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公方府公報 石動第三帝国公方府公式報道 | ||
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8月 27 (木曜日) 2015 | ||
第二回国際スポーツ大会、堂々の開催。 | 11:56 | |
609年3月20日、遂に山岡府室満京市東区城東の国立競技場に於いて、第二回フリューゲルスポーツ大会山岡大会開会式が執り行われた。44年ぶりとなる本大会には我が国含め18カ国の国々が参加した。ヴェールヌイ社会主義共和国・長州国・コーデクス共和国・シェロジア共和国など我が帝国と国交を有していない国々からの参加表明もあったが、準備委員会当局は外務省と協議の上「ハレの場である文化的な祭典に政治的事由を持ち込むことは望ましくない」として、これら四カ国に対し開催期間中並びにその準備期間に滞在を限定した特赦ビザを発給する事を決定した。 また協賛団体は我が国団体含め44団体に上り、各国の名だたる企業・マスメディアの協賛を集めた。大会会長の甕宮王殿下は「まさに世界を代表するスポーツの祭典にふさわしい。本大会に対する各国の意気込みがうかがい知れる」の仰られた。開会時は各国の国歌と共に各国代表が入国し、オープニングセレモニーとして航空宇宙軍特別教導隊による曲芸飛行が行われた。五機の練習機が会場上空に五つの輪を描くと、会場からは拍手が巻き起こった。 会場は、計画当時予算の増大が懸念されていた当初のダナイファード案が採用されていた。本会場は結局当初の20兆Vaや文部省が要求した50兆Vaを大幅に下回る3兆Vaという総工費で建設されていた。工事を請け負った大工建設によると「ダナイファード案のキール構造を活かしつつ、廃材の再利用やアルバイトの補助採用などで材料費・人件費などを極力切り詰めた。それにしても20兆Vaはこうした巨大スタジアムの建設費用としてもかなり持て余す金額であったので、強度に於いて問題は無い」とコメントしている。 (写真:山岡国立競技場) 【国際】ラングラード=カルス民主化 | ||
8月 20 (木曜日) 2015 | ||
足利晶子前将軍殿下ご国葬 他 | 22:38 | |
608年3月20日、足利晶子前将軍殿下のご国葬が公方府前広場にて執り行われた。国葬には以下の方々が出席された。(確認順) 我が国 後真備宮上皇陛下 烏帽子宮皇帝陛下 足利滿子征夷大将軍殿下 公方府閣僚級職員 陸海宙親衛四軍高官 スコッチランド共産主義同盟 ハーター・ラーク労働者最高評議員会議議長閣下 レゴリス帝国 アプリル・ヴォルケンアンザムルング総統閣下 成蘭連邦王国 黒石治家国王陛下 ガトーヴィチ帝国 レガーナ皇女殿下 ご国葬に際し、足利滿子将軍殿下は初めて国民にその御姿を示された。国葬に当たり殿下は「この度四か国の方々に我が母晶子将軍の葬儀に参列頂いたこと、誠に有難く思います。志半ばにして倒れた母の遺志をしかと継ぎ、足利将軍家三代の歴史を汚さぬよう努めるとともに、母の遺志の一つであった国際スポーツ大会山岡大会は必ずや成功させる所存です」と仰られた。 殿下の御遺体は火葬の後、殿下の生前の遺言により、観林寺にある南朝の忠臣、楠木雅貫の墓所の隣に建てられた宝塔に収められた。 (写真=足利滿子将軍殿下) 足利滿子将軍殿下の大判写真はこちら 【国際】大和寧帝国、情勢急速に悪化。商品輸入相手国の危機に財界動揺 我が第三帝国の友邦であり、我が国が殆どの商品輸入を依存している大和寧帝国が、あわや崩壊の危機に瀕している。同国は数年前から機能が低下しており、インフラ低下や食糧不足により遂に暴動や国民の国外逃亡が発生。国土の荒廃が始まっている。公方府は食糧不足の原因となっている我が国への輸出食料の一部返送などを試みているが、4000万人近く居た人口も今では1600万にまで落ち込み、崩壊の危険性は極めて高いと思われる。事実上第三帝国が商品供給の大半を同国に依存している以上、万が一同国が崩壊などの事態に陥った場合、新規の輸入相手国を見つけない限り帝国の経済を維持することは極めて難しいと考えられている。実際現在では燃料欠乏により商品生産がストップしていた状況であり、友邦の凋落を嘆く声が上がる一方、経済界でも悲痛な叫びが上がっている。 | ||
8月 19 (水曜日) 2015 | ||
【速報】足利晶子将軍殿下ご逝去。次期将軍に滿子様。 | 18:57 | |
紀元197年(フ歴608年)1月6日、足利晶子征夷大将軍殿下がご逝去遊ばされた。殿下は5日の宮中参賀に臨席されたところ急に体調を崩し、急きょ山岡帝国大学病院へ搬送された。診断の結果殿下はアルコール性急性肝炎の末期であった事が明らかになった。搬送された頃にはすでに手遅れな状態であり、治療もむなしく殿下は静かに息を引き取られた。 ご逝去を受け、尊子将軍殿下、晶子将軍殿下と二代にわたりその右腕を務めた今川管領は「殿下は(初代将軍)尊子様同様嫌煙家でタバコはお吸いではなかったが、尊子様に似ずかなりの酒豪でいらっしゃり、焼酎を三升空けても平然としておられた。しかし今にして思えば血気盛んな南北朝時代からの諸臣を抑え石動をここまで引っ張ってこられた殿下は、酒という手段で様々な鬱屈を晴らしておられたのかも知れない」と語った。 殿下のご逝去を受け皇帝陛下は1月9日、現統合参謀本部主席参謀陸軍少将の晶子さまご嫡女、足利滿子様を第三代征夷大将軍に任ずる宣下を下された。 これを受け滿子様は「母上、もとい前将軍殿下の御遺志を受け継ぎ、石動をより強く成長させる。また、当面の目標として国際スポーツ大会山岡大会は必ず成功に導く」と仰せになった。 公方府は晶子前将軍殿下の国葬を3月10日に設定した。同時にこの日に滿子将軍殿下が我ら帝国臣民の前にその御姿を現されるものと思われる。 | ||
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