもハト派党員の主張が受け入れられた形になったのだが、前述の農業改革の議論を再開する際にウラス首相の「農業組合のシステムの改革こそがより確実な改革方法であり、(農業組合の)無理な介入で農業を破綻させてはならない」という声明を出した。この声明自体はヴォルネスク独立戦争で後回しにされていた内閣の判断を議論再開時に下しただけなのだが、ウラス首相に対する不満を募らせていたタカ派党員がこれに露骨に不快感を示し、一部は「ウラス首相はハト派党員の回し者だ」とまで発言。こうして労働党の分断が決定づけられてしまった。

一方で議会では他に社会民主党・緑の党・民主社会同盟によって「国土のあらゆる地点に農業に特化した地区を儲ける」国土改造案も持ち上がっており、前述の2つの案と合わせ激しい議論が予想されていた。

労働党内部ではハト派党員の農業組合改革案が優勢ではあったものの、タカ派党員の大集団農場案は他に共産党も支持しており、ウラス首相はこの分断の状況では議会での激しい議論を戦い抜けないと判断。人民院の解散に踏み切った。

選挙戦においては与野党のみならず、労働党同士でもウラス首相が中心となったハト派党員らとダーマード・デュラン外務大臣が中心となったタカ派党員らによる激しい攻防が繰り広げられた。

一部の選挙区では共産党によるハト派党員の演説妨害が行われ、厳重注意処分となるなどした。

結果はハト派党員、タカ派党員はどちら共に議席を落とすも、ハト派側が粘り勝ちという辛勝を遂げた。

この結果を受けてタカ派党員らはハト派党員の主張に協力することを決定し、タカ派党員がハト派党員に屈する形で労働党の分断が解消された。

なおこの間に聖樹の食料収穫量激減という重大な出来事も発生し、農業改革はより国民の感心の寄るところとなった。

ウラス首相は「聖樹による食料収穫量激減という出来事は国際的にも問題となっている。トルキーとしても急速な解決を図りたい。」としている。

この農業改革をなんとしても急ぐため、国土改造案との妥協案も探り野党の支持を得、急ピッチで改革を終わらせる構えだ。

ある社会民主党党員は我々の取材に対し「国土改造案は労働党内部の諍いとは関係なく、野党3党で慎重に議論を積み重ね続けてきてようやく完成した渾身の案だ。選挙という名の内紛にも付き合わされたのだし、1つや2つこちらの主張が受け入れられるのも当然だ。」と話した。



【社説】「参戦派」「非戦派」とはなんだったのか

ヴォルネスク独立戦争でのSSpact加盟国の戦争状態突入については政治家のみならず国民も非常に感心を持って情勢を見守っていた。

統一日報・KiCTの合同世論調査(対象者数2810人 回答率81%)ではSSpact加盟国の戦争状態突入についてなんと73%の回答者が「感心がある」と答えた。

またそれに伴う議会前での「参戦派」「非戦派」の連日の演説や、双方の激しい衝突に関しても85%もの回答者が「感心がある」と答えている。

しかしそれらの活動に注視していくと、その急進性や国民の関心度に反し、実に不可解なことがいくつかあることがわかる。

まず1つは「構成人数の異様な少なさ」にある。

SSpact加盟国の戦争状態突入は前述の通り国民も非常に関心を持って見つめており、それに伴う議会前での活動も多くの国民に知れ渡っていたはずであるが、それらを写した写真などをよく検証していくとその参加人数は双方ともに100人程度に留まることがわかっている。

主催者側が双方ともに5000人前後の数字を発表しているのにも関わらず、である。

内戦などを見れば分かる通り、トルキー人はこのような大きな社会的動きには便乗して混ざっていく傾向がある。

その国民性と出来事が多くの国民に知れ渡っていたことを考えると、活動が非常に大規模なものにならなかったことは余りにも不可解だ。

2つめに「既存の危険政党との活動の類似性」がある。

トルキーに存在する二大危険政党といえばやはりアタイズィ体制の流れをくみ現在の民主主義を全否定する「革命的共産主義者同盟」と、社会主義というシステムを全否定し自由放任主義導入のため既存の社会主義政党を全否定する「資本と平和の民主主義」だろう。

この2つの活動は現在主だって「街頭における集団スピーチ」と「批判に対する徹底的なヘイト」に絞られているのだが、この2つの方針は「参戦派」「非戦派」の活動に奇妙なほど合致するのである。

またこの危険政党2つと議会前に集結した2つの主張は当初は似て非なるものであったが、時間がたつにつれて「参戦派」は「革命的共産主義者同盟」の、「非戦派」は「資本と平和の民主主義」の主張へみるみるうちに近づいていったことにも注目すべきだろう。

具体的には「参戦派」は当初は「SSpactの意義を守るため、トルキーも参戦すべき」という程度のものだったが、次第に行政府の権限を強めるというものが混ざり、最終的に「議会の全議席を『信用に値する政党』に与えるべきだ」という危険な主張をするようになり、「非戦派」は「トルキーの利益を考慮すると、参戦することは望ましくない」というものだったが、次第に「平和を守り自由を愛そう」と主張し始め、最終的に「軍隊の解体、三権分立の徹底、『個人の利益』の尊重」という全く無関係な主張をするようになった。

これらの主張は使われる単語の違いこそあれど2つの危険政党の主張と概ね同じものであり、議会前に集った2つの勢力が何らかの形で2つの危険政党に影響を受けていることは明白だろう。

最後に「既存の危険政党との繋がり」がある。

これらはヴォルネスク独立戦争の終結後捜査が進むにつれて判明した事実であるが、議会前に集った2つの勢力と2つの危険政党の間には2つの奇妙な繋がりが存在することがわかっている。

1つ目は議会前に集った2つの勢力はどちら共に2つの危険政党からの資金的・人的支援を受けていたこと。

2つ目は議会前に集った2つの勢力の主導者がどちらも2つの危険政党の幹部との会談を行っていたことである。

この2つの事項が2つの勢力どちらにも当てはまっているという時点で奇妙なのだが、この2つの勢力がそれぞれ関係を持った危険政党と主張が"近づいた"危険政党とが完全に合致しており、その奇妙さがますます大きくなる。

これら3つの観点から、議会前に集まった2つの勢力「参戦派」と「非戦派」はそれぞれ「革命的共産主義者同盟」、「資本と平和の民主主義」が自らの主張を国民に広めるために議会前に派遣した傀儡だったと判断ができる。

議会という神聖な場を利用し危険な思想を正当化しようとしたという点は甚だ憤ろしい。

ヴォルネスク独立戦争が終結するとともに「参戦派」は自らの主張が叶わなかったことがなんともないかのようにあっという間に解散し、「非戦派」はまるで自らの主張を議会前での活動のおかげで政権側が受け入れたかのように演説を行い解散した。

もはや「参戦派」も「非戦派」も存在しないが、かつて議会前を占拠したこの2つの勢力が本当に正当で適切なものであったのか、改めて考慮する必要があるだろう。
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