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2015 | 09 | 11
『金色の雲』人民テレビ  本放送は、611年7月にオリフスターク共和国の首都・オムゥトを拠点として設立され、同年放送を開始した民間放送局『金色の雲』人民テレビ(GCPTV、GC)がお送りしています。
11月 11 (水曜日) 2015
偽ダランシャーンの乱鎮圧・国難去る 00:52   
偽ダランシャーンの乱鎮圧へ

<映像:共和国軍によって奪還された南部・バラザイケ市庁舎>

616年11月、行方不明となっていた旧王族の一人、ダランシャーン・チャンテー氏を名乗る男が、共和国南部の主要都市バラザイケの街頭に現れました。そもそもその風貌からしてダランシャーン氏本人とは似ても似つかないお粗末な偽の「ダランシャーン」でしたが、旧王家への迷信じみた崇拝は民衆の冷静さを失わせ、その熱気に当てられて身の安全を恐れたバラザイケ県知事らは、その正統性を承認するという誤りを犯しました。お墨付きを得た偽ダランシャーンの一味は、早速バラザイケ市に駐屯する国軍を襲撃。この市街戦闘では、国軍は偽ダランシャーン本人を射殺するという戦いぶりを見せましたが、結局衆寡敵せず、国軍の武器庫を始めとする市内の要衝は賊軍の手に落ちました。賊徒らは、偽ダランシャーンの死を隠蔽し、新たに選出したどこぞの馬の骨を新たな偽ダランシャーンに据えると、強奪した銃火器で武装して南部諸都市の攻略に乗り出しました。その後、賊軍は内部紛争などにより頻繁に頭目をすげ替えますが、担ぎあげられた新たな頭目は皆ダランシャーン氏の名を騙りました。この叛乱を通じ、偽ダランシャーンは十六人の多きを数えることになります。

賊軍の手に落ちた南部の諸県では、追放された売国奴の復辟派どもが舞い戻り、民衆への専制的支配の復活を試みました。共和国建国後、農村で実行された英雄的な土地改革の戦いは、復辟派の旧貴族の憎悪の的であり、彼らは時計の針を中世へ戻そうと悪心を抱いていましたが、憲法決死擁衛の固い決意を抱いていた半数の農民らはこれを断じて許さず、もう半数の農民も次第に旧王家への迷信を払いのけ、この悪巧みはうまくいきませんでした。賊軍は、こういった反動的な体質をさらけ出した結果、民衆の支持を早期に失い、やがて泥沼の内紛に陥りました。とは言え、国軍の戦力は不足しており、以後5年に及び賊軍との睨み合いが続きます。その間、賊軍の不法な支配の下に置かれた南部諸県の民衆は塗炭の苦しみに喘ぎました。

621年11月、ちょうど叛乱の開始と同じ季節、情勢が動きました。賊軍が、首都オムゥトの攻略を呼号して大挙して北進を開始したのです。オムゥトの市民は動揺を禁じえませんでしたが、憲法を擁護し、共和国を擁護し、革命と民主主義政体を擁護するという決死の覚悟を固めた国軍は心を強くし、首都防御の必勝の陣を布きます。同時に、友邦の一つ石動国に助力を要請し、これを機に賊軍との天下分け目の決戦を企図しました。思うに、ここで賊軍がそのまま北進を続けていれば、情勢はどちらに転ぶか分からず、石動国の加勢があったにしろ国軍が勝利しえたかわかりません。しかし、天道は正義に味方するのです。その時、賊軍は、お決まりの内紛から北進を突如中断し、南部へと取って返したのです。歴史が動いた瞬間と言わざるを得ません。たちまち、石動国の精強なる空軍が賊軍の頭上高く襲いかかり、賊軍の主力を壊滅に追いやりました。こうなれば最早情勢はこちらのものです。国軍は四方より南部奪還の兵を上げ、各地で賊軍を散々にぶち懲らしました。今、私の後方に見えますバラザイケ市庁舎にも、正義の共和国旗を翻さんと、国軍戦車部隊が突入を始めております。これを以って、長きに渡った偽ダランシャーンの乱は鎮圧されたと言ってよろしいでしょう。中継終わります。



ジャリ首相の死亡認定、新首相は近日指名へ

偽ダランシャーンの乱の初期、情勢を確認しようと航空機で南部に向ったまま行方不明となっていたビオットビオット・ジャリ首相について、首相府はその死亡を認定したことを公表しました。賊軍の対空砲により、南部の中都市カービルンスの近郊で撃墜されたものと推定されてきましたが、先日カービルンスが国軍により奪還された際、首相搭乗機と思われる航空機の残骸が発見されました。遺体などは確認できませんでしたが、状況から見て搭乗員らの生存は絶望視されており、首相府は首相の死亡を認定しました。

なお、ジャリ首相の所在が不明となり、新首相を指名するべき議会が非常事態令により停止されていたことから、叛乱の間は大統領の指名した首相代理がその政務を遂行してきましたが、近日中に議会が再開し、新首相の指名がなされることになります。



その他のニュース

・臆病や利敵行為などで訴追された国軍将校50人、軍事法廷で死刑判決

・偽ダランシャーンの最後の一人は高名な陶芸家、これまた死刑判決



フリューゲル暦22389期621年11月付
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9月 10 (木曜日) 2015
シェロジア危機 旧王族ダランシャーン・チャンテー氏が消息不明か 01:52   
 本放送は、『金色の雲』人民テレビ(GCPTV、GC)がお送りしています。GCは611年7月、オリフスターク共和国の首都オムゥトにて設立され、同月中に放送を開始しました。



シェロジア危機 旧王族ダランシャーン・チャンテー氏が消息不明か

 ビオットビオット・ジャリ首相は、ウェールズリセ共和国などの新興諸国経済理事会(ENEC)各国と深刻な対立に陥り、テークサット連合からの奇襲的攻撃を受けたシェロジア共和国について「和平会議の進展が見込まれることから当面の"危機"は去った」との認識を示しました。しかし、我が国からシェロジアに追放された旧王族の一人、ダランシャーン・チャンテー氏の消息が分からなくなっているとの情報が入っており、政府では確認を急ぐことにしています。

 旧王族らがシェロジアに移送されたのは、国際対立が深刻化する直前の611年3月でした。元国王テートゥルングーン・チャンテー氏の兄の子に当たるダランシャーン・チャンテー氏(23)は、元国王らとともに同国の一時滞在先に入ったものと見られますが、その後テークサットからの武力攻撃を境に連絡が取れなくなりました。我が国では、「即位のために復辟派と合流した」「どさくさに紛れてテートゥルングーン氏によって殺害された」などとの噂が流れていますが、現在に至るまでその消息は分かっていません。

 ジャリ首相は「行方不明者の捜索を行うか否かは基本的にはシェロジア当局の判断だが、旧王族の帰国は完全にブロックされている」として、噂を信用しないよう訴えました。しかし、今後もダランシャーン氏の動向が判明しなければ、現体制に不満を抱く復辟派が勢いづくとの見方が出ており、旧王族の処刑ではなく追放を主張したジャリ首相の求心力低下が懸念されます。



(フリューゲル暦22017期611年7月下旬)
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