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Re: 社会主義のお話

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ヴェールヌイ社会主義共和国

なし Re: 社会主義のお話

msg# 1.11
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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/5/11 0:47 | 最終変更

ギンツブルク「どのように支持を獲得していったかと申しますとですね、まず劇作家のバーナード・ショーがフェビアン協会に参加したり、あとは協会の頭脳となるシドニー・ウェッブの参加も大きいですね。このシドニー・ウェッブと結婚したビアトリス・ポター・ウェップの働きもなかなか無視できません。あ、似た名前で同じ時代の人に、ピーターラビットの原作者であるビアトリクス・ポターという人がいますけど、これと混同しないように注意が必要ですよ。この二人は名前も時代も境遇も似てるんですけど、生き方は正反対でして―」
スヴィトラーナ「(なんか話が脱線しそうな上に長そう・・・)あ、あたし用事があるからそろそろお暇したいんだけど」
ギンツブルク「えー、これ面白い話なんですよ?」
スヴィトラーナ「じゃあできるだけ巻でお願いできるかしら」
ギンツブルク「どれも大事な話なんです!」
スヴィトラーナ「とにかく!フェビアン協会が知識人に受け入れられて、そうした人たちが参加していったってのはわかったから、その先の話をしてちょうだいよ。イギリス、つまりあの大英帝国での話なのよね?歴史を見れば、この先も帝国主義の権化みたいな国でしょ?マルクス主義や、それに類する革命主義でなくたって、社会主義的なものを標榜するなら反帝国主義はついてまわる話のはずじゃない?それが不思議なのよ」
ギンツブルク「・・・わかりました。じゃあフェビアン協会の浸透主義の妥協的側面に触れていくことにしましょう」

 

社会主義のお話
ゆりかごから墓場まで!イギリスの社会帝国主義(後編)

 

ギンツブルクフェビアン協会を最も強く非難したのは、チャリティーやボランティアの推進者達でした。実際、慈善組織協会の中心人物であったヘレン・ボザンケの夫であるバーナード・ボザンケは、フェビアン協会を猛烈に排撃していたんです。ボザンケ夫妻は、貧困を基本的に本人の責任と見なし、公的な福祉制度は怠惰を助長すると主張したわけです」
スヴィトラーナ「まぁそういうこともあるでしょうけど、社会主義的な見方をさせてもらうと、構造的な貧困というのは、富の正当な配分を妨げる制度的な歪みに起因しているのよ。これを是正してから、はじめて本人の責任問題にできると思うんだけど」
ギンツブルク「あれ、議長同志がそれらしいことを言ってる(唖然」
スヴィトラーナ「(#^ω^)どういう意味かしら?だてに唯一社会主義国の元首やってないわよ」
ギンツブルク「お見逸れそらしど!」
スヴィトラーナ「いいわよもう。それでそれで?」
ギンツブルク「はい、議長同志が仰ったように、フェビアン協会で大きな働きを成したウェッブ夫妻も、貧困は制度の歪みに起因する問題だと考えていました。だからこそ公的な手続きを通した社会主義の慚進的改良を目指したのですフェビアン協会の浸透主義は、たしかに一定の慚進的成果をもたらしました。それでも、革命を否定する改良路線が同時代の支配層の思惑と重なっていたことは、厳然たる事実でした」
スヴィトラーナ「たまたま支配層にとっても都合がよかったってことね」
ギンツブルク「だからこそ、フェビアン協会は迫害されることもなく、自国の政治の中に浸透してよくことが出来たのです。結局のところ、迫害を受けなくてすみ、支配層にとっても都合の良い慚進路線というのは、一種の妥協策に違いはありません。問題は―」
スヴィトラーナ「何と妥協したか、ね」

帝国主義との妥協

ギンツブルク「1880年代のイギリスは、すでに帝国主義の時代に入り込んでいました。諸外国から経済面で追い上げられる中、自国の支配する市場領域の拡大を求めて、海外植民地の獲得へと舵を切っていったのです。フェビアン協会は、この趨勢の内部に留まり続けました。実際に、フェビアン主義が浸透していったのは、自由党の帝国主義派だったりするのです」
スヴィトラーナ「既存体制下の議会に影響を及ぼし続けるためには、仕方のないことなのかもしれないけど、それでも帝国主義に肩入れするのは本末転倒よ!」
ギンツブルク「その代表格は、自治相や植民地相を歴任したジョセフ・チェンバレンです。この政治家は、2つのことで歴史に名を残しました。一つは『チェンバレン通達』で、もう一つはボーア戦争(南ア戦争)です。フェビアン協会設立の二年後である1886年、自由党の第三次グラッドストン内閣の自治相であったチェンバレンは、救貧委員と地方自治体に向けた通達を発し、非熟練失業者に雇用機会を与える公共事業を促進するよう求めたんです。チェンバレン通達は、その実効性はともかくとして、貧困や失業を公的な施策によって解決しようとする試みでした」
スヴィトラーナ「まぁ、たしかに社会主義的(ソシアル)な考え方と言えなくもないわね」
ギンツブルク「はい、自由競争による経済発展や私的な慈善活動に頼むではなく、あくまで公的な手続きを通した社会政策が模索されたわけですからね。この種の施策は、1890年の労働者階級住居法、1891年の初等教育の無償化、1897年には労働者災害補償法といった具合に継承されてゆくのです」

労働者も支持した社会帝国主義

ギンツブルク「1899年から1902年にかけての第二次ボーア戦争は、イギリスの帝国主義政策を極めて明確に象徴する出来事でした。そして、この戦争を画策し、南アフリカをイギリスの手中に収めたのは、第三次ソールズベリー内閣で植民地相を務めたチェンバレンなのです。その態度は、露骨に帝国主義的でありました」
スヴィトラーナ「チェンバレンの中で、社会主義と帝国主義に矛盾はなかったのかしら」
ギンツブルク「彼の中では矛盾はなかったようです。むしろ完全に同居していたと言って良いでしょう」
スヴィトラーナ「どうやったら同居できるのよ・・・」
ギンツブルク「単純です。社会政策の為の財源を確保するには、植民地支配による収益が不可欠だというわけです」
スヴィトラーナ「ひぇぇ」
ギンツブルク「このチェンバレン流の政策は、後に『社会帝国主義』と形容されるようになります。そして、フェビアン協会もまた(少なくとも結果的な事実だけを見る場合)その路線を共有していたのです。フェビアン協会の1900年に出されたマニフェストでは第二次ボーア戦争を支持する立場をとっていますし」
スヴィトラーナ「帝国主義に魂を売るなんて!社会主義の風上にも置けない奴らね!」
ギンツブルク「しかし悲しきかな、当時のイギリスでは、労働者たちの圧倒的多数もまた、愛国心と直結する帝国主義を熱烈に支持していたんです」
スヴィトラーナ「\(^0^)/オワタ」
ギンツブルク「まぁ前にも似たような話をしましたけど、民衆参加型の選挙では、率直な愛国心のごとく誰もが容易に理解できる旗印が、しばしば最も効果的な集票戦略になるわけですよ」
スヴィトラーナ「容易に理解できる旗印かぁ。その短絡的な否定も、また然りね」
ギンツブルク「そこに福祉的な公共サービスの向上が追加されれば、大衆的な支持はさらに加速します」
スヴィトラーナ「帝国主義ハイスラでボコるわ・・」
ギンツブルク「かくして、20世紀の敷居を跨ぐ頃のイギリスでは、帝国主義的な植民地支配を土台としながらも、国内的には社会主義的な福祉政策が進められてゆくことになったのです」
スヴィトラーナ「ぐぬぬ・・・けど、民主主義は大切よ。最も正当な統治は国民が選んだ公権力であって、それは社会主義においても変わることないわ。けど・・・難しい問題ね・・・」
ギンツブルク「いずれにせよ、労働者の政治活動が社会主義運動に先行したイギリスでは、革命型の政党が入り込む余地が非常に小さかったということで、なのにも関わらず、社会主義型の福祉政策が浸透する余地は非常に大きかったということです」
スヴィトラーナ「皮肉な結果ということなのね」
ギンツブルク「周知の通り、その後のイギリスは、紆余曲折を経ることにはなりますが、「ゆりかごから墓場まで」を標語とする福祉国家へと向かってゆくことになるのです」

・・・・

スヴィトラーナ「あーもー!なんだかムシャクシャしてきたわ!」
ギンツブルク「そんなわけで議長同志、共和国も維持費を確保するために植民地獲得に動きますか?」
スヴィトラーナ「ばーか言いなさい!平和と平等こそ、共和国の信頼の根幹よ!絶対に負けてなるもんですか。帝国主義は断固反対!ただの一国も、不当な抑圧を受けさせてはいけないの!」
ギンツブルク「ですよね!だから維持費下げてもらってもいいですか?」
スヴィトラーナ「ああああああ!!!」

社会帝国主義編 おわり

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